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ピアノマンの見つけ方(四号編その③)

どうもおかしいと思い、あとになって町田さんに尋ねてみたところ、おヨネさんという女性はただの掃除婦ではなく、一種の厄払い師として会社に雇われているのだそうです。言ってみれば、掃除婦の格好をした祈祷師です。その雑巾掛けには本来の目的とは違ったもう一つの重要な仕事があったわけです。

『これは会社的には一応極秘事項になっているのですが......』

庶務課から降りてきた町田さんのメモは語るのです。

『大企業などで厄除け掃除婦を雇っているところは結構ありまして、厄除け掃除婦を専門に斡旋している派遣会社もあるほどです。厄除け掃除婦は社内のいたる場所に雑巾掛けをすることによって、外部から侵入してくる厄を払い落とし、会社を様々な災いから守っていると信じられています』


さらに町田さんの説によると、おヨネさんは経営陣が雇った四代目の厄払い掃除婦にあたり、ここにくる前は大手のIT会社に雇われていた売れっ子の厄除け掃除婦なのだそうです。それを会長自らがヘッドハンティングしてきたらしいのです。と言いますのも、先のオイルショックやバブル崩壊のときに会社が倒産せずに持ちこたえたのは、厄除け掃除婦たちのお陰だと、先代の会長の代から大真面目に信じられているからなのです。

そんなわけですから、当然のように厄除け掃除婦には一般の掃除婦とは異なった 、そして平社員などは足下にも及ばない、スペシャルな給料体系が組まれているそうです。


しかしそうなってくると、おヨネさんが私に地下室の雑巾掛けをさせるのは職務放棄も甚だしいと思ったりするわけなのですが、たぶんそこには一平社員にはうかがい知れない理由があるのでしょう。たしかに彼女の教えを守ってトイレとデスクの雑巾掛けを毎日つづけてからというもの、厄除け効果はちゃんと発揮されているようですから。

最後に気になるのは三カ条の残りの③ですけども、とりあえずダンボール箱に触りさえしなければいいわけで、それも問題はなさそうでした。


ただそのダンボール、てっきり会社の備品が収められているとばかり思っていたのですが、それも間違えのようで、退職するまでの数ヶ月をこの場所で悶々と過ごしたであろう、何人もの地下社員たちの置き土産が詰め込まれているようなのです。

本当ならその地下社員たちが退職したあとにそれぞれの置き土産をすぐにでも処分すればよかったものを、忘れられたのか、それともあえて放置されたのか、やがて一箱一箱と地下室に貯まっていって、ついには月日の流れの中で備品以上のものへと変質してしまったのかもしれません。

そして何年か何十年かの時を越え、私の目に最初はただのダンボール箱の群れにしか見えなかった光景が、不思議な力をそなえた、パワースポットの遺跡のごとく映りはじめたのです。


もともと町田さんと同じように霊の類いは信じない質でした。それがトイレ掃除を私に決断させたあの件以来、少なからず信じるようになったのです。

おヨネさんは私が遭遇したアレを、マニトウと呼んでいるのだそうです。てっきり厄除け掃除婦業界の隠語なのかと思いましたが、町田さんによると、そういうタイトルのオカルト映画が外国にあるのだそうです。地下室にはWiFi環境が整っているので、観ようと思えばその映画をインターネット経由で観ることもできたのですが、わざわざそうする気にはなれませんでした。あるいは町田さんに頼めば、そのDVDが入ったダンボール箱の番号を教えてくれたかもしれません。いずれにしても結果は同じです。君子危うきに近寄らず、です。

本来ならば、私は英語教材もジャージ一式もダンボールの中に返したいぐらいなのです。ただそれをしてしまうとマニトウたちが怒りだしそうなので、ありがたく使わせてもらうことにしたのです。それに実際のところ彼らの置き土産は大いに役立ってくれていたわけですから。


町田さんとおヨネさんの力添えもあって私の地下室生活は自分でも驚くほど順調にいっていました。学生時代に使い果たしたと思っていた記憶力と体力がもどってきたかのようでした。まるで受験生のように大量の英単語を毎日憶え、公園の芝生で遊ぶ子供たちのように、走ることが大好きになりました。

町田さんは否定するでしょうが、もしかしたらこれも地下室のマニトウたちの所為だったのかもしれません。そうでなければこれほど上手くはいかなかったような気がします。何事においても最初の計画以上に物事が上手に運ぶことなど私の人生ではおよそあり得なかったことですから。本来ならば三日坊主で終わり、退職までの二ヶ月間のほとんどを居眠りして暮らす確率の方がずっと高かったはずです。


マニトウはときに悪戯もしますし、怒らせると怖い存在らしいのですが、仲間になってくれればこれほど心強い味方はないと、おヨネさんは言っているそうです。

なんだかこれではヤクザかマフィアみたいですけど、もしかしたら私はその退職者マニトウたちに気に入られてしまったのかもしれません。なにしろ私はかつてその中の誰かが使っていた英語教材で勉強して、誰かが着たはずのジャージを身につけ、彼らが走っていた地下室のジョギングコースを同じぐらい楽しそうに毎日走っているわけですから。その上、私は可愛い可愛い彼らの後輩社員でもあるのです。このような状況でどうして退職者マニトウたちが私を気に入られずにいられるでしょうか。

やはりこの地下室は強力なパワースポットとして機能している可能性が高いようです。そうすると会社を守っているのは厄除け掃除婦というより、その大部分が地下室のマニトウたちによるものになるのではないでしょうか。そうでなかったらどうして二ヶ月近く前に会社の地下室で食べた昼食のメニューを憶えていられるのでしょう。


ついに私は地下室に潜む摩訶不思議な力までも味方につけ、向かうところ敵なしといった感じでした。唯一気がかりだったのは、待てど暮らせどレコード会社の男性担当者から連絡がまったくないことです。

そこで地下室生活をはじめてから二週間ぐらい経ったころでしょうか、私はためしに男性担当者にメールをしたのです。その後四号の方はどうなりましたか、と。けれどもそれから一週間待っても返事はとどきません。私は思いあまって地下室から男性担当者に電話を掛けたのです。と言いいますのも、もちろん四号デビューの朗報をこの耳で確かめたいという気持ちはありましたけども、それと同じぐらいに目を見張んばかりの私自身の進化を、なんなら英語で、誰かに伝えたくて仕方がなかったのです。

電話はつながりました。ただ男性担当者はでませんでした。しばらくしてから私は掛け直してみたのです。今度はでました。留守番電話になっていました。


翌朝、たしかA定食にもB定食にも◯をせず、私は好物のラーメンとチャーハンのセットを町田さんに頼んだはずでした。それからジャージに着替えて三カ条の①と②であるトイレとデスクの雑巾掛けをすませ、英語の勉強とジョギングを黙々とこなしました。

男性担当者からのメールはデスクで麺をすすっているときにとどきました。私は期待に胸を膨らませ、早速スマホを手にとって画面上にメールを開きました。悪い予感はまったくありませんでした。私は幸福の鐘を鳴らす男なのですし、好物のラーメンチャーハンを食べていたのですし、地下室のマニトウでさえ味方しているのです。そして言わずもがな我が四号はピアノマンの最高傑作のはずなのですから。

けれどもメールの内容は、そんな私の自信を軽くいなすものだったのです。


『先日は失礼しました。多忙につき電話にでることさえままならない状況なのです。どうかご理解ください。さて気になる四号の近況ですが、会議を重ねているところです。しかしまだ四号が本当のピアノマンかどうかは予断を許さない状況です。どうかご理解ください。悪いようにはしないつもりですので、もう少しお待ちください。最後に四号に関してはいかなる情報も外部に漏らさないよう呉々もご注意のほどお願いします。もしも漏れるようなことがあったなら、そのときは......』


手にした箸の動きが宙でピタリと止まりました。空いた口がふさがりませんでした。オーマイゴッドとはこのことです。地下室で一人このメールに目を通したときの私の間抜けズラは退職者マニトウたちだけが知っています。なにか大事なメッセージを見落としているのではないかと、短い文章を何度も読み返したぐらいです。

しかし男性担当者のメールに、隠された希望のメッセージなどはどこの行間にも存在せず、ラーメンをふたたびすすりはじめる頃になってようやく現実を直視することができるようになりました。なにはともあれ、食器は時間までに二階の庶務課に上げなければならず、上げなければならない以上、スープ一滴残すわけにはいかないのです。

それにしても、すっかり四号デビューの詳細を聞くつもりでいたのに、デビューどころか、いまだに四号がピアノマンであるかどうかの会議を重ねているというのです。これでは前進ではなく後退です。しかも状況は予断を許さないだとか、悪いようにはしないつもりだとか、いったいどういうことなのでしょうか。四号はピアノマンの最高傑作で、私たちは直ぐにでも世界に向かって旅立つはずではなかったのでしょうか。


このとき地下室に降りてきてからほとんどはじめてといっていいぐらい、はっきりとした不安を感じはじめました。そしてそれは日々大きくなっていくことはあっても小さくなることは最後までなかったのです。

待てと言われても、いったいいつまで待てばいいのでしょう。地下室生活二ヶ月間のうち、もう三分の一は過ぎてしまっていたのです。もしも残された時間の間によい知らせがとどかなければ私は自動的に失業者になってしまいます。こんな理不尽なことがあるでしょうか。向こうから頼まれて退職願いを書いたのに、です。


それから一週間が過ぎ、二週間が経とうとしても、男性担当者からの音沙汰はありません。電話はいつも留守番になっていますし、メールの返事が返ってくることもありません。

私が鳴らすはずだった幸福の鐘はすっかりメッキが落ちて錆びつき、ところどころヒビも入り、もはや強く打ったなら粉々に砕け散ってしまいそうな有り様でした。

ついこの間まで私の心を占めていたはずの世界を祝福したい気持ちもすっかり萎えてしまいました。だいたいが会社の地下室に毎日くすぶっている中年男のことなど世界は知るはずもないのですし、そもそも知る必要だってないのです。そんな相手に対して、どうしてこちら側から祝福などしなければならないのでしょうか。万が一祝福したとしても、あちらにしてみたら、ハタ迷惑なだけなのではないでしょうか。もうすぐ失業するかもしれない中年男からの祝福など、どこの誰がありがたがるでしょう。いったいどこの誰が受けとめるでしょう。しかもその中年男が職を失う理由のほとんどは自業自得によるものなのです。それは慢心という名の自業自得です。


二ヶ月間のタイムリミットが近づくにつれ、私が憶える英単語の数は目に見えて減っていき、一日に走る距離はどんどん短くなっていきました。けれどそれも至極当然の結果だったと思います。そもそも私は海外留学するために英語の勉強をはじめたわけではないのですし、今さらアスリートを目指していたわけでもないのですから。ピアノマンの通訳者になれないのならすべてが無意味なはずです。そしてそうなる可能性は日々確実に高まっていたのです。

ただそれは単にタイムリミットが近づいてきたという理由だけではありません。英語の勉強とジョギングに費やす時間が減り、その分、私は地下室で一人考えごとをするようになったのですが、そうして分かったのは、これまでいかに私が自分勝手に、自分の都合のいいように、物事を考えていたかということです。つまり少しだけ以前よりも客観的に自分自身を見つめることができるようになったのです。


そのおかげで、私はやっと自分と男性担当者が見当違いな誤りに陥っていたことに気がつきました。

たしかに四号はピアノマンの最高傑作だったかもしれません。でもそれはあくまでもある一面においてのことなのです。べつの側面から考えてみれば、四号のデビューがいかにレコード会社にとって高いリスクをともなった行為であるのかが理解できます。

気がつくのが遅過ぎたのです。今頃それに気がついて、いったいなにができるでしょう。もしも私が男性担当者の立場にいたなら、きっと彼と同じ選択をしたことでしょう。


途方もない無力感に襲われました。地下室のマニトウたちでもさすがにどうすることもできません。これは会社のビルの外で起きていることなのですから。きっと私が英単語を覚えれば覚えるほど、走れば走るほど、心の中の空虚感は大きくなっていったはずです。

私にできることはただ待つことだけになってしまったのです。男性担当者の「悪いようにはしない」という、いかにも無責任な言葉を信じて。

一瞬、会社に頼んで退職願いを取り下げてもらおうかとも考えましたけども、さすがに実行するのは気が引けました。それに同じ会社のビルにいながら、上司や同僚とはもうずっと顔を合わせてはいませんから、きっと私のことなどすっかり忘れていることでしょう。

急に時間が余るようになった私は、デスクでカタツムリのようにじっとしながら、動画サイトにアップされたピアノマンたちの演奏や、ピアノマンが発見された海岸を生中継しているサイトなどをただぼんやり眺めて時間を潰すようになりました。


冷暖房の利かない地下室では、じっとしたままでいるとちょっと冷えてくるので、寝袋などはないですかと町田さんに訊いてみたところ、やはりそれはちゃんとありました。おそらく退職者マニトウたちからの可愛い後輩への最後の贈り物でしょう。指定された番号のダンボール箱から茶色いそれを引っ張りだしてきて、私はデスクでカタツムリからミノムシへと変身を遂げました。

寝袋にくるまれながら、私は時の旅人のように夢想するのです。実はあのダンボールの中にはもともとなにも入ってはいなのでないかと。私が欲しいと望んだときに、それは箱の中に生まれでるのではないかと。

もしそうであったなら、そのとき私が望まなければならなかったのは寝袋ではなく履歴書の方だったのかもしれません。


本当ならとっとと地下室から飛びだして再就職先を探し歩かなければならないところでした。しかし心と体がまったく言うことを聞きません。最後に残されたわずかな望みに私はしがみついていたのです。

しかしそうしている間にも時間は刻々と過ぎていきます。時が止まったような地下室の外では、あらゆる物事が変化しています。それを雑巾掛けで止めることはできません。そこではマニトウたちの力だって及びません。もちろん私の望んだ物がわけもなく差しだされることだってありません。むしろそこでは望まない物が差しだされるのが常です。

そのとき私はいつものようにデスクにうつ伏せの態勢になって、スマホの生中継サイトを眺めていたのです。タイムリミットまでもうあと半月といった頃でした。地下室に潜んだミノムシの息の根を止める事態が起きたのです。


ピアノマンに関する動画サイトを眺めるのが、その頃の私の唯一の心の慰めでした。そうしたサイトは世の中に沢山ありますけども、その中で特によくアクセスしていたのが、先述したピアノマンの見つかった海岸の風景を生中継しているサイトです。

そこではただ固定されたカメラによって一日二十四時間、砂浜の海岸が無音のまま映しだされているのですが、ピアノマンが見つかった場所だけあって、人々の姿が画面から途切れることはありません。彼らはみんな、ピアノマンの通訳者になることを目指してそこにやってきた人々なのです。


なぜ私は彼らの姿を好んで眺めているのか。もちろん今さら通訳者になるための予習をしているわけではありません。おそらくそれは自分が一人切りでないような安心感を得ることができるからだと思います。仲間を見つけたような気持ちになれるのです。

しかしそこにはある種の罪悪感も存在します。私が彼らに忠告することができる唯一の人間であるからです。そして実際にそれは実行しようとすれば簡単にできることなのです。ネットの掲示板に書き込めばいいだけなのですから。それを見た彼らが、私の言っていることを信じるかどうかは分かりませんけども、少なくともなにもせずにただ眺めているよりはマシなはずです。


しかしそうすることはせず、その日も私はただ眺めるためだけに、デスクでミノムシ状態になりながら生中継サイトにアクセスしたのでした。

そこで私が見たのは空っぽの海岸です。季節がたった一日で夏から冬へと変わってしまったかのようでした。スマホの画面上に見慣れた砂浜がいつもより白く見えました。そこに午前中の波が音もなく打ち寄せていました。

ついに自治体が動いたのだなと、ピンときたわけです。海岸の入場規制が以前から繰り返し議論されていたのを知っていたからです。この生中継サイトが閉鎖されるのも時間の問題だなと思いながら、私は自分の直感の正しさを確認すために今度はニュースサイトにアクセスしました。

けれどもそこで私が確認したのは、自分の直感の鈍感さの方でした。


『ピアノマン四号ついに発見される!』

そんなトピックがニュースサイトのトップに踊っていました。体中のアドレナリンが一気に血液中を駆け巡り、頭が真っ白になったように感じました。

ついにこの日がやってきた、私の直感がまたしても確信してしまったのです。ついに四号がデビューして、私がその通訳者になる日がきた、と。

私はいても立ってもいられず、椅子から立ち上がってミノムシ状態から脱出し、スマホを握りしめては、かつて走っていたダンボール周りのジョギングコースを闊歩しはじめたのでした。

しかしどうして四号の発見者である私になんの報告もないまま、このような重大なニュースが公表されるのでしょうか。当たり前です、レコード会社は事前に情報が漏れるのを心配して、当事者の一人である私にまでずっと秘密にしていたのです。そうに決まっています。

興奮の頂点に達した私はふたたびジョギングコースを走りだしそうな勢いでした。しかし、ニュース内容を読み進めるにつれ、私の足の動きはしだいに鈍くなっていったのです。


どこからか退職者マニトウたちのクスクスした笑い声が聞こえてきそうでした。いいえ、それははっきりと私の心臓にとどいていました。

血気盛んな若者が盗んだバイクで走りだしたがるように、握ったスマホをダンボール箱に向かって投げつけたい衝動に駆られました。しかしそれをどうにか押さえることができたのは、地下室の遠い壁に、おヨネさん作なる三カ条の白い紙が目に入ったからです。私が投げつけたスマホはダンボール箱を突き抜けるか、あるいは倒れた拍子にその蓋が開いてしまう可能性がなきにしもあらずだったわけです。


結果から言ってしまいますと、ニュースにでている四号は、私が発見した四号ではありませんでした。見つかった海岸も違っていました。生中継サイトの映像がもぬけの殻だったのはそれが原因だったのです。ピアノマンは同じ海岸で連続して見つかる可能性が高いと、いわば都市伝説のように信じられているので、耳の早い人々はとっととそちらの方へ移動していたわけです。

ニュース記事によりますと、新四号は病院で安静にしているとのことだったのですが、病院関係者の証言では、新四号はベン・ウィショーなる俳優に似た痩せた美青年なんだそうです。そのベン・ウィショーという俳優を私はまったく知りませんけども、いつも不思議に思うのは、どう見てもアジア系のピアノマンたちをなぜ欧米の俳優に例えるのかということです。しかし考えようによっては、例えることができるのは、例えることできないことより、ずっといいことであるのは確かなはずです。


さらにニュース記事によれば、気のはやいレコード会社(それは私が個人的によく知る会社でした)の社員によって病室に持ち込まれたポータブルピアノを前に、新四号は寝巻き姿のまま即興で『月の光』を弾いたそうで、それをドア越しで立ち聴きしていた看護師たちはみんなうっとりとしていたそうです。

なんだか病院内の喧騒が目に見えるようですけども、病室でその演奏を聴いていたレコード会社の社員の話では「公式の発表はずっとあとになるだろうけども、彼がピアノマン四号であることはほぼ間違いないだろう」ということらしいです。


そのレコード会社の社員が、私の知る男性担当者でないことを祈るばかりですが、それにしてもまったくふざけた話です。いったいどこまで人をバカにするつもりなのでしょうか。まるで私の四号など最初から存在していなかったような扱いです。これではすでに彼は社会的に抹殺されたも同然ではないでしょうか。

いいえ、もしかしたら悪気はないのかもしれません。ハナからこちらのことなど忘れているだけなのかもしれません。

どちらにしても新四号の一件が私にトドメを刺したのは事実です。これでもう会社に出勤する必要はなくなったのです。英単語を憶える必要も、走る必要もなくなったのです。そんなことよりも一刻もはやく再就職の口を見つけることの方が先決になったのです。

しかしそれでも私は最後の日まで会社に出勤しつづけたのでした。なぜでしょう、今となっては自分でもよく理由が分からないのですが、裏口から地下室へと降りて行き、欠かさず決まった時間にタイムカードを押しつづけたのです。


毎朝二階から降りてくる業務用エレベーターに載せられた日替わりメニューに記入をすませたあと、私はやはりジャージに着替えます。でもそれはもはや走るためではありません。トイレとデスクの雑巾掛けをするためです。ジャージの方がなにかと都合がいいのです。

英語教材とCDラジカセはもとのダンボール箱にもどしました。すでに雑巾掛けと昼食だけが私の日課になっていました。少し大袈裟に言ったならば、この日課だけが私と社会とを繋ぐ接点であり、社会人としての最後の砦になっていたのです。ですからこの二つだけは最後まで全うするつもりでいました。

恥ずかしいお話ですが、それ以外の時間はほとんどデスクにうつ伏せになって寝ていました。雑巾掛けが終わると、なぜだか急に老けてしまったように猛烈に眠くなってしまうのです。もしかしたらこれまで英語の勉強とジョギングに費やしていたエネルギーが、ついに底をついてしまったのかもしれません。

スマホの目覚ましアプリと念のために腕時計のアラームをセットして、私は時間がくるまでデスクで冬眠中のミノムシになるのでした。


時刻は午後四時半です。私は最後のトイレとデスクの雑巾掛けを終えたところです。あと三十分ほどしたらタイムカードを押してこの地下室をあとにすることになるでしょう。そのとき私の完全無欠なタイムカードクロニクルが完成するのです。雑巾とバケツには別れを告げました。つぎはジャージとジョギングシューズにさよならをする番です。

男性担当者からはその後一度も連絡はありませんでした。きっと新四号の件でそれどころではないのでしょう。

スーツに着替えると、ジャージと寝袋を畳んでジョギングシューズと一緒に業務用エレベーターに載せました。『クリーニングにだしますので』と町田さんからの最後のメモが降りてきたのです。


地下室からでていく際にドアの前に立って一度だけダンボール箱の群れを見渡しました。

あの件以来、彼らが私に直接なにかをしてくるということはありませんでしたけども、それでもその光景にはどこかパワースポットめいた感じがまだ十分に残っているような気がしました。もしもおヨネさんの忠告がなかったらいったいどんなことになっていたか、今さらながらゾッとする次第です。

そろそろタイムカードを押す時間になりました。私はドアノブに手を置き、外の階段につながる廊下にでようとしました。私のタイムカードはそこにあります。しかしドアノブが回らないのです。おかしいと思い何度か同じ動作をつづけていると、上着の内ポケットに入れたスマホの着信音が鳴りました。


画面に知らない番号が表示されていました。ためらいがちにでてみると、男性担当者の声が聞こえてきました。

「大変なことが起きてしまったんです、外木場さん、落ち着いて聞いてくださいね」

言われるまでもなく私は落ち着いていました。男性担当者はつづけます。

「四号が脱走したんです。ちょっと目を離している隙に施設からいなくなってしまったんです」

「警察には届けでしましたか?」

私は落ち着いて質問しました。たぶんしていないだろうと予測しながら。なぜなら警察に届けでてしまうと、これまで隠し通してきた、いま一人の四号の存在が公けになってしまう可能性があるからです。男性担当者の答えは案の定でした。


「外木場さん、いまどちらにいらっしゃいます?」

「会社ですよ」

「四号は脱走するとき、私の財布とスマホを盗んでいったんですよ」

「というと?」

「スマホには外木場さんの詳細なプロフィールが入力されているんです。もちろん会社やご自宅の住所も」

私は少しそわそわしてきました。

「もしも四号がそちらに現れるようなことがありましたら、警察には行かず、とにかくいったん保護してください。それから直ちにこちらに連絡してほしいんです」

「来るよ」

「どうしました、外木場さん?」

「四号が来るよ。もうそこまで来てるよ」

「聞こえますか?外木場さん、大丈夫ですか?」


男性担当者にも聞こえていたらしいその声は、しかし私の声ではなかったのです。それは私がスマホを耳から外してもまだ聞こえてきました。

「今までぼくたちのトイレを掃除してくれてありがとう。これはほんのお礼だよ。ぼくたちが彼を呼んだんだ。エレベーターを見てごらん」

私は地下社員の使用が禁じられている一般のエレベーターに目を向けました。これまで誰一人とし来ることがなかった地下室に、今まさに誰かが降りて来ようとしているところでした。丸い表示ランプのB1が光りだしたのです。

「暗くて冷たくて誰も見ていない場所からでも、いろんなものを祝福できるんだって、これからみんなに教えてあげなよ」

声は言いました。


おしまい


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