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空飛び妻・その⑪

それは崩壊したバベルの塔の修復作業めいていた。シャベルもヘルメットも使わない、おかしな夜間修復作業の。必要なのは忍耐力だけ。終わりのないなにかの苦行のような。普通の動物園なら、とっくにクマとのご対面を果たしていたはずなのに。

野球帽を目深にかぶる、内気そうな少年を含んだ風変わりな三人の作業員たちが、ただ足を前に運んでいくたび石段は螺旋状に一段ずつ勝手に増えていった。それに合わせて塔も上へ上へと、まるで牛と交換したジャックの豆の木みたいに天に向かって伸びていった。

どこまでたどっても、暗がりから姿をあらわすのはつぎの階段ばかりで、昇れば昇るほど、どこかにたどり着けそうな予感はいよいよ消え失せていくのだった。


都会のギャングたちが創りだした闇の世界で密かにつづけられるその奇妙な修復作業を、高画像のスマホでパノラマ撮影したなら、黒く渦巻く都会のキャンバスに、地面に埋め込まれた一本の石柱の残骸が、なにかの意思を持ったかのようにニョキニョキと、垂直な線を描いて伸びていく様子が確認できたかもしれない。

でもその動画をインターネットのサイトに投稿したとしても、それがもともとは動物園のクマの丘であったと信じられる者はまずいないだろう。だいたいが昇っている当人ですら自分でなにをしているのか分からない有様なのだ。いったいどこの誰が、クマの丘が第二のバベルの塔にならなければいけない理由を知っているだろうか。寝床を勝手に宙に持ち上げられたクマたち(小さなマレーグマと中ぐらいのツキノワグマと大きなヒグマ)だってきっと困るはずだ。


俺たち三人はα動物園に雇われた歩く修復作業員だった。石段をどこまでも伸ばす退屈なその作業は、けれど誰がやってもいいというわけではなかった。それをこなすのに俺たち三人は最適な人材だったのだ。どんなに取り柄のなさそうな親子でも、いいやむしろなんの取り柄のない親子だからこそ、その苦行めいた作業には向いていた。見事にやり遂げたなら、彼らが暗黒の日曜日に背負うはめになった動物園のカルマも浄化され、真実の安息日を迎えられるはずなのだ。約束の高画像スマホを手に。


もしかしたら俺たち三人は月に向かって歩んでいるのかもしれなかった。α星のマザーシップが着陸している白い衛星に。

塔がカラスたちの雲を抜けて大気圏を突破し、遥か彼方の静かな海までとどいたなら、そのときには長い長い螺旋状の石段をたどって、今度はα動物園の動物たちが月へと昇ってくるはずだ。そうするとこれはバベルの塔とノアの方舟とかぐや姫が一緒になったような古くて新しい物語になるのかもしれない。俺たち三人はその中に登場する無口で貧しい工場勤務の親子になるのかもしれない。


月面ではα星のマザーシップが、大きなタラップを降ろし、α動物園御一行を出迎える。白いクレーターの上に行儀良く凸凹した影の列を作った一行は、アポロの宇宙飛行士みたいに慣れない弱い重力にふあふあ月面をスキップしながら、ホワイトベースめいた最新型のノアの方舟に乗り込んでいく。動物園の敷地より遥かに広いその船内には、驚いたことにα動物園とそっくりに造られたもう一つの動物園が存在する。それを見て、月との架け橋を造るために自らの寝床を提供した大中小のクマたちは、春がやってきたみたいに大喜びで走りだす。


三人の賢者ならぬ三人の無口な親子にとって最後の仕事となるのは、遠い銀河へと旅立つマザーシップを月面から見送ることだ。空飛び妻が産んだハイブリッドな子供たちと、α動物園の動物たちとを。

さようならミミズク先生、さようならフクロウ博士、また会う日まで。俺はタラップを昇っていく凸凹した列に向かって惜しみなく手を振る。種族は違えども、共に同じ星に生まれた生き物として。こちらに残る種族を代表して。

ただ振りはじめた惜別の手は、予期せぬ生き物の登場によってすぐに静止してしまう。その生き物が、ここでも招かれざる客であることに変わりはない。


動物たちが並んだ列のしんがりに、なぜだかα版『砂の器』親子がくっついている。モノクロ的な世界にあって、一際鮮やかなピンクフラミンゴたちの行列のうしろ、まるで方舟に乗り込む権利を持った人類代表めいたすまし顔のわりには貧相な出で立ちで。

いいや、あの親子の場合、顔の表情は分からない。ただ、どんなに取り繕うとしても身体からにじみでてくる、どさくさに紛れて感を隠すことはできない。もしかしたらそれで、あの親子は最初から表情が見えないようにしていたのだろうか。

そう考えると、俺は月面で一人途方に暮れずにはいられない。いったいあの親子になにがあったのだろうかと。故郷の星を捨てて夜逃げしなければいけないような、親子が背負ったカルマとはいったいどんなものだったのだろうかと。ゲストとしてのα動物園一行の乗船と、彼らの無賃乗船とではまったく事情が違ってくる。


あるいは親子は修復作業の見返りとして乗船を許可されたのかもしれない。でもそれならば俺にだって同等の権利があってもいいはずだ。もっともそんな権利があったとして、それを行使したいとは少しも思わないのだけど。

「見送りはそのへんでいいのではないか。時間がなかったのではないか」

足下から聞こえるはずのない声がした。それは俺が月面に立っているからではなく、その声の主が、そこにいるはずがないという意味で。

「準備は整ったのではないか。ならば君も彼らのようにとっととこの衛星をあとにするべきではないか」

存在するはずのない声の主が言った。俺はその置物めいた茶色い鳥に向かって声をださずに尋ねた。タラップを昇る遠くて小さな親子の姿を見送りながら。

「準備って、いったいなんの準備?」

「記憶とスマホをとりもどすためなのではないか。それにはどうしても動物たちに石段を昇ってもらう必要があったのではないか。なぜならば君の記憶は失われたのではなく盗まれたものだから。それはこれまでずっと動物たちの中に隠されていたのではないか。彼らはその荷物を宇宙船に乗り込む前に石段に置いていったのではないか」


「人のDNAを繋げたなら、地球と月の間を何回も往復する橋が架かるのではないか。α動物園に雇われた修復作業員である君の報酬は、そのDNAの螺旋構造の中に埋め込まれているのではないか」

ミミズク先生が言った。先生は俺の横で、小さなペンギンみたいにピョンピョンと忙しそうに二本の脚でジャンプしながら石段を昇っていた。

俺たちの行き先は遠い銀河ではなく、塔の螺旋階段で繋がった、隣の青い惑星だった。それは瓶の底ぐらいの大きさで、リールで繋がれたみたいに頭上に浮いていた。行きは足下に覗いていた地球が、帰りは仰ぎ見る格好になった。

宇宙は暗くはなかった。ただ太陽の光をうけとめる物が途中に存在しないだけなのだ。新たなバベルの塔は、その光を一身に浴びる巨大な白い架け橋となって、月と地球の間に横たわっていた。


無味無臭な世界からバラの香り漂う地上へと、俺は帰ろうとしていた。新たな案内人はミミズク先生だ。暑くも寒くもなく、風もまったく吹いていない。永遠に思えそうな石段を昇りつづけるのには、まあまあな宇宙日和だった。

「君にはもう一つ名前があったのではないか。親がつけた名前のほかに、子供の頃につけられた名前が」

「そういうのをあだ名って呼ぶんだ」

「ならばそのあだ名というのを君は思いだすといいのではないか」

「いや、俺にはあだ名はないよ。自慢じゃないけど、子供の頃からあだ名で呼ばれた経験が一度もないんだ」

「それこそ君が記憶を盗まれた証拠になるのではないか。もしも君にあだ名で呼ばれていた時期があったとしたなら」


螺旋階段をグルグルと昇りながら、俺はミミズク先生の助言について考え、野球帽をかぶった半ズボンの少年の姿を無限の空間に思い浮かべた。あの男の子に似合ったあだ名とはどんなものだろうかと。

でもなにも思い浮かばなかった。そもそも長年あだ名と無縁に生きてきた人間に、他人のあだ名を見当づけるのは無理らしかった。

ただ唯一閃いたのが〈α少年〉。我ながらセンスのないネーミング過ぎて月と地球の間で一人唖然としたけれど、俺にしてみれば、あの男の子はα少年以外の何者でもなかった。思いだそうとすればするほど、そっくりなはずの少年は、かつての俺自身とは違っているように思えた。でも子供がα少年だったら、顔の見えない父親の方は必然的に〈α父〉となるだろう。二人は〈α親子〉となるだろう。

「悪くないのではないか、α親子」

横でピョンピョンと石段を跳ね昇りながら、ミミズク先生が言った。


もしかしたらあの親子は地球人ではなく、地球人になりすましたα星人だったのかもしれない。もしかしたら俺には他人にあだ名をつける才能がないわけではなくて、むしろあり過ぎるくらいなのかもしれない。地球の文明よりも遥かに進歩した科学技術でさえ見透かしてしまうほどに。

もしそうであったら、α親子は故郷の地球を離れるのではなく、故郷の星へと帰る道理になる。自分たちの任務をやっと終えて。


突飛なアイデアではあったけど、そんなふう考えた方がいくらか気も楽になったし、腑に落ちる点もあった。

少年は当時の俺に似てはいたのだろうけど、どこか赤の他人のような印象があったから。幼い頃の俺の写真とα少年を重ねれば、そこにはなにか微妙なズレがあって、目を凝らせば凝らすほどにそのわずかな差異の輪郭は逆に広がっていくのだ。まるで録音した自分の声が、聞いてみれば、知らない人間の声に聞こえたりするように。

手にもったソフトクリームだって本物そっくりのフィギュアだった可能性もある。きっとα星人の口に地球のソフトクリームは合わないのだ。

「そろそろなのではないか」

ミミズク先生が言った。森の奥で時を告げる鳥よろしく。


石段が音を立てて発光した。無限につづく螺旋階段のうちの足をのせた石段だけが水晶のように青白く。同時にベルを鳴らしたような金属音が深淵に。宇宙飛行士が宇宙遊泳をしながらピンボールをプレイしているかのような。地球を見下ろしつつタイプライターを打っているかのような。

俺はのせた足を止めて、真下の青白い発光がおさまり、もとの褐色の石段にもどっいく様子をじっと見守った。先を行くフクロウ先生が器用に首だけぐるりと回して振り返った。

「ここを通ったゾウかキリンかライオンが、君の記憶を置いていったのではないか。君が自分の記憶を踏むたびに石段は光るし、音を鳴らしてそれを知らせようとするのではないか」

俺はつぎの石段に足をのせた。それまでよりも注意深く、より慎重に。自分の記憶のDNAへ。

「ゆっくり思いだせばいいのではないか。なにしろ地球と月の間は三十八万キロあるのだから」

ミミズク先生はそう言って首をもとにもどした。


つづく

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