変身ベルト
ベージュ色した広場のタイルの上を、北寄りの冷たいビル風が吹き抜けるようになった朝。三が日あとの見捨てられた凧みたいに、広場の木立ちの枝にそれは引っかかっていた。
そんなものが奇妙な果実よろしく、一夜明けてみると、木の枝からぶら下がっていたのは、少なからず意外な光景ではあった。それでも僕たちは、むしろ予期していたかのようにそれを見上げた。四季の移り変わりのように、時がくれば必ず僕たちの前に姿をあらわすものとして。紺色したスーツの胸の奥に忘れないようにメモしておいたみたいに。
僕たちは都心の新しいオフィス街にいた。そこにはビルの群れが扇状に広がっていて、それを結んだ一点に、おとぎの国めいたレンガ造りの駅があった。その前のロータリーはコンサートができそうなぐらいに広々としたタイル張りの広場になっていた。電車を降りて駅の外にでた勤め人たちがその広場を渡って、それぞれ勤務するオフィスの入ったビルの中に吸い込まれていくのが、毎朝繰り返される通勤風景だった。
それはすっかり葉が飛ばされて、丸坊主になった木立ちの枝と幹の間にぶら下がっていた。骨となった背の低い木立ちが、ショルダーバッグを肩にかけてるようにも見えた。
冷え込んだ朝には誰も彼も皆、ポケットに手を突っ込んで、北風に余計な体温を奪われないよう、脇目も振らずに木立ちの列の間を抜けていくのが常だった。
でもその朝は少しだけ事情が違った。
いつもと違う行動パターンをみせたのは、僕たち二十代の若いビジネスマンだった。それ以外の歳上の勤め人たちは、そもそもそれの存在に気がつかないか、気がついたとしてもほとんど関心がなさそうに、つかの間視線を上げただけですぐに立ち去っていった。
少しだけ別の反応を示したのは、僕たちと同世代の若いビジネスウーマンたちだった。彼女たちが視線を上げた時間はほかの人たちよりも長かったし、そのあとには僕たち若いビジネスの姿を、不安のベールがかかったような視線で探す素振りをみせた。
僕たちは想像する。もしもそのとき、若いビジネスウーマンたちの探しものが、その日ランチを共にする同性の姿ではなくて、本当に僕たちであったとすれば、彼女たちは広場の人波に僕たちの姿を簡単に見つけだすことができただろうと。なにしろ僕たちは朝にセットしたばかりの髪や、おろしたばかりのコートの裾を、北風の好きなようにさせて立ち止まっていたから。より精確に言ったなら、一点を見つめてその場から動けずに立ちすくんでいたから。
寒くなると台風並に吹き荒れて、毎年のようにオフィス街で働く人たちを悩ますことになるビル風も、その冬に限っていえば、僕たちにはそよ風程度のものだった。
その朝、僕たちは自分たちに振り下ろされた過酷な運命にただ打ちのめされ、身に沁みる寒さも忘れて、タイルの上に立ち尽くすはめになった。
ほかの人たちが皆んなそれぞれのビルに入ってタイムカードを押し、自分のデスクで仕事の準備にとりかかろうとしている最中に、新米の、後輩の、僕たちは、広場からまだ動けずにいた。
僕たちは駅前のロータリーを占拠した異様な集団になっていた。実際には紺色だけど、まるで黒装束に身を包んだ使徒たちのようだった。その数は優に百人を超えていて、それほどの数の若きビジネスマンたちが、広場に植えられた一本の木立ちをとり囲んでいた。
黒装束の僕たちが神として崇めていたのは、枝に身体を絡ませてぶら下がった太った白蛇だった。あるいは僕たちは蛇に睨まれた黒ガエルなのかもしれなかった。いずれにしても、ついに審判の日が訪れたのだ。同世代の僕たちは、無言のままにその思いを共有していた。僕たちは北風ではなく恐怖に打ち震えながら、いつまでも広場を立ち去ることができずにいた。とても仕事なんて手につく精神状態じゃなかった。
最初にそれを変身ベルトと呼んだのは、沖縄の若いビジネスマンたちらしかった。
というのもちょうど一年前に変身ベルトがはじめて降臨した場所が沖縄の那覇市だったから。
ずっと交差点からそのビジネス街に眼を光らせてきたシーサーの首に、それはかけられていた。白くて太いそのベルトは、犬用のそれにしては少々大き過ぎるようだった。真ん中に付いている赤い楕円形のランプは何のために付いているのか見当がつかなかった。
それは特撮ヒーローが腰につけるのピッタリな色と形をしていた。赤いテカテカしたランプはヒーローだけに許されるものだし、そもそも太くて白いベルトなんて気質の人間は誰もつけたがらないだろうし、また付ける必要もない。
だから那覇市のビジネスマンたちはそれを自然と変身ベルトと呼ぶようになった。特撮ヒーローに変身する男性俳優が、腰に巻いているベルトを意味して。
沖縄では僕たちが働いている東京のビジネス街とは違って、ハナから変身ベルトが若いビジネスマンたちの関心を集めたわけではなかった。むしろそれは無用の産物として長い間放置され、いつまでもシーサーの首にかけられたままだった。誰一人として触れようとしなかったし、スマホのカメラに収めようともしなかった。変身ベルトの存在はまるで最初からそこにあったかのように風景に溶け込んで、同時に人々の記憶の底に埋没していった。
状況が変わりはじめたのは、降臨して十日ほどが経って、さすがのシーサーも首の重りにほとほと嫌気が差しはじめた頃だった。店の評判を聞きつけたみたいに、お疲れ気味のシーサーの首元をなにやら興味深そうに眺めていく通勤途中のビジネスマンの姿が目立つようになった。
その数は日を追うごとに増えていって、やがて急ぐ足をわざわざ止めてマジマジと変身ベルトを眺めていく者まであらわれた。アイドル犬並みにシーサーが人垣に取り囲まれることもあった。
変身ベルトのなにかが間違いなく彼らの心を捉えはじめていた。それはボディブローのように徐々に効いていって、ついにはある共通項を持ったビジネスマンたちの足を止めることに成功したのだった。
三十代、四十代、五十代のビジネスマンにも、それぞれ子供の頃に夢中になった変身ヒーローがいるはずだった。テレビの前に陣取って、その変身ポーズを家や学校の教室で真似した、それぞれの世代の憧れの変身ヒーローが。
それなのにシーサーが首にかけた変身ベルトに足を止めるのは二十代の若いビジネスマンばかりだった。
もっともそれにはちゃんとした理由があった。今ではそれは自明の理になっているけども、当時はまだよく分かっていなかった。ただおそらく直感として、三十歳を超えたビジネスマンたちは、無益な危険を避けるようにシーサーの前を小走りに通り過ぎていくのだった。
変身ベルトは、そのあと九州、四国、中国と、その地域を代表するビジネス街に降臨しては、徐々に日本列島を北上していった。
そして変身ベルトの降臨するところ、確実に若きビジネスマンの犠牲者が発生した。その数は一つのビジネス街につき一人切りではあったけども、犠牲者となった彼らは、身体だけでなくその精神にも大きなダメージを負っていて、肉体の傷が癒えたあとも、全員がいまだに職場復帰できずにいた。
僕たちはその情報を共有していたし、どうして二十代の僕たちだけが変身ベルトに魅了されてしまうのか、その理由もだいたい理解していた。そして変身ベルトが降臨したビジネス街では必ず一人の犠牲者が発生する理由も。
それが僕たちを怯えさせ臆病にした。
その日、僕たちが働くビジネス街では早速各企業の代表者たちが集まって、どこかのビルの会議室で変身ベルト対策の協議がなされたようだった。
僕たちは首を傾げずにはいられなかった。だって変身ベルトがつぎに降臨するのが東京のビジネス街であることはずいぶん前から噂になっていたし、僕たちが働いているビジネス街もその候補の一つに上っていたから。それなのに問題が発生したあとにようやく会議をはじめるなんて遅過ぎるのにも程があった。
案の定、代表者会議によって決定された項目には目新しいものはなに一つなかった。
曰く、変身ベルトには決して近づかない。曰く、変身ベルトには絶対手を触れない。曰く、周辺の混乱を回避するために変身ベルトの情報を拡散させない。
そこに家に帰ったら必ず手を洗ってうがいをするという項目がないのが不思議なくらいに凡庸なルールだった。
もしかしたら彼らは最初からどうでもよかったのかもしれない。僕たちのことなんて本当は誰も心配していなかったのかもしれない。心のどこかではむしろ犠牲者がでた方が好ましいぐらいに思っていたのかもしれない。だって犠牲者がでるということは、少なくとも誰かがヒーローになるべくルールを破って、変身ベルトを腰に付けたということだから。それぐらいに世間ではヒーローが求められているようだった。
ただ代表者たちが変身ベルトに手を触れないようにと勧告するのにはそれなりに根拠もあった。変身ベルトの存在期間は降臨してから一ヶ月の間だけなのではないかという噂が以前から立っていたのだ。
それというのも、降臨してあと一週間あまりでひと月になろうとする頃に、変身ベルトの赤い楕円形のランプがおもむろに光りだして、最後の一日には激しくそれが点滅をはじめることが分かっていたから。まるでウルトラマンのカラータイマーみたいに。そして点滅が途絶えた際には、変身ベルトも消滅するのではないかと信じられていた。ただ実際にはまだ誰もその瞬間に立ち会ったことがなかった。変身ベルトがあらわれたところ、犠牲者がでなかった場所はない。安全地帯は存在しない。最後の赤い点滅は、僕たちを激しく誘惑するのだ。
どちらにしても会社の社長や上司の言うことなんてどうでもよかった。これは最初から最後まで、僕たちの、僕たちだけの、問題だったから。
表面上では何事もなく、すべてが平穏無事に推移しているように見えた。変身ベルトは相変わらず木立ちにかかったままではあったけど、それがビル風以外で揺れるような事態は起きなかったし、人々の口に上ることもなかった。多くの人たちがこのままひと月が過ぎて、自分たちの働くビジネス街が史上はじめて無事に変身ベルトをやり過ごすことのできたモデル地区になるのではないかと思いはじめてもおかしくはなかった。
でも決してそんなことにはならないことを僕たちは知っていた。物語に登場した拳銃が必ず発射されなければいけないように、降臨した変身ベルトは必ず手にとって腰に巻かれなければならないのだ。
寝不足の僕たちは次々に仕事でミスを犯した。ときにそれは会社に大きな損害をもたらした。それでも僕たちが責任を追及されることはなかった。すべて穏便に許された。
僕たちは眠ることができなかった。頭の中は常に変身ベルトのことで一杯だった。ベッドに入って瞼を閉じても、月明かりに照らされたその姿が、広場のタイルの上に影となって揺れているのが見えるようだった。
少しだけ勇気をだしさえすれば、僕たちはそれを手にして腰に巻くことができるのだ。そうすれば僕たちは世界を救うことができるのかもしれなかった。少なくともその手助けぐらいはできそうだった。ただしそこには高いリスクがセットになっていた。なにしろこれまでそれを成し遂げたビジネスマンは一人もいないのだから。
ほんの一瞬だけ復活したかに思えた僕たちの勇気はこうしてふたたび夜の帳の中へと沈んでいくのが常だった。すると広場のタイルに黒い人影が浮かび上がり、それは百人の若いビジネスマンのうちの一人で、その誰かさんは誰も見ていない夜のうちにコッソリと変身ベルトを腰に巻いてしまおうとするのだっだ。
僕たちはいつもそこでベッドから跳ね起きた。いっそ寝巻きのままタクシーを掴まえて、これから木立ちの広場まで駆けつけようかとも考えた。
でも僕たちは実際にはそんなことはしなかった。僕たちが実際にしたことといえば、ふたたびベッドに潜り込んで悶々と眠れぬ夜をやり過ごすことだけだ。
前夜も一睡もできずにフラついた状態で出社して自分のデスクに着くと、小さな一枚のメモがデスクトップの隅に貼られてあった。それを剥がして書かれたメッセージを読むことが、降臨後に僕たちが毎朝欠かさず実行している日課になっていた。そこには女性特有の流暢な手書き文字で例えばこんなメッセージが書かれていた。
『ヒーローになろうなんて思わないで』
メモが貼られるのは、なにも出勤時やデスクトップだけとは限らなかった。それはいつでもどこでも貼られる可能性があった。
ただしそれを貼るのは、僕たちと同世代のビジネスウーマンと決まっていた。彼女たちは、僕たちが昼食をとっているその社員食堂のテーブルに、廊下ですれ違いざまの僕たちのスーツの肩に、回ってきた書類の表に、それを貼っていった。時にはトイレの鏡に貼られていることもあった。彼女たちは神出鬼没なのだ。油断はできない。でも僕たちはいつでも油断してしまうのだ。だって一日中眠くて仕方がないから。
僕たちは彼女たちが貼り付けたメモをゴミ箱なんかに捨てたりはしなかった。スーツのポケットに入れて一つ残らずちゃんと家まで持ち帰った。そして棚の引き出しに重ねて仕舞うのだった。棚の引き出しは彼女たちのメッセージで溢れだしそうになっていた。僕たちは眠れぬ夜にそれを持ちだしてきては、枕元のスタンドの灯りの下で一枚一枚再読していった。
『世界を救おうなんて思わないで』
『変身ベルトなんて忘れて』
『変身ベルト、なんて格好が悪いの!』
『あとたった二週間の辛抱よ』
『最後まで会社が決めたルールを守ってね』
『みんなが辛抱強いあなたを応援してるわ』
『あなたはなにも心配しなくていいのよ』
僕たちを気にかけてくれているのは彼女たちだけだ、僕たちは素直にそう思った。無事にひと月が過ぎたら、ちゃんとお礼を言わなきゃいけないと。
でも深夜に彼女たちからのメッセージを何度も読み返すたび、いつからか僕たちはそこに真逆のメッセージを読み取るようになった。
あるいはそれは僕たちが神経質になって、なにかにつけ考え過ぎるようになっていたためかもしれなかった。
それでも彼女たちの言葉から、変身ベルトを腰に巻いてヒーローになることがいかに困難で馬鹿げた行為であるのかを教えられるたびに、その困難で馬鹿げた行為のできない自分たちがいかに臆病であるか、そう感じずにはいられなかった。
そうすると僕たちの目に、彼女たちの優しい慰めのメッセージが、じつはすべて反語になっているような感じがしはじめるのだった。
つまり『世界を救おうなんて思わないで』は、本当は『どうしてあなたは世界を救おうと思わないの?』という意味であり、『あなたはなにも心配しなくていいのよ』は『どうしてあなたはなにも心配しなの?』の意味なのだ。
彼女たちが僕たちに言いたかったのはそっちの方なのかもしれなかった。それはルールに接触しない、彼女たちがあみだした奇策なのかもしれなかった。彼女たちも世間並みにヒーローを必要としていたのなら。
変身ベルトの赤いランプがついに光りだすと、ビルの影にそれよりもさらに黒いなにかが、こちらの様子をうかがっているような気配がしはじめた。僕たちはそれを感じずにはいられなかった。その数はまだ少ないようだったけど、ベルトのランプが点滅を繰り返すようになればぐっと増えていることだろう。
これまでほかのビジネス街で繰り返されてきたことが、ここでも繰り返されようとしていた。その日の朝が来れば、僕たちはきっと彼女たちから最後のメッセージを受けとることになるだろう。そしてそのメッセージはもはや反語である必要はなくなっているのかもしれない。
おしまい