表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
57/184

ピアノマンの見つけ方(四号編その②)

本当のところ、地下室に降りていかなくてもよかったのです。私にはべつの選択肢もあったからです。それは貯まりに貯まった有給休暇を使って、残りの二ヶ月間を出勤せずに会社を休むという選択肢です。有給休暇は欠勤扱いにならないようなので、私の完全無欠なタイムカードに穴が空く心配もありません。我が社ではほとんどの社員が退職時にこのシステムを使っているそうです。

けれど会社創立以来一度も新調されていないようなレトロな皮ソファーで、どこかしら痩せた二十日鼠を思わせる庶務課のおじさんと向き合いながらその選択肢を勧められたとき、私は迷うことなく地下室行きの方を選択したのでした。なぜなら私はすでにある確信を持っていたからです。

それは掃除のおばちゃんや社食のおじさんが、隣の同僚や直属の上司が、教授してくれた鏡に映った私自身の姿なのですが、最後の最後になって私はそれをようやく発見したのです。知らず知らずのうちに会社にいることをすっかり楽しんでいる自分の姿を。

ならば休む必要はない。だって楽しむことができてその上お金までもらえるなんて、こんなおいしい話を放棄する手はないじゃないか、正直そう思えたのです。地味ではあっても決して短いとは言えないサラリーマン生活の最後に、考えもしなかったような錦を飾ることができるわけです。


それは二十五年目にしてはじめて経験する、驚くべき事実でした。月曜日の朝のような日々が延々とつづきそうなサラリーマン生活では。通訳者への夢が善玉ウイルスのように私を内側から静かに、しかし確実に、変えてくれたのでしょう。若い女性社員が嬉しそうに挨拶してくれるほどに。そうとしか考えられません。

ただし庶務課のおじさんはこちらの込み入った事情など知るはずありませんから、自ら進んで地下の暗闇に堕ちていこうとする、彼から見ればまだまだ若い社員を前に、目をしばたたかせるばかりのようでした。

「二ヶ月間は短いようで長いものですよ。とくに地下室のような特殊な環境では」

まるでこれから無謀な冒険に旅立とうとしている中年男を諭すかのように、年長者のおじさんは慎重に言葉を選んで言うのです。

「もしも確信がないまま選択したのであれば考え直した方がいいと思います。すぐそこに新しい人生が待っているというときにわざわざ危険を犯す必要もないでしょう。あそこは精神的にも肉体的にも想像以上に厳しい場所ですから」

それに対して、もちろん私はこう答えたのです。

「いいえ、確信ならあるのです」


まるで地下室に得体の知れない恐ろしい魔物が潜んでいるかのような言いようでした。しかもそんなふうに言う社内の人間は庶務課のおじさんだけではなかったのです。

ただ私はすでに幸福の鐘を鳴らす男へとすっかり変貌を遂げ、世界が私を祝福し、私もまた世界を祝福し返すような気分でいたので、たとえ地下室を棲家にした妖怪がいると聞かされても馬の耳に念仏よろしく、せっかくの忠告にもまったく耳を貸そうとはしなかったのです。

デスクの備品を詰め込んだダンボール箱を抱え、オフィスの引っ越しをするべく、普段滅多なことでは使うことのなかった会社の階段を意気揚々と下りていきました。といいますのも、地下社員の身となった私には、社内のエレベーターの使用が禁じられていたからです。


「やっと決断してくれたのですね!この日がくるのを待ち侘びていました!早速上司に報告しまして、四号デビューの詳細な日程が決まり次第ご連絡差し上げます。ご一緒に世界へ旅立ちましょう!」

レコード会社の担当者から感極まった声がスマホに届きました。地下室の蛍光灯を点けると、備品の入ったダンボールを唯一のデスクに載せたまま、私はまずレコード会社の男性担当者に連絡をとったのです。

こちらから電話をかけたのはその日がはじめてでした。想像もしていなかった新しい人生がはじまろうとしていました。それから二ヶ月あまりはそのための準備期間のつもりでいました。

やりたいこと、やらねばならぬことが山のようにありました。それを実行するために、広く孤独な地下室は最適な場所のように思えました。まるで新築された最新式のスタジアムに足を踏み入れたアスリートみたいな。ですから他人の目から見ればパワーハラスメントに映りかねない地下室行きも、私にしてみれば願ったり叶ったりの辞令だったわけです。


地下室の唯一の住人である私には思わぬ力強い助っ人もあらわれてくれました。それが庶務課のおじさん社員である町田さんなのです。同じ会社に長年勤務してきたのにも関わらずなにも知らなかったのですが、その町田さんは私のように自ら地下室行きを希望する、ちょっと風変わりな退職希望者のありとあらゆる事務的な世話を引き受けてくれるプロフェッショナル社員で、会社の生き字引のような存在の方なのだそうです。

「必要なものがあったらなんでも言ってください。できる限りのことしますから」

おそらくこれまで何人もの退職者たちを新しい世界へと送り出してきた経験が自然と自負となって蓄積されているのでしょう、町田さんはごく当たり前のように言ってくれました。

ただその後の私と町田さんとは、直接会話ができるわけではありませんでした。その理由も私が他の社員と接触することが許されない、ほとんど会社的には存在しないことになっている地下社員であったからです。

ですから二人のコミニュケーションは、私が地下室に下りてからはすべて筆記によって行われるようになりました。地下室には私が使用を禁じられている普通のエレベーターの他に、二階の庶務課と繋がった一回り小さな業務用のエレベーターが設置されているのです。私たちはそれを使ってメモのやり取りをするわけです。


業務用エレベーターを使用する際には、必ず頑丈な蛇腹扉が閉まっているときに壁の赤いボタンを一度押します。そうしますと地下室に鈍いブザー音が響きわたり、つぎにゴーッという振動音と共にエレベーターが重たそうに動きはじめる仕組みです。

地下室の空間には午前中に必ず一度ブザー音が鳴り響いて、業務用エレベーターが庶務課から降りてくることになっています。鉄の取っ手を握って蛇腹扉を横に開きますと、エレベーターの床にコピー用紙が一枚載っていまして、それに社食のA定食とB定食のその日の日替わりメニューが記載されているのです。地下社員はA定食かB定食のどちらかに◯をするか、そうでなければ自分が食べたいメニューを書き込み、ふたたびコピー用紙を床にもどして赤いボタンを押し、業務用エレベーターを庶務課へと送り返します。それから昼になって三たびブザーが鳴ると、めでたく社食のトレイを載せたエレベーターが降りてくるという案配です。


これは特別な理由がないかぎり地上にでることが許されない地下社員のために、まだ労働運動が盛んだった時代に考えだされたシステムだそうで、地下社員と地上とを、あるいは会社とを、結ぶ唯一のホットラインになっているのです。

世界へ旅立つ準備を急ぐ私には、昼食以外にも必要な物が沢山ありました。そこで町田さんから説明をうけたとき、このホットラインを大いに活用させてもらおうと思ったのです。具体的には町田さんに私がインターネットで注文した商品の受取人になってもらって、届いた商品を業務用エレベーターで降ろしてもらう計画でした。

翌朝その旨を卓上メモに書き込んで二階に上げますと、すぐに町田さんからの返事が降りてきました。それには『必要な物を具体的に教えてください』と書かれてあったので、私は『日常会話レベルの英会話教材』と書いて二階に上げたのです。

もしかしたら庶務課的に受取人になれない品物もあるのだろうかと少々心配になっていますと、五分も経たないうちにふたたびブザーが鳴って、降りてきたメッセージには、予想もしていなかった奇妙な文字が並んでいたのでした。そこには『53番と29番のダンボール箱を開けてみてください』と書かれていたのです。


私はメモを片手に、不思議な心持ちで地下室のコンクリート床に横たわった、どこか共同墓地めいたダンボール箱の群れを見渡しました。

てっきりその中には、本来ならば私が整理しなければならない会社関係の過去の書類や資料の山が詰め込まれているものだとばかり思っていたのですが、どうもそうではないようで、それまでいたって無関係だと思っていたはずの物たちが、急に存在感を増して目の前にあらわれたような思いがしました。墓の下に眠る死者たちがここの主人はあくまでも自分たちであることを証明しようと、ゾンビにでもなって蘇り、粗末な紙製の墓を揺さぶりはじめているかのような。

しかし実際にはダンボール箱が動きだすはずもなく、無駄に町田さんを待たせるわけにもいかなかったので、身辺調査をする探偵よろしく、私はダンボール墓地の中へと分け入っていったのです。


なるほど箱の蓋にはマジックで番号がふってあり、大きさはどれも同じ小型冷蔵庫ぐらいでしたけども、整然と並んでいるようでいて、じつのところその順番に規則性はないようでした。そこには、最初は①から綺麗に並んでいたものの、時が経つにつれ人の手によって動かされ、ついにはバラバラになって放置されたような感がありました。

最初に見つけた29番のダンボールを早速開けてみますと、黒い物体が横たわっていて、形からしてそれはCDラジカセのようでした。取っ手を握って持ち上げると、ダンボールの底に白い延長コードまで入っていました。

ははんと頷いた私は、やっと要領を得た気がしました。どうやらこの地下室は不要になった会社の備品が保管されている場所のようなのです。53番の方のダンボールを開けると中には英語だけでなく、フランス語、中国語、イタリア語、ロシア語のテキストまでが入っていました。 ほとんどのテキストにCDが付属していました。きっと海外出張にいくことになった社員がこれを使って勉強したのでしょう。


そんな思いがけない形で私の一人英会話教室ははじまりました。もちろんそれは会社の海外出張のためではなく、通訳者としてピアノマンと一緒に世界へ向けて演奏旅行にでかけるための予習です。なにしろピアノマンは通訳者とだけしか会話しないものと決まっているので、通訳者である私が片言とはいえ、簡単な英会話ぐらいできなければ話にならないと思ったわけです。英語の勉強なんて学生以来のことです。私は二十五年の間に失われていったものをたった二ヶ月で取り戻そうとしていたのです。


英会話教材のつぎに必要だったのはスポーツウェアとジョギングシューズでした。私が取り戻さなければならないのは、英語力だけではなかったのです。通訳者になって世界を旅することになれば、とうぜん一日の移動距離は圧倒的に増えるでしょうし、気候の変化などにも対応しなければならなくなります。それなのに私ときたら慢性的な腰痛を抱え、運動といえば電車の吊り革に掴まっての朝の通勤ぐらいしか思い浮かばない怠惰な生活を二十五年間もつづけてきたのです。一から体を鍛え直す必要があったわけです。


しかしそこで私は首を傾げました。はたしてスポーツウェアとジョギングシューズとは、庶務課的に何事もなく受取人になれる品物なのだろうかと。どうやら私には、『庶務課的に受取人になれない品物一覧表』が必要のようでした。

善は急げ、とりあえず私はその二つについて問い合せてみることにしました。

返事はすぐに届きました。そこには見慣れはじめた町田さんの几帳面なボールペン字で、メモの真ん中にこう書かれてありました。『ウェアとシューズのサイズを教えてください』

まさかと思いつつ半信半疑でそれぞれのサイズをメモに書き込みますと、今度は英会話教材よりも多少時間がかかりましたけども、やはりちゃんと答えが返ってきました。返答のメモには町田さんの文字で、『13番と71番のダンボールを開けてみてください』と書かれてありました。


こうして私は英会話教材につづき、丁度いいサイズのジャージの上下とジョギングシューズを一歩として外に出ることもなく、待つことも一円の自腹を切ることもなく、手に入れることができたのです。

それにしても不思議だったのは、ダンボール箱に一杯になるほどのジャージとジョギングシューズが、なんのために会社の備品として保管されていたのかということです。社員の体力測定でもあったのでしょうか。避難訓練か、はたまた忘年会の余興にでも使ったのでしょうか。

いずれにしても私の二十五年間におよぶ社員生活の記憶に、おそろいのジャージを身につけた一ダースほどもの社員集団といった光景は存在していないのでした。

唯一残念だったのは、どのジャージもジョギングシューズも、英会話教材と同様にセカンド仕様であったということです。つまり使用済みだったのです。少なくとも社員の誰かがかつて一度は身につけていたものばかりだったわけです。


それでもジャージの方はクリーニング店のタグが付いて綺麗に折り畳まれてありましたけども、明らかに使用感のあとが残るシューズの方はどうだか分かったものではありませんでした。しかしこの後に及んで贅沢を言っている時間はないのですし、もとからそんなことが言える立場でもありません。

私は早速脱いだスーツを椅子の背もたれに掛け、かつて社員の誰かが身につけたであろう赤いジャージに腕をとおすべく、寒々とした地下室で肌着一枚となったのです。

けれどもそのときでした。業務用エレベーターのブザー音とはべつの硬い物音が地下室に響きわたり、私のジャージデビューを一旦水入りにしたのです。

それはまったく予期していなかった来客でした。誰かが地下室のドアをノックしているのです。しかもそこには力強いメッセージが込められていました。あたかも中に誰かがいることを確信しているかのようなノック音だったのです。


私は大急ぎで脱いだばかりのスーツのズボンに足を突っ込み、シャツのボタンに指を走らせました。パンツ一枚でドアを開けるわけにはいきませんし、たとえ地下社員ではあっても一応まだ社員の身であり、在庫整理こそ私の名目上の職務だったからです。そしてなによりも、いったいなんの用があるのかは見当がつきませんけども、もしかしたら元のオフィスの若い女性社員がはるばる訪ねてきてくれた可能性だってなくはなかったからです。

しかしその可能性は私が考えていた以上に遥かに低いようでした。私が鳴らしていたはずの希望の鐘は、すでにオフィスの雑務の中へ掻き消されてしまっていたようでした。

ただそれを私がかつて鳴らしていたのは事実であったのです。その証拠に、私が革靴を履き終える前にノックをする手を止めて廊下からドアノブを回した女性は、私をこの場所へと送りだしてくれた人たちの一人であったからです。

重たい鉄製のドアから、見覚えのある白い三角頭巾と一緒に顔をだした彼女は、中の私に向かって言いました。

「あんた、まだこんなとこにいたんだね。姿が見えないから、とっくにいいとこに転職したのかと思ってたよ」


あとで町田さんに聞いた話ですが、掃除のおばちゃんは米倉さんといって、会社では「ヨネさん」とか「おヨネさん」で通っているそうです。

そのおヨネさんが頭に白い三角頭巾をかぶり、両手にはピンク色のゴム手袋をはめ、お馴染みの水色した仕事着姿で地下室の入り口に立っていました。

「これを持ってきてあげたよ」

おヨネさんはそう言って私に向かって両手にのせた白くて四角い雑巾の束を差しだします。

けれどもそのとき私はそれを受けとろうとはせず、ただ不思議な顔をして彼女とその胸の前で山となっている雑巾とを交互に見ていたのでした。と言いますのも、地下室にもトイレが一つあるのですが、てっきりおヨネさんはその掃除をするためにここを訪れたのだと決め込んでいたからです。それがどうして社員であるはずの私が、掃除婦さんから雑巾を手渡されなければならないのでしょうか。


しかしそんな小さな疑問符はもっと大きな疑問符の前に、私の鐘の音と同じように立ち消えとなったのです。

そのとき私ははじめておヨネさんの顔をまじまじと見つめました。そしてあることに気がついたのです。三角頭巾と〈掃除のおばちゃん〉という固定されたイメージの下に隠れていた、おヨネさんの真の姿に。地下室で再会した彼女はほとんど老けておらず、「おヨネさん」といよりもまだまだ「おヨネちゃん」で通りそうなほどの女性だったのです。しかも階段で立ち話をしたときよりも体全体が一回りも大きいような印象をうけました。


「トイレ掃除さ。あんたが自分でやるんだよ」

自分よりもまず間違いなく年下であることが判明した掃除婦に、こちらの心の中を見透かされたかのように言われました。ただそこにはまったく別の意味合いも込められていたようです。

おヨネさんは廊下に立ったまま、まるで魔窟を避けるかのように一歩として地下室に足を踏み入れようとはしませんでした。それで私は、掃除婦でさえも地下社員との接触は禁じられているのだなと思った次第ですが、彼女の説明を聞くと、どうやらそこにはおヨネさんなりの込み入った事情があるらしく、それならむしろパワハラによる接触禁止の方がシンプルで好ましい理由のように思えるぐらいなのでした。

「本当はあたしがやらなきゃいけないんだけどさ、ここは不吉な場所なんだ、だから頼んだよ。その代わりにこれを書いてきてあげたから」

そう言っておヨネさんは、私に雑巾の束を押しつけると、仕事着のポケットから折りたたんだコピー用紙を取りだし、こちらに向かって広げて見せたのです。そこには黒いマジック文字が縦書きに並んでいました。


『地下室生活三カ条』

①トイレは一日三回、朝と昼と夕方、必ず雑巾掛けをすること。

②机は一日二回、朝と夕方、必ず雑巾掛けをすること。

③必要のないダンボール箱は絶対に開けないこと。


「忘れないように壁に貼るといいよ。これを退職までの二ヶ月間、毎日忘れずにつづけるんだ。そうすれば、あんたが憑かれることはないからさ」

「憑かれる?」

「そうだよ。ここはそういう特別な場所なのさ。気をつけないといけないよ。バケツなら3番のダンボール箱に入ってるからね」

「憑かれるって、いったいなにに憑かれるんですか」

「あんたのかつてのお仲間さ。退職者たちだよ。いいかい、3番のダンボールだからね」

おヨネさんはそう言い残すと、長居は無用とでもいうように暗い廊下を去っていったのでした。


地下室生活のその初日、私の記憶が正しければ、たしか業務用エレベーターで町田さんが降ろしてくれた肉野菜炒めのA定食を一人デスクで食べたのです。そのあと食器を二階に上げて一休みしながらピアノマン一号と二号の演奏に耳を傾け、時間的にはおヨネさんが忠告したトイレ掃除の時間がきていましたけども、雑巾も彼女お手製の三カ条も床に放置したまま、いよいよ私はジャージデビューを果たし、ジョギングシューズの紐を固く結んだのでした。もともとが幽霊の類いなど信じない質でしたし、掃除も苦手な性格だったのです。そしてなによりも私は忙しかったのです。自分一人しか使用しないトイレ掃除など朝一回で十分と高を括っていたのです。


広い地下室は人の目を気にすることもないので、私のような体力がガタガタの中年ランナーにとっては最適なジョギングコースになってくれそうでした。ただ、いかに広くても、そのコースは必然的に地下室のほとんどの面積を占有するダンボール共同墓地の周囲ということになります。

丹念に準備運動をしてから、すっかり柔になってしまった体と相談しつつ、ゆっくりと走りはじめました。本当にゆっくりと、歩くよりは少し早いぐらいのペースで。


そうして順調に三周ほど走ったあとでしょうか、だんだんと気持ちが高揚してきまして、自分が東京マラソンにでも参加して走っているランナーのような楽しい錯覚がしてきたのでした。

自分の吐く息と立てる足音以外には響くはずのない地下室で、私は沿道に半透明になって映る人々の拍手と声援とを聞く思いがしました。大勢の半透明なランナーたちとかけがえのない時間を共有もしました。

私は最初それを大いに楽しむことができました。しかし相思相愛だった恋人たちにもやがて別れ話が持ち上がるように、私と半透明ランナーたちの間にも性格の不一致めいた微妙な、しかし同時に決定的な、亀裂が生じたのです。

半透明ランナーたちはなぜだかみんな例外なくいい年をした男たちで、ハイキングにやってきた子供たちみたいにはしゃいでいました。みんなで一緒になって走るのが楽しくて仕方がないようでした。それはべつに構わないのですが、私が気になったのは、彼らはみんながみんな、どこかで見た記憶のあるお揃いのジャージを着て、お揃いのジョギングシューズを履いて、一ダースぐらいの集団となって走っていたことなのです。


私は不意に走る足の動きを止めてコンクリートの上に立ち尽くしました。沿道の人々はいなくなり、並走していたジャージランナーたちもどこかに消えました。私は東京マラソンのコースではなく、地下室のダンボールコースに一人で立っていました。

一度高ぶった神経を落ち着かせ、ふたたび走りだそうとしました。そうしてうつむいたときに私は自分の足下に、これまで気づかずにいたある痕跡を発見したのです。


灰色したコンクリートの床に、そこだけが人間の足跡によって変色してしまった、一筋の太く黒い線がどこまでもつづいていました。

走ることは思いとどまり、私は歩いて黒い道筋をたどっていきました。それは間違いなくダンボール箱の共同墓地の周囲を、つまり私が走っていたジョギングコースとピッタリ重なったリングになっていました。

私は急遽予定を変更して、おヨネさんがくれた三カ条を床から拾い上げ、その四隅をセロテープで留め、よく見えるようにデスク横の壁に貼りました。それから共同墓地の中に3番と書かれたダンボール箱を見つけだし、中から銀色したブリキ製のバケツを取りだすと、雑巾を一枚持って、トイレへと向かったのでした。


あの日から二ヶ月あまり、私はおヨネさんの教えを一日も欠かすことなく守りつづけ、私と並走しようとするおかしな輩は二度とあらわれませんでした。

しかしそんなアクシデントに見舞われながらも、私の地下室生活の第一日目はおおむね好調をキープしたまま終了を迎えようとしていました。

私は想像していた以上に走ることができ、想像していた以上の英単語と文法を覚えることができたのです。この調子を最後までキープできればきっと素晴らしい結果が待っているような予感がしてなりませんでした。

私はピアノマンたちがよく弾く『パパ、永年勤続25周年おめでとう』という曲のメロディを陽気に口笛で吹きながら最後にもう一度トイレとデスクの雑巾掛けを済ませ、洗った雑巾は廊下に干し、ほぼ定時にタイムカードを押して裏口の外の階段を上って一人退社しました。


振り返って見上げると、暗くなりはじめた空に明かりの煌々と灯った会社のビルがそびえていました。そんな風景はそれまでにも何度となく、それこそ飽きるほどに見てきたはずなのですが、その日ばかりはまったく新たな気持ちで眺めることができたので、しばらくそこで足を止めるはめになりました。しかもよく見てみれば、中階の窓にはなにやらこちらに向かって白いハンカチを振っている女性の姿が映っているではありませんか。そしてさらによく見てみれば、それはハンカチではなくどうやら雑巾のようであり、頭には白い三角頭巾のようなものまで確認できたのです。ただそれでも尚その女性がおヨネさんであると断言できる自信が私には今一つ湧いてきませんでした。

といいますのは、会社が雇っている掃除婦がおヨネさん一人というわけではないということもありますけど、手にした雑巾や頭にかぶった三角頭巾の大きさからして、遠く離れた二人の間の距離を差し引いたとしても、その女性は私が地下室で再会したおヨネさんより一回りぐらいは小さいように感じたのです。

けれどそれがおヨネさんであってもなくても、また雑巾を振っている相手が誰であろうと、私はそのときまだ幸福の只中にいたわけで、女性に負けないぐらい大きく手を振り返したのでした。


つづく


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ