空飛び妻・その⑨
フクロウと会話するのはその日がはじめてだった。ただせっかくの機会ではあったけど、なにしろ時間が限られていたから、ケージの中にいる動物園の哲学者との会話はあとにして先を急ぐことにした。
鼻の病気が治ったと思ったら、今度は動物たちの言葉を聞き分けられる耳の病気にかかったのかもしれなかった。俺は奇病の百貨店のようだった。でもそれによってクマの丘で待ちうけるαとの会話も可能になるのかもしれなかった。
記憶した案内図によれば、貨物船のコンテナめいた鳥たちが住むケージの、その奥に広がった雑木林を抜ければ、俺にとって火の山にあたる、目的地のクマの丘にでるはずだった。
木々の傘が影となった暗い林の小径を歩む入園者は俺一人だった。どこからかカラスの鳴き声が聞こえた。動物園では都会の厄介者である黒い鳥まで飼育してるのかと一瞬思ったけど、なんてことはない、それは都会のカラスが頭上の枝にとまって鳴いているのだった。見ると、鉄の爪で引っ掻いたような模様をした落葉樹の幹に、〈カラスに注意〉の看板が針金で留められてあった。
トラやライオンといった獰猛な野獣がすぐそばにいるのに、まずカラスに注意しなければいけない状況が妙におかしかったけど、考えてみると、壁や檻によって隔離された野獣よりも、都会のカラスたちの方がよほど自然に近い生き物なのかもしれなかった。
それにしても〈カラスに注意〉と言われて、いったいカラスのなにに注意を向ければいいのだろうか。黒いモザイク画のような枝の茂みのどこかにいるはずの黒い鳥を探しながら俺は思った。まさか映画の『鳥』みたいに集団になって襲ってくるのだろうか。それとも枝の秘密基地に隠れて、入園者が手にしているソフトクリームを秘かに木の上から狙っているのだろうか。そして隙をみては秘密基地から翼を広げて飛び立ち、入園者の手もと目がけて急降下して、疾風のごとくクリームの小山を大きなくちばしでもってパクリと頂戴していくのだろうか。
でも、あっという間に旋回して枝にもどったカラスが本当に欲しいのは、クリームではなくて、その下のサクサクとしたコーンの方だったりするのかもしれない。その黒いくちばしを白いソフトクリームでベタベタにしながら、枝の上で口惜しい気持ちに包まれているのかもしれない。
おかしなことに、動物園に来てはじめて耳にした動物の鳴き声が都会のカラスだった。それ以外に木々の間から聞こえてくるのは、遠足にきた子供たちの声ばかり。どうやら動物園では、興奮した象が雄叫びとともに長い鼻を振り下ろしたり、たてがみを揺らしたライオンが牙を見せて吠えたりすることはなさそうだった。
音を消したテレビを見ているようなテーマパークが、木々の間から不思議に見えた。なぜ彼らは鳴きもせず、吠えもしないのだろうか。そこは動物園という名の動物たちのためのサナトリウムめいていた。
もしかしたら彼らはなんらかの方法で意図的にそういうふうに飼育されているのかもしれない。そんな考えがふと思い浮かんだ。なにしろ上野の動物園といえば都会の街中にある。道路を一つへだてれば、そこには園内を取り囲んだ塀よりも高いマンションがいくつも建ち並んでいる。保育園が騒音で訴えられる時代でもあるぐらいだから、もしも動物たちがアニメのミュージカルみたいに四六時中自然の『第九』を大合唱したなら、ご近所の住人たちの中にはあるいはうんざりする人がでてきたとしても不思議ではない。
あるいは、可能性としてはこちらの方がありそうな気がするけど、もしかしたら動物たちは自発的に鳴いたり吠えたりするのをやめてしまったのかもしれない。
動物園の塀の中では食事は黙っていてもでてくるだろうし、もちろん外敵だっていない。異性にアピールしようにもそもそもアピールする相手がいない。おまけにほとんど毎日のように人間という名の、妙に毛が少ないのっぺらぼうみたいな生き物の視線にさらされていて、隠れる場所さえない。
そんな動物園的日常を考えてみたら、動物たちにしてみれば、必要以上に目立つ行動は必然的に避けるようになるだろう。
そして彼らは鳴くことも吠えることもいつからかやめてしまい、ついには自分の体にそういった機能があったことも忘れてしまったのかもしれない。都会のカーカーうるさい黒い鳥たちに対しては、優越感と劣等感の入り混じった複雑な感情を抱いているのかもしれない。
「お節介なようだが、今の君は、私たち動物のことより君自身の心配をした方がよほどいいのではないか」
ふたたび動物園の哲学者の声がした。
それはおかしかなことだった。フクロウが人間の言葉で話しかけてくることでも、人間に向かって忠告することでもなく、俺がクマかαと対面せずに、ケージの中のフクロウと再会したことが。記憶の案内図によれば、雑木林を抜けた俺は広場のような開けたスペースにでて、そこからクマの丘が間近に臨めるはずだった。
林の中で迷って一周してもとの場所にもどってきてしまったのだろうか。あるいは案内図を見落としたか記憶違いで、上野動物園にはフクロウのコーナーが二箇所あり、俺が見ているフクロウはさっきのとは別のフクロウなのだろうか。いったいいつからフクロウがそれほど動物園の人気者になったのだろうか。
するとさっきまで動物園の哲学者だったはずの剥製めいた鳥が、俺に向かってふたたび忠告をはじめた。
「それから私はフクロウではないのではないか。ミミズクなのではないか」
太い枝を横にした止まり木にちょこんと乗った、自らをミミズクと名乗る哲学的な鳥は、仮定法の喋り方でつづけた。
「似ているから間違われるけども。よく見てほしい。よく見れば違いが分かるのではないか。フクロウならば右端のケージにいるのではないか」
鳥たちのケージ前にできた人垣には、子供たちのほかに大人の入園者も混じっていたけども、みんな間近で見るコンドルや鷲などの大型な鳥たちの勇姿に感心するばかりで、その日、動物園で一番の見世物であったはずの、喋るフクロウ科の演目には誰も気づいていないようだった。
なるほど言われたとおりによく観察してみれば、ミミズク先生は同じフクロウ科の鳥ではあっても、フクロウ博士とはちょっと違っているところがあった。顔つきはシャープで言葉使いはエキセントリックだった。ただ顔色一つ変えず、ピーナッツみたいな小さなくちばしをピクリとも動かさずに話しかけてくるところはフクロウ博士とそっくりだった。彼らのどこか学者然とした声は、賢者からのお告げのように俺の頭の中に直接響いた。
「あなたたちは腹話術が上手いね」
俺もフクロウ科の賢者を見習って声をださずに頭の中でつぶやいた。
「まわりの目があるからではないか」
ミミズク先生が仮定法で答えた。
「やっぱり鳥が喋っているとこを入園者に見られたらマズいのかな」
「いいや、それより招かれざる客が来園していることが、ほかの動物たちに知られるのがマズいのではないか。みんなとても怖がるから」
その日は誰も彼もが、俺を危険人物に仕立てたがっているみたいだった。招かれざる客にしたがっている記念日みたいだった。でも俺の記憶には、子供のころ両親と一緒に動物園を訪れた日の出来事がすでに蘇っていたし、園内で親にねだって買ってもらい舐めたソフトクリームの感触までが舌に感じられた。俺は大人になってから動物園を再訪する資格を立派に持っていた。
もしもそんな人間を招かれざる客呼ばわりするのなら、それこそ誰も彼もが招かれざる客になってしまうし、遠足にやってきた子供たちはみんなその予備軍ということになってしまうはずだ。
いつでもどこにでもネガティブな人間が絶えることはないように、ネガティブな鳥もいるということなのだろう。俺はそういうふうに考えることにした。そういった輩は、人にしても鳥にしても、他人の不幸を心の糧に生きている。もしかしたらもっとも進化した霊長類と、絶滅した恐竜の子孫である鳥とは、どこか相通ずるところがあるのかもしれない。進化した故の、生き残った故の、心配性であるところが。
「クマに会いにきたんだ。クマの丘への行き方を教えてくれないかな。案内図どおりに雑木林の小径を抜けたはずなのにたどり着けないんだ」
時間がなかった。俺はミミズク先生のネガティブキャンペーンには付き合わず、要点だけを尋ねた。ただミミズク先生の方では、なかなかネガティブキャンペーンから降りたくないようだった。
「あれは招かれた客用の案内図なのではないか」
恐竜の子孫は粘り強く言い張った。
「そうでない入園者がいくら案内図どおりに歩いたところでたどり着けるものではないのではないか。ふたたび小径を歩けば、今度はフクロウの前にでるだろう。三たび歩けば、今度は私の前にでる。その繰り返しなのではないか。メビウスの輪のごとくそれが永遠につづくのではないか」
「それも俺が招かれざる客だから?」
「招かれざる客である君はクマには会えないのではないか。それこそが君が招かれざる客である証なのだから。またそれを君たち招かれざる客に教えるために、夜行性の鳥である我々が、入場ゲートから一番近いケージに入れられているのではないか」
ミミズク先生のネガティブキャンペーンに耳を傾けているうちに、俺はその御託に腹を立てている自分自身がバカらしく思えはじめた。百歩譲って、もし俺が本当に招かれざる客であったとして、どうしてそれをそんなに気に留める必要があるだろうか。クマに会えないというのなら、会わなければいいだけの話だ。動物園を出たその足で携帯ショップに向かって、そこで新しいスマホを手に入れればいいだけの話だ。なにも気にする必要なんてない。
「いいや、気にする必要はあるのではないか」
ミミズク先生はくちばしを閉じたまま俺の心の言葉を否定してみせ、あとをつづけた。
「あの遠い春の日に、君が見たと思い込んでいるものは、じつはクマではなかったのではないか。私が正しいか、君が正しいか、一つためしてみる必要があるのではないか」
そう言うと、黒目を囲んだミミズクの白目が見る見るうちにオレンジ色へと変色していった。
ケージの前に突っ立っている俺は、テールランプみたいに鉄網の隙間に浮かび上がった二つの小さなリングから視線をそらすことができなかった。
「人が一番騙されやすいのは、自分自身という名の他者なのではないか。人という生き物は、自分が自分を騙すとは考えずに生きているものだから。ならば人から妬み嫌われている者たちの力を借りるのがいいのではないか。我々は昼の光よりも夜の闇の力を信じることにしよう」
ミミズクの逆三角形めいた顔に浮かんだオレンジ色のリングが、熱を持ったかのように輝きを増しはじめた。
空が割れたかと思うと、背後で滝が落ちるような轟音が響いた。ゾッとして振り向くと、雑木林から黒い柱が疾風とともに天目がけて昇っていくのが見えた。まるで地中で目を覚ました巨大な生き物が、雄叫びを上げながら本能の赴くまま地上へ飛びだしてきたみたいだった。
それは都会のカラスだった。雑木林を棲家にしたカラスの大群だった。その数は鳥というより、昆虫の大量発生を思わせた。〈カラスに注意〉の看板は嘘でも誇張でもなさそうだった。
動物園の下に巨大生物は眠っていなかった。都会の厄介者である黒い鳥が一斉に空に向かって飛び立っただけだった。ただその数がハンパではなかった。空が割れたように聞こえたのは、同時に発せられたその無数の鳴き声であり、滝のように聞こえたのはその無数の羽音だった。それに彼らは本能の赴くままに行動しているのでもなかった。動物園の賢者に操られていたのだ。
カラスの大群は棲家にしていた雑木林の上空でぐるぐる渦を巻いて飛んだ。その墨で描いたような黒い渦は、ハリケーンめいて徐々に巨大化して広がり青空を覆い隠した。
四人の空飛び妻の姿はどこにも見当たらなかった。そのときようやく俺は、巨大ポリバケツのモノリスを潜ったときに、あるいは雑木林の小径を抜けたときに、自分が別の動物園にでてしまったことに気がついた。そこはαが創りだした場所なのに違いなかった。
さっきまでポリバケツによく似た青空が広がっていた動物園の上空は、徐々に暗い闇に包まれていき、すべてのものが自らの影と一体化していくようだった。
つづく