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あなたの埋れた才能見つけます⑩

「大丈夫よ、すぐに治まるから」

そう言ってハワイ生まれのカウガールはリュックに置いた私の手をそっと握るのでした。

カウガールであっても、その親指はあくまで普通の女性サイズなのですが、不思議なことに、パニクった私の心は本当の母親に抱かれた幼子みたいに落ち着いて、下衆なシャックリも引潮のようにスウッと消えていき、それっきりすっかり鎮まったのです。

「Fワードの逆襲ね。田中さんに意地悪されたのね。なんでもあの人のFワードは水晶掘りの中でも一番伝染力があるらしいの。電車の車両みたいな密室空間では特にそうね」

どうやら挨拶しなかったのは正解だったようです。あのタコオヤジ。そう思いながらも、いま一つ自分の置かれた状況を把握できずにいる私は、一方では相変わらず父親想いの孝行娘を演じて、一生懸命に首を横に振るのです。それでも妻であり、良き母でもあるキャシーさんには、すっかりこちらの心がお見通しなのか、せっかくの孝行演技は通用しないようです。

「あのオジサン、狸寝入りしてるのよ。私には分かるの。若い子が好きなのよ。でも田中さんがちょっかいだすってことは、ヘッドハンターとして見込みがある証拠かも。ダメだったら、あの人、無視してるだけだから」


キャシーさんは喜んでいいのかどうか迷いそうなコメントを言ったあと、まるで山の手線の車両の中でヘッドハンターの神様からヘッドハンターとしての啓示を授かったかのように唐突に顔をあげます。

その啓示はドアの上に設置された三つのモニターの内の真ん中の奴に、天気予報と美容整形のCMの間に、表示されています。

いったいこの電車はどうなってしまったのでしょう。そのモニターだけ昔のアナログテレビのように画質は粗いのですが、そこには間違いなくパーカーのフードを目深にかぶった田中さんの姿が映しだされているのです。アノニマス?ヴァリス?1984?孝行娘の不安は増すばかりです。

「ええ、そうね...それがいいかもしれない」

モニターを見上げながら、キャシーさんはどこからか他人には聞こえないメッセージをうけとったように独り言をつぶやきます。一方でモニターに映った田中さんは静止画のように終始無言でピクリとも動きません。それでもキャシーさんには水晶掘りの言葉が届いているようなのです。

「そうしましょう」

私の教育係りはつぶやきます。大切な一人娘を置いてきぼりにして、なにがなんだか分からないうちに、両親の間で話がまとまったようです。付き合いが長いので、まとまるのが早いのです。


朝の山の手線はおかしな夫婦になかば乗っとられながら、なおも走りつづけます。ただしおかしな二人はアマチュア登山家を装いながら、じつは妙な術の使い手で、クリスマスイブにナカトミ商事を襲撃したテロリスト集団並みにハイテクにも詳しそうです。

「一ついいことを教えてあげる」

キャシーさんは手に持った本の背表紙を見せて言います。

「この本はね、特別な本なの。声をだして読んでも大人たちにはその文章が聞こえないの。逆に子供たちには、小さな声で読んでも、ちゃんと聞こえてるの」

そんなふざけた本はこの世に存在しません、普段の私ならキッパリそう断言するところなのですが、何ぶん教えてもらう身分なので、あまり偉そうなことは言えません。

「これがその証よ」

キャシーさんは背表紙に貼ってある、図書館の十進法ラベルを私に近づけます。

そんなふざけた本はこの世に存在しません、私はもう一度秘かにつぶやきます。それはただのシールです、と。これまでずっと安定した個数をキープしていた心の口癖ベストテンが、ここにきて急増しそうです。


「もう一度よくまわりを見て。不思議そうにこっちを見てるのは誰かしら?」

キャシーさんはさらに自説を強調します。百聞は一見に如かずといったところでしょうか。さすがに得体の知れない言葉だけでは、内容が内容だけに、言った本人も心もとないようです。

それで私は100周ぶりぐらいに山の手線の車内で戦々恐々と顔をあげたのです。出勤途中の労働者たちに睨まれるのを覚悟しながら。


前のシートに座っている黄色い帽子をかぶった小学生の女の子と目が合います。隣にはやはり黄色い帽子の男の子が座っています。男の子もこちらをじっと見ています。二人の瞳に映しだされているのは好奇心です。彼らが小学生だと分かるのは、ランドセルを背負って、お揃いの黒い制服を着ているからです。ただ女の子はスカートで、男の子の方は半ズボンを履いています。

右のドアの側には、胸のボタンと同じ黄色い校章の刺繍が入った白い学生帽に、浅葱色の半ズボンを履いた、べつの学校に通っていると思われる三人の小学生の男の子たちが、立ち並んで私たちを見ています。さらに左側のドアには、紺色のフェルト帽子にオレンジ色したリボン飾りの付いた制服姿の可愛らしい女の子が、通学中の読書の手を休めて、こちらを見ています。

それらの視線はさながら幼く混じり気のないビーム光線のようです。彼らの瞳は、みんな黒い輝きを凛々と放ちながら、物語のつづきを要求しています。

ビーム光線は灯台のサーチライトよろしく車内を横断し、乗客である大人たちの海原をわたり、キャシーさんが持っている紙の船に到達します。その本は彼らにとって、まったく新しい、見たこともない、未来のゲーム機器にも等しい、強力アイテムです。彼らはその物語が、自分たちにしか聞こえないメッセージであるのを直感的に見抜いています。


私はゆっくり車内を見回します。目には映らない光景や、耳には届かないメッセージを読みとるように。

車内の大人たちは誰もこちらを見ていません。彼らはアマチュア登山家の母と娘にはまったく関心がないようです。一度だけ、これから週末のデートに出かけるらしい、彼氏と一緒の若い女性が、「ちょっとアンタ、なに見てんのよ」みたいな感じで、一瞥をくれただけです。

どうやら私は山の手線の車内で自意識過剰に陥っていたようです。すべての視線がこちらに向けられているかのような気になっていたのです。状況を鑑みればそれも致し方ないところですけど、子供たちの純粋な視線が、私の弱気をジェット噴射みたいに吹き飛ばしてくれました。


「この本の貸出期間は今日が期限なの。私たちはこれからこの本を、借りた図書館まで返しにいかなきゃいけない」

娘が正気をとり戻したのを見とどけて母が言います。

「でもその図書館はとても遠い街にあるの。あまりに遠くてたどり着けないかもしれない。だからあなたの力を借りたいのよ。田中さんがさっきそうアドバイスをくれたの。いいかしら?」

親想いの孝行娘はうなずいてみせます。もしかしたらそれは、貸出期間を超過したら、とっても恐ろしい『イット・フォローズ』めいた図書館職員が取り立てにくるという状況ですか?などと妄想しながら。

「本当は本を朗読してもらうのがいいの。でも生憎ね、その本の力は借りた本人でないと発揮できない。だからべつの方法を試してみるわね」

私はキャシーさんのつぎの言葉を待ちます。一呼吸吐いてからベテランヘッドハンターは言います。

「おかしな話をするようだけど、私の話を素直にうけ入れてね」

おかしな話?なにを今さら。

彼女は重たい口を開きます。突然変異的な私たちファミリーの血統を内心では呪っているかのように。

「あなたに呪文を唱えてほしいのよ」


いつからヘッドハンターは魔女のべつの呼び名になったのでしょう。水晶保険では魔法使いを雇用しているのでしょうか。

それならそれで素敵ですけど、なんだかお馴染みの心の口癖がまた飛びだしてきそうです。私はそれをする代わりに、キャシーさんに一つ質問します。

「呪文ってなんですか?」

「なんでもいいの。子供のころ見たアニメとかマンガの中に、なにか一つお気に入りの呪文がないかしら?それを心の中で、あなたに唱えてほしいのよ。繰り返し、繰り返し」

ぐるぐる、と。私はキャシーさんの言葉に付け足します。

アニメとマンガに登場する呪文と、遠い街にあるという図書館の因果関係がいま一つ分からないのですが、じつはこんな日がくることもあろうかと、私には心の口癖ベストテンのほかに心の呪文ベストスリーというジャンルも嘘のように常備してあったのです。それならお安いご用ですと、すぐにお気に入りの呪文を見つけだします。


それはたった三文字から成る、いにしえの滅びの呪文です。私はそれを、キャシーさんの「目を閉じて。集中して」の合図のあとに唱えはじめます。

それにしても、どうしてあの状況で、よりによって私は滅び呪文なんかを選んでしまったのでしょう。まるで火に油を注ぐような行為です。これならもう一つの呪文である、六つの数字から成る呪いの呪文の方がまだ少しはマシだったかもしれません。私はその六つの数字を暗記していますし、まさにそれは繰り返すために存在する数字の呪文だからです。

ただそれはアニメでもマンガでもなく、外国のテレビドラマに登場するものなので、キャシーさんの条件には当てはまらないのです。


私はふたたびうつむき、目を閉じます。今度はヘッドハンターとしてのはじめての大仕事を全うするために。大きなリュックを楽器のボンゴみたいに両膝に挟んで。

まるで山の手線の車両が土曜日の歌う寺院と化したかのようです。私の心の中で回り回る呪文のリズムを感じとったのか、「そう、その調子」とキャシーさんが、歌の稽古をしている教え子を励ますように言います。それから謎めいたセリフを一つ残して、ふたたび朗読をはじめます。彼女は私に言ったのです。「私たちは子供たちをたくさん呼ぶの」と。


私に聞こえるのは、キャシーさんの朗読と、私が唱える呪文と、走る山の手線の車輪の音だけです。そして子供たちの視線だけを感じます。いつの間にか、私も土曜日の山の手線車両を走らせる魔女の姉妹に加わってしまったようです。登山好きの親子のようでいて、じつは私たち二人は歳の離れた魔女の姉妹であったのです。

姉が読んでいるのは、木をテーマにした長い長い小説の一説です。妹が唱えるのはアニメに登場する滅びの呪文です。どちらの物語にも思い上がった人間の大人たちの姿が描かれています。私たち土曜日の魔女の姉妹は、大魔神よろしく彼らに天誅を与えるべく、言葉を重ねるのでしょうか。私たちは破滅に向かって一直線に邁進していくのでしょうか。そうなったら、あの子供たちはそれをどんなふうに感じるでしょう。

山の手線は中央線快速のように加速していきます。二人の魔女の言葉にのせて車輪の回転を上げ、停まるべき駅を次々に通過していきます。もう誰にも止めることはできません。


つづく

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