夜の学校
その日の僕はいささか複雑な心境で都庁の建物をでた。
時刻はまだ夕方の5時を半ば過ぎたばかり。こんなはやい時間に退庁できるのは何ヶ月ぶりのことだろう。そして、同僚たちはあと何時間残業するはめになるのだろう。
きっと僕が自宅のソファに身を投げだしたころにも、彼らの何人かは、まだ公文書室のパソコンとにらめっこをつづけているのではあるまいか。
新宿駅で中央線に乗車してからも僕の思案はつづいた。
同僚たちはみな一様にこちらの身分をうらやんでいた。できれば代わって退庁したいような顔をしていた。
けれど、いかに定時退庁の権利をもらったとはいっても、それで僕の毎日の仕事のノルマが減るわけではなかった。その埋め合わせを、きっと僕は休日出勤という形で補わなければならなくなるだろう。
しかも、はやく仕事を終えたとはいえ、真っ直ぐに帰宅できるわけでもない。僕はこれから学校へとむかうのだ。十年前に卒業したはずの、杉並区の公立高校へ、『日本史』の授業を受けるために。
母校から封書入りの知らせが自宅マンションのポストに届いたのは一月ぐらい前のことだった。
それは世間一般を騒がせていた必修教科の未修理問題に関することだったけども、文面によると、僕には卒業に必要な『日本史』の単位が足りていないとのことだった。
そんなことをいきなり言われても、しかも十年もたった今ごろになって告知されてもしょうがないのだが、さらに文面によれば、希望する卒業生には、夜間の補習授業を週五日、無料開講するとの旨が書かれていた。希望者が多数の場合、定員になりしだい応募を締め切るとも。
僕はもちろんそんな手紙は一度目をとおしたきりうっちゃっておいた。月に100時間残業している社会人が、どうやって週五日の夜間授業を受けられるのか。
だがしかし、それから一週間ぐらいあとのことだ。仕事中に総務部に呼びだされた僕は、とうとつな知らせを受けた。その補習の応募を総務から郵送しておいたというのだ。社会人のための補習授業の実施は都の教育委員会の決定であり、都庁に勤める職員の中でそれに該当する者は、当然その義務にしたがわなければならない、と。
なんでも僕は、同窓生であるらしい都市整備局の『成瀬』なる職員と一緒に高校の『日本史』の授業を60時間受けることになるらしい。
60時間。1日2時間としても、二ヶ月弱はかかる計算だ。ああ....。
中央線の車内にはいつもなら朝の時間帯にしか見かけない制服姿の高校生たちも混じっていた。これからしばらくの間は、僕も彼らと同じようにシャーペン片手に教室の黒板とむきあうことになる。
たぶん生徒の大半は強制的に参加するはめになった公務員たちだろう。実社会でバリバリに働いているビジネスマンやOLが、こんな補習授業に自らすすんで参加してくるとはとうてい考えにくい。
これがなにがしかの資格になるというならまだしも、いまさら『小野妹子』やら『遣隋使』やらを学んだところで、どんなキャリアアップにもつながりはしない。
明かりのついた夜の教室で、どこか不服そうな公務員ばかりが、むっつりと黒板を見つめている光景を想像すると、僕の心持ちはいよいよ憂鬱になるばかりだった。
僕が卒業したはずの公立高校は荻窪にあった。補習授業がはじまるのが7時。駅前のファーストフード店で軽い夕食をすませてから昔通い慣れた通学路を歩いていった。
照明設備の整ったグランドでサッカー部の生徒たちが練習をしていた。どこからか吹奏楽部の管楽器の音色も聞こえてきた。校舎が夜の蒼い空を背景にして横たわっていた。
社会人になったのを期に国立市で一人暮らしをはじめた僕が、たしか母校をこの目で見るのはぜいぶん久しぶりのはずだったけども、これといった感慨は湧いてはこなかった。
玄関前に僕とそう歳の違わない男性教師が立っていた。彼から案内書の紙きれをもらって、来賓用の靴箱に革靴を入れてスリッパへと履きかえた。
男性教師の話では、最初の一時間目は補習授業の説明会になるらしい。
それはそうだろう、僕は思った。いきなり教科書の何ページを開いてと言われても困るし、学校側からのそれなりの釈明なり謝罪なりも必要なはずだった。もっとも、どんなに上手な釈明や謝罪の言葉を聞かされたとしても、こちらが納得することはないけども。
案内書を見ると、補習授業には一階の一年生の教室が割り当てられていた。驚いたことに、全部で3クラスもある。一クラス20人と見積もっても、ざっと60人。公務員ばかりがそんなに集まるものだろうか....。
スリッパの音を響かせながら教室へとむかった。
途中の廊下で一人の教師とすれちがった。昔、生徒たちから『古跡先生』と呼ばれていた社会科の教師だ。たしか二年生のときに僕も教わったことがある。日本の古代史が大好きで、教科書をいっさい使わず、邪馬台国はどこにあったかとか、卑弥呼はほんとうは男だったとか、たぶん学会では相手にされていない自説ばかりを生徒に説く教師だ。
彼は僕が在校の頃からすでに白髪白髭の御老人だったけど、今でもやはりそう見えた。高校教師というより、大学でロシア文学でも教えていそうなどこか19世紀的なその風貌を記憶していた僕は、躊躇することなくお辞儀をした。
けれど、教え子の顔を忘れたか、それとも僕にまつわることで思いだしたくもない過去のドラマツルギー的な出来事でもあったのか、古跡先生は広場を急ぐ人よろしく横を素通りしていった。
どうやらいまどきの公立校は、ベテラン教師でさえ、都庁に勤める職員よりよほど仕事上のストレスをためているらしかった。
教室のドアにたどりついたのは授業開始の10分も前だったけども、明かりのこぼれる曇りガラスからは教室内の大きな話し声や、まるで居酒屋で耳にするようなバカ笑いまでが聞こえてきた。
きっと、あれは同じ区役所の職員仲間だったりするのではあるまいか。どうも僕が想像していた補習授業とはだいぶ様子が違うようだけど、それはそれで、やはり保健室に寄って早退届けをだしたいような気分であることにかわりはなかった。
廊下におかれた机には、補習授業の応募者名簿がクラスごとにのっていて、出席者は自分の名前の欄に〇印をつけるシステムになっていた。
僕は区役所のお友達クラスとは一緒にならないよう希望しながら自分のそれをさがしはじめたのだが、その名簿はさらに予期せぬ事態を僕に知らせた。
見覚えのある字面がならんでいた。あれもこれも、どこかで聞いたことのある名前がズラリと。
どういうことだろう。僕のクラスの名簿には、高校三年時のクラスメートの名が羅列されていた。僕がはじめて付き合った同クラスの女の子の名前まである。その横にはすでに〇印がついている。
僕はなぜか腰を引くようにして教室のドアを静かに開けた。おしゃべりに夢中になっていた元高校生たちがいっせいにこちらを見た。
やはりそうだった。制服こそ身につけてはいないが、それに思春期のオーラのようなものは消え失せていたが、教室の真ん中を陣取って騒いでいたのは、区役所の職員仲間ではなく、かつての僕のクラスメートたちだった。数にして十数人あまり。よくもまあ、これだけ集まったものだ。
そしてその輪の中に、まだ名字がかわっていなければ『西田真由美』という名の、当時、僕が付き合っていた女性の姿もあった。彼女もまた仕事の帰りらしく、紺色のスーツを身にまとい、当たり前だけど、昔よりもぐっと大人っぽくなっていた。
すっかり出遅れた感のある僕は、この場でどう彼らに挨拶したらよいか少々悩んだけども、ただ気さくに手をあげて微笑んでみせた。
反応はなかった。いいや、僕が期待していたような反応はなかった。今度は彼らのほうが悩んでいるみたいだった。
普段着姿の一人の男性....それは『平山』という名の、たしか剣道部の主将をしていた生徒だった。クラス一のおしゃべりで、男子だけでなく、女子からも人気があった....が、僕にむかって遠慮がちにお辞儀をした。
それから彼は横にいるサラリーマン風のクラスメートに僕の素性をたずねるような素振りをしてみせた。サラリーマン風の男は首を横にふった。
『首の横ふり運動』は周囲に感染していった。かつての同級生たちは次々にお互いの顔を見合ってはそのジェスチャーをくり返した。真由美でさえほかのみんなと同じだった。
そして僕の存在は忘れ去られた。満場一致で可決された。
彼らはふたたびなにもなかったかのように思い出話に花を咲かせ、その輪はすぐに笑いでつつまれた。
かやの外に投げだされた僕は、一瞬これは悪い冗談かと思ったけど、すぐにそうではないことが呑み込めた。
彼らはどうも本気のようなのだ。本気で僕を無視することに決めたのだ。
まあ、それならそれでいい。べつに僕は同窓会目当てにここにやってきたわけではないし、実際のところ、僕はそういった付き合いに参加したことがこれまでだって一度もない。同窓会好きの彼らが、僕を無視したがるのにもそれなりの理由があってのことだろう。
僕は廊下際の一番端の机に鞄をおいた。
教壇には真新しい教科書と『日本史』の資料集が積み重ねられていた。
チャイムが鳴って、廊下ですれ違った古跡先生が大学教授よろしく登場した。彼はかつての教え子たちの顔を見わたして満面の笑顔をつくった。まるでさっきとは別人だった。
そしてその笑顔の視線は、僕の思い過ごしでなかったならば、端の席までやってくると、とたんに困惑色のそれへと変貌し、大急ぎで教室の中央へともどっていったのだ。
明日は仕事を休もうか、僕は真剣に考えはじめた。
「それって、もしかしたら無視してたんじゃなくて、ほんとうにあなたのことを思いだせなかったんじゃないかしら」
電話口で彼女が言った。
たぶん一番先に高校の門をでた僕が、国立のマンションについたのは、もう時計の針が11時近くをさしていたころだった。
帰宅したらさっそく今日の仕事の残りをかたづけようと考えていたのだけど、実際に僕が最初にとった行動は、恋人に電話をかけ、今日一日分の不愉快極まりない出来事を報告することだった。
電話のむこうで、さらに彼女は僕の反論にたいする反論を探していた。
「....だって私、前に一度あなたの卒業写真を見たことあるけど、今とはぜんぜん感じが違うんで、びっくりしたことがあるわ」
学生のころに司書の資格をとった彼女は、今は西荻窪にある中央図書館に勤めている。とくにミステリー小説が好きで、僕も彼女の推理力には一目おいているところがある。
それによると、今回の補習授業に僕のクラスの面子ばかり出席率が異常に高かったのは、母校から届いた封書を見たクラスメートの誰かが卒業者名簿を開き、事前にネットワークをつくったから、ということになるらしい。
僕もそれは十分にあり得る話だと思う。もし彼女の推理に付けくわえるところがあるとすれば、そのネットワークづくりに疾走したのは剣道部の『平山くん』であり、その輪から僕が除外されたのは、彼、平山くんが、当時から真由美に気があるともっぱらの噂だったからだ。
だがしかし、思いだせないというのはどういうことだろう。自分ではその実感はないけども、たしかに高校生だったころとは感じがかわったところはあるかもしれない。昔の僕は長髪気味の髪型に黒縁メガネをかけていた。
けれど、それぐらいで一年間も机をならべいた同級生の顔が思いだせないということに、はたしてなるものだろうか....。
なるようだった。どうも僕の想像力は長年の公務奉仕で枯れてしまったらしい。恋人の推理は的をえていたのだ。
補習授業が二日目をむかえてのことだった。この日の僕はもうかつてのクラスメートの顔を見ても挨拶すら交わさなかったけども、昨夜と同じようにイの一番に教室をでた僕を、誰かが廊下で呼びとめた。
「あの、金田さん?」
声の主は真由美だった。わざわざは僕のあとを追ってきたのだ。そして高校時代のボーイフレンドを「さん」付けで呼んだ。しかも横にはクエッションマークまで付いていた。
「はい」
とだけ僕は答えた。どう考えても、かつての若々しいカップルの挨拶ではなかった。
「あの、間違ってたら申し訳ないんですけど、金田さんって、もしかしたら昔、私たちと同じクラスでした?なんとなく私、そんな気がするんですけど....」
なんとなく?....これが仮に『首ふり同盟』のゲームのつづきであったとしても、同窓会のお遊戯としては度がすぎている。
もはやどう答えてよいやらわからなかった僕は、ただ「そうかもしれませんね」と言って廊下を急いだ。
その日から僕が補習授業に出席することはなくなった。かわりにファーストフード店に立ち寄るのをやめて、誰よりもはやくスリッパに履きかえ、廊下の名簿に〇印だけをして図書室へとむかった。
教室で教師が出席をとることはないようだし、古跡先生には悪いけど、彼のパラノイア的な自説に付き合うつもりもなかった。
高校の図書室でノートパソコンを開き、そこで僕は仕事の残りをかたづけることにした。さいわい都市整備局の『成瀬』なる人物はべつのクラスだったけども、真っ直ぐ帰宅してしまうのはやはり得策ではないように思えた。
僕は特別に定時退庁の許可を得ているのだ。そして、都庁のすべての局が、僕が勤務している公文書局のように残業つづきであるわけでもなかった。どこかの局の職員と中央線の駅でバッタリなんてこともあり得なくもない。
昔からそうだったけど、僕は教室より図書室にいるほうがよっぽど気分が落ち着ついた。パソコンにため込んだ電子音楽の音源をヘッドホーンで聴きながら軽快にキーをうちはじめた。
夜の図書室にはまだ数人の生徒がのこって静かに勉強していた。若い彼らもまたすぐに帰宅できない理由でもあるのだろうか。
学生諸君の邪魔にならないよう、僕はヘッドホーンのボリュームをしぼれるだけしぼった。もっとも、彼らにしてみれば、スーツ姿のオッサンがそこにいるだけではた迷惑だろうけど。
公文書局の仕事にもいろいろあるけども、いま僕たち職員が追われているのは、過去のあらゆる都の公文書を電子化することにあった。その数は図書室の蔵書数をはるかにしのぐだろうが、さらに局職員をうんざりさせていたのは、その書類一つ一つに各局長の印鑑が必要だということなのだ。
しかも、書類の内容にクレームがつけば、それを補填するあらたな記録を探しだし、書き直さなければならない。
出口の見えない果てしない作業。僕ら公文書局の職員が、この計画を太古のピラミッドや万里の長城の建造になぞらえることもしばしばだ。
チャイムが鳴った。補習授業の一時間目が終了した知らせだ。僕はヘッドホーンを首にかけ、一息つきながらまわりを見わたした。背後に人影が見えた。まだ教室にいるはずの古跡先生が、使うはずのない教科書を手にして立っていた....。
「私たちだって、この補習授業がまったくの茶番であることぐらい百も承知してるんだよ。だから、授業をサボった君をべつに責めるつもりはないし、問題にしようとも思わない」
司書室で古跡先生は言った。
僕たちは大きな机をはさんで二人きりで腰けていた。先生はポットのお湯でインスタントのコーヒーをいれてくれた。
この件が上司の耳に入ったらどうなるものかと考えていた僕はとりあえず胸をなでおろした。
不謹慎な教え子の表情を読みとってから、古跡先生はおもむろに上着のポケットを探り、しわくちゃになった煙草ケースをとりだした。
「君は吸うかね」
僕は首を横にふった。
「最近じゃ、教師だって学校の中では禁煙なんだ」
そう言って、彼は火をつけ、古めかしい蒼い煙を美味そうにはきだした。霧状にただよいながら、煙は壁一面にならべられた蔵書目録のページの隙間へと吸いこまれていった。
煙草もコーヒーも、そして図書室脇にあるこの司書室も、古跡先生といるせいか、すべてのものが古式然としているように感じてならなかった。
ふたたびチャイムが鳴った。授業開始の知らせだ。
「二時間目は自習にしたよ」
古跡先生は言った。
「今頃、教室では小さな『同窓会』がはじまってるだろう。補習授業は茶番だが、昔の級友に会えるのはいいものさ。私だって、久しぶりに教え子の顔が見られるのを楽しみにしていたんだ....」
以前からそうだったけど、この教師が頭ごなしに生徒を叱るようなことはほとんどなかった。僕はコーヒーカップごしから、尻つぼみになった彼の言葉を補足してみた。
「僕の顔を見るまでは?」
古跡先生は苦笑してうなずいた。やはり思い過ごしではなかったのだ。
恩師は少し困惑気味に話をつづけた。
「不思議だよ。誰も君のことを思いだせないんだ。たしかに君の名前は卒業者名簿に載ってるし、卒業写真にも写っている。でも、誰も君のことを覚えていない。私もふくめて」
彼は僕の反応を待つかのようにゆっくりと音を立ててコーヒーをすすった。けれど、今度は僕にもなにも補足することがなかった。
先生は思い直したように口をひらいた。
「まあ、卒業生の顔を思いだせないぐらいのことならよくあることだがね。でもね、君の存在はなんだかこう....気になるんだな。気になってしょうがない。思いだせないことがね。私だけじゃない、教室にいるみんながそうらしい。君のかつてのクラスメートたちがね」
「はあ....」
僕は自分のことを言われているような気がまったくしなかった。
「どうも私たちは、君に対して一種の罪悪感にも似たような気持ちを共有しているようなんだ。君の出席名簿には◯がしてあったが、君の机は空いていた。私たちは一時間目の補習をつぶして話し合ったんだよ。君はいったい誰なのか。どうして私たちは君のことが思いだせないのか。そして、なぜ思いだせないことが、こうもに気になるのか、とね」
古跡先生はふたたび教え子の意見を待ち望んでいるようだったけど、やはりなにも言うことはなかった。しかし、彼は今度は自ら口を開こうとはしなかった。
その話し方から推測すると、どうやら僕自身にもなんらかの責任の一端があるらしい。クラスメートたちには悪いけど、僕にしてみれば、彼らのしている議論は今さら『小野妹子』や『遣隋使』について学ぶのと同じぐらいに不毛であるように思えた。
僕は仕方なく、ただ一つ気になっていたことをたずねることにした。
「あの....」
「なんだい」
「どうして僕が図書室にいることがわかったんですか」
「ああ....」
彼は事もなさげに答えた。
「防犯カメラだよ。今じゃ、学校のそこら中に設置されてるんだ」
「あなたは、その人たちにとって『大きなクエッションマーク』なのね」
電話越しに僕の恋人はそう言って笑いだした。
どちらかといえば、同情してもらいたくて電話をかけたのだけど、どうも端から見ると、僕の置かれた状況は悲劇と呼ぶよりよっぽど喜劇的であるらしかった。
ただ、『罪悪感』なんて大げさな言葉を使われるよりは、まだ『クエッションマーク』であったほうが気が楽なことはたしかだ。
僕は今夜学校で体験した不思議な出来事の詳細を彼女に語りはじめた。古跡先生の口から発せられた、世にも珍しいドラマツルギー的な提案を....。
教師たる彼はそれを『面談』と呼んだ。たぶん、それ以外に適当な言葉が思いうかばなかったのだろう。僕もそうだ。たしかにそれは『面談』と言うよりほかはない。
現在よりも過去の歴史の中に生きているような教師の提案なる『面談』とはいかなるものだったか。それは、司書室で僕とかつてのクラスメートたちが、補習授業の時間をつかってもろもろの思い出話を語り合うというものだった。僕たちが共有しているはずの、高校生活の最後の一年間について。彼らが僕という存在を思いだし、安心してそれぞれの社会生活へもどれるように....。
まったくバカバカしい。たとえなんの資格にもつながらなかろうと、これなら古跡先生の『邪馬台国論』に耳をかたむけていたほうがまだなにかしらタメになるのではあるまいか。
僕としても、せっかく図書室で仕事の残りを片づける計算でいたのに、これでは休日出勤の悪夢が現実のものと化してしまう。
だがしかし、老先生は教え子の打算を見透かしていたのか、僕の弱みを一つの交換条件としてもちかけてきた。つまり、『面談』をおこなえさえすれば、たとえ授業にでていなくとも卒業単位に印鑑をおすというのだ。
「印鑑をおす」....その言葉に僕が極度に敏感であることまではまさか古跡先生も知ってはいなかっただろうと思うけど....。
「『思い出の補習授業』ね」
僕の恋人はそう言って、また電話口で笑いはじめた。
そんなわけで、僕は彼らの『思い出先生』となった。『面談』は二時間ある補習授業の最後の一時間があてられることになった。一時間目終了のチャイムが鳴ると、図書室にいる僕はノートパソコンの扉を閉じ、司書室へとむかうのだ。
そうして休み時間の間にコーヒーを入れ、ふたたびノートパソコンの扉を開いて静かに音楽を流す。コーヒーは物覚えの悪いかつての級友たちのために。音楽は口べたな僕のために。
同級生たちは二人一組で司書室をおとずれる。僕は机をはさみ、たっぷり45分間、彼らに語って聞かせる。
クラスメートのアダ名やその由来。いろんな教師のいろんなクセ。好きだった給食のメュー、嫌いだったメニュー。校庭にあった樫の木。自転車置き場での雑談。最後の学園祭の夜。卒業前に退学になった生徒、などなど....。
僕の過去のボキャブラリーはそんなに多くはないけれど、それでも彼らは一様に驚いた表情をみせる。当然といえば当然だ。彼らにしてみれば、赤の他人である一公務員が、どうしてこんなに自分たちの当時のことを知っているのだろう、といった感じのはずだから。
『面談』がはじまってからというもの、これまで真っ先に校門をでていた僕は、まるで日直の当番になったみたいに教室の明かりがすべて消えたのを確認してから下駄箱にむかうようになった。
それは『面談』を終えたばかりのクラスメートたちと顔をあわせたくなかったということもあるけれど、ほんとうのところ、『思い出先生』の役割が回を増すごとにつれ、僕の中ではある異変がおきていたのだ。
なんともいえない疲労感に襲われていた。けっきょくのところ、僕のことを思いだした同級生は誰もいなかった。いいや、彼らはハナから僕のことなどどうでもいいみたいだった。要は古跡先生の言っていた『罪悪感』とやらが払拭さえできればそれでいいのだ。
彼らは一様に晴れ晴れとした表情で司書室をでていった。まるでお話を聞いてあげたことによって、胸のわだかまりがすっかりとれたみたいに。
僕は最初この『面談』をお互いの言葉のやりとりのようにとらえていた。けれども、いざフタを開けてみれば、僕は話を聞いてもらう立場であり、彼らはそれを聞いてあげる立場になっていた。
僕の言葉は収穫されたコーヒー豆よろしく、検品され、あるものは瓶に入れられ、あるものは弾かれ捨てられていった。
そうして終了のチャイムが鳴ると、彼らは良品だけのつまった瓶を胸に抱えてそそくさと席を立つのだ。それから判でおしたように同じ言葉を僕に投げかけてゆく。
机の上のノートパソコンを見おろしながら彼らは僕に問う。
「その変テコなヨーデルみたいな音楽は君が作ったの?」
三つのコーヒーカップを備え付けの小さな流しで洗いながら、僕は僕自身の困難な存在について自問する。そして、いたるところに散らばった言葉の豆粒を拾い集める。一人きりの司書室で。夜の帰り道で。中央線の車内で。夜のベッドで。毎日がその繰り返し。
日課のようにしていた夜の恋人への電話もおっくうになった。職場でも誰とも話したくなかった。まるで僕は、リングにあがる前の禁欲生活をおくるボクサーのごとく、『面談』にそなえて少ない言葉を溜め込んでいるみたいだった。
真由美は同級生の中で一番最後に司書室をおとずれた。『面談』がはじまって、ちょうど一週間目の夜だった。
僕が用意したコーヒーカップはちょっと多かった。どういうわけか、かつてのガールフレンドは一人でやってきたのだ。
なぜ彼女がそうしたのかはわからない。ただ、いつものように三角線上に当たり障りのない思い出話をするつもりでいた僕は少々面食らってしまった。
それはその昔、僕が真由美と付き合っていたという個人的な事情もあったけども、彼女だけはおぼろげながら僕のことを思いだしそうな可能性があったから。そうでなければ、わざわざ廊下まで見知らぬ公務員を追いかけてはこなかったろう。
今夜も紺色のスーツを身にまとった真由美嬢は、蔵書目録の迷宮に彷徨いこんだ大手企業の社長秘書みたいに見えた。彼女は物珍しそうに、しかしどこか懐かしげに部屋を見まわしてから席についた。そして、机に用意されたお約束のコーヒーカップに目をやり、
「ありがとう」
と言って、優しく微笑んでみせた。いつかどこかで見たはずの笑顔にも似た。
さて、なにから話したらよいものか。彼女にたいしてはおのずとほかの同級生たちよりも慎重にならざるおえない。
二つのカードがあった。『過去』と『現在』。僕は真由美の今の生活ぶりに探りをいれてから、どちらかの話題を選ぶことにした。
僕たちは互いに別々の大学に進学してから疎遠になってしまったけど、彼女が建築学科を卒業したあと、都内のゼネコン会社に就職したことまでは知っていた。
どうやら彼女は近々その会社を寿退社することになっているらしい。真由美は自身の人生設計をコーヒーカップ片手に語ってくれた。
僕は後者の『現在』のカードを切ることに腹を決めた。結婚を間近にひかえた女性が、高校時代のボーイフレンドのことをいまさら思いだしてもしょうがない。
今度は僕が高校卒業から現在までの経過を語って聞かせる番だった。はたしてそれで残りの時間いっぱい話がもつか心配だったけども、とりあえず大学のサークル話でもしてみようかと思っていたときだった。真由美がふたたび口を開いた。
「金田さんは都庁の公文書局にお勤めなんですよね」
「ええ」と僕。
「第一庁舎の13階」
「はあ....そうですけど」
真由美は昔の僕のことはすっかり忘れているようだったけど、なぜか知っているはずもない現在の僕の職場環境については、その内部事情にまで精通していた。
頭が混乱しはじめた僕はカフェインで気分を落ち着かせようとした。真由美は悪戯っぽく微笑んでから、彼女の婚約者の名前を口にした。
そのお相手は彼女の高校時代の同級生で....ということは必然的に僕にとってもそうなる....建築業界と縁のふかい都庁の部署で働いているある職員だった。なんでも、都市整備局に勤めている『成瀬』という名の。
「ああ....」とふたたび僕。
どうも僕の推理には古跡先生ばりに個人的なパラノイアが入っていたようだった。帰りの電車の中で、僕は一人頭を冷やすことになった。
真由美がこの補習授業に参加したのは、べつに剣道部『平山くん』の下心によるものではなく、同級生である婚約者に誘われてのことだったのだ。
上役の命令でいやいや参加してくる公務員がいれば、デート気分さながら恋人同伴でやってくるしっかり者もいる。
真由美は仕事の関係で都庁に足を運ぶことがたびたびあったらしい。そこで見覚えのある顔と、あるいは運命の人と、再会したというわけだ。
それならどうして一度も僕と出くわさなかったのかとも思うけど、そもそも公文書局と彼女の建築業界とは縁もゆかりもないし、都市整備局とは入っている建物の棟もちがう。
それに、バッタリ再会したとしても、補習授業の教室よろしく僕はあっさり無視されて、さぞかし落ち込んでいただろうし。
唯一の救いだったのは、司書室での真由美が、ノートパソコンにむかって「その変テコなヨーデルみたいな音楽、あなたが作ったの?」とは聞かなかったことだった。
やはり『面談』終了前のことだ。彼女はとつぜん思いだしたようにつぶやいた。
「私、この曲聴いたことがある」
それは『クラフトワーク』というドイツのテクノグループの曲だったけども、二人がまだ付き合っていたころ、僕は自分のお気に入りの曲をMDに録音して真由美にあげたことがあったのだ。
たぶんその中にこの曲も入っていたんだろう。彼女はかつてボーイフレンドのことはすっかり忘れていたけれど、耳にしたメロディはいまもどこかに記憶していたのだ。
ただ、僕のほうは彼女にMDをあげたことなど、今の今まで綺麗に忘れていた。そういうことだ。
満員電車の見知らぬ人々の顔を見わたしながら僕は思う。もしかしたらこの中にも、僕がかつて言葉をかわしたことのある人がいるのかもしれない。でも、何一つ僕は覚えてはいない。
あたりまえといえばあたりまえの話だ。出会った人の顔や言葉をすべて記憶していたら、誰の頭だっていつかはパンクしてしまう。
けれど、すべてを忘れてしまうわけではないだろう。人はきっとそれを、ありふれた物や日常の風景とむすびつけて、遠い迷宮の部屋に、文書室に、蔵書目録にしまいこんでいる。
そうして、ふと目にとめた街中の風景や、かすかに響いた物音が一つの鍵となってとどけられたとき、人の心はざわめきはじめ、なにかを思いだそうとするのかもしれない。
ただ、長い迷宮をぬけて、人が記憶の部屋のドアの前までたどりつけることはめったにない。鍵穴は開かれず、目録のページはついにめくられない。
あんまり考えたくはないことだけども、かつてのクラスメートたちが僕を忘れてしまったのは、それと似たようなことではないだろうか。
おそらく僕という男は、なんらかの理由によって、ほかのものたちとむすびつけられることによってのみ記憶されるような運命なのだ。
もしかしたら、かつてのクラスメートたちは、これまでもどこかでおかしな音楽を耳にするたび、僕という透明な同級生の存在を思いだそうとしてきたのかも。
だとすると、あの『面談』は、彼や彼女たちにとってかえって面倒な事態をもたらすのじゃないだろうか。彼らはこれからもさらに脅迫概念を増した記憶の旅をつづけなければならないから。
コーヒーと図書館と、得体の知れない電子音楽を耳にするごとに。
電車の窓に映ったヘコミ気味の自分の顔を見つめながら僕は思う。今夜は家についたらすぐに恋人に電話をかけよう、と。
彼女が僕という存在をまだ覚えていてくれるうちに。