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魔法の国に魔法使いはいない

「僕らは自分たちのことを魔法使いとは呼ばないんです」

男は言った。

「グルムと呼ぶんですって」

妻がはしゃぐように言った。

若いセールスマンみたいな彼は、紺色のビジネス・スーツにオレンジ色のネクタイをして、お茶菓子を前に居間のソファに腰かけていた。

「僕たちにとって魔法使いであることはあたりまえのことですから。詩人が自らを『詩人です』とは自己紹介しないように、僕たちは魔法使いという呼び名をつかわないんですよ」

「たしか私は『詩人です』と自己紹介している詩人をテレビで観たことがあるがね」

ようやく私は妻の横に腰をおろして言った。テーブルには男が持参したらしいパンフレットと白い名詞がのっていた。

「その詩人はきっと偽物ですよ」

男はいかにも作り物の笑みをみせた。

ひさしぶりに早く帰宅できたというのに、私はなんだかまだ仕事のつづきをさせられているような心持ちがしてきて少々気が滅入った。

すると妻が名刺を手にとって、まるでなにかの記念みたいに私にみせた。

「神崎実さん。魔法学校の広報をなさってるんですって」

「ビールをくれないか」

私は白い紙切れをテーブルにもどし、ネクタイを片手でゆるめながら言った。

妻はキッチンへ立った。


思わぬ来客をそでに、私はリモコンでテレビのスイッチをいれた。

めずらしく巨人戦のナイター中継をやっていた。

昔は缶ビール片手にそれを観るのが毎晩の日課になっていたものだが、いまではもう半分近くの選手の名前がわからなくなっていた。敵も味方も、監督やコーチの顔のほうが私にははるかに馴染みがある。

知らないピッチャーの球を知らないバッターが打っていた。

「で、君は学校の寄付金でもあつめてまわっているのかね。私はその魔法学校とやらを卒業したおぼえはないがね」

マウンド上のピッチャーよろしく、どこの誰だかわからぬ若い男に私はたずねた。

「いいえ。ご主人にはこれから、私たちの学校に入学してもらいたいんです」

「すごいわ、あなた。魔法学校の生徒さんに選ばれたんですってよ」

妻がお盆に缶ビールと枝豆をのせてはいってきた。

とりあえず、私は冷たい奴を一口喉にとおしてから二人の発言の意味を考えてみようと思ったのだが、まだ缶の上ブタをあけるまえに、二人の会話はあらたな展開をみせた。

「ご主人はメロンパンが大の好物でいらっしゃる」

「ええ、そう。我が家の朝食は牛乳とメロンパンってきまってるんです。たまにそれが売り切れで、アンパンでも買ってきようものなら、子供みたいに一日中ご機嫌ななめで」

妻が言っていることはたしかに事実だった。

しかし、たかが朝食のパンとはいえ、ことはプライベートに関わる問題だ。初対面の男に彼女がいともたやすくそれを口にしてしまうことに、私は朝のアンパン以上に腹がたった。


私はメロンパンとそれを好きな自分自身を擁護するかのようにまくしたてた。

「君の魔法学校やらと、私のメロンパンと、なにか関係でもあるのかね。それに、どうして私がメロンパンが好きなことを知ってるんだい。君は菓子メーカーの広報ではあるまい。いいや、菓子メーカーの広報だって、そんなことを知ってるはずがない」

心外にも、男は私の顔を見て笑うのだった。おかしなことを言う人だ、みたいに。私にしてみれば、こっちのほうがはるかにまともなことを喋ってるつもりなのだが。

「統計学上....」

彼は高ぶった相手の神経を冷ますような話方をした。

「メロンパンのお好きな方には、魔法使いになれる素質が、そうでない方よりも多くそなわっているようなんです」

私にはいろんな意味でかえす言葉がなかった。

「まあ、そうなんですの」

妻はさも感心しているかのようにつぶやいた。

「ふつう物語の中では、魔法学校というのは子供たちがいくところじゃなかったかな。メロンパンの好きな子供だってたくさんいるだろうしね」

私は妻ののぼせた頭をただす必要性を感じて言った。しかし、それは焼け石に水だった。

男はごく初歩的な質問にこたえるようにあっさり言ってのけた。

「子供はダメですね。集中力がつづきませんから」


はたして、そんなものがほんとうにいるかどうかは知らないが、私は枝豆好きの動物園のゴリラみたいにそれをむさぼっていた。

横では妻が入学パンフレットに見入っていた。

それはよくある専門学校や予備校のそれとなんらかわりがないように思えた。しかし、妻の様子はまるで自分がこれからその学校に入学するみたいな熱心さだった。

思えば、彼女はもとからファンタジー小説が大好きなタチなのだ。我が家の本棚には、私が集めたJAZZの横文字と、魔法使いやら妖精やらのカタカナの名前とが、入り乱れるようにしてならんでいる。

きっと彼女にしてみれば、男の話は興味津々、この日がくるのを何年も待っていた、という感じなのだろう。だが、選ばれたのはなぜか夫たる私のほうなのだ。私の知るかぎり、彼女が三日、いいや二日でもメロンパンをつづけて食べている様を見た記憶はない。

そうなると、男が言うように、もしもほんとうに私に魔法使いの素質なんてものがあるとしたら、私は妻の絶対的な尊敬を勝ちとることができることになる。

それはそれで喜ばしいことだ。だがしかし、私も彼女も、そんな夢物語にうつつをぬかすには少々歳をとりすぎている。妻は私より一回りも歳下だけども、それだって来年には三十路をむかえるのだ。自宅で本を読んだり、音楽を聴いたり、横文字やカタカナの世界は頭の中だけで想像して楽しむのがちょうどいいはずだ。

そこで私の考えは、妻をガッカリさせない程度にお茶を濁して、魔法学校の広報にはさっさとお引き取りしてもらう、というところに落ちついた。


「私はひどい高所恐怖症でね。魔法の箒にまたがって空を飛んだりすることはできやしないよ」

「そんなことは僕だってできません。まったくおとぎ話レベルの芸当です」

広報の男はまた笑って言った。

三歩さがって勧誘話を辞退するつもりでいたのに、これはいったいどういうことなのか。鳥や虫や、いいや手品師だって嘘でも飛んでみせる。それなのに空を飛べない魔法使いだなんて、まるで楽器の弾けないジャズ・ミュージシャンみたいじゃないか。そんなものあろうはずがない。

私は横にいる妻の失望感を肌で感じることができた。

「君は魔法使いだと言ったね。グルムだと言ったね。では、私たちにできなくて、君にできることとは、どんなものなんだい」

私はつい会社の若い部下に説教をたれているときのような気分になってしまった。口だけ達者で、行動のともなわない今時の若者が大嫌いなのだ。

だが、職場でもたいていそうなるように、その問い詰めがめぐりめぐって私自身の首を絞めることになった。

「そうですね....」

若者の悩み方はなんだか自信ありげだった。そして指をパチンと鳴らしてこう言った。

「たとえばこんなのはどうです」


妻は喜んだ。動物園のゴリラも喜んだ。

空になりかけていた私の小皿は、まばたきする瞬間に枝豆が天こ盛りになっていた。あと缶ビール二本分ぐらいはもちそうだった。

もっとも、そんなものは薄気味悪くて、私は指一本触れなかった。

かわりに男が手をのばして、主人のつまみを試食してみせた。あろうことか、妻もそれにならった。

私は負けじとビールをがぶ飲みして言った。

「君は手品師かね」

「たしかに種はありますね」

妻は笑った。奴はジョークを言ったのだ。

ビールの味がとたんに苦くなった。

「つまり、君のとこの学校に入学すると枝豆が食べ放題になるというわけかい」

私もジョークを言っていたつもりだったが、誰も笑わなかった。

「ほかにもあります」

「たとえば、どんな」

「メロンパン」

妻はこんどは笑った。今夜の私はまったく酔えそうになかった。


「ご主人、こんなふうに考えてみてください。この世界は小さな小さな魔法の積み重ねによってなりたっているのだと」

男は言ったが、中堅メーカーの人事部に勤める私の社会人的な常識は、それぐらいのことで覆されるほどヤワではなかった。

「冗談はもういいよ。私は明日も仕事があるんだ。要点だけ話して帰ってもらおう」

「すみません」

男は神妙な顔つきをみせた。

「授業料は無料です。入学金もありません。週に五日、必ず出席してもらいます」

「そんなことできるもんか。仕事があると言ったろ」

「ご安心を。僕たちの学校でもあるていど資本主義がとりいれられています。授業は午前中だけ。午後は工場での作業になります。能力によって月給が支払われます」

「働くのかい」

「ええ」


資本主義に能力主義。なにが魔法の学校なものか。これじゃ、ありたいていの会社となんらかわらないではないか。

でも、まあいいだろう。おかげで私には男の勧誘を断るはっきりとした口実ができた。

私は奴のさっきのジョークを権力で押しつぶすみたいなつもりで言った。

「君のとこの学校に通うためには、私はいまの会社に辞表をださなくてはならないな」

「そうなりますね」

「そうなりますじゃないよ。仕事というのは、会社というのは、そんな簡単に辞められるもんじゃないんだ」

「でもあなた、毎晩毎晩、ビール飲みながら辞めたい辞めたいってこぼしてるじゃない」

妻が不必要な横やりをいれた。

しかし、彼女の言ったことはこんどもやはり事実ではあった。昨晩だって、私はそんなことを愚痴っていたはずだ。

けれども、それをいまここであえて指摘する必要があるだろうか。これでは私の一家の大黒柱としての面子が、勤続二十年の社会人としてのプライドが、丸つぶれではないか。

「やり甲斐のある仕事ですよ」

広報はなかば同情するような口調で言った。

「工場といっても、単純な機械作業ではありません。僕たちは一つ一つ、心をこめてそれを一から作ってるんです」

「なにをだね。まさか枝豆ではあるまいな」

男は首をふり、手持ちのバックからあるものをとりだした。

透明の袋にはいったまるいメロンパンだった。

妻はもう手をたたいて喜んだ。



私が勤めている繊維メーカーは東京の下町にあった。自宅のマンションがある三鷹からそこまで毎日通勤している。朝は眠く、帰りもまた眠い。それはいつものことだが、去年、あらたな人事異動があってからというもの、これまで経験したことのない心労に私は襲われていた。

会社は経営再建の途中にあった。社内は投資ファンドに雇われた新社長組と、旧経営陣派とに真っ二つにわかれていた。そのおり、長年勤めた営業部から人事部へと異動させられた私は、ちょうど両陣営の板挟みのような格好になっていた。

ある者はスパイを見るような冷たい視線を私におくり、またある者は二重スパイであるかのようにいやらしい目つきで私を見た。そしてかつて仲のよかった同僚たちは一人また一人とはなれていった。


私の神経は眠気をとおりこし、昏睡状態にあった。虚ろな視線を通勤途中の車内からどこともなく毎日のようになげかけていた。

だが、そんな私に思いもよらない転機がおとずれた。

食べたのだ、あのメロンパンを。魔法学校の広報という男が持参したあれを。その翌朝に。

いい歳をしてまったく恥ずかしいが、枝豆は我慢できても、ことメロンパンに関するかぎり、好奇心を抑えきれない私であった。

しかし、そのメロンパンは、これまで食してきたどんなものより群をぬいて美味しかった。よくその宣伝文句に、「そとはカリカリなかはモチモチ」というのがあるけれど、口に入れたとたん、そのコピーがまるで鼻から荒い息となって飛びだしていくような感じがした。

長い間、毎朝牛乳といっしょに楽しく食してきた何千何百というメロンパンはいったいなんだったのか。その朝、私はまさに目から鱗がおちるような体験をしたのだった。


あのメロンパンがもう一度食べたい。私の視線は今は中央線の車内で蝶のように舞っていた。

だが、それでも私は決心ができずにいた。

家に帰ると、妻が催促するような目で私を見た。彼女の頭の中では、私が魔法学校に入学することはすでに既定路線になっているのだ。

けれど、いざいまの仕事を辞めるとなるとそう簡単にはいかない。

まず月給がでるといったって、雇用形態はどうなるのか。正社員なのか、契約社員なのか。ボーナスはでるのか。我が家にはまだマンションのローンがのこっているのだ。それに年金や健康保険も必要になってくるだろう。魔法使いになるのはいいが、毎晩、夕食は妻と二人で枝豆ばかりというわけにもいくまい。

そういった数々の疑問にたいする答えが、入学パンフレットには一つも説明されていなかった。おとぎ話にでてくる主人公の少年なら箒にまたがってとっとと冒険の旅に飛びたてるだろうが、現実となるとむずかしい。まして家庭をもった社会人であればなおさらだ。そこには責任という二文字が大きくのしかかってくる。


広報の男の説明では、一週間後、私が毎朝同じ時刻に乗っている中央線の電車が、その日だけ『西西荻窪』なる駅で停車するのだという。そこに魔法学校とパン工場があるのだ。

私は『西荻窪』なら知ってるけど、『西西荻窪』なる駅はこれまで見たことも、聞いたことも、ましておりたこともない。 だが、たぶんそういう駅があるのだろう。

問題は一週間後というさし迫った時間だ。法律によれば、会社に辞表を提出できる期限はおそくても二週間前と書かれている。人事部に勤める人間がはたしてそれをやぶっていいものだろうか。また、そういった状況で会社側に正式に受理されるものだろうか。両陣営からスパイあつかいされている私は誰にも相談することができなかった。


だが、私の勤め人たる悩みはまさに魔法のように数日のうちにあっさり解消されることになった。

社内のトイレでの出来事だ。小便をしていた私のすぐ横に専務がやってきて、ズボンのチャックといっしょに口をひらいた。

「君、菓子メーカーからヘッドハンティングの話がきてるそうじゃないか」

私はなんのことだかわからず、キョトンとしたままだった。

「隠さなくったっていい。昨晩、その広報をしているという男がうちまでやってきたんだ。ぜひ君を我が社へと熱心に語ってったよ。お土産にパンまでおいてね。ためしに一つ食べてみたが、ぜいぶん美味かったな。あれは飛ぶように売れるだろ」

「はあ....」

「前途洋々じゃないか。まったく君がうらやましいよ。辞表ならいつでもいいから私のところにもってきたまえ。悪いようにはしないから」

専務は旧経営陣側の中心人物だった。


部署にもどると、四時の休憩時間にはいっていた。人事部の社員たちが、みなそれぞれの飲み物を手に、デスクでメロンパンをほおばっていた。

部長が言った。

「いま社長が袋にいれてもってきたんだよ。で、いつ辞表をだすんだい、この幸せ者」

いつもは暗いスパイ所帯の人事部が、このときばかりは妙に明るかった。

自分でも信じられないことだが、私はその場で辞表を書いて提出し、定時には会社をあとにした。


私は帰りの電車の中で考えた。どうもあのメロンパンはただたんに味がいいばかりではなく、なにか人の思考をやわらかくするような働きがあるのではないだろうか、と。そうでなければ、経営陣の対立がわきおこってからというもの、やたらと就労規則に厳しくなった会社が、ああも簡単に突発的な社員の退職をみとめるはずがない。

すると、私の脳裏にある疑惑がうかびあがってきた。もしや、メロンパンから、いいや枝豆からはじまった今回の珍騒動は、すべて私を会社からおいはらうための経営陣による罠だったのではなかったのか、と。あの魔法学校の広報は、会社に雇われた若い手品師だったのではなかろうか、と。

しかし、役員クラスならいざしらず、たかだが人事部の社員一人を解雇するためにこんな手回しをする必要があるものか....私はすぐに自分の疑心暗鬼をうちけした。ただ、わずかな不安はきえなかった。たしかに私が自らすすんで辞表をだしたことはたしかだったから。


ローンののこった我が家に帰り、妻に今日の一件について報告すると、彼女は十歳若返ったみたいに喜んだ。たぶんマンションの返済がついに完了したと言っても、あんなにふうには喜ばないと思う。



約束の朝がやってきた。前の晩、私たち夫婦はこれから都落ちをしようとしている若いカップルみたいに一睡もできなかった。妻の喜びようも緊張感のあるベールにつつまれて見えにくくなっていた。

私たちはまだ暗いうちに部屋をでて、駅ロビーのコーヒーショップで夜明けを待つことにした。妻も私も長い時間、一つも言葉をかわさなかった。

閑散としていた改札口にはしだいに人の列がとぎれることなくつづくようになって、発車アナウンスがそれを煽るようにくりかえされた。走ってる人たちもいた。

「そろそろいこうか」

電車の発車時刻にはまだだいぶあったが、あとはプラットホームで待つつもりで私は言った。

「うん」

と妻はこたえて、私たちはコーヒーショップをでた。


いつもよりはやい時間、いつものプラットホームに私は立った。いつものネクタイを首にしめて。

もしも踏切事故かなにかがあって、ダイヤが乱れていたらどうしようかと二人で心配していたのだが、そういうことはなさそうだった。私たちはそろってホームのベンチに腰かけ、約束の、私が何年も乗りつづけてきた7:45分発の中央線の上り電車を待った。

それは、まぶしいぐらいによく晴れた通勤日和だった。

そんな中で、ほかの勤め人たちにしてみれば、私たち夫婦の様子はどこか異質な風景として目に映っていたかもしれない。なにかしらの病をかかえた亭主を、心配した妻が見送りにきているような。

まあ、それもあながち的はずれな見解ではない。

ただ、私たちがかかえていたのは病ではなくて、パンと夢だったのだが。


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