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空飛び妻・その④

これまで一度だって子供が欲しいと思ったことはなかった。それなのに運命の一日から、もしも自分たち夫婦が子供を授かっていたらどんな生活をおくっていただろうかと、毎日のように想像せずにいられなくなった。

ただしそれは、もしも自分たちの授かった子供が遠隔操作によって受精した宇宙クマではなく、地球人であったならどうなっていただろうかという、ほとんどブラックジョークめいた想像だった。いいやブラックジョークそのものだった。


あの日、俺は区役所の会議室で内心ドキドキでいた。斎藤さんの問いかけに、マユミが「産みはります!」と、偽京都弁で即答するんじゃないかと思って。俺たち二人を離れた席に座らせたのは、べつに俺の鼻の病気を気づかってのことではなくて、夫の口と手がとどかない場所に妻を置いておくための策略だったんじゃないかって。

でもマユミはまだ正常だった。まだお腹のクマに操られてはいなかった。俺と同じように常識ある民として平気な顔で「産みはらません」と言ってのけた。


それでも安心はできなかった。区役所からの帰り道、グレゴリーのリュックから早くもその日二本目となるハチミツのチューブを取りだした彼女の姿を見て俺は思ったものだ。もしかしたら俺たちのせっかくの給付金はハチミツ代に消えてなくなってしまうんじゃないかって。マユミが斎藤さんの質問に真面に答えることができたのは、ただ単に妊娠が判明したばかりで、さすがの宇宙クマもまだ人間を操れるだけの能力が備わっていなかっただけなんじゃないかって。

でも彼女の旺盛な食欲ぶりとαの妊娠期間を考えたなら、お腹のクマの成長は時間の問題であり、じきに俺の不安が現実化するのは火を見るより明らかだった。悪夢の幕はすでに静かに開いていたのだ。

こうなったら夫である俺自身が残り三ヶ月の間、気をしっかりと持ち、体力的にもベストなコンディションを保ちつづけることが重要だった。少なくとも夫婦のどちらかが出産に反対すれば、お腹のクマは三ヶ月後には消えてなくなるという話だったから。


区役所詣での翌日から俺は自転車通勤をはじめた。都心の職場までは10キロ以上の距離があったけど、近所のホームセンターで買った安価な小型の折りたたみ式自転車でもそのぐらいなら問題はなかった。満員電車のポリバケツ地獄を考えれば、自転車通勤は雨の日でさえ遥かにマシだったし、健康的でもあった。

転職して間もない新しい職場は幸い人との接触がもともとごく限られた業務だったから、こちらもほぼ問題なかった。

最大の問題は家の中にあった。すっかり専業主婦状態のモンスター、マユミだ。彼女は一人で優に十人分のポリバケツに匹敵した。本来なら一番リラックスできるはずの自宅が俺にとっては一番の難所であり戦場になった。

協議の結果、しばらく俺たちは家庭内別居の選択をとることにした。現実的に考えてそれ以外の選択肢はなかった。その悪臭はもしかしたら俺の頭を洗脳する可能性だってあったのだ。

マンションの間取りは2DKだったから、ほぼ一日家にいるマユミが居間をとって、ほぼ仕事から帰って寝るだけの俺が寝室を取った。


家庭内別居のアイデアは深く考えることなくごく自然な流れとして、区役所からの帰り道にはもう俺の口からでていた。マユミは歩道で自分のトレーナーの袖を犬みたいにくんくん嗅いだあと、しぶしぶその案を受け入れた。

夫婦のコミュニケーションはすべてスマホを通して交わされるようになった。最初のひと月の間に俺たちが直接言葉を交したのは、月に一度の区役所詣での日だけだった。

昼になるとマユミから写真つきのメールがスマホにとどいた。それは妊婦のお腹を撮影した所謂マタニティ写真というやつで、会社の倉庫で一人コンビニ弁当を食べながら、Tシャツの裾をたくし上げて撮影したマユミのセルフポートレイトをしばし眺めることが俺の日課になった。


αの妊娠期間が地球人のそれよりもずっと短いためだろう、マユミのマタニティ写真を一週間分まとめて見てみると、子供みたいに真っ平らだったお腹がすでに少しずつ膨らんできているのが分かった。満ちていく月の様子を毎夜同じ場所から撮影した連続写真を鑑賞しているかのようだった。

これが普通の夫婦なら二人の愛の結晶ともよべる写真を拝み見て、癒されることだってあったのかもしれない。けれども俺たちが授かったのはαだったから、癒されるどころか昼休みがくるたびに俺の心はブラックホールに吸い込まれ、会社の倉庫から宇宙の果てへと、小さな毛むくじゃらの生き物と一緒にどこまでも落ちていくようだった。

でもそれは同時に俺がまだ真面な精神状態でいる証拠でもあった。もしもαの刃に本当にかかっていたなら、マユミのお腹の写真を見た俺は、男として、夫として、そして父親として、決意を新たにし、午後からの仕事に人一倍励んでいたことだろうから。


「ねえ、私たちが最初に出会ったころのことまだ憶えてる?」

マユミは唐突に訊いてきた。

「よく思いだせない。鼻のせいかな」

俺は嘘をついた。とてもじゃないけど昔を懐かしがっているような気分じゃなかった。壁を隔てたスマホ越しでもそれは伝わったのかもしれない、すねた子供に物語を読んで聞かせるようにマユミはつづけた。

「私たちはね会社の屋上で出会ったの。その会社では、昼休み以外に屋上に上がってくる社員は私とあなたぐらいなものだった」

それはもう何度も口にし耳にした、マユミ制作による、俺たち夫婦の出会いをテーマにした二人のお気に入りのジョークだった。

「私たちは似たもの同士だったのかも。二人とも同じぐらい冴えない表情をしてたから。まだ直接言葉を交わしたことはなかったけど、似たもの同士だった二人は、やがて同じ悩みを抱えるようになった。知らず知らずのうちに同じ心配事を心の中で共有するようになってたの。屋上で相手の姿を見かけるたびにその不安はいよいよ大きくなっていった」

夫婦仲に暗雲がかかりそうになると、どちらからともなく俺たちはそのジョークを口にした。二人の関係はそもそもお互いの勘違いからはじまっているのだと。だったら目くじらを立てる必要がどこにあるのか、と。そうやって自分たちを茶化すのだ。俺は気をとり直してあとの台詞を引き継いだ。

「俺たちはいつまでたっても会社の屋上から離れることができなかった。屋上の柵をよじ登りそうな相手を心配して。そこから離れるにはどちらかが言葉をかける以外にもう方法がなかった」


最後に俺たちはお約束の小さな笑い声を立てて締めくくった。それはジョークではあったけど、半分か、いいやそれ以上、真実が含まれていた。俺たちの出会いはお互いの勘違いからはじまったのだ。もちろん二人とも屋上の柵をよじ登る気なんてさらさら持ち合わせていなかった。

俺の機嫌は直ったけど、それとは関係なさそうにマユミは言った。

「空飛び妻になったら、私は本当にあのビルの屋上から飛び立てるかも。そしたらどこか遠い場所に行こうかな。なんならあなたも一緒に連れていってあげてもいいけど。それでも私に産んで欲しいとは思わない?」

「うん、思わないな。君は?」

「今はまだ神のみぞ知るってとこ」


失意の日々をおくる夫とは正反対に、マユミの様子は絶好調だった。彼女が落ち込んでいたのは区役所に行った最初の一日だけだった。

もしかしたらマユミは彼女なりに我が家の台所事情をずっと気にしていたのかもしれない。独りで勝手に仕事を辞めたことに責任を感じていたのかもしれない。そんな負い目が給付金のおかげで解消して、ずっと家に閉じこもりがちだった反動もあってか、妊娠前よりもよっぽど忙しそうに毎日外出するようになった。

本当ならお腹にあんなものを抱え込んでいるわけだから、俺なんかよりよっぽどショックを受けていいはずだったし、それを心配して自転車通勤の初日には定時で仕事を終えて、猛スピードでペダルを踏んで帰ったのだけど、いざ戻ってみると部屋はもぬけの殻で、彼女が帰宅したのは俺よりも一時間はあとだった。


「斎藤さんの奥さんと上野の美術館に行ってたの。で、そのあと美術館の喫茶店でOGのみんなとお茶してたってわけ」

壁の向こう側でマユミが言った。家庭内別居二日目の夜だった。

「斎藤さんの奥さん?」

「そう。午前中に斎藤さんの奥さんからメールがきたの。そんな話聞いてなかったからビックリしちゃった」

マユミは元空飛び妻たちをOGと呼んだ。OGは東京だけでも50人はいるらしかった。斎藤さんの奥さんはOG会のまとめ役であり、同時に新人の空飛び妻のために区役所で開かれている空飛び教室のベテランインストラクターでもあった。マユミはその空飛び教室に早速誘われたらしいのだ。

「黒い大きなゴーグルを顔につけるの。そうするとね、目の前に本物そっくりの街が現れるの。VRシステムっていうんだって。知ってる?空飛び妻たちはね、方向転換するときに背中のリュックの重心を上手に利用するの」

「その話はいいよ。それより、どうしてそんな訳の分からない怪しい教室にのこのこ参加したんだい。断ればいいじゃないか」

「それに参加するとまたお金がもらえるのよ。今度のは特別社会活動給付金とかいってた。とにかくいろんな特別給付金があるみたい。だからこの際もらえるものは全部もらっちゃおうと思って」

「それこそ彼らの思う壺だよ。君はまんまとαの術中にはまってるんだ」


特別社会活動給付金?そんな話は斎藤さんの説明にはなかった。あんまり給付金制度が複雑なものだから話を端ったのだろうか。いいやそうじゃない。わざと説明しなかったんだ。そういう策略なんだ。

マユミの話どおり、きっといろんな特別給付金があとからあとから涌いてでてくるのだろう。金に困ってる貧乏な若夫婦は、目の前に次々にあらわれる棚から牡丹餅についつい我を忘れて手を伸ばしていく。そして気がついたときにはもうあと戻りできない場所に連れてこられてるって寸法なのだ。

「斎藤さんの奥さん、人を騙すようにはぜんぜん見えなかったけど。旦那さんと同じ、いい人っだった。でもそんなふうに私が思うのも操られてるってこと?」

「だからこれからはあらゆることを疑ってかかった方がいい。なにしろ彼らのバックにはαがいるんだし、αのバックには月の裏のマザーシップが控えてるんだ。やろうと思えば奴らはなんだってできるはずだ。で、上野の美術館の方はなに?まさか美術館に行くと給付金がもらえるわけじゃないよね?」

「それがそのまさかなの。アート鑑賞特別給付金っていうらしいんだけど」

「嘘だろ」

「嘘よ。決まってるでしょ。あらゆることを疑ってかからなきゃだめだって、いま言ってたばかりじゃなかった?」


俺の説得はそれが重要であればあるほどマユミには効果がなかった。出会ったころからそうだった。子供でも見破ることができる嘘に容易に引っかかるような人間の洞察力が、人生の曲目において当てになるはずがないというのが彼女の言い分だった。

自分で言うのもなんだけど、たしかにそれは一理あると思う。どういうわけか俺は出会った頃からマユミが口にする、とるに足らない嘘にいとも簡単に引っかかっる傾向があった。いつも頭の隅っこに、そんな嘘を妻がたまにつくことを記憶しておくように心掛けてはいたのだけど、つい油断してその心掛けを疎かにしてしまった頃合いを見計らって、マユミは罠を仕掛けてくるのだ。なぜだか彼女にはそのタイミングをよく心得ているようだった。しかもそれは出会った当時からそうだったから、まず間違いなくαの仕業ではなかった。


あるいはそれは俺の落ち度ではなく、これまでマユミが日々の生活の中で進化させてきた彼女の独特な才能なのかもしれなかった。その才能がαの妊娠出産によって覚醒するようなことがあるのかもしれない。それは空飛び妻たちの身の上に等しく起こる出来事なのだ。そうであったなら彼女たちのいささか遅い才能の開花についてもおおよその説明がつく。

空飛び妻たちのもともとの職業は千差万別だけども、αの出産後、以前のその仕事にもどっていった女性は皆無らしい。それは仕方のないことだと思う。俺には想像するぐらいしかできないけど、αの出産はそれぐらい大きな体験なのに違いない。大気圏の外側から地球を眺めた宇宙飛行士みたいに、決定的な思考の転換をもたらすのだ。でもそれだけではない。αの妊娠と出産は、きっと彼女たちに様々な変化をもたらすだろう。メンタルな部分だけでなく、細胞や神経レベルで。


マユミは俺の忠告を無視して、それから三ヶ月あまりの間、日曜日以外のほぼ毎日を空飛び教室に通うことに充てた。

本来なら俺はなにがなんでも彼女の区役所詣でを止めるべきだったのかもしれない。少なくとも説得はつづけるべきだったのかも。でもトレーナーの裾をまくって夫に送るお腹の写真をスマホで撮影したあとに、図書館から借りてきた読みかけの短編小説とチューブのハチミツをグレゴリーのリュックに入れ、お昼前にはいそいそと玄関をでて区役所に向かって行く彼女を、どうやって止めることができただろう。

できるはずがない。少なくともそのときの彼女は会社勤めをしていたころよりずっと生き生きしていたし、仕事を辞めた直後にくらべたらまったくの別人と言ってもいいぐらいだった。

俺が彼女にしてやれることよりも、αのそれの方がずっと多くて遥かにハイレベルのように感じた。でもそんなふうに弱気になるのは、俺の方こそαに操られてきている証拠なのかもしれなかった。


どうしてだか俺には異星人相手の孤高奮闘な三ヶ月間を無事にやりとおせるという、まったく根拠のない無謀な自信があった。それはどんな催眠術師の催眠術であっても自分だけは絶対にかからないといった、自己迷信的な自信だった。俺に催眠術をかけられるのは俺だけなのだという思い込みの。

でもマユミのお腹がいよいよ目立ちはじめると、俺の自信は強風に旗が煽られるポールのように揺らぎはじめるのだった。

マユミはこれまでのティーンエイジャーめいたファッションをやめて妊婦用の大きめなワンピースを着るようになった。その下に着古した長袖のコットンTシャツを合わせるのが彼女流の着こなしだった。もちろんワンピースはOGたちのお勧めの店で買ったもので、なんでもアメリカのOGたちが共同で立ち上げたワンピース専門店の製品を扱っている店らしかった。

OGたちはお腹が引っ込んで空を飛ぶことができなくなったあとでも、ユニホームのようにみんながワンピースに身を包んでいた。それが彼女たちのアイデンティティの証であり、海を超えた団結の象徴でもあるみたいに。


休憩時間にスマホに送られてくるマユミの姿はもうどこから見ても一端の空飛び妻だった。いつだって宙に浮き上がりそうに見えた。いやもしかしたら夫には黙っているだけで、実際にはすでに浮くことも飛ぶこともできるのかもしれなかった。空飛び教室で使用されている区役所の一室の床をスッと離れて、窓枠にワンピースの裾をこすらせながら、しかし彼女自身の体はどこにも触れることなく、外の空間へと滑るようにして移動していけるのかもしれなかった。仕事帰りに交通量の多い大通りに自転車を停めて、開けた場所から夕暮れ時の西の空を仰いでみれば、そこにはどこか見覚えのある、まだちょっと飛び方のぎこちない、ワンピース姿の空飛び妻の小さな影が、見られることがあるのかもしれなかった。そうしたなら、彼女も俺の方に気がついて、嬉しそうに手を振ってくれるだろうか。


はたから見てもお腹が大きくなってきたのが分かるようになっても、マユミは空飛び教室通いをやめなかった。彼女の話では、お腹の変化はまったく体調に影響がなく、むしろ以前よりも調子がいいくらいであるらしかった。

帰りの時間が夫よりも遅くなることも依然多かった。出産後のOGたちはアーチストに転向した女性が大勢いて、彼女たちは日程が重ならないように東京のあちらこちらで毎日のように個展や、発表会や、食事会を開いていた。マユミは斎藤さんの奥さんグループと一緒にそれについてまわっているようだった。まるで空飛び社交界にデビューしたての若き貴婦人みたいに。


二回目の意思確認の日が間近にせまった夜、俺はマユミに彼女の真意を尋ねた。でもそれがパンドラの箱を開ける結果になってしまった。彼女の嘘に引っかかったわけじゃなく、その夜、俺は墓穴を掘ったのだ。

「君はもしかしてαを産みたくなったんじゃないのかい?」と俺は訊いた。するとスマホのスピーカーから乾いた笑い声が聞こえてきて、「あなたやっぱり私がαに操られてると思ってるのね」とマユミが言った。

「だって毎日楽しそうに空飛び教室に通ってるからさ」

「あれはお金のためだって言ったじゃない」

「そうすると君は結果的にOGたちを裏切ることになるんじゃないの?」

「みんな分かってくれてるわ。私の好きにしていいって。あなたはどうなの?この一ヶ月でなにか心境の変化はあった?」

「ないよ。同じだよ。俺は絶対に産んでほしくない」

「どうして?」

「どうしてってどうして?」

「だってよく考えてみて。産むのはあなたじゃない、私よ。あなたは産む必要も育てる義務もないわけ。だったら私に産むように勧めた方があなたにとってはずっとメリットがあるんじゃないかしら」

「物理的なメリットと精神的なメリットは別だよ。どんなに物理的なメリットがあったとしても、自分の奥さんに異星人の子供を産んでくれとお願いする夫なんていないよ。精神的なデメリットが大きすぎる」

「いるわよ。お願いしたかどうかはともかく、少なくとも精神的なデメリットを乗り越えた、空飛び妻の夫たちが。私たちよりずっと幸せそうに見える斎藤さんが」

こうしてその夜、俺は墓穴を掘ったのだ。それは残り三ヶ月にも及ぶ、俺自身の暗くて惨めな記憶をめぐる旅のはじまりだった。知らず知らずのうちに、俺は文字通り自らを葬ったはずの墓地に、何十年かぶりに足を踏み入れていた。旧式のガラケーを最新のスマホに握り変えて。


乗り越えた?いったい世界中の斎藤さんたちはなにを乗り越えたというのだろう。いいや、そもそもそんな命題があったとして、それは本当に乗り越えなければいけないものなのだろうか。本当にそれを斎藤さんは乗り越えたのだろうか。俺にはマユミの言った意味がよく理解できなかった。

あるいは俺は斎藤さんに会いにいくべきなのかもしれなかった。マユミが斎藤さんの奥さんに会いにいってるみたいに。そして二人切りの区役所の会議室で斎藤さんにこう質問するのだ。「宇宙クマを産んだ奥さんと一緒に寝るのはどんな気持ちですか?」と。「αが去ったあとにも、ふとした日常生活の中で、奥さんの背後にその影を感じてしまうことはありませんか?」と。「もしも奥さんが今度こそ本当に二人の子供を妊娠したとき、あなたはその子が本当に自分の子供だと断言できる自信がありますか?」と。「もしも産まれたばかりの子供のあり得ない部分に、あり得ない毛が生えているのを見つけたら、あなたはどうするつもりですか?」と。

温厚な斎藤さんは人懐こいキツネ目の笑顔をキープしながらも、その右手はプルプルと震えだすかもしれない。赤い蝶ネクタイとブレザーの下に隠れた古傷に塩を擦り込まれたみたいに、苦渋の表情を一瞬浮かべるかもしれない。


しかし不思議だったのは、どうして一番肝心のところで、俺はあんな間抜けな台詞を口走ったのかということだ。

もしかしたら俺はやっぱりマユミにハメられてたのかもしれない。高度に進化させた会話術によって、俺はそんな言葉をつい口にするように誘導尋問されていたのかもしれない。夫の注意力よりも妻の進化する速度の方が勝っていたのかもしれない。

あのとき俺は物理的メリットと精神的メリットの天秤など持ちださず、素直に「君が産むのを嫌がってるから」と答えていればよかったのかもしれない。でもどっちにしても俺がその台詞を口にするのは無理だったはず。だって心の中で、俺はマユミが三ヶ月のうちに夫を裏切ることになると、信じ込んでいたわけだから。


二回目の意思確認の日、俺はマユミよりも少し早目に玄関をでた。スマホでは毎日会っていたけど、生身の彼女と面と向かうのは一ヶ月ぶりだったから用心に越したことはなかった。いつもより耳栓を強めに鼻穴にねじ込んで、予備のマスクも忘れず持って家をでた。

「お久しぶりです。元気でいらはりましたか、同士よ」

業務用みたいな区役所の裏口に立って待っていた斎藤さんが言った。ひと月ぶりの笑顔、ひと月ぶりの偽京都弁だった。

耳栓を鼻穴にねじ込んで、その上にマスクをしている男に向かって元気でいたかと尋ねるのもどうかと思うけど、どうやらしばらく会わないうちに俺はただの一区民から同士へと昇格したらしかった。

でもそれはなにかの間違いだ。俺が彼らの同士であるはずがない。


マユミは少し遅れて斎藤さんと一緒に会議室に入ってきた。メールのマタニティ写真で毎日見てはいたけど、ひと月ぶりに会ったマユミはなんだか首から下だけ別人みたいに見えた。それでも洗いざらしの水色デニムのワンピースは彼女にとても似合っていた。

「元気そうじゃない」

マユミも斎藤さんと同じようなことを言った。それでどうやらその種の言葉が空飛び妻の夫にたいするジョークの挨拶になっていることが俺にも分かった。

前回とまったく同じ席順で、俺たちは斎藤さんを頂点にした三角形の形で席に着いた。

「それではこれから第二回意思確認を行いたいと思いはります」

はたしてその場にそんな形式ばった開催宣言が必要なのかどうか分からなかったけど、斎藤さんは仕切り役らしくつづけた。

「ひと月が経ちまして、こうしてお二人に再会できはりましたことを大変嬉しく思います。どうでしょうか、ひと月が経ちましてお気持ちに変化はあらはりましたでしょうか。心の準備はよろしいですか?では早速お尋ねいたします」

その会は最初と最後ばかりで中間というものがなかった。斎藤さんは前回と同じ調子で俺たちに訊いた。

「産みはりますか?産みはらませんか?」

「産みはらません」

「産みはります!」

俺とマユミは同時に答えた。


つづく



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