空飛び妻・その⑧
子育て相談課に勤務する全国の空飛び公務員夫たちは、その公務に就く以前に、必ず一度は京都詣でを経験しているのに違いなかった。そしてその地で優雅な京言語に魅了された彼らは、どういったわけか決まって偽京都弁の方を習得して地元に帰ることになるのだ。
どうしてだろう。なぜ彼ら空飛び公務員夫は本物の京都弁の洗礼を受けながら、その偽物の方を話すことになるのだろう。判で押しはりましたように。
「ハリルハリレハリー......ハリルハリレハリー......ハリルハリレハリルハリレハリルハリレハリー......」
呪われたガラケー越しに、おかしな歌声が聞こえてきた。俺はまだ空飛び妻たちが上空に描いたオレンジ色のリングに見惚れているところだった。それは収穫後の畑を焼く炎のように、くっきりと青空に浮き上がって見えていた。その光景は不吉な啓示のようでもあり、同時に来るべき収穫を暗示しているようでもあった。そこに斎藤さんの歌う〈ハリーソング〉が、場違いなCMに流れる見当違いなBGMめいて聞こえてきた。
ハリルハリレハリー.....。
空にはオレンジ色した炎のリング、耳にはキツネ目の空飛び公務員夫が歌う〈ハリーソング〉。そして鼻に耳栓を詰め込みながら、動物園のゲートを塞ぐ青いモノリスの前に立っていた。俺はまさに空飛び妻をめぐる非日常の只中にいた。
「どういたしはりましょうか?もう一度歌いはりましょうか?」
ハンドルを握りながら、一曲歌い終えて気分が良さそうなタクシー運転手みたいに斎藤さんが訊いてきた。
「いいえ結構です」
俺はカラオケ嫌いの乗客みたいに答えた。
子育て相談課に勤務する空飛び夫たちの中に京都生まれの男性は存在しない。ネイティブな彼らには、偽京都弁を習得することが逆に不可能なのだ。だから京都府内の子育て相談課には、他の地区から空飛び夫が出張してやってくる。
彼ら空飛び夫たちが話す偽京都弁は、ネイティブな京都弁にはない、どこかしらα語に近いイントネーションがあるのに違いなかった。
あとで知ったことだけど、〈ハリーソング〉にはいくつかのバージョンがあるらしかった。斎藤さんが俺に歌って聴かせたのは、一番ポピュラーなやつだ。
呪われたガラケーからふたたび斎藤さんの偽京都弁が聞こえた。
「ご主人が見ているリングは私たち空飛び夫たちが持つ運命の刻印です。その跡は体のどの皮膚にも残されてはいらはりませんけども、私たち一人一人の心にはっきりと刻まれています。もちろんご主人の心の中にも。上空のリングはそれに応えて回っているのです」
斎藤さんはつづけた。
「ご主人の心に刻まれたオレンジ色のリングこそ記憶の扉への鍵なのです。さあ、その鍵を使ってポリバケツの扉を開けはるのです!」
空飛び妻たちのフリースはリバーシブルなのだろう。きっと彼女たちは、俺が視線を下に向けている間に空中で着替えたのだ。SF映画のヒロインみたいに。バーバレラみたいに。
俺は顎を上げて四人のバーバレラに見惚れながら、斎藤さんが言うところの自分の心が、果たして体のどの部分に存在するのか、ためしに空いた方の手で探ってみた。
でもそれはどこにも見当たりそうになかった。その片鱗さえも。だから斎藤さんが言った記憶の鍵も当然のように手には入らない。鍵がない以上、扉を開けることはできない。
俺はそう結論づけた。だけど俺の足の方は、ご主人様が見つけることのできなかった心の鍵を見事に探り当てたのか、ご主人様の導きだした結論を無視して勝手に前へと進みだした。
体内のどこかで、オレンジ色のリングが回転をはじめたのに違いなかった。空飛び妻たちが描くリングに反応して。その回転が稼動力となって俺の足を動かしているのだ。
水色のモノリスが一歩一歩目の前に近づいてきた。俺はそれが自殺行為であることを頭では分かっているのに、好奇心に囚われた猿よろしく、どうしても歩みを止めることができなかった。はたから眺めた俺の姿は、ムーンウォークを逆回転させたようなぎこちない動きになっているのに違いなかった。
斎藤さんの〈ハリーソング〉が、魔法典のページに載っている中で一番強力な呪文みたいに、体の隅々までを支配していた。それもまた空飛び妻のリングと同じく、俺の体内で眠っているのであろう、α語の残骸を呼び覚ましたのかもしれなかった。
けれども俺はその呪文を解く術の方はまるっきり知らない。踊る四人のバーバレラの冠を頭上に乗せ、いま一度念には念を入れて鼻孔に耳栓をねじ込みつつ、ついにはポリバケツの青い壁に激突した。
衝撃はなかった。一瞬そよ風のベールに触れたような、柔らかな感触がしただけだった。それでも確かにそのとき俺は一線を超えたのだ。その証拠に俺の足は俺の意思で立ち止まり、俺の意思でまた歩きはじめた。
〈ハリーソング〉の呪文は解けていた。ゲートに設置された自動販売機で入場券を購入して、空気に接触する面積を最小限にすべく背を丸め、ようやくαが待つ動物たちの帝国へと入園した。
獣たちをとり囲む柵を拝む前に、まずそこで最初に目に入ったのは、畳一畳分ぐらいの大きさがある案内図の看板だった。それはなによりも俺が必要としているものでもあった。αはクマのコーナーにいるはずだ。できればそこまで息継ぎをせずにたどり着きたいところだったけど、まず不可能だろうから、つねに最悪の状況を想定しつつ、俺は最短距離でクマコーナーにたどり着かなければならなかった。
案内図の看板は東と西に分かれた園内の全体図に、そこかしこに散りばめられた動物たちのイラストによって、その生き物のコーナーがどこにあるのか一目で分かるようになっていた。
残された時間はすでにそう多くはない。新鮮な空気は残り少ない。早速俺は自分の意思によって両足を動かして案内図へとさらに接近し、そこにクマのイラストを探しはじめた。ほかの動物たちには用はなかった。
けれどどういうわけだかそこにクマはいなかった。クマのイラストは案内図のどこにも描かれてはいなかった。白クマも、月の輪グマも、ヒグマも、人気者のパンダさえ。
もしかしたらクマ科の動物たちは、そろってどこかで獣医の健康診断でも受けているのかもしれない。そんな考えが一瞬頭をよぎったけども、それはすぐに白紙にもどされた。その案内図に描かれてないのは、なにもクマ科の仲間たちだけではなかったのだ。
そこにはゾウもライオンもキリンの姿もなかった。まるで招かれざる客の姿を見つけて恐れをなし、野生の本能に従って集団脱走してしまったみたいだった。
そして園内のすべての動物たちが身を眩ませたあとには、その不在を知らせるかのように、あるいはその不在を謝罪するかのように、なぜか赤いバラの花マークが看板の同じ場所に描かれているのが常だった。
たしかに俺は、案内図の看板に動物たちのイラストが描かれているのを遠目ながらにこの目で見たはずだった。それなのにいざ近づいて見てみると、そこに尻尾や羽根を持った生き物たちの姿はなく、代わりに棘を持った植物の花弁が横並びに描かれているのだった。案内図は動物園のそれではなく、まるでバラ園のそれか、もしくは選挙番組で立候補者の当確を知らせている掲示板のような有様になっていて、西と東からなる二つの園内のそこかしこに咲き誇っていた。
まさか赤い花びらの集まりを動物たちの顔と見間違えたのだろうか。あり得ない話だったけど、それ以外に考えようがなかった。あるいはそれもαの仕業なのかもしれなかった。わざと時間がかかるように小細工しているのだ。俺を参らせて、ついにはその口から「産みはります」を引きだそうという魂胆なのだ。時間がないのは奴の方でも同じだろうから。
なんというセコい異星人だろう。これではスマホの件もすんなりと事が運びそうにはなかった。
俺はウンザリしながら首をまわして、さっき通ったばかりのゲートを見やった。そこで入場者のチケットにスタンプを押している何人かの動物園スタッフに、クマのコーナーがある場所を尋ねてみるつもりだった。
動物園スタッフはお揃いのジャンパーを着て、頭にお揃いのキャップをかぶっていた。そしてそのキャップの上にバラの花が咲いていた。例外なくすべてのスタッフのキャップの上に。
バラはスタッフだけでなく、ゲートを潜る入園者の頭の上にも咲いていた。やはり一人の例外もなく。まるでスマホのアンテナかバッテリーみたいに横並びに......横並び?
俺はためしに意識の中で嗅覚スイッチをOFFにしてみた。すると横並びに表示されていたバラのマークは、その右端から一つずつランプが消灯するかのように消えていくのだった。
古い流行歌の歌詞みたいに、花はどこかへいってしまった。その冠を脱いだ子供たちが嬉しそうに入場券にスタンプを押してもらって、次々とゲートを潜ってくるのが見えた。
その大きさと並び方からして、バラのマークはポリバケツマークが姿形を変えたもののように思えた。あるいはその変化は、ゲート前の巨大ポリバケツを潜ったときに起きたのかもしれなかった。
案内図の看板に視線をもどすと、今度はちゃんと動物たちのイラストがそこに描かれていた。クマもキリンもゾウもちゃんと健康診断からもどって来ていた。そして彼らの姿の上に重なることなく、今度はその頭上にバラの花が、彼らの当選を祝福するかのように横並びに表示されていた。ようやくトリミングの微調整が完了されたようだった。
それにしてもなぜポリバケツがバラに変わったのだろう。その変化はなにを告げているのだろう。
動物園のゲートを潜りながら、俺はいまだに実物たちの顔も尻尾も拝まずに、案内図の前で立ち往生していた。
ポリバケツは俺に危険を知らせてくれた。ではバラの花は?やはりそれもなにかしらの危険を俺に知らせようとしているのだろうか。
その可能性は低そうに思えた。だってバラといったら花の女王であり、一般的に考えて、良きもの、喜ばしいもの、高貴なものの象徴であるはず。それにバラでなくとも、普通、危機的な状況を知らせるために人に花を贈ったりはしない。
そう考えると、バラのマークはポリバケツとは逆に、むしろいい情報を提供してくれているような気がしてならなかった。そう思えるだけの個人的な理由も俺にはあった。
もしもパニック映画にでてくる白い防護服にすっぽりと身を包んだ科学チームよろしく、一羽の子鳥を入れた鳥かごを持ち運んでいたなら、中の小鳥は悪臭にぐったりするどころか、自分の仲間たちの気配を感じとって翼を羽ばたかせ、元気よくピーピー鳴いているように思えた。だからそれがαのさらなる罠である可能性はあったとしても、ためしてみないわけにはいかなかった。
俺は思いきってマスクのゴム紐を耳から外し、鼻から耳栓を抜き取った。そしてα帝国であるはずの園内で、その空気を大胆に鼻から肺の底に達するぐらいまで吸い込んだ。
この世のものとは思えない悪臭が脳天に突き刺さるようなことにはならなかった。血管が収縮し、気を失って、案内図の看板の前に倒れ込むようなこともなかった。実際に起きたのはそれとはまるっきり逆の現象だった。
かぐわしい香りが爽やかな風となって体中を駆け抜けた。毛穴という毛穴が歓喜とともに大きく開花していくのが感じられた。動物園にいながら、俺は一気に海を飛び越えて、空気が黄ばんだゴミの島から、花咲く楽園の島へと舞い降りたような最高の気分に酔いしれた。そこでは誰もが健康で幸福な生活をおくることができ、もちろん大人も子供も臭さい人間なんて一人だっていやしない。
遠足の子供たちがみんな天使のように見えた。引率している女の先生は麗しい女神のようだった。きっと柵の中の動物たちは健康診断帰りなどではなく、王宮の絨毯のように毛並豊かな、ペット美容院帰りなのに違いなかった。
俺は何十日ぶりかに外の空気を堪能した。そこには予想したとおりにポリバケツではなく、バラの香りが漂っていた。
ただ園内に緑は豊富にあったけども、近くにバラの花は一輪も咲いてはいなかった。それでも俺は少しも不思議には思わなかった。
二つの肺は豊潤な酸素と懐かしさに満たされていた。俺の敏感な嗅覚が、香水の小瓶でもほかの種類の花でもなく、バラをシンボルマークに選んだのは、もしも本当にそれを嗅覚が選んだのだとして、至極当然のように思えたし、その正確さを褒めてやりたい気もした。
バラの香りは、なによりも子供のころに嗅いだ母親の匂いだった。なによりも懐かしい思い出の匂いだった。だからこそ俺は躊躇することなくマスクを外すことができたのだ。たぶん敏感な鼻はそのことを憶えていたのだろう。
お袋は三年前に亡くなっていたし、俺が学生だった当時に再婚してからはほとんど会っていなかったのだけど、もしかしたら一人息子の窮地を嗅ぎつけて三途の川を渡って助けにきてくれたのかもしれなかった。さすがのαも霊には勝てないというわけだ。
突拍子もない考え方だったけども、そのときの状況を説明できそうな術を俺はほかに知らなかったし、こちらにしてみれば、クマみたいな異星人よりもお袋の霊の方がよほど現実味があった。問題なのはむしろ、ずっと親不孝だった息子を、お袋の霊が果たして本当に助けたいと思うかどうかにかかっていた。
ともかく善は急げだ。お袋の霊が心変わりする前に、αに言いたいことを言って、さっさとスマホをとりもどし、奴から二度と悪さをしない約束をとり付けて、とっとと動物園をあとにするのがベストだった。
クマたちの丘と呼ぶらしい、案内図に描かれたクマコーナーは、ちょうど東園の真ん中辺りに位置していた。俺はその場所を頭に入れて歩きはじめた。バラの香りを、母親の匂いを、ふんだんにたたえながら。
マスクをしていないだけで、ずいぶん体が軽くなったような気がした。もしかしたらαを身ごもったばかりのマユミもこんな感じだったのかもしれなかった。それから日を追うごとに軽さが増していき、ふくらはぎにはまるで羽根が生えたかのように強力な筋肉がつきはじめて、ついには宙に浮けるようになったのだ。
俺は思いだしたように上空を仰ぎみた。やはりそこには四人のバーバレラが、オレンジ色のフリースを着たまま、お互いのワンピースを追いかけるようにしてクルクルと回転しつつ少しずつ前進しているのが見えた。
その姿は水族館の水槽の中を泳ぐマグロの群れを思い起こさせたけど、もしかしたら彼女たちにしてみれば、そんな飛び方の方が楽なのかもしれなかった。空飛び妻飛行隊に比べたら、陸の上を粛々と歩む俺の行進はあまりにも体たらくに感じられただろうから。
クマたちの丘に行く道中に売店があって、そこでソフトクリームを売っていた。俺は普段はほとんど甘いものは口にしないけど、動物園の入園者たちの多くがソフトクリームを手に持って、それを舌先で舐めている光景をたびたび目撃しているうちに、なんだか子供にもどったみたいに自分でも食べたくなった。バラの香りによって蘇ってきた子供の頃の記憶がそんな気にさせたのかもしれない。
サンバイザーを頭に乗せた売店の女の子から、代金と引き換えに、紙の巻かれたコーンカップに乗ったそれを受けとり、園内を歩きながらペロペロと舐めた。ずいぶん久しぶりに口にしたソフトクリームは思っていた以上に美味しかった。もしかしたら動物園のどこかにソフトクリームを美味しく感じさせるような秘密が隠されているのかもしれない。
そんな秘密があったとしたら、それはたぶん記憶と関係していることだろう。動物園を訪れた大人たちは、みんないつもよりも何パーセントか子供に近くなる。彼らが大人になってから園内で口にするソフトクリームの甘い味覚の中には、きっと幼かった日々の喜びと驚きが何パーセントか含まれていることだろう。
一舐めするごとに子供の頃の記憶が思い出された。動物園で食べるソフトクリームぐらい人間の脳を活性化させる食材はないのかもしれない。そこに思い出の匂いが重なれば完璧だ。もっともその組み合わせによる脳の活性化は、うしろ向き限定ではあるようだったけど。
それによれば俺は斎藤さんがメールに書いて寄こしたような招かれざる客なんかでは決してなかった。俺にも両親と一緒に動物園を訪れた記憶がちゃんとあった。しかも場所は今回と同じ上野動物園だった。おまけにそのときにも両親に買ってもらったソフトクリームを舐めていた。大人になった俺が、ふたたびそれを食べたくなったのはただの偶然ではなかった。
それは幼少期のほとんど最後の心温まる家族的なイベントだった。俺は小学四年生になったばかりだった。郊外の工場で働いていた親父はまだ家を出ていなかった。当然お袋は再婚していなかった。動物園を訪れた春の一日は、家族三人で過ごした最後の幸福な休日だった。
だから俺は招かれざる客なんかじゃなかった。危険人物なんかじゃなかった。一人ではあったけど、十分に大人になってから動物園を再訪する資格を持っていた。俺が園内を歩いても太陽は雲に隠れなかったし、辺りは夕暮れのように暗くはならなかった。だから入園者がそろそろ帰る時間だと勘違いするようなことにもならなかった。動物たちは俺の顔を見ても怖がらず、檻から逃げ出すようなこともなかった。俺はどこまでもソフトクリームが似合う大人の男だった。
「よく来たね。待ってたよ」
檻の中の幹にとまった茶色いフクロウが、博物館の剥製みたいに身動き一つせずに言った。
「やあ、こんにちは。久しぶりだね」
食べ終わったソフトクリームの紙をズボンのポケットに押し込みながら、俺は明るく心の中で答えた。
つづく