表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
86/188

あなたの埋れた才能見つけます⑨

都心をぐるぐる回る山の手線は、全長が35キロ、全部で30の駅があり、一周するのに約1時間かかるそうです。そうすると理論的には一日で24周できることになり、一週間で168周、一ヶ月だと約720周できる計算になります。

それでもほとんどの人は、あるいは東京生まれの東京育ちの人でさえ、この楕円状の路線をつづけて一周した経験があるという人はそうはいないでしょう。いたとしたら、それはよっぽどのお馬鹿さんか、お寝坊さんか、変わった職業に従事している人か、その三種類の人間になるのではないでしょうか。


私たちは三番目の変わった職業に従事している者たちです。それもかなり変わった職業です。当の本人が、電車に乗ってからようやくそのことにあらためて気がついて、恥ずかしさで一杯になるぐらいに現実離れして罰ゲームめいています。

山の手線はキャシーさんの朗読にのせて走ります。まるで彼女は土曜日よりの使者であり、その言葉が重たい鉄の車輪を動かす、長大な呪文であるかのように。土曜日の山の手線を走らせているのは、黒いアタッシュケースを持ったJRの運転士でも、油の臭いが染みついた作業着姿の整備士たちでもなく、本を読むヘッドハンターであり、彼女が発する得体の知れない言葉の力であるかのように。あるいはその力が、運転士の手足に乗り移り......。


私は朗読者のガイド付きなる電車というものに生まれてはじめて乗り合わせました。それはおかしな兎のガイドが付いた、おかしな地下旅行よりもさらに奇想天外なお話です。

そのお話は私にいつもの出勤時にならい、エアーポッズを耳にして、あなたのFワードベスト集を聴いていた方がまだ少しはマシであるかのような気分にさせてくれます。その方がいくらかはメリットがありそうですし、大勢の乗客の前で、こんな可愛い後輩に恥をかかせて、まったく勘弁してほしいわ、この空気を読めないオバサン、といったところなのです。


スーパーセレブな私は理不尽な恥ずかしさには人一倍敏感です。「そんな話聞いてないよ」が心の口癖ベスト10です。その日もベテランのヘッドハンターが、先輩風を吹かせてとんだ見当違いな発言をしてくれました。私が知りたいのは、「どのようにして読むか」ではなく、「なぜ読むのか」なのに。

「どんな本でもいいというわけではないの。朝でかける前に洋服を選ぶのと同じ。ピンクの帽子でないとダメな朝があるみたいに、その日に電車で読むべき本があるの」

「それがヘッドハンターの仕事なんですか?」

「そう。とても重要な仕事よ。あなたはこれからそれを学びとらなければいけない。それもできるだけ早く短時間で」

「もしも私にそれが務まらなかったら?」

「永遠に山の手線のメビウスの輪から抜けだせない事態になるかもね」

私の教育係りは冗談とも本気ともつかない意地悪で優しそうな笑みを浮かべます。


ついに電車は新宿駅のプラットホームへとすべり込んでいき、私は生涯初の山の手線一周の旅を達成します。中央線から乗り換えて、ちょうど一時間が経過した計算です。時計の針と山の手線の外回りは、メリーゴーランドの馬よろしく一緒に仲良く回転するのです。ぐるぐる、ぐるぐると。

新宿駅は音であふれ、外国語だって飛び交います。そこではどの駅よりも大勢の乗客が降りていき、またプラットホームで電車の到着を待っている大勢の乗客が乗り込んでくるのが常です。駅と車内の空間を縦横無尽に交差する音声から、人々は自分に必要な情報を無意識のうちに瞬時に選びとることになります。ただしその朝だけは、乗客たちの選ぶ選択肢には、水晶生命社製による、なんの役にも立ちそうにない、せっかくの土曜日の行楽を初っ端から台無しにしてくれる、余計なお世話の物語めいた、アイテムが一つ多く含まれています。


ぐるぐる、ぐるぐると、私の頭の中で山の手線の車両が回ります。私たちはあと何周、壊れた回転木馬のように線路の上を回りつづけなければならないのでしょうか。どうしてヘッドハンターは電車の中で朗読をしなければならないのでしょうか。

私は土曜日よりの使者ならぬ、土曜日よりの招かれざる使者よろしく、顔を赤くしてただ座席でうつむくばかりです。新たに乗車してきた人たちの視線が、「いったいあなた方は公共の場でなにをしているのか」と問いただしてきそうだからです。そのうちの何人かの視線には敵意すら含まれていそうで、危うくば因縁をつけられる可能性すらあります。「これから俺は仕事なんだよ。電車の中でくだらねえお遊びはやめてくんねえかな」みたいな。


私はどうしたらいいのでしょう。キャシーさんを庇うにも、私にはその庇う理由が見つけられずにいるのです。むしろ因縁をつけてくる人たちの方がよほど真面な社会人に思えるぐらいです。

トンだ登山好きの三人家族です。私には親孝行な娘役を演じるのは無理なようです。

いいえ、もしかしたら庇う必要なんてハナからないのかもしれません。だいたいがキャシーさんは私の教育係を自称しながら、あまりにも私に対して説明不足なのです。


こうなったらここは一つ田中さんに登場してもらいたいところです。私たちの水晶掘りの登場です。本来の仕事とは異なりますけど、やっとゲームキングおじさんの出番です。

なにしろ彼ら水晶掘りときたら気性の激しい男たちばかりで、とくに若かりし日の田中さんは喧嘩っ早く、なにか気に入らないことがあると、採掘作業へ向かう道中でも、すぐに駅員や乗客に食ってかかるのが日常茶飯事だったそうです。自分より体の大きい駅員たちに取りおさえられながら、なおも暴言を吐きつづける若き日の田中さんの姿がいとも簡単に思い浮かびます。

それにしても可哀相なのはヘッドハンターです。そのせいで何人もの女性たちが退職届を社長女史に提出するにいたり、ついには引退していたベテランヘッドハンターのキャシーさんが現場に呼び戻さたという次第なのです。

キャシーさんといえば水晶掘りに一番近いと噂された伝説のヘッドハンターです。さすがの田中さんでも一目置く存在です。それ以降は水晶掘り界随一の荒くれ者もだいぶ丸くなったのだそうです。


はじめての採掘作業に参加した私にしてみれば、土曜日の山の手線の車内には、田中さんの昔とった杵柄がいま一度必要とされそうな空気をビンビンに肌で感じます。田中さんは私にとって、悪代官を虫ケラのごとく足の裏で踏みつぶす、怒れる土曜日の大魔神なのです。

そこで車両の端っこに視線を移してみると、肝心の大魔神はゲームに飽きたのか、それともハイスコアーを叩きだしてすっかり満足したのか、小さめのリュックを熊のぬいぐるみみたいに胸に抱いたまま、居眠りしている最中でした。いささか丸くなりすぎた感は否めません。もしかしたら女の子にモテモテだった遥か遠い日の夢でも見てご満悦なのかもしれません。水晶掘りの男たちは皆、幸福だった幼少期の夢ばかり見る生き物なのかもしれません。そして目が覚めたら現実とのギャップに打ちひしがれて、汚い言葉ばかりが口からでてきてしまう仕組みになっているのかもしれません。

「そのことを忘れてはいけないよ、小さきものよ」

誰かがつぶやきます。

「クズが」

もう一度。


毎日のようにあなたのFワードベスト集を聞きつづけていたせいで、エアーポッズを耳にしていないのにも関わらず、ついに幻聴が聞こえはじめたのでしょうか。それとも山の手線を生まれてはじめて一周したせいで、電車酔いしてしまったのでしょうか。ぐるぐる、ぐるぐると、目が回って。

「クソが」

また聞こえました。これは余程の重症です。いますぐスタッフのケアーが必要です。

「タコが」

もうダメです。四つ葉のクローバーよろしく、あと残り一つのFワードがそろったら私はおしまいです。

「バカが」

聞こえました。ハッキリ聞こえました。でもおかしいのです。それはあなたの声でも、幻聴でもないようなのです。


ああ、誰か助けてください。これではまるで私は汚らしい言葉が大好きな偽りのセレブになってしまいます。

あなたのせいです。全部、あなたが悪いのです。あなたの声が私の耳にフィットしすぎたせいです。それから土曜日の招かれざる使者であるキャシーさんと、居眠りばかりして役立たずな大魔神のせいです。秘密の空き地に白いチョークを埋めたように、私の脳味噌に植え付けられたあなたのFワードの木が、伝説の水晶掘りと伝説のヘッドハンターに挟まれた土曜日の山の手線の車内でトトロの木みたいに急成長し、ついに覚醒してしまったのです。

「タコが」

私は思わず自分の口をきつく手で塞ぎます。ああ、でもなんということでしょう。どうしたらいいんでしょう。そうまでしても私は私の口から、まるでシャックリみたいに指と指の間をくぐって飛びだしてくるFワードを、どうしても食い止めることができないのです。


つづく

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ