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空飛び妻・その①(改訂版)

鳥のように自由に空を舞うことは大昔から人間の夢だったはずなのに、実際にその力を手にしてみると、人々の反応は予想外に冷ややかなものだった。

それというのも、大地から離れることができたのはごく一部の人間だけで、しかもそれにしたところで期間限定で、さらにその形は彼らが望んでいたものとはかけ離れていたから。

翼をひろげた夢の残骸は、時間をかけて人々の心の中で骨だけになった無関心へと変化していったようだった。叶わないのなら最初からなかった方がマシというわけだ。結果的に多くの人間たちがこれまで以上に固く両足を地面にへばりつけ直したように思えた。


それでも中には夢を叶えた人たちもいて、じつは俺もその一人をよく知っているわけだけど、当然ながら知ってるだけで自分で飛んだわけじゃない。なにしろ俺は男だし、子供の頃からひどい高所恐怖症で、もしもこの身一つで大空に舞い上がったとしたら空中で心臓麻痺をおこして、きっと地上に真っ逆さまってことになってただろう。

地面に頭ごと突っ込まずにすんだ俺が一つ学んだのは、人は幸福のただ中にいるときそれには気づきにくいってことで、もしも運良く気がついたなら、なるべく他言は控えた方がいいってことだった。どうしても人に伝えたくなったなら、すべてが首尾よく収まってからにした方がいい。幸福っていうのは相当にシャイでへそ曲がりであるらしいから。


高架橋を走る電車の窓にオレンジ色した夕焼け空が広がっていた。電車は都心で働く仕事帰りの人々を乗せて、その白い光の中心へと向かって走っていた。まるで夜の闇を恐れて、沈む太陽を追いかけてるみたいな格好だけど、乗客が求めているのは暗い闇の方で、光に満ちた世界じゃない。誰も彼もが眠りに落ちていて、残りわずかな日の光には目もくれない。

彼らがうとうとしながら目覚めて、電車が駅のプラットホームに滑り込むころには、辺りにはすっかり夜の帳が下りていて、人々は人工の明かりが灯る郊外の街へ心置きなく帰っていくことだろう。


それでも残りわずかな光の中にささやかな幸福を発見をする乗客もいる。おでこを車窓に押しつけて飽きることなく外の世界を眺めている子供みたいに。

たとえばそれは電車のドアに寄りかかって俺の向かい側に立っている同世代のサラリーマンだったりする。紺色のスーツを身にまとった、世間的には働き盛りと呼ばれる歳の彼は、さっきからずっと子供っぽく夕焼け空の一点を見つめている。流れる風景のスクリーンに、こちらに向かって手を振る人影でも見つけたのだろうか。かつての自分にどこか似た仕事帰りのサラリーマンを見習って、俺も窓の外に視線を投げかけてみる。

オレンジ色と紅色のグラデーションを背景に小さな影が見える。それはちょうど高架橋を走る電車と同じ高さに浮いていて、注意しないと一羽の太ったカラスと見間違えそうな感じだ。ただ本当に太ったカラスと見間違えたら、それは同世代の彼に失礼というものだろう。だってじつのところそれはカラスでも鳶でも鳩でもないし、ちゃんと長めのスカートだって履いているのだから。

もっとも彼にとってそんなことはどうでもいい問題なのかもしれない。むしろ人間じゃない風変わりな鳥かなにかと見間違えてくれた方が好都合なのかもしれない。そうすれば彼らは誰からも邪魔されずに二人だけの時間を過ごすことができるだろう。


夕焼けサラリーマンは小さく窓から手を振ってみせる。まるでほかの乗客たちに二人のささやかな幸福を感づかれたくないかのように慎ましく。その薬指には銀の指輪が鈍く光っている。

いったい猛スピードで走る電車の外から、しかもかなりの距離を置いて、その小さなサインが確認できるのかどうか甚だ疑問ではあるけども、俺には上空に浮かんだ、なんだか風に吹かれた凧みたいに頼りなさそうな遠い影が、電車に向かって笑いながら手を振り返しているように感じられた。

あるいは二人の間では何時何分発の何両目の車両というふうに、あらかじめ約束が交わされているのかもしれない。そうでなかったら振り返されたように見えたその手は、そうあって欲しいという、俺の思い込みが作りだした錯覚だったのかもしれない。


俺はもう一度電車の窓から小さく手を振る夕焼けサラリーマンを見る。その薬指にはめられた鈍く光る指輪を見る。精神的にも肉体的にも厳しい状況にいるはずなのに、彼の素振りにはそんな様子は微塵も感じられない。今さっき教会で式を挙げてきたばかりみたいに、幸せのただ中にいるようにしか映らない。

それはかつて同じ状況に身を置いていた俺にしてみれば、驚異と賞賛に値する。そんな離れ業は俺には到底不可能だったし、正直に言ってしまえば、試しにやってみようとさえ思わなかった。当時の俺はどうしたらこの苦しい状況から脱出できるのか、そればかり考えていたはずだ。

だから、ほかの乗客にとってはごくごく平凡な勤め人としてしか見えない彼が、俺の目にはいよいよスーパーサラリーマンめいてくるのだった。ちょっと前までの情けない自分自身の姿と重ね合わせながら。


その異変は去年の秋、俺の体に突然起きた。そのときも同じように俺は電車に乗っていた。ただ勤め先に向かう朝の通勤途中だったから、夕焼けサラリーマンは乗車していなかった。

その日、代わりに俺の前にいたのはオレンジ色のネクタイを身につけたおしゃれな中年サラリーマンだった。パリッとした細身のスーツを着こなしていた。今では通勤電車の車中でネクタイを締めている勤め人自体が珍しかったけども、それでなくてもそのオレンジ色のネクタイは目についた。いいや鼻についたというべきか。その中年サラリーマンはなんだかひどく臭かった。


もしかしたら外国製の珍しい香水でも大量に振りかけているのかもしれなかった。微香性ならぬ激香性の。ある特定の女性たちの鼻には異国情緒あふれる魅力的な香りとして感じられるという触れ込みの。

でも俺が感じたのは同じ異国でも、異国のゴミ溜めの方だった。そこには情緒なんてなかった。その暴力的な臭いは俺の首筋に伸びてきて、巻きつきながらグイグイと締めつけるかのようだった。

周囲の乗客が平気な顔をしていられるのが不思議でならなかった。我慢の限界を超えていた。俺は混み合った車内で吊り革に掴まりながら、顔だけ横を向けてどうにかその場を凌ごうとした。だけどダメだった。まったく役に立たなかった。なぜなら、今度は横に立った若い男が臭いはじめたから。その酷い臭いが俺の鼻と首すじ目がけて忍び寄ってくる気配がはっきりと感じられた。


きっとひどく疲れてるんだろう、俺は思った。昔から肉体的に疲労が溜まってくると匂いに敏感になる質だったし、その頃はまだ転職したばかりで今より仕事にも慣れていなかったから。

それでも俺は自分のことは棚上げにして、本当に人間の男たちというのはロクな生き物じゃないと心の中で舌打ちしながら吊り革の手を離し、次の駅で降りる乗客の流れに便乗して、自分の鼻の安全のためにドア越しへと車内を移動した。

都心へ向かう朝の上り電車は大抵どこも混んでいる。降りる人々がいれば必ず乗り込んでくる人々がいる。つぎに俺の前に立ったのは、乗車してきたばかりの若いOL風の女性だった。彼女その長い髪にはつやつやした清潔感が漂っていた。俺は一安心して彼女に自分の鼻をあずけることにした。

けれども俺の鼻が安心できたのはほんの束の間だった。電車がホームから発車するまでのわずかな時間に過ぎなかった。

俺は絶句せずにはいられなかった。いったいどういうことなのだろう、安全だとばかり思っていたOL風女性の長いつやつやした髪が、男たちよりも一層激しく悪臭を漂わせながら、百匹の蛇みたいにニョロニョロと俺の鼻穴目がけて押し寄せてきたのだ。


俺はたまらず次の駅で電車を降りた。口に手をあてながらもがくようにホームのエスカレーターを下って改札脇のトイレに逃げ込んだ。朝の通勤途中に、しかもこんな場所で、吐くなんて生まれてはじめてだった。

それでも吐くだけ吐いて胃が空っぽになると、俺はデートの朝みたいに何度もうがいをして、またプラットホームへと舞い戻った。なにしろ転職したばかりだったから、これぐらいで仕事を休むわけにはいかなかったし、遅刻するわけにもいかなかった。ベンチに腰掛けて何本か通勤電車をやり過ごしながら体調が良くなるのを待つことにした。

でもその日、俺の体調はもとにはもどらなかった。ベンチの横にどう見ても害のなさそうなおばさんが腰掛けてきただけで、俺の鼻は犬みたいに反応して、空っぽであるはずの俺の胃は反抗期のティーンエイジャー並みにまたムカつきはじめた。


俺の鼻がおかしいのか、それとも俺以外の人々がおかしいのか。まるで朝になったら世界中の人間がゾンビになって、俺一人だけがまともな人間として地上に取り残されたような感じだった。しかもそのゾンビたちときたら見た目はいたってごく普通の人間と変わりないのに、殺人的に臭いのだ。

通勤電車の車内はそんな体臭ゾンビであふれていた。そこは普段通りの朝の通勤風景によく似た地獄絵図だった。

もはや仕事どこではなかった。その日、俺が会社にたどり着くのは限りなく不可能のように思われた。


下り電車に乗り換えた俺は地元の街まで戻って、そこで一番大きそうな総合病院に駆け込んだ。仮にこの症状が病気であったとして、出会う人間がすべて気絶するほどに臭いなんて奇病は聞いたことがないから、ある程度設備が整ったとこでなければ検査の仕様がないだろうと思ったのだ。

でもその判断は両刃の剣だった。大きな病院の広い待合室は予約済みの患者で一杯だった。どんなに医学が進歩しても世の中は相変わらず様々な病にあふれているようだった。そしてその日にかぎって言えば、様々な悪臭にも満ちていた。患者たちだけでなく白い制服に身を包んだ病院のスタッフまでが、酷い臭いを漂わせながら忙しそうに動いていた。

外来の俺は電子掲示板に自分の番号が表示されるのを待った。その間ずっと往来の少ない待合室の隅に立っていた。幸いそこはトイレのすぐ近くだった。マスクはしていたけども、あんまり役に立たってはくれなかった。砂嵐の中にレンズの入ってない眼鏡をかけて立たされてるぐらいなものだった。胃がこみ上げてくると俺はたまらずにトイレへと避難した。そこでなら好きなだけ吐けたし、なにより清潔な感じがした。


これまで俺は顔色のいい、いかにも健康そうな医者というものにお目にかかったことがないような気がするけど、その日俺を診察した小さな初老の男性医師はその中でもトップクラスに健康状態が悪そうだった。ヨーダみたいな顔艶をしていたし、健康診断をうけたら少なくても二つか三つは引っかかる持病がありそうだったし、当然のように物忘れは凄そうだったし、白衣を脱げばまず間違いなく医者ではなく患者の方に見えたはずだった。そしてやっぱり臭かった。でもそれは少なくとも彼の責任ではなかった。

俺はクルクル回る低い椅子に腰掛け、初診用の狭い診察室でドクター・ヨーダの体臭に悩まされていた。患者の悩みにウンウンと頷いて耳を傾けたあと、初老医師はゆっくりした口調で問診をはじめた。

「もしも私の臭さをポリバケツに例えるとしたら、いったい何杯分になりますかね?生ゴミが一杯に詰まって通りに並んでますよね、あのポリバケツですけども」

患者への親切心もあったろうけど、どちらかといえば、そのスピードでしか喋れないといった感じだった。それにしたっておかしな質問だった。ポリバケツ?思わず俺は聞き返しそうになった。でもそうしなかったのは、口よりも先に、医者を見る俺の視線にある変化がおきたからだ。


顔色は悪かったけども、長年の経験で養った医者としての技能はやぶさかではなさそうだった。初老医師のたった一つの質問によって俺の中で眠っていたある才覚が呼び覚まされたのだ。もっともそれを才覚と呼べればだけど。

ポリバケツ。その言葉が耳に入ってきた途端、俺の体内の嗅覚スイッチが入ったみたいだった。まるでスマートフォンのアンテナかバッテリー表示のように、俺の視界に小さな青いポリバケツマークがあらわれて、ドクター・ヨーダに重なるようにしてピッピッと横並びになったのだ。

それだけでも十分に変だったのに、さらに奇妙だったのは、そのポリバケツマークの数は目の前にいる医者の体臭を正確に表していると、なぜだか最初から納得できたことだった。

「ポリバケツ三つと半分ですね」

ドクター・ヨーダの顔を見ながらそう答えた。初老医師は気を悪くするどころか満足そうに頷いて、ど忘れする前に俺の回答を診察ノートに書き込んだ。その動作がさも自分の臭さにご満悦な様子に映って、なんだかおかしかった。


どうやら俺の答えは正解らしかった。医師の頷き方には、以前にもべつの患者に同じ質問をして、同じ回答を得たような既視感が漂っていた。俺が抱いた印象とは裏腹に、ドクター・ヨーダは自分の記憶力には妙に自信がありそうだった。

でもそのあらたな印象が正しかったとすると、俺を突然襲った奇病に悩まされている患者がほかにもいるということになる。

「結婚はされてますよね?」

初老の医師があらためて確認するみたいに聞いてきた。俺が記入した初診用のアンケートにも、指にはめた指輪にも視線を投げることなく、それがあたかもこの病にかかる一つの条件であるかのように。

「ええ」

俺は答えた。

「今日これからこちらにいらっしゃることはできませんかね?」

「妻がですか?」

「ええそう。ぜひですね、奥様にお話したいことがありましてね」


嫌な予感が一気に押し寄せた。医者に診てもらって家族が呼ばれるというケースが、いい知らせであるはずがない。

「奥様はいまどちらに?」

「自宅にいると思います」

俺は力なく答えた。

彼女は家にいる。そしてひたすら本を読んでいる。自分探しが趣味みたいな妻は、なにに影響されたのか急に小説家になりたいと言いだして、最近になって仕事を辞めたばかりなのだ。

彼女には悪いけど、早速その決断は後悔される運命になるかもしれない。俺の体にもしものことがあったら、読書してる場合ではなくなってしまう可能性があるから。

でもそんな心配はいらなかった。妻は一つも後悔することになんてならなかった。初老医師が机の中から取りだした一冊のパンフレットがすべてを根底から変えたのだ。

「こちらはご存知ありませんか?たしかご主人、先月開かれた中野区の説明会に参加されていましたよね」

手にしたパンフレットの表紙を俺に見せて医師は言ったけど、そのとき俺は彼がなんのことを喋っているのか、意味がよく分からないでいた。

標識みたいにデザイン化された一組の夫婦らしい男女が描かれていた。俺みたいにマスクをした男性と、お腹が大きくなった妊婦の女性が向き合っていた。イラストで描かれたその二人を見つめながら、俺は無意識に口を開いた。もしかしたら記憶力よりも残された自分の良心がそうさせたのかもしれない。

「ああ、それなら前に一度目をとおしたかな。もしかしたら読んだかもしれない」


それは自分でも意外な言葉だった。だってそのパンフレットを読んだということは、病院で診察をうける前から自分の奇病の正体を知っていたことになるのだから。俺は知っているのに、知らないふりをしていたことになる。物忘れが酷いはずのドクター・ヨーダの存在まで。

「なぜ私が覚えているかと言いますとね、旦那さん方はみなさん忘れようとするからなんです。ですから私は、努めて説明会に参加されたご主人たちの顔を記憶に留めるようにしているわけなんです。その方が話が早いですからね」

自分にかけた自分の催眠術が、他人の手によって唐突に解かれてポカンとしてるような顔をしていただろう俺に、医師は語った。

「気になさらないでください。誰でも自分が異星人の父親になるなんて考えたくもないですし、認めたくもありませんからね。それは仕方のないことです」


初老医師はパンフレットを差しだしてつづけた。

「奥様がみえるまでにもう一度読み返してみるといいと思います」

俺は手にとってその表紙をまじまじと眺めた。当てにならない自分の記憶をたどってみると、たしかQ&A形式で書かれた小冊子であったような気がした。表紙に並んだタイトルは『まわりの人たちがみんな臭いと感じたときに』(中野区子育て相談課刊)となっていた。

診察室からでると、待合室は相変わらず混んでいて臭かった。試しにその中の何人かに標準を合わせて体内の嗅覚スイッチを入れてみると、それぞれちゃんとポリバケツマークが視界に表示された。俺は妻に電話をするたに人目のない病院内の通路を探しだして無人のソファーに腰を下ろした。


『まわりの人たちがみんな臭いと感じたときに』(中野区子育て相談課刊)

Q 中野区に住む30歳の男性です。三年前に結婚して子供はいません。最近になってまわりの人たちの体臭に困っています。まわりの人たちが全員酷く臭くて仕事も手につかないほどなのです。お医者さんには一度診察してもらったのですが原因が分かりません。どうしたらいいのでしょうか。

A それは困りましたね。あなたが既婚者でお子様がいらっしゃらないのでしたら、それはα星人が関係している可能性があります。


Q α星人とは誰ですか?

A α星からやってきた異星人のことです。彼らは私たち地球人よりも進んだ文明を持っています。


Q α星とはどこにあるのですか?

A α星が存在する場所はまだ分かっていません。発見されていないのです。それだけ遠く離れているわけですが、その正確な距離をα星人は教えてはくれません。


Q どうして教えてくれないのでしょう。

A 分かりません。彼らは私たちのすべての質問に答えてくれるわけではないのです。


Q α星人との交信はどのように行われるのですか?

A インターネットです。


Q それは本当ですか?

A 本当です。ただし地球人のハッカーが彼らのセキュリティシステムを突破するのは不可能です。


Q α星人との会話はどのようにして行われるのですか?

A 英語です。


Q α星人は何のために地球にやって来たのですか?

A 地球人の女性との間に子孫をもうけるためです。


Q α星人はいつどうやって地球にやって来たのですか?

A α星人は巨大なマザーシップに乗って私たちの太陽系にやって来ました。ただその正確な日時を特定することはできません。私たち人類がそれに気がついたとき、彼らのマザーシップはすでに月面の裏側に着陸したあとだったからです。


Q 地球人の女性との間に子孫をもうける理由はなんですか?

A 進化のためです。α星人と地球人との間に誕生した新しい生命は、α星人よりもさらに進化しているようです。


Q 地球人の女性はどのようにしてα星人の子供を妊娠するのですか?

A すべては月面上のマザーシップから遠隔操作によって行われます。地球人の女性が直接α星人の男性と接触することはまったくありません。


Q 妊娠する地球人の女性はどのようにして選ばれるのですか?

A 分かりません。ただこれまでα星人の子供を身ごもった地球人の女性はすべて子供のいない既婚者から選ばれています。


Q それと私の病気とどういう関係があるのでしょうか?

A すべては安産のためです。妊娠した女性が安定期に入るまで、性欲を含めた男性側の攻撃性がその悪臭によって抑制されるようです。


Q どうして妊娠した女性以外の人まで臭く感じるのですか?

A 妊娠期間中の男性側の浮気を抑制するためだと考えられています。α星人は出産後のスムーズな夫婦生活を希望しているようです。


Q 私たち夫婦がα星人の子供を出産するメリットを教えてください。

A 子供手当が支給されます。支給額と支給期間は地球人の子供を出産した場合と同じです。これは地球人とα星人の子供を差別するのはおかしいというクレームが過去に......


電話で妻に詳細は話さなかった。ただ調子が悪くて仕事を休んで病院で診てもらったら、家族に来てもらいたいと医者から告げられたことだけを伝えた。自宅のマンションと病院はそれほど離れていなかった。自転車かバスに乗ればすぐに来られる距離だった。

電話を切ったあと、俺は動揺を抑えるためにしばらくソファーでぼんやりしていた。そして区役所からしつこく何度も呼びだされた挙句にようやく参加した説明会のことを思いだした。この日を迎える確率はあったはずなのにどうして俺は初老医師に言われるまでそれをど忘れしていたのか。おそらく初老医師が俺に説明してくれたとおりなのだろう。こうなる確率があったからこそ俺はあえて忘れたふりをしていたのだ。そしてそれを自分でもビックリするほど見事に実行した。


俺はパンフレットを読み返しはじめた。これから俺たち夫婦はどうなるのだろうかと不安を巡らせながら。もしかしたらいい答えがパンフレットの中に記されているかもしれない。そして俺は今度こそ本当にそれを忘れてしまってるのかもしれない。

けれどもその答えを見つけることはできなかった。なぜならパンフレットを読みとおすことができなかったから。最後のページにたどり着く前に俺は視線をあげなければならなかった。ふたたび自慢の鼻が迫りくる危険を察知したのだ。

なにか得体の知れないものが病院の正面ゲートをくぐったようだった。それは途方もない臭いを放つ奴だ。間違いなくこれまでで最強の奴。ヒーロー物の最終回にでてきてヒーローの息の根を止めてしまう怪獣。そいつはまだ通路に足音を響かせる前から、角を曲がってその姿をあらわす前から、最高級の臭いを飛ばしつづけていた。


すぐにその場所から離れるべきだった。裏口から外へと避難すべきだった。俺はヒーローじゃないんだから怪獣の到着を待つ必要なんてこれっぽっちもないはずだった。

でも待った。俺の頭の中では二つの生き物のイメージができあがっていた。一つはなんだかよく分からない、真っ黒い雲みたいなもくもくした生き物で、それは都民の巨大な食欲が産み落とした残飯の塊から生まれでた怪獣だ。

昔話みたいに月に異星人がいるのなら、この世に怪獣がでたってなんにも不思議はない。ただあとの一つは怪獣ではなかった。人間だ。それも俺がよく知っている三つ歳下の女性だ。


俺は怪獣よりも女性の方を期待した。怪獣にはこちらの言葉は通じないだろうけど、どんなに臭くても相手が人間なら通じるはずだから。

通路をやってきたのは幸い人間の方だった。でも俺はこのタイミングで上手く口を動かすことができなかった。手を前にだして、こちらに向かってくる彼女の動きを止めるのが精一杯だった。

どこをどう見てもお腹が膨らんでいるようには見えないその女性は、お気に入りの黒いリュックサックを背負いながら通路の途中で立ち止まって、病人を見やる心配そうな視線を夫に向けた。

嗅覚スイッチが作動して、俺の視界に映った妻のマユミの上にポリバケツマークが表示されていった。それはスマートフォンのボリュームボタンを+に押しつづけたみたいに、横並びになってマックスになるまで伸びていくようだった。


つづく

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