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ピアノマンの見つけ方(後編)

サイレンが鳴り響く高台の道路を超えて、首尾よく林の中へと逃げ込んだ凸版氏は、葉の落ちた木によじ登った。子供のころから木登りの名人だったというわけではなかったけれど、誰かが忘れていったらしい梯子が、腰を下ろす人を待っているバス停の椅子みたいに幹に立てかけてあったのを来る際に見かけて覚えていたのだ。

もしかしたらその梯子は林の管理人のもので、樹木の手入れのために日常的にそこに置かれたままにしてあるのかもしれなかった。

ともかく凸版氏はありがたく活用させてもらうことにした。のんびり海を眺めるつもりが木によじ登ることになろうとは、と考えながら。


天辺までたどり着くと、梯子を駆け上る犬というのは見たことがなかったけども、念のため梯子を持ちあげて枝に立てかけておくことにした。ちょうどその作業が完了したころ、ラブラドールが到着した。黒い犬はなす術もなく、鼻を空に向けながら落ち葉が敷かれた木の周囲をくるくる回って吠え立てるのが精一杯だった。

それは凸版氏の勝利の瞬間だった。二十年前もこうして氏は一度として負けたことはなかった。住宅の塀に、車のボンネットに、よじ登り、その都度難を逃れてきた。彼はいつも見下ろす側だった。

飼い主は遅れてやってきた。息を切らしながら林の中で謝罪する人となった飼い主は、どうやってそんな芸当ができたのか見当がつかない顔をして、木の上の凸版氏を見上げた。氏はそれにたいして、背の高い相棒の肩を、つまりは梯子の側面を、「私にはコイツがついてるので大丈夫です」というふうに掌で叩いてみせ、ようやく普段の落ち着きをとりもどしはじめたペットのリードを握る飼い主を見送った。


二十年ぶりの災難から脱した凸版氏は、このまま地上へと下りて駅への道を引き返そうかと思ったけども、そもそも海を眺めて一日を過ごすという当初の目的はいまだ達成されておらず、さすがにこのまま帰ってしまってはなんのために苦労して有給休暇をとったのか分からなくなってしまいそうなので、やはり考え直し、しばらくそこで身を隠して様子をうかがうことにした。警察だって暇ではないだろうし、一時間もすれば海岸はもとの静けさをとりもどすのではないか、というのが氏の胸算用だった。


木の幹に大きな窪みがあって、四方八方へと伸びた枝に跨りそこに寄りかかると、ちょうどいい案配に体がすっぽりと収まって自然のソファーになった。

葉が落ちて骨だけになった木々の群れは、どこか古い神殿の遺跡めいて見えた。神託でもさずかったのか、キラキラした青い小鳥が頭上を忙しそうに飛び交っていた。パトカーのサイレンも治まったらしく、あのおかしな青年は無事に救出されただろうかと凸版氏はぼんやり考えた。耳をすませば波の音が聞こえてきそうだった。


目が覚めると青い小鳥が一羽から二羽に増えていた。雄雌のつがいなのか、戯れ合って遊ぶように枝葉の間を飛びまわっていた。

凸版氏はその日、生まれてはじめて木の上の寝床で眠りから目覚めた。背中がちょっと痛かった。やれやれ今日はいったいどんな日なんだ、私はもう子供ではないし若くもないんだぞ、そんな呆れた気持ちになりながら腕の時計に目をやると、氏はさっきまで夢の中で耳にしていたハミングが、ここ天然のソファーでも聞こえているのに気がついて、たしかに時間は過ぎているのに体だけが砂浜にとり残されているような錯覚に襲われた。

けれどもそれは自分の足元から、砂ではなく土の上から、聞こえていたのだった。そこで凸版氏は落ちないように気をつけながら、そして向こうからは見つかられないように、幹の陰から身を乗りだした。


真下に行進する人々の頭の列が見えた。落ち葉を踏む乾いた足音と一緒に、彼らの歌声は途切れることなく林の中を海岸の方向へ向かって進んでいた。

さっきの夢は正夢だったのだろうか、まさかこれから本当に浜辺でコンサートが開かれるのだろうか、凸版氏はいぶかり眉をひそめた。

(もしもそうなったら入場券を持っていない私は海岸には入れないのではないか......)

老若男女の人々はハミングし合い、その歌声は一つに重なり合って木々の間を抜けていった。みんな冬山にでも登りそうなほどに着込んで、背中には大きなリュックサックを背負っていた。凸版氏の存在はちょうど木の幹に隠れる格好で、氏に注意を向ける人はいなかった。


凸版氏が夢の中で聞いたのは『パパ、永年勤続25周年おめでとう』という、寝泊まりの準備が必要なほど恐ろしく長い曲だった。なにしろ夢の中の話だから、はじめて聴くのにも関わらず、氏には曲名だけでなく曲の長さまでがあらかじめ分かるのだった。

弾いていたのは浜辺で助けた青年だ。青年は夢の中ではちゃんと意識をとりもどし、濡れた髪は乾かし、綺麗にクリーニングされた白いスーツに着替えて、長い背もたれがついた白い椅子に腰を下ろしていた。

聴衆は不規則な円を描きながら膝を抱えて、白い貴公子めいた青年の、砂の上に置かれた白いグランドピアノを幾重にも囲んでいた。その後方はさながらリュックサックのフリーマーケットめいた様相を見せていて、そこでは寝袋に入って仮眠をとる人や焚火で食事の準備をしている人たちもいた。


聴衆のハミングは、もともと歌詞がないけれども親しみやすいメロディに乗せて自然発生したような感じだった。しかし彼らはそこからさらに曇り空と潮風だけの寂れた海岸をセンチメンタルなおとぎの国さながらに白く染め上げようとしているようだった。青年の演奏に感動したのか、それとも自分たちのハミングに酔いしれたのか、泣きながら歌っている人々も大勢いた。

だがその中で一番泣きたかったのは、他でもない、夢をみている凸版氏本人だった。なぜなら氏は青年の演奏と聴衆のハミングを一人波打ち際に横たわり、執拗に寄せては返す氷水のように冷たい海水に下半身を洗われながら聴いていたからだ。

なんの因果でこんなことになったのか自分でもわけが分からなかった。青年が奏でる音楽は氏の趣味に合ってはいなかった。いいや、そもそも彼は音楽そのものになんの興味も持ち合わせてはいなかった。

(私はただ海を眺めていたかっただけなのに、ピアノのBGMを頼んだ覚えなどないのに、どうしてこんな目に......)


自分の意志で動くことはできなかった。まるで金縛りにあったかのようだった。もしかしたら青年もあのとき、意識があったのに動くことができない状態だったのかもしれない、凸版氏は思った。ちょうどいまの自分と入れ替わりで。

氏の体には誰がそうしたのか黒い防寒コートがかけられてあった。嫌な予感しかしなかった。いつどこでラブラドールの遠吠えが聞こえてきてもおかしくないように思えた。そしてそんなことになれば今度こそひとたまりもない状況なのは明らかだ。

けれど氏の耳に聞こえてきたのは救急車のサイレンの方だった。そして夢の中でその高らかな警報は、凸版氏に平和で安らかな鐘の音のように響いた。

高台でサイレンが止まると、氏の体は担架に乗せられ、砂と波を離れて宙へと浮いた。ただ担架を持ち上げているのは白衣姿の救急隊員ではなく、登山家のような防寒着を着込んだ四人から成るコンサートの聴衆たちだった。彼らのあとには他の聴衆が追随して、そこからまた長い列ができた。その光景はさながら海岸で執り行われた凸版氏のための葬儀めいた形相を見せていた。あとからついて来る聴衆の歌うハミングはまさに氏へのレクイエムにほかならなかった。


「あなた、そんな所に登ってなにしてるの?」

背後から女性の声がした。凸版氏は動物園を脱走した猿よろしく振り返って下界を見下ろした。一人の女性がこちらを見上げて木の下に立っていた。その眼差しは動物園の飼育員というより保育園の保育士のようだった。他の人々と同じく大きなリュックサックを背負って、首からは一眼レフのカメラをぶら下げていた。

ちょうど猿から人類へもどるタイミングを失い、いったいこれからどうしたものかと悩んでいたときだったから、女性の登場は凸版氏にとって渡りに船の予感がした。彼女が海岸に向かう謎の群衆の一人であることは間違いなさそうだったし、しかもその群衆の中でただ一人自分に関心をもってくれた人物でもある。ここは正直にラブラドールの件を話し、ただし浜辺の青年の顛末は内緒にして、ふたたび静かな海へもどれるかどうか尋ねてみるのが得策だろうと凸版氏は考えた。


女性は凸版氏よりも少し若く見えた。背が高く痩せていて、氏が思いだしたのは、子供のころテレビで見ていた『ポパイ』のオリーブだった。大きな黄色いリュックサックを背負って、両手にカメラを持った、その後のオリーブ。彼女はいつもシャッターチャンスを狙っているかのように人差し指をシャッターにのせたまま話した。

「それは大変だったわね。でもね、あなたが期待してる静かなる海は当分もどって来そうにないわよ。季節外れのバカンスが来ちゃったから」

凸版氏は「静かな海」と言ったのに彼女はわざわざそれを「静かなる海」と言い換えた。「季節外れのバカンスが来た」と言い方もなんだかおかしかった。それで凸版氏はもしかしたらこの女性は普通の人はちょっと違ったものの考え方をする芸術家の類いなのかもしれないと、あるいは冬の小径を歌いながら歩く巡礼者の一団みんなが芸術家なのかもしれないと、思った。

(木の枝なんかに座っている中年男を発見した彼女は、もしかしたら自分たちの同類がいると勘違いして声をかけてきたのかもしれないな......)


凸版氏にしてみれば、平日の昼間から集まってブラブラしているのは、芸術家か失業者ぐらいなものだった。芸術家にもいろいろな種類があるけども、彼女はさしずめ写真家か小説家あたりではないかしらん、氏はそう踏んだ。

しかしそうなると事態は悪くなる一方だった。彼ら全員がそのどちらかだとしたら、彼らには時間が十分にあるということだから。日が暮れるまで、いいや日が暮れても、浜辺から立ち去ることはしないだろう。なぜなら今日は彼らのパーティなのであり、女性はどう考えてるかは知らないけども、氏はあくまでそこにお呼ばれもせずに紛れ込んでしまったアウトサイダーなのだ。

アウトサイダーには集団の中だけで流通している言葉が理解できない。女性はそれを裏付けるかのように凸版氏にはさっぱり意味不明な言葉を投げかけた。

「ピアノマンよ。たった今、ピアノマンがこの海岸で見つかったの」


女性はその言葉を誰もが知っているキーワードのように、あらゆる疑問に対応した答えのように、口にした。ただ凸版氏にとってそれははじめて耳にする外国語に等しかった。けれどもその意味を聞き返そうとは思わなかった。なぜなら女性はそれを凸版氏が当然知っているものと信じて疑わずにいるのであり、氏は氏で、彼が知りたいのは彼らがいつそこを立ち去るのかということだけだったから。

そこで凸版氏はかわりにこう言った。

「それじゃ海岸は大変な人出でしょうね」

「足の踏み場もないわ。警察とかマスコミもくるだろうし。しばらくはこの状況がつづきそうよ」

目の前が急に暗くなった。それは曇り空のせいだけではなかった。もはや長居は無用なだけでなく危険でさえあるように感じた。


「よかったらあなたも一緒に海岸にいかない?」

女性が言った。凸版氏は彼女を見下ろしながら首を横にふってみせた。

「ありがとう。でも人が多いのは苦手でね。ピアノマンに会ったらよろしく」

「生憎その可能性は低いわね」女性はカメラのレンズで群衆の列を指して言った。「あの人たちはピアノマンに会いにいくんじゃなくて、新しいピアノマンを探しに海岸にいくとこなの」

「それじゃあなたは?」

「私はそれを撮るためにきたわけ」

女性はそう言って、梯子を下ろしはじめた凸版氏を手で制止すると、ファインダーを覗いて一度だけシャッターを切り、氏の姿を写真に収めた。


「アドレス教えてくれたら送るけど。せっかく海を見に東京から来たんだし、木に登るなんてこともめったにないでしょうから」

「いや、こう見えて木にはよく登るんだ」

地上に降り立った凸版氏はなぜだかとっさに嘘をついた。

「犬には気をつけて。まだ近くを散歩してるかも」

「ありがとう。もしかしてずっと昔に会ったことなかったかな?」

女性は静かに首を横にふった。凸版氏は頷き歩きはじめた。歌う人々の行列とは逆方向に。すれ違いざま、彼らの一人一人にガンを飛ばすかの形相で。

しかし人々は凸版氏とは正反対にいかにも楽しそうで、本当に山にハイキングに来ているみたいに、仏頂面の氏に笑顔の会釈を返す人までいた。

凸版氏はすっかりそのメロディを覚えてしまって、その気はまったくなかったけども、彼らと一緒にハイキングにでかけてハミングできそうなぐらいだった。


犬は最後まであらわれなかった。もしかしたらあのラブラドールは女性のペットだったのかもしれない、凸版氏は田舎駅のプラットホームで帰りの電車を待ちながら、ふとそんなふうに思ったりした。

(彼女は二十年前にデートした女性のうちの誰かだったのかもしれない。ハンドバッグから脱けだして、二十年ぶりに私に会いにきてくれたのだ。そんなことでもなければ、わざわざ私に声をかけてくる女性なんているはずがない。ハンドバッグの中には美しい丘と綺麗な川が流れる村があって、彼女はそこで村の青年と出会い恋に落ちたのだろう。それがさっきラブラドールを追いかけてきた中年男性なのだ......)


ただ海が見たいだけだった。砂浜に腰を下ろして、一人ぼんやりと寄せては返す波を眺めていたいだけだった。

だがその希望は叶わず、見事なまでに不発に終わった魔の有給休暇以降、凸版氏の〈こんなはずではなかった〉感は更なるステージへと昇り詰め、いよいよ氏が〈こんなはずではなかった〉の達人として迎えられる日がくるのもそう遠い未来ではなさそうだった。

その最大の要因は音楽だった。『パパ、永年勤続25周年おめでとう』だった。

そんな題目の曲が本当に存在していたのだ。しかもそれはただ存在しているだけでなく流行ってもいた。ヒットチャートを大いに賑わしていた。音楽にはまったく門戸外であった氏の耳にも、そのメロディが侵入してきたのだ。


いつも仕事帰りに前を通り過ぎる焼き鳥屋で、地元の商店通りで、テレビのCMで、『パパ、永年勤続25周年おめでとう』のピアノのメロディは鳴っていた。いたるところで人々の耳を愉しませ、癒していた。凸版氏がずっとそれに気づかずにいただけだった。

しかしそれも仕方のないことではあった。そもそも音楽に興味がない氏にしてみれば、耳を愉しむだとか、癒されるだとか、そんな高尚な趣味は自分とはまったく無関係な遠い世界の話だったから。

しかもそれは『パパ、永年勤続25周年おめでとう』を知ったあとでも変わらなかった。街中でそのメロディが耳に入ってきても、凸版氏がそれを愉しんだり癒されたりすることはなかった。むしろ逆にイライラして、居ても立っても居られない気持ちがしてくるのだった。

そうするとどこからか集団のハミングが聞こえはじめ、目前にはまるで真夏のビーチかと見間違えるほどに混雑した海岸風景が浮かび上がってくるのだった。それはカメラを持った女性が氏に語ってみせた、まさに魔の有給休暇あとにあらわれた真冬のピアノマン狂想曲なる風景だった。


はじめてピアノマンと呼ばれる青年が発見されたのはイギリスの静かな海岸だったけども、その青年は実際にはピアノが弾けなかったし、身元不明者でもなかったし、ハンサムでもなかった。ハンサムであることは、身元不明者であることとピアノが弾けることに加えて、ピアノマンの三大条件の一つだった。つまり彼はまったくピアノマンの名に相応しくない青年であった。

人騒がせな偽ピアノマンが大衆の記憶から消えていくのにそう時間はかからなかった。偽ピアノマンは故郷のドイツで暮らす両親の元にひっそり帰り、一時は世界中で飛び交っていた彼につけられた名前が、ふたたび人々の口に上ることはなくなり、遠く記憶の彼方へと忘れ去られた。


大衆がその名前を思いだしたのは、偽ピアノマン騒動があってから何年も経ったあとのことだった。人々は記憶の砂浜に埋めた名前を掘りだしては半信半疑に砂を叩いて落とすことになった。

誰も彼もが、また人騒がせな変わり者があらわれたと思っていた。砂から掘りだした名前は直ぐにお役御免になるだろうから、今度こそ綺麗さっぱり海に流してしまおうと、ニュースを覗き見しながらその時がくるのを待っていた。

結果的にではあるにせよ、偽ピアノマンのドイツ青年に存在価値があったとしたら、それはそんな具合にあらかじめ人々の頭にピアノマンに対する負の感情をインプットすることにあったのかもしれなかった。彼はプロトタイプであると同時に当て馬でもあったのだ。

それはもしもドイツ青年が本当に身元不明で、ピアノが上手に弾けて、おまけにハンサムであったなら、世界はもう少し彼を歓迎しただろうということのプロトタイプであり、そしてつぎにピアノマンと呼ばれる青年があらわれて、もしも彼が必要な三つの条件をすべてクリアしたなら、世界はこれまで疑ってきたことを詫び、彼の演奏に耳を傾ける可能性がなきにしもあらずということの当て馬であった。


今度はイギリスではなかった。それは近くに大きなホテルが建った、東北地方の太平洋側にある海岸だった。発見したのは、海からは遠く離れた町のタクシー会社に勤務している中年男性で、男性はそのタクシー会社に25年間一日も欠勤することなく勤務していたのだが、冬になっていよいよ寒さが堪えだしたその日の朝にかぎって急に海が見たくなり、会社に電話を入れ、わざわざ有給休暇をとってやってきたのだった。

海岸近くのホテルはオフシーズンではあったものの、雪の少ない静かな海辺を好む客層は常に一定数いるもので、ただこの日は生憎の曇り空だったせいか朝の散歩のために浜にでようとする宿泊客は奇跡的に一組もいなかった。タクシードライバーの男性は、『一度は行きたい海ベスト25』にも選出されたことのある美しい砂浜を独り占めすることになった。そしてその波打ち際で赤いスーツを身にまとって倒れている一人の青年を発見したのだ。


ピアノマンがどこからきたのか、いったい彼は何者なのか、その答えを知る者はいないというのが定説だった。なにしろピアノマンには戸籍がなく、名前もなく、家族も友人もいないのだから。彼は鍵盤の上では雄弁であったけども、それから離れるとなにも語ろうとはしなかった。

イタズラ説、ヤラセ説、スパイ説、人魚説、意志を持った海説、様々な説が乱れ飛んだ。その中で一番有力な説は、レコード会社と大手芸能事務所と大手広告代理店の三者による手の込んだプロモーション説というものだった。レコード会社は売上げが落ち込んで困っていたし、そもそも赤ピアノマンの身元引受人となったのは大手芸能事務所の会長であったし、巧みな情報操作と時の権力との太いパイプさえあれば戸籍を持たない一人の人間を捏造することなど朝飯前というのが多くの人々の意見が合致するところだったのだ。


金の匂いがプンプンしたプロモーション説は、なかば奇跡に対するまともな社会人のまともな常識のように語られ、そのために本当はピアノマンの演奏に癒されていたサラリーマンや、そのベネディクト・カンバーバッチふうの外見に密かに惹かれていた女性など、本来ならばファンになってもおかしくないはずの人々を尻込みさせてしまうケースがあとを絶たなかった。

そこで広告代理店の社員が知恵をだしたのか、それとも世界に対抗する奇跡の連鎖反応がはじまったのか、あるいは当初は三者によるプロモーションであったはずが、覚醒した赤ピアノマンによって勝手に呼び寄せられたのか、それは分からないけども、尻込みする人々を後押しするための強力な助っ人が、赤ピアノマン発見の記憶がまだ新しい冬の終わりに、同じ『一度は行きたい海ベスト25』の砂浜に形を変えて再登場した。


単純に考えると、もしも選択候補が一つしかない場合、人々がそれを選択しない確率は二分の一だけども、候補が二つに増えればそれは三分の一にまで小さくなる。まるで大所帯のアイドルグループのように、選択候補が増えるほどに人々が選択しない確率は魔法みたいに小さくなっていくのだ。

ただ候補の数は多ければ多いほど良いというものでもない。あまりに多いと、人々は逆に選択する熱意を失ってしまうのだ。それは人々が経験的に良く知っている一番大きな集団の数に近いことが望ましい。そう、たとえば学校のクラスのような。


青ピアノマンの登場は多くの人々に選択する勇気と楽しさを提供した。赤ピアノマンのときにはまだ躊躇していた人々が、堰を切ったようのようにCDショップやコンサート会場に押し寄せた。

青ピアノマンはどちらかといえば大衆的なジョセフ・ゴードン=レヴィット似のハンサムで、もちろん身元不明者だった。因みに砂浜に倒れた彼を発見したのは、有給休暇をとって一人で海を見にきていた、運送会社で働く倉庫係の男性だった。本人は覚えていなかったけども、男性はこの日、永年勤続満25周年の節目を迎えていた。しかも彼は赤ピアノマンの存在をまったく知らない世にも珍しい男性であり、浜の上空はその日も朝から寒々とした曇り空が広がっていたのだが、ホテルの宿泊客はそんな静かな冬の海辺を好んでいるはずなのに、その朝にかぎって誰一人として外にでてくる様子はなかった。


青ピアノマンの存在は人々にあらたなピアノマンの登場を想起させ、これまでの経過から、三人目のスーツの色はフランス国旗を模倣して白になるのではないかというのが大方の予想だった。まだ見ぬ白いピアノマンは人々にピアノマン三号と呼ばれた。

二人のピアノマンが見つかった〈一度は行きたいヶ浜〉には、休日になるとこれまでにも多くの野次馬的な観光客が訪れてはいたけども、マスコミが特ダネ合戦をはじめると、そこはテントを張った群衆によって埋め尽くされることになった。それというのもピアノマンを発見した二人の男性が、それぞれのピアノマンの売上げから5パーセントの報酬を得るという契約をレコード会社と交わしている事実が週刊誌にスッパ抜かれたからだ。

その誌面にはこんな見出しが踊っていた。

『あなたもピアノマン長者になれる!誰も教えてくれなかったピアノマンの見つけ方教えます!』


そんなわけで〈一度は行きたいヶ浜〉は、三匹目のドジョウ目当てにやってきた群衆によって何ヶ月にもわたり大混雑した状況がつづくことになった。海岸のホテルはシーズンオフにも関わらず予約がとれず、静かな海辺を愉しみにしていた数少ない冬の常連客は、ピアノマン長者を目指してはるばるやってきた群衆の中でもとりわけ裕福なグループたちに追いだされるはめになった。

その数ヶ月のうちには、当然テントの上に厚い雲が広がった朝もあっただろうし、群衆の中にはわざわざ有給休暇をとって海のない遠い町からやってきた人々もいただろう。しかしそれを差し引いても、かつて二人のピアノマンが発見されたときとはなにかが決定的に違っていた。

ピアノマン三号は翌年の二つのXデーを過ぎてもあらわれなかった。つぎの冬を迎えてもあらわれなかった。当てのない潮風にチラチラと白いものが混じり、〈一度は行きたいヶ浜〉から一つまた一つとテントの影が畳まれはじめたころ、ようやく風に舞う雪と同じ色の三号発見のニュースが届けられた。だがそれは彼らのテントがある場所からは遠く離れたべつの海岸の話だった。


「決心はついた?ピアノマン長者さん」

「その必要はないさ。だってそもそも私はピアノマン長者ではないんだから」

凸版氏は携帯電話に向かって答えた。

女性から電話がかかってきたのはこれで二回目だった。一度目は魔の有給休暇から一週間が経ったあとで、そのときもちょうど昼時だった。すべての機械が停止してシンと静まり返った、インクと油が入り混じった臭いのする工場内で、凸版氏は一人昼食をとっているところだった。

氏の予感は正しかった。女性はあの日、人々の写真を撮るために海岸までやってきたのではなかった。凸版氏に会いにきたのだ。ただ氏の判断が正しかったのはその一部分だけで、あとは全部間違っていた。女性はもちろんハンドバッグから抜けだしてきたわけではなかったし、海岸で氏を追いかけてきたのは彼女の飼い犬ではなかったし、さらに彼女は芸術家でもなかった。

「私、本当はレコード会社の社員なの」女性は言った。「気がつかなかったでしょうけど、あの朝、私はあなたの後をずっとつけてたのよ」

「海岸から?それとも林から?」

「あなたが駅の改札をでてきたところから。私たちにはつぎにピアノマンが現れる場所と日時がだいたい予測できてた。あとは永年勤続25年の男性が駅からでてきたら、その日がXデー。私たちにはあなたの力が必要なの。助けてほしいのよ」


凸版氏は進化していた。女性とはじめて出会ったあと、それまで耳にしたことがなかった〈ピアノマン〉という言葉について携帯電話を使ってずっと調べていたのだ。

そんなわけだから女性から最初の電話がかかってきたときには、氏はすでに一端のピアノマン博士になっていた。ただそれでも、レコード会社がどうして自分を必要としているのかは推測できなかった。

「それは三号があなたを必要としているからよ」女性は言った。「とくに生まれたばかりのピアノマンはまだ精神的に不安定なの。赤ちゃんと一緒で、誰かがそばにいてあげないといけないのよ」

「じつはその点については、あの日のうちに彼とも海岸で話したんだけどね。どうも誤解があるようだ。私は彼の父親ではないよ。君が撮った写真を見れば分かるだろ?私たちはぜんぜん似てないじゃないか。DNA鑑定するまでもない、私の種からあんな美青年が生まれるはずがない」

「いいえ、それでもあなたは三号の父親よ。精神的な意味で。ピアノマンは最初に見つけてくれた人を自分の肉親と認識するから」


「つまり君はどうしても私にあの青年の父親になってくれというんだね?」

「そうです。でもそれはそんなに難しい仕事ではないのよ。コンサートやレコーディングに立ち会って、三号の話し相手になってくれればそれでいいの」

「話すってなにを?私には音楽のことなんてなにも分からないよ。コンサートだって一度も行ったことがないんだから」

「いま私と話してるように話してくれれば十分です」

「無理だよ。仕事が忙しいんだから。ずっと残業つづきなんだ」

「その点に関してはあとで相談しましょう。ただ私たちが用意してる報酬が、あなたの生涯収入よりもずっと多いということだけはこの場で保障します」

「ピアノマン長者の噂は事実だったんだな」

「そうよ。あなたで三人目。でもそれは世間が考えてるよりもずっとやり甲斐のある大切なお仕事よ。だって世界中の人たちがピアノマンを待ってるんだから。あなたを待ってるんだから」

「私は飛行機にも一度だって乗ったことがない。パスポートさえ持ってない」

「ジョギングが趣味らしいけど。ピアノマン長者になって私たちと世界中を旅したら、世界中のマラソン大会に参加できるわ」

入社して25年、それは凸版氏が体験したもっとも長くて短い昼休みだった。世界?世界ってなんだ?そう思いもしたけども、かわりに氏はもう一度だけ尋ねた。

「ずっと昔に会ったことなかったかな?」

「この間も同じこと訊いたわね。あったかもしれないし、なかったかもしれないわ」


女性の話によると、二ヶ月後にピアノマン三号によるはじめてのコンサートが予定されていて、どうしても凸版氏にきてもらいたいようだった。初コンサートはいってみればピアノマン三号の御披露目会であり、彼が本当のピアノマンかどうか、最終的にはその日コンサート会場に足を運んだ聴衆の反応によって決まるらしいのだ。

ただそのコンサートは平日の夜に予定されていた。そんなにきてもらいたいのならどうして休日にやらないのか凸版氏は疑問だったけども、それでちょうど断る理由ができたと思って黙っておいた。

女性から二回目の電話がかかってきたのはコンサート当日の昼休みだった。


海が見たかった。ただぼんやりと日が暮れるまで寄せては返す波を眺めていたかった。凸版氏の望みはただそれだけだった。

しかしそれは必ず冬の平日に、会社を休んで行かなければいけなかった。日曜日ではダメだった。ましてや仕事を辞めて行くなんて愚の骨頂だった。

だから凸版氏が女性の申し出を受け入れるはずはなかった。氏としては、一日でもはやくピアノマン騒動が治まって、ふたたび海岸がもとの静けさをとりもどすのを待つだけだった。

「そう、残念だわ。でも夜までに気が変わったらきてね。受付には伝えておくから」

まだ休憩時間をだいぶ残して女性は電話を切った。


「凸版さん、今さっきあなたの親戚の女性から電話があって、あなたのお母さんが危篤らしいんだ」

夕方の終業ベルが工場内に響きわたる前に、事務方の社員が凸版氏の持ち場にきてそう言った。

氏が両親を亡くしてからだいぶ年月が経っていたけども、それを口にすると話が余計にこじれそうだし、その親戚の女性か誰なのか察しがついたので、ここは黙って持ち場をあとにしてタイムカードを押した。

作業着から私服に着替えて外にでると、すでに日が暮れていた。ひっきりなしに出入りするトラックを横目に、凸版氏は駅へとつながる、背の高い街灯が並んだ大通りへとでた。

コンサート会場は電車に乗って三つ先の駅にあった。ただ行く気はまったく起きなかった。


凸版氏は音楽のことはまったく分からなかったけども、コンサート会場を埋めた聴衆の反応を見るまでもなく、三号が正真正銘のピアノマンであることを知っていた。なぜなら氏は海岸で、氏本人すら忘れていた事実を彼の口から直接聞いていたから。氏はそれをあとになって自分の社員証を見ることで確認できた。だからわざわざ自分が行かなくても三号は大丈夫だろうと思った。

それから相手がピアノマンであるかどうかに関わらず、凸版氏は自分が誰かの話し相手になれる自信などまったくなかった。期待されて会ったはいいけども、すぐに愛想を尽かされるのが関の山だと信じて疑わなかった。一人で海を眺めているのが身分相応なのだし、なにより自分はそれを望んでいるのだと。


駅前のスクランブル交差点で信号待ちをしているとその声は聞こえた。それは二ヶ月前にも聞いた声だったし、今回の方がずっと数が多かったけれど、そのときばかりは三号の件で凸版氏も少なからず自責の念にかられていたせいか反応が遅れてしまった。気がついたときには四匹の黒いラブラドールが、犬ぞりの一団みたいになって、凸版氏の尻目がけて押し寄せてきていた。

痛みはまったくなかった。ついに今度こそ噛みつかれると観念した凸版氏は拍子抜けするほどだった。それもそのはず、尻には噛みつかず、ただ一匹のラブラドールが氏を追い抜いていっただけだった。さらに左右はべつの二匹に挟まれて、不思議と赤信号に引っかかることもなく、氏は四匹のラブラドールに完全包囲されながら走りつづけているのだった。

「走りなさい!そのままどこまでも走りつづけるのよ!」

うしろから、かの女性の声がした。チラッと横を見ると、二人乗りした大型のスクーターが見えたから、その後部座席に乗っているのがそうに違いなかった。

ただなにか言い返す余裕はそのときの凸版氏にはなかった。


おしまい



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