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空飛び妻・その②

一説によると、α系妊婦があらわれるようになってからというもの、ずっと停滞していた出生率が劇的に上昇しはじめたらしかった。

それというのも、異星間妊娠をするのは子供のいない既婚の女性ばかりだったから。誰だって異星人の子供なんて産みたくはないのだ。

それでも自らすすんでどこかの銀河からやって来た異星人の子供を身ごもりたいと手を上げる変わった夫婦も、少数派ではあったけども、いるにはいた。

そのほとんどは宇宙的な友好などとは無縁の、ただただ子供手当だけが目当てという、超打算的な目的の夫婦らしかった。というのもα星人の子供は産むだけ産めば、彼らが勝手に回収してくれるから。たぶん巨大なUFOキャッチャーみたいなのが空からから降りくるんだろう。あとには子供手当だけがα系ハゲタカ夫婦に残されるという按配なのだ。


それでも異星人の子供を産むという行為は大変なことには違いないし、もし万が一、α星人の気持ちが途中で変わってしまって、悪い男みたいにお腹の子供を残したままバイバイ地球人といったふうに、マザーシップごと太陽系の外へトンズラしてしまうという可能性だってなくはない。

だからその代償として、彼らハゲタカ夫婦がわずかな手当を財布に入れたとしても、それはそんなに不当な行為とは言えないかもしれない。

もっともそういった濡れ手に粟を目論んだ夫婦がα星人の子供を宿したという話はこれまで耳にしたことがない。もしもそんな夫婦がいたら、巷にはお腹の中の異星人画像が大量に出回っているはずだから。でもインターネットに氾濫しているのは、タコみたいな、ヨーダみたいな、偽α星人ばかり。もしかしたら異星人にもネットの監視会社みたいな仕事があって、八本の足を巧みに動かしながら、社員たちが日夜ネットパトロールに勤しんでいるのかもしれない。あるいは探偵を雇ってあらかじめ身辺調査をしておいて、口の堅い地球人の夫婦だけを選んでいるのかもしれない。

はたして俺たち夫婦の口が堅いかどうかは分からないけど、どうやらα系夫婦になるべく選ばれてしまったらしい俺とマユミは、その日ははじめて本物のα星人の子供を、正確に言ったならα星人と地球人との間にできた子供を、この目で見ることになった。


別れ際にドクター・ヨーダから授かったアドバイスは、いつどんなときも夫婦手をつないで離れないでいるということだった。ただしそれは日常生活での心得というわけではなくて、病院内での立ち振る舞いのことだ。言いかえればα系夫婦の作法であり、そこにはあらかじめマスクは外しておくという注意事項も付け加えられていた。なぜならマスクをした夫というのはα系夫婦のシンボルの一つだから。α系妊婦こそ、真っ当な妊婦たちがもっとも近くにいてほしくない種類の女性たちなのだ。


そんなわけで俺は老医師の教えを守って、マユミの手を握り、マスクを外して、子育て相談課のパンフレットはズボンのポケットに押し込んで、自分たちの苗字が呼ばれるのを待った。

緊張気味に産婦人科のソファーで肩を寄せ合っている俺たちは、どこからどう見ても、はじめて子供を授かった初心者マーク付きの夫婦だった。向かいのソファーに腰掛けた、すでにお腹がだいぶ大きくなったベテラン妊婦でさえ、目の前にいる女性のお腹の中に異星人の赤ちゃんがいて、横の夫の方は今まさにこれまでの人生で最強最悪の吐き気に襲われている真っ最中であり、どうにか口だけで呼吸をしようと悪戦苦闘中であったとは、夢にも思わなかったことだろう。


そんな院内カモフラージュ効果を狙ったドクター・ヨーダのアドバイスは、俺たち夫婦のためにも有益なアドバイスになった。

異星人の子供を身ごもるという奈落の底に突き落とされた状態で、それなのに夫の鼻ときたら思春期を迎えた子供のハート以上に敏感になってたものだから、これでもしヨーダ医師のアドバイスがなかったら、マユミを一人残して俺は軽く千光年は離れた廊下の隅に立っていたことだろう。そしてその夫の裏切り行為は、きっと取り返しのつかない傷を彼女の心に刻んでいただろう。

それぐらいにマユミの落ち込みようは酷かった。それはどんなふうに落ち込んだらいいのか、それすら分からないような途方の暮れ方だった。背中にグレゴリーの黒いリュックサックを背負いながら、お腹には小さなブラックホールを抱え込んでるみたいだった。

夫であるはずの俺は、彼女になに一つ言葉をかけてやれず(つまり口呼吸しかできなかったから)、逆につないだ手をα星人の子供に引っ張られて、お腹のブラックホールの中に引きずり込まれてしまうんじゃないかと、なかば本気で心配していた。


そんな有様だったから、ようやく看護師に呼ばれて診察室に入ると、俺はすぐにズボンのポケットから耳栓を取りだしてそれを鼻穴に突っ込み、その上から口と鼻をマスクで覆った。そうすれば自ずと口だけで呼吸ができるようになるのだった。

不健康そうな医者たちの中でもとりわけ不健康そうな老医師に診てもらったあとに、俺はそれまで一度もお目にかかったことがなかった、顔艶のとてもよい医師にはじめて出会った。

もっとも、それがはじめてだったのにはちゃんとした理由があった。ピンク色の頬を持ったマトリョーシカを思わせるその女性医師は、産婦人科の医師だったのだ。


女性医師は健康そうなだけでなく、優しくて、もの分かりのよさそうな、修道院のシスターみたいな中年女性だった。ただしポリバケツの数は顔色の悪いドクター・ヨーダと同じ三つ半だった。それなのにシスター医師の臭いが老医師よりもずっと抑制されているように感じたのは、横にモンスター級のマユミがいたせいに違いなかった。

診察台に横たわって、お気に入りの小説の文章がプリントされているトレーナーの裾をまくったマユミは、その華奢な体つきに似合わずさらにパワーをアップさせて、マスクと鼻穴に突っ込んだ耳栓の二重の防御をものともせずに、付き添った夫の神経を麻痺させようと、ヘソから強力なガスを噴きだしているように見えた。

それはまるで『エクソシスト』の悪魔にとり憑かれた少女と神父を連想させる構図だった。俺にしてみればまったく信じられないことだけど、女性医師はその臭い噴出口の真下に手を置いて、妻のお腹の上にパソコンのマウスに似た医療器具をあてていた。その姿は静かに困難な局面に立ち向かう、本物のシスターめいていた。


「私たちはこれを単にαと呼んでいます。〈異星人の子供〉や〈宇宙からの生命体〉と呼ぶことも、あるいは〈αベイビー〉などの愛称をつけて呼ぶこともありません」

シスター医師は言った。優しく歌いかけるみたいに。

三人の視線の先にあったのは、マユミのお腹の中を映しだした白黒のエコー画像で、そこには〈異星人の子供〉でもない、〈宇宙からの生命体〉でもない、〈αベイビー〉でもないなにかが、生きているなにかの影が、砂嵐を思わせる荒い画面上にハッキリと浮かびあがっていた。シスター医師はつづけた。

「感情移入は禁物です。αの存在はご夫婦の意志とはまったく関係なく発生したわけですから、これを産むか産まないかを決めるのは、完全にお二人の自由意志なんです。なんの道徳的な責任や義務を感じる必要はありません。ですからαを出産すると決めて正式にサインするまでは、お二人にもこれをただ単にαと呼ぶことをお薦めします」


シスター医師の意見は正論のように思えた。俺はモニターに映しだされたそれを〈異星人の子供〉とか、〈宇宙からの生命体〉とか、あるいは〈αベイビー〉と呼ぶつもりはなかったし、それに対してなんの責任も義務も感じてはいなかった。

だからシスター医師の意見に異論を差し込む気はなかった。彼女はあくまでも俺たち夫婦のことを考えて助言してくれていたのだし、彼女はプロで、俺たちは新米のα系夫婦だったのだから。

それでもシスター医師の言葉に耳を傾けているうちに、彼女がある一点に関して、注意深く避けるように話しているのが分かった。モニターを見れば誰だって気がつきそうなことを、彼女はあえて触れないようにして言葉を選んでいた。


その影は地上に存在しているあるものの形によく似ていた。誰だって、子供だって知ってる、いいやむしろ子供の方がよく知ってるかもしれないあるものに。

それは俺たちを少しだけ安心させた。てっきり宇宙タコだとか宇宙カマキリだとか宇宙ナメクジみたいなものを想像していたから。そんなものが妻のお腹の中でうごめいていると恐れていたから。

けれども実際のそれは宇宙タコみたいに八本足じゃなかったし、宇宙カマキリみたいな鎌も持ってなかったし、宇宙ナメクジよりはよっぽど人間に近い形をしていた。

だからといって俺は嬉しくなったわけじゃなかったし、好きになったわけでもなかった。ただ最初に考えていたよりは少しマシになっただけだった。どん底だと思っていたのが、どん底の中の下ぐらいになっただけだった。


そのときにはてっきりマユミも俺と同じ考えでいるもんだとばかり思っていた。あるいはそれよりも少し悪い。診察台の上で一身にモニターを見つめている妻の表情を、俺のいる場所からは伺い知ることはできなかったけど、なんといっても彼女は当事者であるわけだし、まだ本当の子供を産んだことだってなかったんだから。

でもそうじゃなかった。俺が右と言ったらマユミは左。上と言ったら下。こんにちはと言ったらさようなら。俺たち夫婦はいつもそんな感じだった。そしてその夫婦のセオリーは、驚くことに異星人との子供という、まったく未知のジャンルにおいても当然のような顔をして当たり前に適用されたのだ。


俺の目に入ったのは、ほとんど意味不明な英語の文章だった。それはマユミが着ていたトレーナーのデザインで、彼女お気に入りの外国作家による小説が原文のままプリントされている。俺も以前、翻訳されたものを彼女から薦められたことがあったけど結局読まずじまいだった。彼女はその俺が読まなかった小説の原文を両手でずり上げて、興味深そうにモニターに見入っているところだった。俺ははじめて訪れた病院の、それも産婦人科の診察室で、唐突にデジャヴを感じた。

マユミの集中の仕方はちょっとおかしかった。本来なら目をそむけたくなるのが普通のはずだ。自分のお腹の中にそんな生き物がいるんだから。神経の細かい人だったら気絶したっておかしくない。

それなのに彼女ときたらまさに電車の窓に流れる風景を熱心に見つめる子供だった。裸の好奇心がヘソをだして診察台に横たわっていた。


俺はひらめいた。もしかしたらマユミはこの経験を小説にするつもりでいるんじゃないかって。

でもそれはそんなに悪くないアイデアのように思えた。実際に出版できるかどうかはべつにして。いいや、たぶん、きっとできないだろう。もしもその題材が許されるのなら、とっくにどこかのα系妊婦が書いてるはずだ。それこそ英語でも。

またしても幻に終わった妻のデビュー作を、彼女が見ていない場所で手厚く埋葬してやるべく、診察台から静かにおろそうとしたとき、マユミがモニターに見入っている本当の理由をポツリと口にした。それは俺の耳に彼女の幻のデビュー作より何倍も悪いアイデアのように聞こえた。


「かわいい」

たしかにマユミは診察台の上でそう言った。モニターのそれを見つめて。俺は夫として恥ずかしくてならなかった。だってそういう子供じみた言葉を口にさせないように、シスター医師はわざわざ遠回りして言葉を選んでいたわけだから。それなのにマユミときたら、まるで授業中にうわの空でいる出来の悪い生徒みたいだった。

ただし彼女のことだけを批判するわけにはいかない。俺は俺で、あと少しのところで「もしかしたらα星人はチューバッカみたいな連中ですか?」と質問しそうになったから。

シスター医師は出来の悪い夫婦に気を悪くした様子もなく、優しい笑みを浮かべているだけだった。どこまでも慈悲深いシスター医師なのだ。あるいはこれまでにも何度か同じ惨事に立ち会ったことがあったのかもしれない。自らの説明不足を補うかのように、モニターに目をやりながらシスター医師はつづけた。

「本当のα星人を見たことがある人間はいないそうです。NASAの責任者やアメリカの大統領でさえ会うことはできないそうです。一説によりますと、αの体毛は成人する前には抜け落ちて、それとともに短かかった手足は成長過程で長く伸び、最終的にはかなり人間に近い姿になるのではないかと考えられています」


病院をあとにした俺たちは歩いて区役所に向かった。天気のよい昼下がりで、暑くも寒くもなく、ときおり心地ちよい風が街路樹の葉を揺らしながら吹き抜けた。平日のこんな時間に二人で街中を歩けるなんてめったにないことだったけど、夫婦で散歩を楽しめるような心境ではなかった。

シスター医師の話によれば、区役所でα系夫婦の登録をすると一時給付金がもらえるらしかった。そんな制度があるなんて、子育て相談課のパンフレットには載ってなかった。「α系夫婦への世間の風当たりは強い」というのがシスター医師の見解だった。

転職したばかりの夫の給料は激減だし、妻はなんの相談もなしに仕事を辞めてしまうしで、俺たち夫婦にとって給付金は喉から手がでるぐらいに欲しいものだった。善は急げということで、その日のうちに登録を済ませることにしたのだ。まったく他人をハゲタカ呼ばわりしている場合じゃなかった。


お昼をとっくに過ぎて胃の中だって空っぽであるはずなのに、臭いのせいでいくら歩きつづけても食欲は湧いてこなかった。

夫と一緒に店に入って、ちゃんとした食事をすることが限りなく不可能な行為であるのをようやく悟ったマユミは、途中で二十四時間営業のスーパーに立ち寄って一人でなにか買ってきた。中央線の高架橋の下で立ち止まって振り返ると、彼女は歩きながら半透明のチューブをチューチューと口で吸っていた。「それなに?」と尋ねると、「ハチミツ」となんでもなさそうに当たり前に答えた。

俺はゾッとして足を止めた。ジョークにもなっていなかった。昨日までなら驚くようなことじゃなかったろうけど、そのときにはすでに〈ハチミツ〉は特別な意味を持つ食材になっていたのだ。中華アレルギーの人にとって餃子やチャーハンが特別な意味を持っているように。


「あなたも欲しい?体にいいのよ」

マユミはまんざら冗談でもなさそうに言った。俺はすぐにでもその手からチューブをもぎ取って通りに投げ捨てたい衝動にかられたけども、首を横にふってみせただけで、高架橋の下を歩きはじめた。マユミは自分がなにを言っているのか全然分かっていないようだった。

それがはじめての瞬間だった。そのときようやく理解することができた。最初はあり得ない選択肢だと思っていたけども、十分に可能性があることに気がついた。マユミは、俺の妻は、あれを産む気でいるのだ。しかも彼女自身まだそのことに気がついていない。


エコー画像に映しだされたαはまるで子グマのようだった。それも本当のクマより、ぬいぐるみのクマにより近かった。だからそれを見た妻が、自分のお腹の中にそんなものがいることも忘れて、思わず「かわいい」とつぶやいてしまったのは仕方のないことのように思えた。だってクマのぬいぐるみといったら犬や猫のそれより、子供たちから大人たちにいたるまで、世界中で人気があるもんだから。だからこそシスター医師は感情移入せず、あだ名もつけないようにと注意したんだろう。俺たちがあっという間にあれに感情移入して、あだ名までつけてしまうことを知って。


たった一度、出合い頭みたいに「かわいい」と口にしただけなら問題はなかった。でもハチミツまででてくると状況はガラリと変わる。普通ならチューブのハチミツはホットケーキとかトーストにかけて使うものだろう。直接口につけてチューチューとはしないだろう。まして歩きながら。

マユミは悪霊にとり憑かれた少女になりかかっていたわけだ。出合い頭だったはずの「かわいい」は、日々増えつづけていくことになるだろう。

そしてその悪霊は俺の鼻にもとり憑いていた。それは病気なんかでなくαのせいに違いなかった。あのクマには人間を操る力があるんだ。俺の鼻がそれを証明していた。

ある日突然、俺以外の人間が全員とてつもなく臭くなるなんてあり得ない。でも奴にかかったら、そのあり得ないことが可能になる。きっと俺の脳味噌のどこかをいじくったんだろう。まだ生まれる前から遠隔操作が得意なのだ。そういう生き物なのだ。

だとしたら奴がマユミをコントロールするのはもっとたやすいことに思えた。だって奴はすでにそのお腹の中にいるんだから。マユミに産む気がなくったって、奴が彼女をそう仕向けるのは十分に考えられる。いいや、間違いなくそうするだろう。そのためにわざわざ舟に乗って遠い星までやってきたんだ。


俺はふたたび昼下がりの通りに立ち止まった。はたしてマユミがまだ本当の妻であるのかどうか、俺が知ってる彼女であるのかどうか、クマ星人に心を乗っ取られていないかどうか見定めるために。

俺とマユミは目が合い、彼女の瞳の奥には夫の俺が映っているはずだった。言葉では誤魔化せても、瞳は嘘をつけないと思ったんだ。もしもクマ星人が彼女を操っていたなら、そこにはなにかしらマユミらしくない反応が露出するはずだと。

でも彼女の瞳に俺の姿は映っていなかった。マユミは俺のことなんて見ていなかった。

サワサワと街路樹の葉を鳴らして、都会の風が彼女の短い髪をゆらしていた。マユミは登山人よろしくリュックサックのショルダーに両手をそえて、山の頂上を仰ぐように空を見上げていた。

それははじめて会ったときの彼女の姿に似ていた。彼女はいつもそんなふうに会社の屋上のフェンス前に立っていた。またしてもデジャヴの風にやられながら、マユミの視線を追って俺もあごをあげた。


長い裾のワンピースが青空の下で紐にとめた洗濯物みたいにフワフワはためいていた。ちょうど五階建てのマンションの高さぐらいのところに。

チューブのハチミツは持っていないようだった。ワンピースは半袖で、白い生地に水色のチェック柄が入っていた。下には薄黄色の長袖Tシャツが合わせてあった。足元はたぶんニューバランスで、なにが入っているのか分からないけどマユミと似たような黒いリュックサックを背負っていた。

それはグレゴリーのリュックサックなのかもしれなかった。空飛び妻たちは飛びやすいという理由によって、みんながグレゴリーのリュックサックを愛用しているのかもしれなかった。中には読みかけの小説が入っているのかもしれず、さらには予定外の寒さ対策のためにカーディガンとかフリーズも入っているのかもしれなかった。あとミネラルウォーターも。ちょっと重たくなるけど、用心にこしたことはないし、実際に彼女たちは用心深いから。


薄黄色の長袖Tシャツには、お気に入りの外国小説が原文のままプリントされているのかもしれなかった。空飛び妻たちはみんな、書きかけの小説をどこかの銀行の金庫か、滝の裏にできた洞窟に隠しているのかもしれなかった。

彼女たちに内緒でそれを全部持ちだしてきて時間をかけて一つに繋げたら、それは長い長い一つの物語になるのかもしれない。俺たちはみんなその長い長い物語に目をとおして、いつの日か彼女たちにこれまでの非礼を涙ながらに謝罪することになるのかもしれない。でも俺たちの大嫌いな空飛び妻たちは、なんのことだか分からずにきっとポカンとすることだろう。


彼女はマユミよりもずっと年上で、俺よりもまだちょっと年上に見えた。もともと体格がよさそうだったけど、大きくなったお腹と凧みたいに広げた両腕のせいで、よけいに貫禄がついていた。丸い顔に内がわにカールしたショートヘアがなんだかよく似合っていた。

α系妊婦が安定期に入ると臭いが消えるというのは本当らしかった。嗅覚スイッチを入れても彼女の前にポリバケツは一つもあらわれなかった。俺にとってあの時点での彼女は、たとえ宙に浮かんでいても、地上でただ一人のまともな人間だった。

空飛び妻を見ると、みんなあの膨れたお腹の浮力で彼女たちが飛んでるものと錯覚をおこすけど、その日の俺はもっと正確で詳細な機密情報を手に入れていたから、より具体的に、彼女のお腹の中で成長した赤ちゃんクマがサーカスのクマよろしく自転車をこぎこぎ、飛行のために必要なエネルギーを発電している様子を難なく想像することができた。


彼女がマユミのことを知っているのは容易に察しがついた。上空から地上のマユミを見下ろしていたし、そもそも空飛び妻があんな低いところにとどまってるのを俺は見たことがなかった。彼女たちにとって見知らぬ土地での低空飛行は危険行為になるはずだった。それなのに力一杯に石を投げれば届きそうな場所にとどまっているということは、あの空飛び妻はわざわざマユミに会うために飛んで来たのに違いなかった。

それにしてもどうしてマユミの居場所が分かったのだろうか。いいやそもそも、どうやって彼女がαクマを妊娠したことを知ったのだろう。病院のコンピューターをハッキングしたのだろうか。

いいや違う。クマなのだ。お腹のαクマがクマ同士で交信しているのだ。


奴らには人間にはできないことができる。空を飛んだり交信したり。まだお腹にいる段階でこれだから、いったい大人になったらどんなことになるか分かったもんじゃなかった。きっと大人になった奴らが束になってかかってきたら人間も地球もひとたまりもないだろう。

α星人脅威論を説く人々は世の中に大勢いた。俺はそれについて深く考えたことはなかったけど、そのときになってようやく彼らの気持ちが実感として分かったような気がした。たしかに奴らは脅威だ。それも一時給付金付きの脅威だ。

「おめでとー」

頭上から女性の声が降りてきた。空飛び妻が嬉しそうに薄黄色したTシャツの袖をふっていた。彼女はマユミを祝福するためにきたようだった。新しい仲間の誕生を、空飛び妻を代表して。

いったいなにがめでたいのか、なにがかわいいのか、俺にはさっぱり分からなかった。でもマユミはその祝福にこたえるように上空に手を振りかえした。俺は自分でもよく分からないうちに「バカ、よせよ」と言って、とっさにその手を力ずくで下ろさせた。見上げると、空飛び妻が一瞬寂しそうな笑みを浮かべて俺の方を見たような気がした。彼女はワンピースの裾をひるがえして、お腹の大きな変わった鳥みたいに西の空へ飛び去っていった。


つづく

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