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足湯下車

世の中にはほんとうに魔法の学校に入りたくて、9と3/4なる数字の駅のプラットホームを真剣に探し求める人があとを絶たないと話には聞くけども、わざわざ遠くロンドンまで足をのばさなくとも、時刻表に記されていない電車ぐらいならば、私が毎日のように利用しているここ東京の中央線にだって存在する。


もっとも、その電車に乗車することがあったとしても、本人の努力ならばいざ知らず、例えばとある乗客『カリソメさん』が、その後天才的な魔法使いになって、見込みのない恋を成就させたり、いきなりIT企業の社長になったりするようなことは、カリソメさんの遠い将来を含めても決してない。

ただ、いつもの駅でその電車をおり、自宅についたときに、カリソメさんの体はそれまでよりずっと調子がよく、気分まで軽やかになっているぐらいのことはあるかもしれない。カリソメさんが仕事や諸々の事情でお悩みならなおさらだ。


かく言う私がはじめてその電車に足を踏み入れたのは、日中の暑さが嘘のように冴えた空気へとかわる9月も終わりに近いおそい夜のことだった。

新宿駅のホームに入ってきた電車が妙に空いていたのを今でも私は覚えている。

いつもなら残業を終えたサラリーマンやOLでいっぱいのはずなのに、その電車はまるでテスト運行の車両のように人気がなかった。

扉が自らの意志で乗客を招き入れるかのように開いた。

天井の明かりだけが煌々としていた。


私はてっきりどこかの駅で事故があったのかと思った。その影響で折り返し運転でもはじめたのかと。

そういえば、プラットホームにも人の姿はまばらだ。もしかしたらぼんやりしていて聞き逃したか、駅のアナウンスがあって、ほとんどの客は総武線なり他の交通手段を利用しているのかもしれなかった。

私はホームの電光掲示板を見上げた。行き先は『西荻窪』とあった。そこからまた折り返し運転をするのだろうか。私がおりる吉祥寺駅より一つ手前だが、せっかく座れるのだし、その夜にかぎり、できるだけ帰宅時刻を引き延ばしたかった私は、ひとまず無人電車に乗って西荻窪までゆくことに決めた。


私は鉛のように重い体を無人のシートにあずけた。考えれば午後に会社をでてからというもの、飲まず食わずで歩きどおしだったのだ。私の足腰はすでに限界点をこえていたが、それ以上に神経のほうは憔悴しきっていた。

はたしてこの日、我が身にふりかかった災難を家でまっている妻にどう伝えればいいか、私はそればかりをずっと気に病んでいた。電車に乗ってからも、妻の落胆した表情が脳裏から消えることはなかった。

気がつくと窓の外にあらたな駅のホームの風景が見えた。

私が考え事をしていたのはほんの十数分のはずだったけれども、まるで見知らぬ最果ての町駅にたどりついたような気がした。

夜の中央線では新宿をすぎた途中駅からも一塊りの乗客がドアから乗り込んでくるのが常だけども、その最果てのプラットホームには、最果てのサラリーマンが一人ポツンと立っているだけだった。

電車は私たちを引きあわせるかのように、ちょうど二人を正面に停車してドアを開いた。


男性客は座席にいる私を見て驚いた様子だった。なんで『私の電車』にあなたが乗ってるんだ、みたいな顔をしていた。

だが、それも一瞬のことで、男性は車内に足を踏み入れると、今度はうちとけたようなまるい笑顔をみせ、私にむかってお辞儀までするのだった。

はて、どこかで会ったことがあっただろうか。私にはその記憶はなかったが、たとえ初対面であろうと人生の局面であろうと、礼には礼で答えるのがこの国の習わしだ。私はうちとけた笑顔はつくらなかったが、失礼のないぐらいのお辞儀はした。


男性はむかいのシートの端に腰をおろした。私と同じ営業畑の勤め人のように見えた。歳は一回り上ぐらいか。褐色のよい社交的な中年男性らしかった。

電車はふたたび走りはじめた。窓の外に『西荻窪』の駅の表札が流れて消えた。はて、たしかこの電車はその『西荻窪行き』ではなかったかしらん....。


どうやら事故の復旧作業が終わって、正常なダイヤにもどったらしい。つぎはいよいよ吉祥寺駅だ。車両の振動とともに、私の家庭的不安も否応なしに加速していった。

すると、さきほどの男性がなにやらチラチラと嬉しそうに私の方を見ているではないか。ああいうのをえびす顔とでもいうのだろうか。しかし、怪しいといえばじつに怪しい。本当にどこかで面識があったのかもしれないが、少なくとも私にはその記憶がないし、笑談をかわせるような気分でもない。

やはりここは知らんふりをしておくのが一番だ。私はすかさず狸寝入りを決め込んだ。


その演技がよほど真に迫っていたか、電車が停止するよりさきに誰かが私の肩に手をおいて、一言「着きましたよ」と呼びかけた。

この車両に乗客は二人きりだから、その誰かが誰であるのか、私はまぶたを開けなくとも察しがついた。しかし不思議なのは、どうして男性に私の降りる駅が分かったのかということだ。やはり顔見知りだったか 。

いずれにしても、私は私よりも私自身の行動をより良く記憶している人とは縁故をもちたくない性分でもあったので、男性の親切には悪かったけども、寝起き、またお辞儀だけをして、そそくさとその横をすりぬけ、開いたばかりのドアからホームへ降りた。


悪夢のつづきを見ているようだった。最果てのそのまた果ての駅。私は私がよく知ったはずのプラットホームに立ちつくした。そこには人の姿だけでなく、吉祥寺駅の面影さえ見つけることはできなかった。

どうやら私は逆方面の電車に乗っていたようだ。だとすると、ここは千葉の田舎駅ということになる。いったい疲れ果てたこの心と体を、我が家の湯船で癒せるのは何時のことになるやら....。

いいや、待て。一瞬ではあったが、たしか私はさっきこの目で『西荻窪』の駅の表札を見たばかりではなかったか。それに新宿駅の電光掲示板で確認した『西荻窪行き』の文字。やはり私は逆方向の電車などには乗っていないはずだ。

そのときだった。私の記憶が私自身を呼び覚ましたのは....。


『西荻窪行き』ではなかった。新宿の電光掲示板の文字、あれは『西西荻窪行き』と光っていた。そんな駅の名前は聞いたこともないが、たしかに『西』が一つ多かった。

私はホームに駅の表札を探した。それはすぐ横の柱に見つかった。やはり『西』の文字が一つ多い。しかし、こんな中途半端な駅が、こんな中途半端な場所に、いつできたのだろうか....。


「もしかして、この駅に来るのははじめてですか?」

過ぎ去った無人電車の騒音とともに、背中で男性の声がした。

私は三たびお辞儀だけをしてその前を通り過ぎたい気分もあったけども、彼ならこの状況を上手く説明してくれるかもしれなかった。なにしろ、存在感がないと毎日のように営業部長から叱咤されていたこの私のことですら覚えているぐらいなのだから。

だが、いつもたいていそうなのだが、私の予感は今回もハズれた。男性の質問にうなずいてから「どこかでお会いしましたか?」とたずねた私に、彼はただ首を横にふってみせた。


私は腹を決めた。『西西荻窪』なんて所は知りもしないが、その名前から判断して、わが吉祥寺とは目と鼻の距離のはずだ。これ以上の体力の消耗は危険レベルであることは十分承知していたが、私は徒歩で帰宅することを英断した。

すると男性が口をひらき、営業マンらしい人当たりのよい声で言った。

「ここで会ったのもなにかの縁でしょうし、よかったら御一緒しませんか」


てっきり私は男性がタクシーを同乗していこうと誘っているのかと思った。きっと仕事でもよく利用しているのだろう、懐には大量のタクシー券を所有しているのだろう、と。

だが、それもやはり私の早合点だった。男性はまだ口にはしていなかったが、この『西西荻窪』にはある秘密があったのだ。男性はそれを「御一緒しませんか」と誘っていたのだった。

そしておそらくは私の反応の一挙一足から、男性はこの人物がはたして秘密を共有できる人間であるかどうか、見定めようとしていたのかもしれない。きっと小生が狸寝入りしている間もしっかりと。


しかし、『西西荻窪』初心者である私はそんな裏事情は知る由もなく、家にははやく帰りたくはないが、そうかといってこれ以上歩きたくもなかったがゆえ、恥も外聞もあっさりと捨てて、初対面の男性に快く相づちをした。そして先輩についてゆく新人営業マンよろしく、ホームの階段をおりていったのだ。



『西西荻窪駅』には利用客どころか駅員の姿も見あたらなかった。まるですべての住人が迫りくる大災難にそなえて街を放棄していったかのような静けさなのだ。無人の構内に命知らずの二人の営業マンの靴音だけが響いていた。

私たちは自動改札機をぬけた。扉の音が駅の建物全体にこだましたようだった。


売店には商品が陳列されていた。コーヒースタンドからは煎れた豆の香りが漂っていた。ただ、人の姿だけが嘘のように消えていた。そこにはついさっきまでの駅の活気がおきざりにされたままだった。ふり返れば、電車を降りた人波の足音が今にも階段から押しよせてきそうな。

だが、雑踏のざわめきはついに聞かれず、かわりに男性が「こっちです」と言って、私に手招いてみせた。

彼は『西西荻窪駅』の東口にむかって歩いていった。


ここまでくればいかに勘の鈍い私であろうとある程度予測できたことだが、『西西荻窪駅』のロータリーには案の定、人影はなかった。ティッシュ配りも、チラシ配りもいない。明かりのついた交番はもぬけの殻だ。

そして当然のごとく、私が帰宅の足にと目論んでいたタクシーも一台も停まってはいなかった。いささか不安になった私は問いつめるように男性の横顔を見た。いったいなにを「ご一緒」するつもりだったのか、と。

すると男性は私を見て、「あれですよ」とどこか誇らしげにロータリーの中央を指さしたのだ。


はたしてどれくらいの人が喜ぶかはしらないけども、中央線沿線の駅のロータリーでは、たいていどこでも利用客を噴水が出迎えてくれることになっている。ただ、『西西荻窪駅』にそれはなかった。

たしかに噴水はなかったけれど、『西西荻窪駅』のロータリーにはそれとよく似たものはあった。もっとも、私がその違いに気がついたのは、男性の指先を目で追ったずっとあとだった。


白い霧が夜の空気にとけ込もうとしていた。その薄いベールにつつまれてスーツ姿の一人の女性の姿が見えた。噴水らしき縁にたたずんで、まるで喫茶店の席にいるように胸に開いた文庫本に目をおとしている。

私はとうぜんのごとく女性の行動を疑った。これが真夏の熱帯夜ならまだ話はわかるのだが、季節はもうすっかり秋の入り口に立っていた。それなのに、その女性ときたら、スカートの裾からのぞいた両脚を噴水の水面の中につけているのだ。

すると、彼女の名誉をばん回すべく男性が口を開いた。

「ご安心を。言いおくれましたが、私はここの『足湯』の管理人を勤めている者です」


私にはたしかに存在感はないだろうが、良識ぐらいは人並みにそろっている。私のそれは男性の意見を半分だけうけいれた。つまり、霧のように見えたのはじつは湯気であり、かの女性が両脚をつけているのは噴水の水面ではなく、足湯なのだということ。

だがしかし、やはりここは中央線沿線の駅のロータリーであって、観光名所の温泉地ではない。私も営業職という仕事柄、都内某所の数々の駅前噴水は見てきたはずだけども、それがかつて足湯になっていたというケースは一度たりともありはしなかった。


私はどうも自分が大がかりな悪徳商法に引っかけられているような気分になってきた。えびす顔の営業人、スーツ姿の謎の女、そして人生の局面にいる顧客と、すべて役者がそろっている。

男性はさらに商談をすすめるかのようにつづけた。むろん、顧客をその気にさせるえびす顔をたたえて。

「この『西西荻窪駅』で下車される乗客はそう多くはありません。仕事につまずいた人、人間関係やつらい恋に悩んでいるお方、そしてなによりも私たちと秘密を共有でき、ほかのお客様に迷惑をかけることのない品格の持ち主。そのような人だけが、あの足湯につかることができるのです」


さて、私に男性の言うような品格がそなわっているかどうかはわからないが、仕事につまずいていることはたしかだった。というより、はっきりと私はこの日の午後、会社を解雇されたばかりだったのだ。

営業部長に呼びだされ、副社長との面談のもと、私はそれを言いわたされた。それからどこをどうほっつき歩いたかは記憶にないが、気がついたときには、いつもとだいたい同じ時刻に新宿駅についていたという次第。


自称『足湯の管理人』、私に言わせれば『えびす顔の営業マン』たる男性は、電車に乗った小生の表情を見て一目でそれを見抜いたのかもしれない、私は単純にそう考えもしたけれど、どうも男性の心理眼はそれだけではなさそうだった。

彼のそのあとの言葉は、私にとって殺し文句のような威力を持っていた。

「さあ、お入りなさい。あの足湯は足腰の疲れだけでなく、あなたの心の悩みも解消してくれますよ。そうすれば、家で待っている奥さんにも、今日一日の出来事をすんなりと切りだせるのではないでしょうか」


そうなのだ。私の一番の悩みといえば、それは会社をクビになったことではなく、それをどう妻に伝えればいいのかということにあったのだ。危うくば、彼女には内緒のまま、そっと明日から再就職活動をはじめようかと考えていたぐらいだった。

渡りに船。悪徳商法だろうとなんだろうと、もはやどうでもよかった。私は男性のえびす顔に力強くうなずくと、白い湯気に誘われるようにしてロータリーの中央へと歩いていった。


私は靴と靴下を脱ぎすてた。先客の若い女性にどう挨拶すべきか迷ったが、彼女は一瞬顔をあげたきり、また目をふせたので、幸いその必要はなくなった。耳には音楽を聴いているのか、イヤホーンがしっかりとはまっていた。

私の鈍い直感では、どうも彼女は恋の悩みのほうなのではあるまいか。

まあ、それはいいとして、じつのところごく一般的な足湯をふくめたとしても、私がそれにつかるのはこれがはじめての体験だった。状況が状況だけに、私はなにか秒速単位の劇的な変化みたいなものを期待していた。


しかし、これといって特別なことはおきはしなかった。冴えた夜の空気の中で、暖かい湯に足をつけているのだから気持ちよいことはたしかに気持ちよいのだが、それ以上でもそれ以下でもない。

私はまるでデパートの屋上にある乗り物に乗せられたダダッ子みたいにうしろを振り返った。男性はそこに立っていた。営業用のスマイルをたたえた彼は、管理人というより今は温泉宿の番頭みたいに私の目に映った。



絵の中にいるように辺りは静かだった。猫一匹とおりはしない。聞こえるのはどこからか沸きだしているお湯の源泉の波音と、かすかに女性のイヤホーンからこぼれてくる音楽の断片的なフレーズだけだ。

そこで悪いとは思いながらも、ほかにすることもない私は、隣はなにをする人よろしく、隣人たるOL嬢を少し観察してみた。

細面のきれいな女性だった。ただ、人のことを言えた義理はまったくないけども、やはりどこか幸薄そうにも見えた。それが私をして、恋に悩んでいるように思わせたのかもしれない。

しかし、もしもそれが事実だったなら、彼女を悩ませている男はさぞかしモテる男なのだろう。まあ、そんなことはホレたハレたの世界からは、湯につかる以前からとうに足を洗っている小生にはどうでもいいことなのだが。


どうやら聞こえてくる音の断片を集めると、女性は私の知らないクラシック音楽を聴いているらしかった。

変な言い方だが、色恋などはべつにして、私は私の知らない音楽についてならば一言も二言も持っている。なにしろ我が家では、妻がいつも私の知らない音楽ばかり聴いているのだ。

そういえば、隣のOL嬢はどこか妻に感じが似ているところがあった。自分の伴侶を幸が薄いとは呼びたくないけども、猫背にして文庫本に目をおとしている姿など、かなり彷彿とさせるものがある。

妻もああした格好でよく居間のソファに座って読書をしている。これがまた私など見たことも聞いたこともないような本ばかりだ。それが彼女の趣味なのだ。私の知らない音楽を聴き、私の知らない本を読むことが。


これまでの私はいたって妻の趣味にたいしては無関心でいた。けれど、こうしてぼんやり足湯につかりながら、聞こえるか聞こえないかぐらいの音楽に耳を傾けていると、遠い昔に置き去りにしてきた懐かしい感性が芽生えてくるような感じがする。まるで子供のころに砂場に埋めておいた宝物をようやく見つけだしたような。

女性にはなお悪いが、私は隣にいるのが本当に妻だったらよかったのにな、とふと思ったりした。きっといまの私なら、そしてこの一風変わった環境なら、素直にたずねることができるのではあるまいか、と。この世界にあまねく私が知らない音楽や書物について。


もしかしたらこれも足湯の効能の一つなのかもしれなかった。そうでなければ、はやくものぼせたか。私は夜のはざまにかすかに流れてくるエーテルのような響きにもう一度耳を傾けた。

どこか子守歌にも似た優しいピアノの調べが聞こえてきた。いや、悪くない。誰がなにを弾いているのかさっぱり見当がつかないけども、少なくともカラオケボックスで幾度となく聞かされた営業部長のオハコよりはずっといい。


だがしかし、足湯につかりながらの子守歌はやはり状況が悪かった。気持ちよく聴いているうちに私はだんだんウトウトしてきてしまったのだ。車内での狸寝入りがアダになったのかもしれない。私は家の風呂ではそんなことはしたためしはないけども、外の足湯でついに本格的に寝入ってしまった。



目が覚めたとき、私は一人きりだった。麗しのOL嬢も、管理人の男性の姿も、どこかへ消えていた。

夢でも見ていたのだろうか。だが、私の両脚はあいかわらず湯につかったままだった。ふと悪い予感が頭をよぎって、内ポケットの財布に手をやった。それももとのままだった。

ふりむいて目をおとすと、私の革靴がきれいにそろえてあった。ご丁寧に小生が脱ぎ捨てた靴下が丸めておさまっている。誰がやったのだろう。願わくばOL嬢だと思いたい。


すると、慣れ親しんだ夜の静寂を破る騒音が聞こえてきた。高架橋の先に下り電車の明かりが見えた。

もしかしたら、あれが最終電車かもしれない。私はかまわず濡れたままの足に靴下をとおし、大急ぎで駅の改札にむかった。


開店休業の売店とコーヒーショップに別れを告げ、私は改札をぬけた。そして、階段を途中まで駆けのぼったところでようやくあることに気がついた。

足腰の疲れがすっかりとれていた....。


目下の電車には乗り遅れたが、時計を見ると、最終までにはまだ時間があった。逆算すると、私が足湯につかってウトウトしていたのは小一時間ばかりであったようだ。

しかし、私の感覚でいうと、最初にこの『西西荻窪駅』に足を踏み入れてから、もっともっと時間がたっているような気がする。寝起きの時差ボケではないだろうけど、なにか望遠鏡を逆にして、小さくなった一日の出来事を覗き見しているような感じがするのだ。

どうやらあの足湯には、たんに体の疲れをとるだけではなく、竜宮城のおとぎ話めいた、人の時間的な感覚を麻痺させるような効能があるのではあるまいか。それが訪れた人々の不安や迷いの気持ちを緩和させるのだ。ちょうど苦い恋の結末も、時がたてば思い出話の一つになってしまうように。


私の心もなんだか会社での個人的な災難が、遠い昔とは言わないまでも、少なくとも客観的に見られるまでには落ち着きをとりもどしていた。これならきっと妻にも冷静に話して聞かせることができるだろう。まあ、それについて妻の方がなんと言うかはわからないけども。


しばらくすると電車がホームに入ってきた。車内はいつもどおり残業帰りのサラリーマンやOLで混み合っていた。ふだんの私なら、その光景にかなりウンザリするところだけども、今夜ばかりは少しホッとした。

『西西荻窪駅』のホームで降りる客はいなかった。それどころか、乗客たちは電車がホームに停車していることすら気がついていないかのようだ。

私は開いたドア近くの空いたスペースに体をすり込ませた。私を見る者は誰もいなかった。


電車は静かに走りはじめた。おそらく、満員の乗客の中で、私だけが過ぎ去る『西西荻窪駅』のプラットホームを眺めていた。しごく中途半端な場所にある幻の駅を。

すると、誰もいないはずのホームのその先端に一人の人影が見えた。

まちがいない。『足湯の管理人』だ。

男性は私の姿が見えたのか、電車にむかって最後のえびす顔のお辞儀をしてみせた。


吉祥寺駅につくまでのごく短い間、私はドア越しの風景を見つめながら、あらためて不思議な心持ちがしていた。

無人の駅のロータリーで、ひっそりと誰かがおとずれるのを待っている湯の泉。もしかしたら夜が明けて、始発電車が走りだすころには、『西西荻窪駅』も、あの足湯も消えてなくなってしまうのかもしれない。そうして、ふたたび夜のとばりがおりるころになると、また忽然とあらわれるのだ。

日々の泡の中で戸惑いがちな人々のために....。


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