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空飛び妻・その⑫

塔にいた時間は、ある意味、幸福な時間だった。そこではどういうわけだか俺は高所恐怖症を克服していた。それは長い間、忘れていた自由な感覚だ。どこへでもいきたい場所にいけるような。塔の上では人間の五感が引き伸ばされる力が働いているのかもしれなかった。

もっともいいことはそれぐらいで、月と地球の間を38万キロにわたってまたがった、人智を遥かに凌駕した巨大な石造りの記憶装置は、Siriのようにすぐに答えをくれるサービス精神は持ち合わせていなかった。

五歳以下の子供を対象にした遊園地のアトラクション以上の反応はなにも起こらなかった。記憶が蘇ったような烙印は俺のどこにも見当たらず、そもそもそれが蘇るとはどういう状態を指すのかも分からず、俺は一度もあだ名で呼ばれた経験のない、世俗性と実存性の薄い男のまま、宙の螺旋階段をぐるぐると巡りつづけていた。


いったいどれぐらいの時間が流れただろうか。俺は腕のG-SHOCKで時間を計る感覚をすでに失っていた。塔での百年の暮らしは、地上では一瞬のまばたきに過ぎないのかもしれなかった。このまま何十年でも一人無言のうちに暮らせそうだった。

石段は何度も光り、その度にタイプライターめいたベルの音を無音の空間に響かせた。塔は俺に大長編小説を書かせようとしているみたいだった。

八十八までいったところでベルを数えるのを止めにした。先頭をいくミミズク先生に、この幼児向け音楽教室はいつまでつづくのか訊いてみようかとも思ったけど、口を開く前に自ずと答えは見つかった。簡単だ。塔を昇った動物たちの数だけつづくのだ。

でもそれはそれでよかった。問題なのは記憶が埋められている石段の間隔の方だ。そこには素数みたいに明確な規則性が見当たらない。十段ぐらい昇ってつぎのベルが鳴ってくれるときもあれば、何千段昇ってもウンともスンともいわないときもある。


もしかしたら塔は、俺に最終テストをしているのかもしれない。そんな考えが頭をかすめた。螺旋階段を利用した幼児向けの音楽教室は、そのための時間稼ぎのカモフラージュなのだ。

塔は記憶装置としてだけではなく、人格をスキャンする巨大な解析装置でもある。ただしペースはとんでもなく遅い。曰く、「彼は本当に空飛び妻に相応しい男か?」イエス。「空飛び妻の夫となるには、彼の思考はネガティブ過ぎないか?」イエス。「彼は、地球人と我々との間に生まれる、来たるべき子孫の父親に相応しい人間か?」イエス。「我々の選択は間違ってはいなかったか?」イエス。

もしもスキャンの結果、導きだされた答えが否定的なものであったなら、俺は空飛び夫失格の烙印を押され、膨らんだマユミのお腹はなにもなかったかのようにたちまちもとの白くて平らな小さな壁へとヘコむのだろう。むしろ俺にしてみたらその方が万々歳だ。


もう一つの可能性。最後の最後になって、保存していた記憶になんらかのトラブルがあった。バグが見つかったとか。失われた俺の子供時代は永久に蘇らないのかも。

でもたとえそんな事態になったとしても、今後の俺たち夫婦の日常生活に支障をきたすような事態になるとは思えなかった。ただここまで来ておきながら、ほんの少しバツが悪い感じがするだけ。

それだって代わりの男は、あるいは代わりの夫婦は、いくらでもいるはずなのだ。だって俺の記憶によれば、空飛び夫は学校の一クラスに一人の割合で存在するのだから。

......俺の記憶によれば?


切りだされ、繋がれた石の下では、人体と同じような目には見えないけれども様々な信号が、血管を流れる赤い血液のごとく活発に行き来しているのかもしれなかった。俺の細胞に残されたわずかな記憶が、それに反応しはじめたのかも。

塔の内部には世界中に散らばった空飛び夫たちの記憶と、これから空飛び夫になる男たちのすべての記憶が、森の奥に鎮座する蔦のからまった貯蔵庫のワインよろしく眠っていて、塔はふたたび自らの階段を昇ろうとしている一人の輩を遺伝子レベルでスキャンしたのち、数あるストックから正しいラベルの貼られた記憶のワインを選びだしている最中なのかもしれなかった。

塔は図体ばかりデカくて、アイデアの足りないテーマパークのアトラクションではなかった。最初のうちは面白がって遊んでいた子供たちが、すぐに飽きてしまうような光と音の玩具ではなかった。

地球で最も長く高い階段は、準備時間を終えると、ついに最終ステージへとシフトした。幸か不幸か俺はテストに合格したのかも。ついに俺は最後の階段を踏んだ。長い時間眠っていた記憶のワインが蔵からだされた。


これまで何人もの空飛び夫たちが踏みつけ、動物たちの長いパレードが昇った石段、それがふたたび俺のニューバランスの下で光り、切りだされ繋がれた古代の神秘的な鉱石と化した。でもそれは俺にとってすでに見飽きた光景でもあり、もはや子供騙しの光と音の玩具にすぎなかった。

ただ最後の階段が他と異なっていたのは、タイプライターのベルが宙の静けさの中に消え失せても、もう一つべつのベルの音がそれに応えるように、昇ってきた塔の下の方でチーンと鳴ったことだ。それはとても小さな音で、無音の宇宙空間だからこそ聞き取れるものだった。ドミノ倒しのスタートの合図だった。


遠いベルは一度切りでは終わらなかった。それは塔の中でなにかが目覚めたようにたて続けに鳴り響いた。加速したドミノ倒しの猛烈なスピードで、俺が立っている足下の石段へと昇ってくる。その金属音の連打はタイプライターのベルというよりもピンボールマシーンのそれにずっと近かった。誰かが塔のどこかにあるアメリカン・バーで、ピンボールゲームのハイスコアーを派手に叩きだしているような。

「約束が果たされるときがきたのではないか」

石段の上でミミズク先生が言った。


俺は石塀から身を乗りだして、いったいなにがはじまったのか塔の下に顔を向けた。普段なら地下鉄のエスカレーターから駅のホームを見下ろしただけでも足がすくむのに、地上のどんなに高い山の頂上よりも遥かに高い場所にいながら、小さくなった月を下に覗いても一つも怖くはなかった。そもそもその空間には上も下も、右も左も存在しなかった。

すでに地球よりも小さい月との間で、ベルの音と同時に青白い光が螺旋状に点滅しながらこちらへ向かってくるのが見えた。それも圧倒的に不規則な間隔で。俺はその不規則性に憶えがあった。

塔はまるでそれ自体が爆発しているかのように点滅を繰り返した。ハイスコアーがさらに更新された。光と音のエレベーターはあっという間に螺旋階段を駆け昇ってきて、俺が最後に踏んだ石段へと到達した。そのとき最後の石段がもう一度チーンと鳴った。


最後の石段の発光はなかなかおさまろうとはしなかった。むしろ地下深くうごめく鉱脈が溢れだしたかのようにキラキラとした純度を高めながら石本体から浮かび上がって、すり減ってつるつるになった表面の上にペンライトの明かりにも似た新たな光の層を生みだした。

まさにその光るスライムめいた代物こそが俺の失われた記憶そのものだと思った。ゼリー状したそれに俺が足を踏み入れれば、やがてそれは自らの意思で元の持ち主の体をすっぽりと包み込むものだろうと。俺の記憶が補完されるのだ。

ただし塔の方ではそんなふうには考えてはいないらしかった。塔が俺に提示したのは一見もっと遥かに旧式なものだった。それは文学的といってもいいぐらいの代物だった。


もしもマユミがそれを見たなら、瞳を輝かせて喜んだかもしれない。はるばるやってきた親戚から予想もしていなかった素敵なプレゼントを受けとった子供みたいに。でも俺の方は、まったく期待外れの、流行遅れも甚だしい、古いオモチャを押しつけられた子供みたいな、有難迷惑な気分で一杯だった。

空いた口が塞がらなかった。いったいぜんたい、どうして俺がこんな目に遭わなければならないのか理解できなかった。


本はタウンページよりも厚そうだった。ハードカバーでいかにも重たそうだ。けれどもそんな重たそうな代物が、実際には足下の石段の底から顔をだし、スルスルと音もなく垂直に浮かび上がってきたのだった。今まさに編集が終わって製本されたばかりのホヤホヤみたいに。

浮かび上がった本はちょうど胸の高さで止まった。左綴じの装丁を包み込んだ透明な発光スライムが、熱で伸びたガラス細工のように石段とつながって、さながら外宇宙から飛来した透明な植物めいて見えた。その透明な植物スライムは書物の実をつけるのだ。


まさかこんな所で自前の読書嫌いを披露する目に遭うとは思わなかった。本のページには俺の失われた記憶とやらが、横書きの文字でびっしり埋まっているのに違いなかった。読みとおすのにいったいどれくらいの時間がかかるのだろう。これならワインやスライムの洗礼の方がずっと良かった。人間よりも遥かにすすんだ文明を築いたα星人が、まさか最後になって遥か昔から存在する書物を持ちだしてくるとは想像もしていなかった。


塔は俺の高所恐怖症は治しても、読書嫌いの方は手つかずのままらしかった。どうせならそっちの方もなんとかしてくれたらよかったのに。しかしここまできて我がままを言い張っても仕方がない。俺は観念してあごを上げ、ミミズク先生に頷いてみせた。するとミミズク先生の瞳の中でオレンジ色した二つのリングが光るのが見え、植物スライムの頭がゴムのように伸び、野球のオーバースローみたいに俺の胸に記憶の書を押しつけた。もう少しで螺旋階段を月面まで転げ落ちそうになるところだった。


本来なら無重力のはずだけど、見た目以上に本はズシリと重かった。まるで漬け物石クラス。その原因は紙の重さではなく、主に俺の記憶の重さの所為なのかもしれなかった。とりあえず石段に置いて読む以外に方法はなさそうだ。

手にまとわりつくスライムに辟易しながら表紙を見ると、とくにタイトルはついていなかった。大学ノートに似た灰色したハードカバーの中央に、α動物園のすでにお馴染みとなった諸々の動物たちが、記念撮影のように仲良く横並びになった可愛いイラストで描かれていた。


クマたちも、ライオンも、ゾウたちも、みんな丸いつぶらな瞳をして、動物園に遠足にきたみたいに表紙の真ん中で微笑んでいた。その絵柄はどう考えても俺の記憶の書には相応しくなかった。クマたちも、ライオンも、ゾウたちも、みんな無理して笑っているのに違いなかった。

これが本当に俺の記憶の書だとしたら、やはりどこかで間違いがあったのではないだろうか。そんな考えがふたたび頭をもたげた。こんなに厚い本を読むだけ読んで、それが全部間違えだったとしたら、目も当てられない。そうでなくても、自分が忘れた遠い過去の記憶なんて、もとから読む気がしないのに。

俺の手はネガティブな圧に押されてなかなか表紙の扉を開けられずにいた。見兼ねたミミズク先生がくちばしを開いて仙人のように言った。

「読めよ、さらば与えられん」


そのとき俺は気づいた。翼を持った鳥という生き物は、べつにミミズク先生に限らずとも、人間から見れば多かれ少なかれ、みんな仙人のように見えるものではないかと。

しかしたとえそうであったとしても、それが魔法の呪文であるのに変わりはなかった。ミミズク先生の言葉が真空を震わすと、表紙が手の上で勢いよく勝手に開き、嵐の中に打ち捨てられた書物のように本のページが猛烈なスピードでめくれはじめ、残りのスライムを宙に弾き飛ばした。

分かったのは、記憶の書には文字が一切記されていないという意外過ぎる事実だった。ページはどれも横並びの文字の代わりに、横並びの可愛いカラーイラストで埋め尽くされていて、文字一文字につきイラストが一つというぐらいの恐るべき過密さだった。しかも重複するイラストは一つとしてなかった。記憶の書はあらゆる物と、あらゆる自然と、あらゆる生き物のイラストで記されたイラスト版記憶の書だった。

しかしさらに意外だったのは、俺の二つの目玉が、鬼のようなめくるめくページのスピードに確実についていけたという事実だった。高性能なビデオカメラさながらに。我ながら人間業とは思えない所業だった。それこそ塔の人格スキャンならぬ人体改造スキャンによる賜物に他ならなかった。


つづく



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