空飛び妻・その⑥
その日から俺はアニメの着信音を毎夜ワンコーラス聞かされるはめになった。マユミから電話がかかってくるかもしれないが故に電源をオフにしておくわけにもいかなかったし、そうかといって電話にでて、どこの誰だか知らない相手に心を開いてコミニケーションをはかってみようという気も起きなかった。
着信音は毎晩決まった時間に鳴った。そしていつも同じアニメの主題歌をワンコーラス歌い上げると、それでスッキリ気がすんだみたいにピタリと止まるのだった。そのあと寝室には微妙な空気がずっと漂っていた。その夜の冷凍チャーハンは、タイムマシンの狭い室内で食べたらきっとこんな味がするだろうと思うような奇妙な食感がした。
あるいはそういった有難迷惑なイタズラ電話が流行っているのかもしれなかった。任意の成人ユーザーを選びだし、本人もとっくの昔に忘れている子供の頃に好きだったアニメソングを聴かせ、童心を取りもどさせることによってストレスが溜まった心と身体をリフレッシュさせるかのような。
しかし、もしそうだったとしても、いったいどうやって任意のユーザーが子供の頃に好きだったアニメを把握するのだろうか。そんなデータがどこかに存在しているのだろうか。しかも俺は着信音はオフにして、バイブだけをオンにしていたのだ。それにも関わらず、アニメの着信音はその設定を無視して、毎夜鳴りはじめるのだ。
これはついに嗅覚だけでなく、聴覚までおかしくなりはじめたということなのだろうか。そう疑わずにはいられなかった。
ある日突然、ありとあらゆる人間が臭くて堪らなくなってしまったように、俺の耳には、ありとあらゆる物音がアニメの主題歌として聴こえるようになりつつあるのかもしれなかった。
そんな暗い予感がしてならなかった。絶対音感の持ち主に街中の騒音が音階として聞こえ、共感覚の持ち主に数字が色付きに見えるように。でもそんなことになったら俺の症状はなんと名付けられるのだろう。絶対アニソン感覚とでもいうのだろうか。
もはや俺に残された真面な機能は視覚だけだった。頼りにできそうなのは目に映る世界の姿だけだった。少なくともあと二ヶ月弱の間はそれでなんとか持ち堪えなければならない。
しかし残りひと月を切る前に、最後の砦であるはずの視覚までもおかしなことになりだした。
どうやらアニメの着信音はユーザーにとっての有難迷惑なサービスというわけではなく、寝室に鎮座した物たちにとっての魔法の呪文めいたもののようだった。開けゴマのような、鏡よ鏡よのような、エクスペクト・パトローナムのような。
奇妙な着信サービスがはじまって一週間ほど経過した夜だった。仕事から帰ってシャワーを浴びると、寝室のテーブルの上でアニメの着信音が鳴っているのが聴こえた。それを無視して台所で冷凍チャーハンをチンしてからもどってみると、着信音はすでに止んでいた。
その夜の冷凍チャーハンは奇妙な味が増量した。ただし狭いタイムマシンの中で食べているような感じはもうしなかった。むしろいつもよりも広々とした場所にいるような印象がした。急に世界が開けたかのような。
実際、世界は広くなっていた。もともと夫婦二人で共有していた空間を一人で使っているわけだから、以前より広く感じるのは当然だけども、その夜はさらにワンサイズ大きな靴を履いて歩いているような、バランス感覚の悪さまで加わった。
しばらくしてからようやく俺はその理由に気がついた。知らないうちにセミダブルベッドが一回り小さなシングルベッドへ変わっていたのだ。さらに目を凝らしてみると、そのシングルベッドは昔実家の子供部屋で使っていたものと瓜二つのように見えた。スプリングの硬い安物。使っているうちに生地が切れて何箇所か中のスポンジが覗いているところまでそっくりだった。
スマホの着信音のあとに被害にあったのは寝室のベッドだった。
でもこの時期俺たち夫婦は家庭内別居状態にあったから、セミダブルがシングルに変わろうと問題は生じなかった。少なくとも物理的にはそうだった。
どこかの誰かが、ある超越的な力が、あらゆる手段を使って俺を小学生に戻したがってるようだった。
形を変えたのはベッドだけではなかった。その夜を境にして部屋の中の物たちが別の形に自らの姿を変えはじめようとしていた。
ある夜にはラックの上にあったはずのテレビがラックごと消えて、木製の勉強机になった。それも俺が子供の頃に使っていたものと瓜二つで、脇には黒いランドセルと黄色い通学帽まで掛けられていた。ためしに帽子の内側を確認してみたら、消え入りそうな黒マジックの俺の名前が、遠い記憶のように薄っすらと平仮名で書き残されていた。
肝心のマユミからの電話はいつまでたってもかかってきそうになかった。その代わりに変身ショーが毎夜一回ずつ、見知らぬ番号の着信のあとに必ず開催された。
物たちはいったん名前がないものの状態になったあと、まるでもう一つのDNAを内部に隠していたかのように新しい色と形の物へと変化していった。月の晩に土から種が芽をのぞかせ、静けさの中に茎と枝を伸ばし、葉をつけ、一夜のうちに蒼い雲の切れ端にとどきそうな大樹へと成長を遂げるようなスピードで。
アニメの着信音はただの着信音ではなかった。ここに至ってようやく俺はその事実を悟った。それは時間と空間をねじ曲げる特殊な音波であり、スマホはその信号を発信するための装置だった。俺が着信音を止めなかったがために、それは好きなだけマンションの寝室を自分の都合のいいように模様替えすることができたのだ。
しかし変身ショーがαの仕業だったとして、いったいなんの目的でそんなことをするのか想像もできなかった。今住んでいるマンションの寝室を、母親と過ごした実家の子供部屋へ変えてなにがどうなるというのだろう。マユミの出産とどんな関係があるのだろう。まったく異星のクマが考えることは理解の範疇を越えていた。
でもそれでいいのかもしれなかった。理解できなくて当たり前なのかもしれなかった。だって相手はどこの星から来たのかも定かでない異星人なのであり、おまけにクマなのだ。そのどちらか一方でさえ理解するのは困難なはずなのに、二つが一つになってこられたら、もう白旗を上げて好きにさせる以外に方法はない。
ある夜には、どうも足の裏がツルツルすると思い、足下を見たらフローリングの床が古い畳に姿を変えていた。またある夜には、テーブルが突然消え失せ、載せていたスマホが目の前でボトッと畳に落ちた。
寝室の棚にまで押し寄せていたマユミ御用達の外国小説のタイトルが、マンガや図鑑のそれに横並びで一新された夜もあった。壁に飾ったエドワード・ホッパーのポスターが、純国産のアニメキャラクターに入れ替わった。孤独そうな絵の中の外国女性が、着信アニメのヒロインに姿を変えた。
エドワード・ホッパーの絵は俺も好きだったけど、久しぶりに眺めるアニメヒロインも満更でもなかった。超クールで超寡黙なそのヒロインが口にする短なセリフは、まるですべてがカタカナ表記のように片言であり、孤独においてもエドワード・ホッパーが描いた女性たちに負けていなかった。物語の主人公ではなかったけど、主人公の少年と同程度かそれ以上に子供たちから人気があった。俺も含めた学校のクラスの男の子たちが、みんな彼女に幼い恋心を抱いていた。
寝室での夕飯の主食になっていた冷凍チャーハンには、角切りの豚肉の代わりに赤いウインナーソーセージが入るようになった。普通冷凍チャーハンにはそんな食材は入っていないはずだった。赤ウインナー入りのチャーハンは俺の母親のオリジナルなレパートリーなのだ。
テレビやテーブルは消えてしまっても、変身ショーが俺の日常生活に害を及ぼすことはなかった。懐かしいマンガが大人になってから再読できたり、好物の赤ウインナー入りチャーハンが食べられたりで、むしろ歓迎したい気持ちの方が強かった。それにそれらがαの仕業だったとしたら、あとひと月余りの辛抱なわけだから、俺は気にしないで好きにさせておくことにした。テレビもテーブルも来るべきときが来たらもとどおりに戻るだろうと。
でもそれが間違いだった。
夜の変身ショーは飴と鞭だった。マンガやチャーハンが飴であり、鞭はそのあとからやって来た。俺はまんまと奴の術中にはまっていたのだ。飴と鞭の間を繋ぐ中間的な物は存在しなかった。それはステージが変わったと思ったら、急に難易度が上がってしまう困ったCGゲームめいていた。あるいはα星人にとってはそんな展開が当たり前なのかもしれなかった。
ある夜、俺の呑気な考え方を変える出来事が起きた。
勉強机の上で赤ウインナー入りチャーハンに舌鼓を打ちながら、子供みたいにマンガ本を読み耽っていたときのことだ。机の上に置いたスマホがいつものように震えながらアニソンを歌いはじめた。嬉しさで感電してるみたいに。
例によってそれがきっかりワンコーラスで終了すると、寝室の雰囲気がガラリと変わる感じがした。視界に入る光線が急に明るくなったかのような。さては今夜は気を利かせて部屋の蛍光灯でも変身させてくれたのだろうか。俺はマンガを机に伏せ、視線を上げて寝室をぐるりと見渡してみた。
天井の蛍光灯に変わった様子はなかった。それは取り替えてもう何ヶ月も経つ昨日までと同じ蛍光灯だった。
変わったのは、南に面した二枚の窓に掛けたカーテンだった。それが深海を思わせる濃い青から、鮮やかなオレンジ色に様変わりしていた。急に部屋が明かるくなったように感じたのはそのためだ。
オレンジ色のカーテンは昔実家の子供部屋の窓に掛けられていた色だった。なぜだか俺はすぐにそれを思いだすことができた。まるでいつも実家のカーテンの色に思いを馳せていたみたいに。いつの日かマンションのカーテンが、昔住んでいた実家のカーテンに変わってしまうのをずっと心配していたみたいに。
変身ショーには恩恵もあったし、ない場合でも、その変化はすべて俺の許容範囲に収まるものだった。少なくともそれまではそうだった。
オレンジ色のカーテンのおかげで部屋の雰囲気は明るくはなったけど、逆に俺の心を暗くなるばかりだった。チャーハンに入っているウインナーの赤とは似ているようで、その反応はまるっきり逆だった。
もしかしたら俺にはオレンジ色のカーテンに関する過去のトラウマがあるのかもしれなかった。そういえばこの歳になるまでオレンジ色の服や装飾品の類いを身に付けたことは一度もなかった。身につけるのを慎重に避けて生きてきたような気がした。もしかしたら無意識のうちに自己防衛本能みたいなものが働いたのかもしれなかった。本能が俺に向かってハザードランプを激しく点滅させていたのかもしれなかった。
しかしどんなに風変わりな出来事があったとしても、部屋のカーテンがトラウマになるような事態が果たして起こり得るだろうか。俺はそれについてはあまりに昔のことで思いだせなかったし、いささか非現実的過ぎて自分の想像力でそれを推理するのは不可能に思えた。
いずれにしてもその夜も俺の無意識は、ごく短時間のうちに正確に自己防衛本能を作動させた。俺という男は自意識よりも無意識の方がずっと優れた人間であるようだった。その優秀な無意識は持ち主がビックリするぐらい素早く、今そこにある危機に対処した。あまりに素早く対処したので、あとになって何が起きたのか思いだせないんじゃないかと心配になるぐらいだった。
もっとも俺がやったことといえば、二枚一組のカーテンをレーンから外し、丸めて、クローゼットの奥に押し込んだだけのことだった。
カーテンを取り外すと、透明な窓から東京の夜の街が見えた。通りを隔てて、同じ高さのマンションの窓にいくつも明かりが灯っていた。ただしどの部屋もしっかりとカーテンが閉じられていた。カーテンに関してひどいトラウマを抱えているのはやはり俺だけのようだった。
俺は勉強机にもどり、トラウマとは無縁の子供に還って、読みかけのマンガと食べかけのチャーハンを済ませてしまおうと思った。でもなにかがストップをかけた。俺の足は自動的に止まって、視線はマンションの明かりが映る窓へと戻りたがっていた。ご主人様より優秀な俺の無意識が。
ベランダにもう一つのオレンジ色が残されているのが見えた。さっきは気がつかなかった、窓の真ん中あたりの高さに、蛇みたいに細長い物がとぐろを巻いてベランダの手すりに絡まっていた。
それはもちろんカーテンではなかった。それはたった今、俺がこの手でクローゼットに押し込んんだばかりなのだから。
それは夜の蛇のように不吉ではあったけど、俺にしてみればまだ蛇の方が少しはマシだった。ジャングルに棲息してるオレンジ色した毒々しい蛇より。
俺の無意識装置を作動させたのは、トラックの荷台に載せた荷物を固定するために使われるような、太くて頑丈なロープだった。柔な鋏で切ろうとしても小さな傷一つできずに、逆に鋏の刃の方が折れてしまいそうな。それが手すりに巻かれた状態で、解けないように先端が堅く結ばれていた。
もしかしたらマンションの外装工事の業者が忘れていったのだろうか。その可能性は極めて低いだろうけど、決してゼロではなかった。ただ俺の無意識はそのアイデアを即座に否定した。スマホの着信音みたいにハッキリとそれが聞きとれた。そのロープは、間違いなく誰かが明確な意志でそこに置いていったものなのだと。それは外部に向けられたなにかしらのサインなのだと。
俺が斎藤さんに助けを求めたのは、それから二日経ったあとの職場での昼休みのことだった。
そのとき俺が恐る恐る手にしていたのはいつもの黒くて板チョコみたいに薄く平らなスマホではなくて、リトルピープルが乗った超小型のタイムマシンみたいに白くてズングリとした折りたたみ式の国産ガラケーだった。
それは前夜のアニメ着信とともに、黒いスマホと入れ替わるようにして勉強机の上にあらわれた。遠い過去から時間と空間の暗い海原をくぐり抜けてはるばるやってきたみたいに。ついにスマホそれ自体までが変身をとげてしまったのだ。
白いガラケーはまだ小学生だった俺に、母親がはじめて買い与えた携帯電話だった。勉強机の椅子に腰掛けながら、何十年か振りにその扉を開けてみると、超寡黙なアニメヒロインが小さなシールとなって画面の端っこに貼られたままになっていた。念のためにダイヤル式のボタンをクリックしてアドレス帳を開いてみたら、マユミと斎藤さんの電話番号とアドレスがちゃんと登録されていた。
本来なら少しぐらいは懐かしさがこみ上げてきもいいはずだった。でもそのとき俺の心を占めていたのは、ほとんど嫌悪感に近い感情だけだった。
それは理屈ではなくて本能だった。オレンジ色のカーテンが問答無用にダメなように、俺は白いガラケー恐怖症にかかっているかのようだった。自己防衛本能が連夜の作動を開始したのだ。
頭の中で、分厚い電話帳を猛烈なスピードでめくるみたいに、記憶がフラッシュバックをはじめた。それから都合良く、俺は白いガラケーに関する記憶だけを上手に引き抜いていった。そんな器用な真似がどうしてできるのか、自分でも少々不思議な気持ちになりながら。
そこには、白いガラケーが視界に入ろうものなら、しばらく目をそむけるか、俯くか、場合によってはその場から立ち去っていく自分の姿が見てとれた。学校で、職場で、通勤電車の車中で、街中のレストランで、俺は白いガラケーから徹底的に逃げて暮らしていた。無意識のスペシャリストである俺は、それが自分でも滑稽に映るぐらいに逃避生活者だった。
もしかしたら幼い日の俺は、激しい失恋をしたのじゃないだろうか。母親に買ってもらった白いガラケーで、まだランドセルを背負った俺は、オレンジ色したベストがよく似合う女の子を昼休みの校庭で見染めて、生まれてはじめて愛の告白をしたのだ。まさか自分がフラれることなんて想定もせずに。この世界には叶わない夢が存在することなんて想像すらせずに。相手が自分の想いを両手を広げて迎えてくれるものと信じて疑わずに。
そして見事にフラれてしまった男の子は、あまりのショックに高熱に見舞われ二三日寝込んで学校を休み、その間に自らが発する高熱を利用して、頭の中から女の子にまつわる記憶を抹消したのだった。
そんな滑稽な考えが思い浮かんでならなかった。それほどに記憶にあらわれた俺の存在は、哀れで痛々しく馬鹿馬鹿しかった。
「こうなったらαと直接お話しするのがいいかと思いはります」
電話で斎藤さんは言った。ここ数日の間に俺の身の回りで起きたことを包み隠さず伝えたあとに。
斎藤さんは区役所の窓口で子育て相談課の職員として働いている最中だった。俺は相変わらず会社の倉庫にいた。なるべく手にしたガラケーが視界に入ってこない角度で耳に当てていた。
「αと話すって、いったいなにを話すんです?それにもらったパンフレットにはαは英語で地球人と会話すると書かれてましたけど。俺は宇宙人と会話できるほど英語はできませんよ」
「日本語で大丈夫です。彼らはその気になれば何事だって喋れますから。日本語でαにいたずらをやめるように注意するのがいいかと思いはります」
「それを妻のお腹に向かって話しかけるわけですか?」
「それはなさらない方がいいかと思いはります。なにしろ奥様は今が一番大事な時期ですから」
そこで斎藤さんは一呼吸置いた。アカデミー賞の壇上に立ったプレゼンターみたいに。これから栄えある作品賞の発表をすべく、区役所の窓口で封筒を開ける音が聞こえてきそうだった。斎藤さんはついにカードに書かれた文字を読み上げた。
「動物園に行くのがいいかと思いはります。そこでなら人目を気にせずにαと話しができると思いはるのです」
斎藤さんの元に誤った封筒が手渡されたような気がしてならなかった。
たしかにαはクマではあるけども本当のクマではない。奴らはれっきとした異星人だ。しかも俺たち地球人より遥かに進化した。どちらかといえばクマと呼ぶよりはチューバッカと呼んだ方が正しい。そんなαが動物園の柵の中に入るものだろうか。動物園にいるαが目立たないということは、彼や彼らが、柵の中に入っている状態を指しているのだろう。しかし彼や彼らにしてみれば、柵に入らなければならないのは我々地球人の方であるはずだ。
これではまるで出来損ないのSF映画だった。出来損ないのSF映画がアカデミー賞をとれるはずがない。
おかしいのはそれだけではなかった。その日の斎藤さんの話し方はどこか変だった。いいや、そもそも彼の言葉は偽京都弁なのだから変なのはいつものことなのだけど、その日に限っては、その変具合がさらに変なことになっていたのだ。俺の方はといえば、かなり疑り深い神経質な傾向に陥っていたから余計にそう感じたのかもしれなかった。
俺はその神経質な傾向をフルに活用して斎藤さん言語を分析してみた。すると彼の話し方の変異がすぐに判明した。「はります」の「はり」を置く場所がいつもと違っていたのだ。これまでの斎藤さんは、その「はり」を自分に対してでなく必ず他人に対して使っていた。
俺の神経質な傾向に拍車がかかった。
「失礼なことを訊くようですけど、あなたは本当に本物の斎藤さんですか?」
俺は尋ねた。斎藤さんか、斎藤さんのフリをしているαに向かって。すると斎藤さんモドキは、俺が抱いている疑惑のすべてを予感するように答えた。
「もしも私の言葉遣いを疑ってらっしゃるのでしたら心配ご無用かと思いはります。私の言葉は天気のようにコロコロと変わるのです。私の言葉は昨日と今日では違っているのです。毎日少しずつ変化していると思われはります」
「どうしてそう思うのですか?」
「それは恐らく、私の言葉が私の理性とではなく、私の無意識とより深く結びついているためだと思いはります」
俺は考え込まずにはいられなかった。斎藤さんの言葉と同じぐらいに深く。うっかり自分が白いガラケーを耳に当てていることすら忘れてしまいそうなほどに。
俺は無意識の権化であるはずだった。その俺でさえ自分の言葉が無意識によってコントロールされていると考えたことなどなかった。
「それを証明できますか?」
「それはできないと思いはります。無意識を無意識の言葉によって証明するのは不可能です。ですからこのお話はいずれまた」
俺はふたたび黙り込んだ。斎藤さんは斎藤さんで、電話の向こう側で静かにこちらの言葉を待っているみたいだった。俺の理性はようやく口を伝って外へでた。
「分かりました。動物園に行きましょう」
話し合いの結果、翌日の金曜日に、混みはじめる前の早朝の電車に乗って、俺は一人で上野動物園へ行くことになった。善は急げだし、土日になれば動物園も混雑するだろうから、鼻の病気を考えれば、少しでも人波は避けたいところだった。午後の仕事がはじまる前に俺は会社に有給休暇を申請した。
でもそうまでしておきながら、その日の夜になると、俺は斎藤さんとの約束を後悔するはめになった。というのは、いつもの変身ショーの時間になっても白いガラケーはウンともスンともいわずに、超寡黙なアニメのヒロインみたいに静かなままだったから。もしかしたら白いガラケーに変身したところで毎夜の変身ショーは有終の美を迎えたのかもしれなかった。もしそれが事実だったなら、わざわざ電車に揺られて上野動物園まで行く必要も、αの顔を見る必要も、なくなるわけだ。百歩譲って動物園に行くのはいいとしても、αとの対面の方は俺はまったく気が進まずにいた。
翌日は良く晴れた動物園日和だった。晩春の青空を見上げていると、そんなことは絶対にないはずだけど、マユミが安定期に入って、空飛び妻として中央線の高架橋よりも遥か上空でワンピースの裾を揺らしている頃には、季節は初夏の様相をみせはじめていることだろうと考えずにはいられなかった。南寄りの爽やかな風がきっと彼女を包み込むだろうと。
でもひどい高所恐怖症の俺にしてみたら、はたしてそれがいいことなのかどうか、実感として今一つ理解することはできなかった。
駅まで歩いていくのはずいぶん久しぶりだった。マンションの駐輪場に残した通勤用の自転車を見て、マユミが心配するといけないから、駅までの道中にメールを送っておいた。特に理由にはふれずに、ただ今日は仕事を休んで動物園までクマに会いに行ってくるとだけ書いて。
動物園の開園よりもずいぶん前に上野に着いた。近所のお寺や不忍池周辺を散策して時間を潰している間にマユミからひどく短い返信メールがとどいた。その文面は、子供だった俺がガラケーにそのシールを貼り付けた、そして今になっても貼り付いている、超寡黙なアニメヒロインのセリフにどこか感じが似ていた。
俺は動物園の入場口に向かう途中まで彼女からのメールを見つめ、その意味について考えつづけた。
マユミからのメールには、ただ『トキハナテ。』とだけ書かれていた。
つづく