空飛び妻・その⑦
『動物園を舐めてはいけはりません』
斎藤さんからとどいたメールはそんな文句ではじまっていた。ちょうど動物園の入場口に向かってアスファルトの上を歩いていた俺は、いったい何事だろうと、ゲート前の広場で足を止め、白いガラケーの画面をスクロールしてそのつづきを読んだ。
それはマユミからのメールとは対照的に長文だったけども、意味不明なところは共通していた。二人ともなにかしらのアドバイスを俺に送っているようだった。マユミからのアドバイスは啓示のようであり、斎藤さんのそれは警告めいていた。
『動物園は大人が一人でくる場所ではあらはりません。そうかといって集団できはりまして、いい歳をした大人たちが童心を取りもどし、大はしゃぎする場所でもあらはりません。
そこはあくまでも子供たちのためのテーマパークなのです。それもどちらかといいましたら子供たちから催促するのではなく、親の方が我が子を連れていきたがるようなテーマパークであらはるのです。
そこでは動物園は子供たちにとって情操教育の場とならはり、大人たちにとっては子供時代の思い出の場所にならはるでしょう。ただし今ではすっかり子の親となった彼女や彼が、幼い頃に両親と動物園で過ごしたわずかな時間を具体的に記憶している可能性はほとんどないはずです。
なぜなら彼らはその時まだあまりに幼過ぎたからです。季節や、その日の両親の顔だって憶えてはいらはらないでしょうし、かすかに残されている記憶といえば、園内で食べたような気がするソフトクリームのもこもこした輪郭や、檻の中におぼろげに映った一頭か二頭ばかりの獣めいた形をした影ぐらいなものでしょう。
それでもソフトクリームのもこもこや獣たちのおぼろげな影さえ憶えていらはれば、記憶の動物園への入場券を手にすることはできはります。ゲートで切り取られた半券を上着のポケットに入れたなら、ソフトクリームのもこもこは膨れはじめ、記憶の中からとろとろあふれだし、獣たちのおぼろげな影はそれを避けるようにスルリと檻から脱走するでしょう。
そのとき動物園は大人たちにとって大きなタイムマシンに変身するでしょう。動物たちはそこで、遠い昔に無言のうちに交わされた約束を無言のうちに果たすことになるでしょう。彼らの中には夢を食べる空想の生き物のように、人間の記憶が蓄積されているのかもしれはりません。
大人たちは楽しそうに園内をめぐる我が子の姿をとおして、自らの幼年期の記憶を無意識のうちに上書きすることになるでしょう。自分にとってもそうであったかもしれない幸福な記憶として。
そうして幼年期の記憶はようやく完成をみはります。休日の動物園で、じつに何十年振りにハッピーエンドを迎えはります。まるで遠い異国からは運ばれてきた動物たちが、そのための幸福な記憶装置であったかのように。
しかし動物園を訪れた大人たちのすべてが、タイムマシンに乗り込めるわけではないのです。中には記憶の半券をポケットに持ってもいないのに、それに乗り込もうとムチャをする不届き者もいらはります。
それは決まって一人で動物園にやってくる大人たちです。いい歳をした大人がどうして一人で動物園にやってくる理由があらはるでしょうか。彼らから目を離してはなりません。それを怠ると場合によっては動物園に張り巡らされた呪文の効力が消えてしまうことがあらはるのです。そんなことになればせっかくの動物園日和も灰色した雲が空を覆いはじめ、園内を暗くし、閉館時間が来たと勘違いした人々がゾロゾロと出口のゲートへ向かって歩きはじめる始末にならはるでしょう。
一人客の中でも特に注意しなければならないのが、顔の半分をマスクで覆い隠した男性客です。その中には稀にほかの人々とは毛色の違った記憶を持っている者がいらはるのです。
その記憶が危険なのです。それはソフトクリームのもこもこを春の残雪のように土へと混じりさせ、それを見て怯えた獣の影をふたたび檻の奥へと追いやる力を秘めています。
彼らは招かれざる客であり、家族連れの客たちとは対局にいる人々です。本来ならば来るはずのない、また来る必要もない、人々です。
それでも彼らは定期的に動物園にやってきらはります。まるで灯りに引き寄せられる虫たちのように。大きなマスクで顔を隠して。
なぜなら動物園が彼らを呼びはるからです。そこに迷い込んだ獣ならざる一頭が、彼らの記憶に直接語りかけてきらはるからです。そのとき子供たちのためのテーマパークは、記憶をめぐる迷宮のテーマパークへと趣きを変えるでしょう。
そんなわけですので、どうかご主人、動物園にはくれぐれも用心なさってください』
斎藤さんからのメールは、これからその動物園に一人でマスクをして入場しようとしている成人男性に向けて送信するには、少々難があるように思えた。
もしもそれが俺への警告であったとしても、いったい何に対する警告なのかもよく分からなかった。気をつけなければならないのは、動物園なのか、それともαなのか。
それにそもそも動物園行きを提案したのは他ならぬ斎藤さん自身なのだ。それなのにこの後に及んでどうして俺がその斎藤さんから招かれざる客呼ばわりされなければならないのか。
動物園に入る前に俺の目論みはそのゲートに乗り上げて座礁しようとしていた。最悪でもαに会って、白いガラケーをもとのスマホにもどしてもらうつもりでいたのに、俺の動物園詣りは期せずしていくつもの山谷を越えて、ようやくたどり着いた火の山の、その火口から見下ろすマグマの海に、邪悪な指輪ならぬ白いガラケーを投げ捨てるかのような冒険の旅になりそうだった。
動物園をめぐる冒険の旅をはじめるか否か、遠い山脈のさらにその奥にそびえる火の山を臨むかのごとく俺は顔を上げた。
絵に描いたような一面の青が目の前に広がっていた。ほかに見えるものはなにもなかった。俺は首を傾げずにはいられなかった。ただ顎を上げて正面を向いただけなのに、空が低すぎた。まるでアイスクリームみたいに地面へと溶け堕ちて壁になったかのような空なのだ。
さらにおかしいのは、朝早くから動物園にやってきたと思わしき家族連れや小学生の団体客が、吸い込まれるかのごとくその壁の中へと次々に消えていくことだった。なんの抵抗もないまま薄い膜を通り抜けていくかのように。あたかもそこに壁など存在していないかのように。
壁など存在しないのだ。それは見覚えのある青さだった。目を細めて慎重に観察してみれば、その色彩は自然にあるものとはどこか印象が違っていた。絵の具を混ぜて造ったようなのっぺりとした人工的な青さなのだ。
遠足にやってきた子供たちに不思議そうな顔で見送られながら、俺は動物園のゲートに向かう人々とは逆方向へと、ムーンウォークさながら広場を後ずさりしてみた。偽りの壁が人工的なものであるならば、その大きさには自ずと限界があるはずだから。
もちろん限界はあった。十歩ほど後退したところで、俺はその全体像を端から端まで見渡すことができた。ゲート両脇の木立に挟まれたように鎮座したそれの姿形は、俺にとって馴染みあるものだった。ただどうしてそれがそこに存在しているのか理解できなかった。それに大きさだってだいぶ違っていた。
それまでポリバケツの大きさは常に一定であり、臭いの危険度を知らせるのはその大きさではなく、その数のはずだった。俺の瞳の上で、スマホのアンテナみたいに邪魔にならない程度の大きさで表示されるはずだった。だがその朝にかぎって、どういったわけだかポリバケツは俺の眼球から飛びだし、動物園の象が二頭すっぽり収まるぐらいに巨大化し、御主人様を前にアスファルトの上に鎮座していた。
俺はしばらくそれをじっと見上げていた。それの方からなにか言ってくるのを期待して。
そのとき俺はポリバケツがなにか言葉を喋っても全然おかしくない気分だった。なんならポリバケツの人生相談にのってもいいぐらいだった。きっとポリバケツにはポリバケツの悩みがあるだろうから。
でもやっぱりポリバケツはなにも言わなかった。自分の仕事に徹底しているようだった。それで俺はその巨大なモノリスめいた存在理由について一人で考えることにした。
なにか理由があるはずなのだ。それまでポリバケツが送ってくる情報はコンピューターのように正確だった。いいや、ポリバケツはコンピューターそのものだった。それもかなり優秀な。俺はその情報を頼りにしていたし、信頼もしていた。そして実際ずいぶん助けられていた。そんな俺が、いつもと様子が違うからという理由で、その存在を簡単に無下にするわけにはいかなかった。
ポリバケツの存在を素直に受け止めれば、それは動物園が危険な場所であることを御主人様である俺に知らせているのに違いなかった。それもその大きさから察して、これまでにないほどに危険な、薄いマスクや鼻に入れた耳栓ぐらいでは歯が立たないほどの、死に至る悪臭レベルの。
巨大ポリバケツの情報は斎藤さんからのメールの内容とも符合するところがあった。その二つの情報を照らし合わせて考えるとある一つの答えが自ずと導きだされた。
つまり、俺はすぐにでもここから立ち去るべきだということ。たかだかスマホ一つにこだわっている場合ではなかった。
しかしこれではなんのためにわざわざ仕事を休んで動物園までやってきたのか分からなくなってしまうけど、一つだけよかったのは、どうしてマユミがモンスターマユミになったのか、その理由がハッキリしたことだった。
ポリバケツが臭いわけではない。そこに入っているゴミが臭いのだ。それと同じように、マユミが臭いわけではない。彼女のお腹の中にいるαが臭いのだ。そして動物園の中で俺を待っているαは、人の壁がなくなった分、とてつもなく臭いのに違いない。ポリバケツのモノリスはそれを俺に警告しているのだ。
それは絶妙なタイミングだった。あたかもどこかで俺の行動を監視しているかのような。
実際そのとおりだった。遠く離れた中野区役所に入っている子育て相談課のデスクから、誰かが俺を監視していた。恐れをなして動物園から逃げださないようにと。
そうとは知らずに腹を決め、上野駅にもどるべく、俺は手にしたガラケーをズボンのポケットに押し込んだ。ちょうどそのとき着メロが鳴った。ガラケーの着メロは当然のようにアニメの主題歌だった。扉の画面には斎藤さんの名前が表示されていた。
俺は家に帰るなにか適当な言い訳を考えながら電話にでた。
「動物園には着きはりましたか?」
「ええ」
「そこからなにが見えはりますか?」
「大きなポリバケツが見えますね。象が二頭入りそうなお化けポリバケツです」
適当な言い訳は見つかりそうになかったので、俺は正直に状況を説明することにした。斎藤さんならばそれで理解してくれるだろうと思ったのだ。けれどそうする前に、斎藤さんの口からまったく想定外な言葉が飛びだした。
「そのポリバケツが空飛び妻をめとった夫の運命の扉です。空飛び妻の真の夫にならはるためには、運命の扉を開かねばならはりません」
「斎藤さんににとってポリバケツは運命の扉かもしれませんが、俺にとってそれは運命ではなく、危険を知らせる扉なんです。これ以上前に進むなと知らせてくれているんです」
「心配はいらはりません。誰もが一度は通る道です。一度は通るポリバケツです。もちろん私も通りました。それは危険が待っているからこそ運命の扉なのです」
俺はなんとか斎藤さんの説得を試みた。でも無駄だった。向こうは最初からこうなることが分かっていたのだ。
「そんな話は昨日の電話の会話では一言もでてきませんでしたけど」
「なにも心配はいらはりまりません。上空をご覧ください」
俺はガラケーを耳にあてたまま、不信と不機嫌のテコの原理で顎をあげた。
透明感のある澄んだ青い空に、虹色めいたカラフルなリングが見えた。それはスカートを履いたリングだった。
いったいいつからそこにいたのだろう。ワンピースの上に色とりどりのフリースを着た四人の空飛び妻が、メリーゴーランドのようにクルクルと反時計回りに回転しながら飛遊していた。そうしているのが彼女たちにとってとても楽しいことであるかのように。
まるで透明な巨人の画家が、俺の遥か頭上で、空のキャンバスに絵筆でカラフルな円を描いているみたいだった。念のために目を凝らしてみたけども、そのカラフルな円の中に幸いマユミの姿はなかった。
「心配いらはりません。なにかあった場合は、空飛び妻救助班がご主人を救出しますから」
斎藤さんの声が空のリングに重なった。ふざけて言っている様子はなかったけど、俺にはふざけて言っているようにしか聞こえなかった。「心配するな」と人が三度も口にしたとき、それはどう考えても心配しなければいけないときではないのだろうか。
「そのなにかとは、いったいなんですか?」
「それを私の口から申し上げることはできないのです。もう一度お化けポリバケツの方を見てください」
斎藤さんに言われるがままに俺は視線を地上におろした。空飛び妻たちが頭上で天使の輪よろしく飛んでいる姿をなおも想像しながら。
「メールにも書きましたように、大人たちにとっては、すべての動物園が記憶の動物園なのです。そしてご主人は特殊な、人とは違った、かなり風変わりな記憶をお持ちでいらはります。その種の記憶の扉はご主人本人でしか開けることができませんし、またご自身で開けなければ意味がないのです」
「分かりませんね。俺は自分の記憶ではなく、αに会いにきたんです。俺の記憶とαといったいなんの関係があるんです?αは俺のお腹でなく、妻のお腹の中にいるわけですから」
「ごもっともです。ですがご主人、こう考えてみてはどうでしょうか。もしかしたらαはご主人の中にもいるのではないかと。それもどこか遠い記憶の片隅に。それが奥様のお腹にαを呼んだのではないでしょうか。さあ、もう一度、上空をご覧になってください。なにが見えはりますか?」
俺の体は催眠術にかけられたように斎藤さんの言葉に勝手に反応した。
空飛び妻のリングが見えた。でもそれはさっきまでの色とりどりの円ではなかった。彼女たちは鮮やかなオレンジ色のリングを空に描いていた。
つづく