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空飛び妻・その③

たしか朝の天気予報では、お天気キャスターの女性が「暑くも寒くもなく、なにをするにも快適なお天気です」と言っていたはずだった。

もしも彼女の言ってたことが真実だったなら、俺はその日、狭苦しい駅のトイレで快適に吐いて、地球人の子供を身ごもるよりも先に異星人の子供を妊娠してしまった妻と、快適に通りを歩いていたことになる。

でも本当にその通りだったのかもしれない。長い目で見れば、ずっとあとになって思いだしてみれば、その日、俺におこった出来事は全部いいことだったのかもしれない。塞翁が馬みたいに最終的には快適さにつながっていたのかもしれない。いいお天気キャスターというのは良き預言者であったのかもしれない。

でもそれはずっとあとになってからようやく理解できることで、当日の俺は大ハズれの天気予報のせいで上から下までびしょ濡れになってしまった勤め人よろしく、いいやそれ以上に、朝から天気予報士とその明るい笑顔を呪いつづけていた。


空は晴れてるのに朝から土砂降り状態だった。人生の土砂降り状態だった。

区役所に着いても快適な一日がやってきそうな気配はどこにもなかった。石造りの低い塀に囲まれた、年季の入ったホワイトベースめいた九階建ての建物の玄関には、狐顔の男が、朱い蝶ネクタイの上に人懐こい笑みを浮かべて立っていたけども、もしも彼が区民のよりよい生活のために区政にあらたに設けられた有能な区役所コンシェルジュであったとしても、その職能でもって俺たち夫婦の不快指数を下げることはできそうになかった。

たとえ世界中の区役所コンシェルジュを集めたとしてもそれは不可能だった。俺たちが抱えていたのはご近所のトラブルじゃなくて、宇宙的な難題だったから。にも関わらず、門から入ってきたこちらの姿を見つけるなり、蝶ネクタイ男は笑顔のお裾分けをするみたいに両手を広げて近づいてくるのだった。「どうですか、私のこの白狐めいた笑顔は。お気に召しましたか?」とでも言いたげに。まるでその狐目で宇宙的難題を解決できるつもりでいるみたいに。


最悪だったのは、その人懐こい笑顔の下に、シンボルマークの蝶ネクタイだけでなくポリバケツマークまでが五つも横並びにぶら下がっていたことだった。

思わず足を止めて振り返ると、マユミもキョトンとして俺の顔を見ていた。人並み以上の歓迎を区役所から受けるような覚えはまったくなかった。俺たちはただ一時給付金が欲しいだけだった。誰も近くによって欲しくなかった。それなのに蝶ネクタイ男はこちらの都合などお構いなしにどしどし近づいてくる。思いっきりハグでもしそうな勢いで。

もしそんなことにでもなったら気を失いかねない。仕方なく俺は最終手段としてマスクの下で息を止めることにした。

すると蝶ネクタイ男は俺を迂回してマユミの両手をとり、出所の怪しい京都弁でこう言った。

「ようこそおいでくらはりました。中野区役所へようこそ。お待ちしとりましたよ」


斎藤さんは区役所コンシェルジュではなかった。斎藤さんは京都出身でもなかった。彼は中野区の子育て相談課の職員だった。より正確に言ったなら中野区子育て相談課特別臨時職員だった。彼は京都市の子育て相談課の職員ではなく、京都市子育て相談課特別臨時職員でもなかった。

それなのに斎藤さんは京都弁を話した。京都弁を話しているときの斎藤さんは幸せそうに見えた。そして斎藤さんはいつでも京都弁で話したから、たいてい上機嫌そうだった。ちょうどその頃の俺とは真逆の位置に彼はいた。

「いつの間にやら、これしか喋られへんような身体になってしまったんです」

五つのポリバケツを並べながら、朱い蝶ネクタイの上に細面の白い笑みを浮かべて斎藤さんは言うのだった。


斎藤さんの京都弁は所々おかしかった。それは関東の人間でさえ注意深く耳を傾けなくてもすぐに分かるレベルで、実際その土地で生まれ育った俺とマユミにも、会った日に彼の言葉が聞き覚えのあるそれとはどこか違う、得体の知れない偽京都弁であることに気がついた。それはあたかも碁盤目の路地裏で、無理矢理に標準語を京都弁化したあとに神社にお供えしたかのような代物なのだ。

それを聞いた者の反応は呆気にとられて表情が固まるか、困って半笑いになるかのどちらかだった。マユミの場合は後者で、まるでファンタスティックな生き物を見るかのような妻の視線に気がついた斎藤さんは、はじめて会った日にこう言った。

「ああ、どうかお気にしなはらないでください。私の京都弁は少々おかしなことになっとりますので」


「産みはりますか、産みはらませんか?」

机の向こうで斎藤さんが聞いた。

「産みません」

「産みません」

俺とマユミは同時に答えた。別々の場所から。

そのとき俺たちは子育て相談課の窓口ではなく、区役所内の会議室に三人でいた。窓はなかった。白い蛍光灯の明かりの下に長机の列が正方形に並べられていた。三人は斎藤さんを頂点に三角形になって、それぞれ距離を置いてパイプ椅子に腰掛けていた。そこは安全地帯だった。俺はやっと生きた心地がしていた。

その日、斎藤さんは同じ質問を二回した。給付金の申請にやってきた区民の夫婦に交互に視線をおくりながら。

「お二人には本日の最後を含めましてあと三回、出産の意思確認の質問をさせていただきはります」

「あと三回も?」

「はい。αの妊娠期間は四ヶ月ですので、月に一度のペースになります。その間にお気持ちにもしも変化があらはりまして、出産の意思が確認された場合は、直ちに契約書にサインしていただき、あらたに特別一時給付金が支給されることにならはります。特別一時給付金は一時給付金よりもかなり高額支給になっております」

「いくらお金を積まれたって、俺たちの気持ちに変化は起きないと思うけど。だって相手は異星人なんだから。金でどうにかなる問題じゃない」

「それはよく分かります。皆さん最初は戸惑いますけども時間が経つにつれて心境に変化が起きる場合もあらはるようです」


俺とマユミは会議室の机と机の両端からお互いの顔を見た。それによって三ヶ月後の自分たちの姿が透視できるみたいに。

「それはつまり......最初は産まないと言っていたはずの夫婦の中に、結果的にαを出産したケースが過去にあったということ?クマだよ。チューバッカだよ。たとえ高額の給付金がもらえるからって、そんな事実があるとは思えない。あり得ない」

地上の常識の民を代表して、俺は呆れ気味に言葉をつづけた。

「あなたの話を聞いてると、俺たち夫婦にαを産んでもらいたがってるように受けとれるんだけど、そんな方針でもあらはるわけ?」

「ええ、じつはあらはるのです。でもそれだけではないんです。私は個人的にもぜひあなた方にαを産んでいただきはりたいと思っているんです」

皮肉めいた俺の言葉に斎藤さんは少しも嫌な顔は見せずにこたえた。まったく空いた口がふさがらなかった。この世にクマみたいな異星人の子供を産むことを推薦する人間がいるなんて信じられなかった。


斎藤さんは狐目の細い目をさらに細め、朱い蝶ネクタイを鳥居みたいにテカらせ、参拝者に幸福をもたらす尻尾のついた神使さながら話をつづけた。

それに対して俺は彼の幸福の提案らしきものを一つ一つ握り潰していった。そうしないと気がついたときには契約書に判を押していたなんてことになりかねない。俺たちには一時給付金だけで十分だった。

「なぜならばそれは素晴らしい、人生を豊かにする、この上ない体験であらはるからなんです。考えてもみてください。自分たちの子供が宇宙のどこかで私たちのことを見ててくらはるんですから」

「そんなの考えただけで気持ち悪いよ。それから自分たちの子供って言い方はやめてほしい」

「分かりました。すみません。でしたらこういうのはどうでしょうか。奥様は空を飛ぶことができるのです。空を自由に飛ぶことは、まさに人類の永年の夢ではあらはらなかったでしょうか。その夢を奥様は実現できる数少ない選ばれた女性にならはれるのです」

「空飛び妻は人類の恥だってみんなが言ってるけど。わざわざ自分たちの恥を世間に公表する必要もないと思うな」

「そうですか。それではこちらはどうでしょう。αを出産することは、新しい何十人もの家族の一員にならはれることなんです。私たちはみんな一つの大きな家族なんです」


俺は斎藤さんの喋った言葉の意味が分からなかった。意味の分からない言葉を否定することはできない。するとそれまで黙っていたマユミが口をひらいた。中野区役所の会議室に宇宙からのメッセージがとどけられたような気がした。

「あの人の奥さんはαを産んだのよ。空飛び妻だったのよ。つまりあの人が言ってるのは、αを出産すれば、あなたたちも私たちのサークルに入れますよってこと。べつに私は入りたいと思わないけど」

俺はマユミのお腹のクマがまたどこかと交信したのかと思った。でもそうじゃなかった。彼女はつづけた。

「あなたが持ち帰ったパンフレットに書いてあったわ。区役所の窓口ではα系夫婦の職員が対応しますって」

斎藤さんはマユミが出産を拒否したことよりも、自分たちのサークルを否定されたことよりも、彼女にあの人呼ばわりされたことの方がショックだったように見えた。彼は帰ったことなどないはずの京都に帰りたそうだった。朱い蝶ネクタイも心なしか艶が落ちてしょんぼり気味だった。すると斎藤さんはそんな自分を奮い立たせるかのように偽京都弁を連発してみせた。そのおかしな一語一語が彼自身のアイデンティティの証しであるかのように。

「御出産には必ず御夫婦での同意が必要にならはりますので、もし御夫婦のどちらかの同意でも得られはれなかった場合には、お腹のαは遠隔操作によって三ヶ月後の意思確認のあとに必ず自動消去されることにならはります。なにもご心配はいらはりません」

斎藤さんはそこで一呼吸置くと、冷静さをとり戻して、最初と同じ質問を俺たちに向けた。

「それでは最後にもう一度お尋ねします。産みはりますか、産みはらませんか?」

「産みはらません」

「産みはらません」

俺とマユミは同時に答えた。


つづく

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