表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
53/188

ピアノマンの見つけ方(中編)

その日、凸版氏の積年の〈こんなはずではなかった〉は報われるはずだった。長く暗いトンネルを抜けて、ついに氏の人生は明るい空の下に、いいやそれはそんなには明るくはなかったかもしれないけども、少なくともどこかの空の下には出られるはずだった。

しかしもしそうはならなくても、その日、彼はこれまで経験したことがなかったほどに人生を謳歌していた。電車に乗ることも、それを乗り換えることも、駅からの知らない道を歩きつづけることも。鉄道マニアでもハイキング愛好家でもないにも関わらず。

凸版氏はほんの数時間のうちに人生を楽しむのにお金も年齢も関係がないことを学んだ。すべては心の持ちようなのだと。自分の人生を生きるのに遅すぎるということはないのだと。


遅れてきた中年の凸版氏は、ついに海岸沿いの道路へとたどり着いた。道路は雑木林を抜けた高台の場所を走っていた。その高台にのぼると空気がガラリと変わるのが分かった。いままで耳にあてていたヘッドホンを外したみたいに、波の音が一斉に迫ってきた。体全体が潮の香りにすっぽり包まれた感じがした。それは毛穴の隅々まで浸透して氏をもう一度細胞レベルから作り変えようとしているみたいだった。

水平線が一望できて、孤の上を蜃気楼めいた黒い影がゆらゆらと揺れていた。凸版氏が毎朝乗っている通勤電車の窓からは望むことのできない大パノラマだった。氏はその風景が大いに気に入った。ラクダに跨ってアカバの海岸に到着したアラビアのロレンスにでもなったような気分だった。なめらかに隆起した砂浜にはどこまで歩いていこうとも人影がまったく見当たらないようだ。


平日の、しかも曇り空が広がった冬の朝であったにしても、無人の海岸は奇跡のように思われた。さらにそれが全国の〈こんなはずではなかった〉代表であってもおかしくはない凸版氏の身に降りかかった幸運であることを考慮すれば、ほとんど完璧な奇跡と呼んで差し支えない出来だった。

もっとも凸版氏本人にとってはそれはオマケに過ぎなかった。けれども氏が遠い地まで足を運んだ理由を考えれば、やはりそれは静かであるのに越したことはなかった。

沖合から吹いてきた冷たい風が頬を打った。人には真冬の凍える寒さが、凸版氏にとっては素敵な贈り物だった。まるでビーチパーティーに誘われているかのような。ただしそのパーティーは太陽と鮮やかなパラソルの下で開かれる夏の女神のそれではなく、厚い雲の下と鈍いビー玉色した波間で開かれる孤独な白い冬の女王のパーティであるはずだった。


人生ではじめてお呼ばれしたパーティーに参加すべく、凸版氏はさっそく高台の道路から冷たい手すりを伝って石の階段を下りていった。

するとさっきは目に映らなかった、波打ち際に横たわる白い影が視界に飛び込んできた。まるで直前まで知られないように画策された〈ドッキリ〉めいた。寄せては返す波の動きばかりに気をとられて気づかなかったのだろうか。

最初は白い大型犬かと思って、プールと同じぐらいに犬が苦手な凸版氏は、いまになって回れ右して砂浜を走って逃げだそうかと身構えたけども、よくよく観察してみると、それは白い服を身にまとった人間の形をしていた。

犬には追いかけられずに済んだ氏であったが、状況はその分さらに緊迫していた。それは意地悪な冬の女王からのとんだ贈り物だった。どう考えても白い服を着た彼か彼女が、自ら好き好んで濡れた砂にまみれながらそこに寝っ転がっているとは思えなかった。


眠っているのか、気を失っているのか、死んでいるのか、そのうちのどれかに違いなかった。それでも不思議と犬ほどには怖くなかった。

白いスーツに白いズボン、襟の大きな白シャツは裾が外にでて、濡れて透けていた。足元までピカピカしたエナメルの白い革靴だった。ほとんどなにかの衣装めいて、その存在は人気のない真冬のビーチではあまりにも不釣合いな印象を与えた。

背格好から少年か青年であるのは確かだったけども、開いたシャツの襟もとから上着と同じぐらい白い鎖骨が覗き見え、生まれたばかりのようにぐっしょり濡れた髪も茶色だったものだから、凸版氏はてっきり男は外国人かもしれないと考えた。氏の頭の中では、シャンパンに酔っ払って豪華客船のデッキから海原へと落ちてしまった外遊中の資産家の子息が、運良くイルカに助けられ、浜辺に打ち上げられるという筋書きがあっという間にできあがった。凸版氏にしてみれば、資産家の家に生まれるぐらいの強運の持ち主は、海に落ちてもイルカが助けてくれるはずだし、そうでない者はただ外を歩いているだけでも犬に吠えたてられて気が済むまで追いかけられるものなのだ。


男は浜辺の方向に伸ばした左腕を腕枕にして、うつ伏せの状態で倒れていた。長い髪が顔を隠していた。砂に触れた指先は白く繊細なまでに細かったけども、同時に鳥の脚のように力強かった。

それはただの資産家の子息には不釣り合いなように思われた。その指には職業的な長い鍛錬が宿っていた。それで凸版氏は青年が自分と同じような指先を酷使する製造業に携わる人間なのだろうかと想像してみたけども、アビィロードを闊歩するジョン・レノンのような彼の格好から、すぐにその考えは却下された。氏の経験上、製造業の現場で働いている人間が、白いスーツに白い靴を履いて平日の海岸に倒れているはずがなかった。


凸版氏は逆の発想をしてみた。青年を自分とは一番遠く離れた世界に置いてみた。

その結果、氏は青年の素性をメロドラマ風に上書きすることになった。彼はもしかしたら船上のピアニストで、海に落ちた直接の原因はシャンパンであったとしても、事の真相はひょっとしたら長い航海の果ての失恋によるものではなかったかと。それはかなり突飛なアイデアではあったけども、凸版氏にはしっくりくるところがあった。

凸版氏は腰を落とし、船上のピアニストの肩に手を置いて言葉をかけてみた。その動作をくり返すと、青年は条件反射のように体を反転させ、自分で砂の上に仰向けになった。

とりあえずそれで死んでいないことは分かった。


少女マンガにでてくるアイドルみたいな綺麗な顔立ちをしていた。船上のピアニストかどうかは本当のところ分からなかったけども、青年が世間から祝福されるために生まれてきた種類の人間であることは間違いなかった。

それでも少女マンガはもちろんのこと、今どきのアイドル事情にもとんと疎い凸版氏は、これは男装した若い女性なのではないのかしらんと思い込み、船上の男性ピアニストの素性を男装した女性ピアニストに置き換えてさらに上書きしなければならない必要性を感じた。ただそれは自分の手には余るほど複雑なテーマなのではないかと躊躇した。すると引き潮のざわめきに誘われるように船上ピアニストがうめき声をあげて、氏にその困難な作業の必要性をキャンセルさせた。

男装したはずの女性が発した声は、凸版氏のそれよりよっぽど低かった。砂浜に置かれたグランドピアノの扉を開いて、低い方の鍵盤を長く叩いたように喉から響いた。けれども凸版氏がもっと驚いたのはそのあとに青年がとった行動と彼が発した言葉の方だった。

青年はゆっくり瞼を開くと、困惑した凸版氏の顔を虚ろに見上げ、その貴族風な若い瞳に映しだし、低い方の鍵盤の声でこんなあり得ない言葉を小さく発した。

「パパ......」

やはり上書きが必要なようだっだ。凸版氏が躊躇してさらに途方に暮れるほど複雑な上書きが。


凸版氏は人助けをするために海にきたわけではなかった。彼にはほかにやるべきことがあった。そのためにわざわざ仕事を休んだのだ。

だからあとのことはプロの人間にまかせて、できるだけ早くこの場から離れたかった。この場から離れて一からやり直したかった。一番最初に高台で潮風に包まれた高貴なあの瞬間から。

遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてきた。それは凸版氏が携帯電話で呼んだものだ。海岸で遭難した人間を救助したのもはじめてなら、救急車を呼んだのもこれがはじめての経験だった。

「世の中いつなにが起きるかわかったものではない」

そんな両親の用心深いつぶやきが聞こえてきそうだった。

(ああそうだね、父さん。本当だね、母さん。本当に世の中はいつなにが起きるかわからない......)


凸版氏は遠い救急車のサイレンを心底ホッとした心持ちで聞いていた。

救急車はまだ高台の壁に隠れて見えなかった。ただそのサイレン音だけが左の方向から聞こえていた。するとやっと平静をとりもどしつつあった凸版氏の心境にさざ波を起こしかねない、いま一つの警笛が右の方向から聞こえてきた。

それは救急車のピーポー音とは明らかに違っていた。しかも一台ではなかった。海岸線を走る道路の高台がちょうどスピーカーのようになって、左からは一台のピーポー音が、そして右の方向からは『西部警察』を連想させる何台ものパトカーのサイレンが響きはじめたのだ。


凸版氏の頭の中に張られたスクリーンには、高台の向こう側に広がる、サイレンで埋め尽くされた大地が映しだされていた。それは不吉な赤いパノラマだった。たった一人の青年のために、どうして海岸につながるすべての道路が赤いサイレンの列によって封鎖されようとしているのか、凸版氏は不思議でならなかった。

そしてその不吉さは、氏にある不安定な事実を思い起こさせた。それはほかでもない、彼が仕事をズル休みしてその場に立っているという事実だった。

凸版氏の心に起きたさざ波の上に、冬の嵐を予感させる暗雲が立ち込みはじめ、氏は思わず嘆かずにはいられなかった。

(ああ父さん、ああ母さん......)


しかしどうして不安定なのか、どうしてそれが赤いサイレンと結びつくのか。凸版氏の考えはつぎのように展開した。

凸版氏が海岸で救助した青年は、氏が重ねた上書き以上に重要人物だった。あるいは重大事件に巻き込まれた被害者か容疑者だった。その青年を救助した凸版氏は、不本意ながら時の人になってしまう。逆に最悪の場合、凸版氏自身が容疑者の一味である疑いを持たれる。警察は当然氏の素性を調べるだろうし、マスコミも黙ってはいない。

それでも凸版氏の容疑はすぐに晴れるだろうが、そこにあらたな疑惑が誕生する。そっちの方はあくまでも小市民的な疑惑だけども、意地悪なマスコミは一面の見出しにその小市民的な疑惑を盛り込むことを忘れない。曰く、『会社をズル休みした中年男性、仕事をサボって大手柄!』。


救急車と何台ものパトカーが、フィーバーしたパチンコ台よろしく派手にサイレンの競演を繰り広げながら高台目指して迫ってきていた。

凸版氏の耳にはもう潮騒も沖から吹いてくる風のささやきも聞こえなかった。寒さも感じなかった。(この日のために氏がホームセンターで購入した防寒コートは、いまは青年の体にかけられてあった)。

氏の鼓膜には壁の向こう側で繰り広げられている一大スペクタクルショーの効果音しか入ってこなかった。ここに来たのは大間違いだった。そんな後悔が、お得意の〈こんなはずでなかった〉が、ふたたび頭をよぎった。

けれどもそのとき冬の女神のお告げが届いた。それは同時に凸版氏をここまで導いた不思議な力が、かなり気まぐれであることを物語っていた。

凸版氏の耳は幸いにもそれを聞きとることができた。それもそのはず、その声はパトカーのサイレンに負けないぐらい氏にとっては不吉な音だったのだ。


女神は黒く短い毛に覆われた、尻尾を振り、吠えたてる、一匹の獣の姿としてあらわれた。女神は凸版氏目がけ、砂を四本の脚でかき上げ、一心に走ってきた。散歩中であったらしく、首輪につけたリードを暴れるホースのごとく宙にたなびかせていた。そのあとを必死の形相でリードを掴もうとする飼い主らしい中年男性が走ってくるのが見えた。女神は普段は大人しい、決して人を追いかけたりしないラブラドール犬であるのに違いなかった。飼い主の慌てふためいた表情からそれが伺えた。

ただ凸版氏においては、それは決して珍しい出来事ではなかった。もっともずいぶん久しぶりのことではあった。それに多少の違和感もあった。というのも、かつて犬たちは真冬の海岸ではなく、凸版氏のたった一度切りの短い人生の春に決まってあらわれたものだから。

凸版氏は若い頃の経験から自分の中にそういった資質があるのを嫌というほど分かっていた。だからまったく初対面であるはずの飼い主の顔を、緊張の中にあっても、いいやむしろ緊張の中にあるからこそ、ひどく懐かしい心持ちで見ることができた。


はじめて犬に追いかけられたのは、十九になったばかりのデートの帰り道だった。

その遥か昔のデートの相手が誰であったか、生まれたばかりの赤ん坊が成人するほどの年月が流れた今となっては凸版氏の記憶も不確かだったけども、それとくらべて犬の方ははっきりと思いだすことができた。小さな黒毛のブルドッグだ。氏にとって幸いだったのは、その小さくとも血気盛んな生き物が、存在の不確かなガールフレンドを家まで送ったあとにあらわれたことだった。

そう、犬たちは必ず凸版氏がガールフレンドを家まで送ったあとにあらわれた。秋田犬、ゴールデンレトリバー、ビーグル犬......ありとあらゆる犬たちが、リードを握った飼い主の手を振り払って、あっという間に置き去りにして、凸版氏目がけて走ってきた。そのハッチャケぶりは友好の発露というより、満月の夜を迎えた狼男、はたまた忘年会シーズンの酒乱サラリーマンのそれに近かった。


もしかしたら、犬と人間の女性だけが感知する特殊なフェロモンでも体からではじめたのだろうか......犬や女性たちの野生を目覚めさせるような......凸版氏は思ったものだ。それというのも当時の凸版氏の前には、犬だけではなく、彼が著名人であったなら謝罪会見の一つや二つでは済まされないぐらい、次々に素敵な女性があらわれたから。そんなことはこれまでなかったことだった。

凸版氏においては女性たちと犬たちは切っても切り離せない、飴と鞭のような存在だった。氏はデートの最中に女性たちと視線や言葉を交わしながらも、そのあと間違いなく自分を待ち受けているであろう動物的な災難が頭をよぎり、緊張に身を震わせずにはいられなかった。またそんな氏の、他人にはうかがい知ることのできない事情が、女性たちにとってはどこか謎めいた魅力として映るらしかった。

凸版氏はデートあとに起きていた珍騒動についてはガールフレンドたちには一切話さなかった。だから家に帰った彼女たちが、夜の街のどこかで、尻や足首を噛みつかれそうになりながら犬と競走するボーイフレンドの姿を、ベッドの中で想像するようなことはなかった。


それは凸版氏の人生に一度だけ訪れた春だった。二十歳になると、フェロモンの分泌が活動を停止したのか、ガールフレンドたちは犬と一緒に凸版氏の前から突然姿を消した。まるで犬たちを連れて全員そろって魔法のハンドバッグの中に隠れてしまったみたいに。

そのあとには散歩中の犬たちは凸版氏にはなんの興味も示さないようになった。犬たちにとって彼はふたたび電柱以下の存在にもどったようであり、それは人間の女性たちにとっても同じであるようだった。

凸版氏に残されたのは、犬への警戒心と、走っているときの高揚感だけだった。氏は空いた時間と心の隙間を埋めるかのようにジョギングをはじめた。その習慣は彼が知らず知らずのうちに打ち立てた無欠勤永年勤続満25年の礎となった。


二十年ぶりに凸版氏の前にあらわれた犬は黒いラブラドールだった。相手にとって不足はなかった。二十年間走りつづけてきた氏は年はとったけども、若い頃よりずっとタフだった。腰痛は大嘘なのだ。

ただ凸版氏は犬と走るために海に来たわけではなかったし、ましてやデートの帰りでもなかった。しかし細かな条件にこだわっている時間はなかった。犬は満月の狼男と化して高らかに吠えているのだし、高台のステレオ装置はますます音量をアップしているのだから。危機は目の前に迫っているのだ。

さて防寒コートはどうしたものか、持っていくか置いていくか、凸版氏は砂に横たわった青年を見下ろした。本来なら、これが二十年前の春ならば、その青年は青年ではなく、女性であるはずだった。あるいは男装した船上の女性ピアニストであるはずだった。彼女と凸版氏は人気のない海岸で偶然出会って、お互い一目で恋に落ちて、ゆっくり時間をかけて浜辺をデートしてもよかった。

けれども凸版氏にふたたび春はやっては来ず、やってきたとしてもそれは身元不明の怪しげな春だった。


「パパ......」

足下でふたたび青年のうわ言が聞こえた。

「私は君の父親ではないよ」

そうこたえながら、凸版氏はこの青年が二十歳であっても全然おかしくはないという事実に思い当たって、愕然とした。

(いいや、まさかな......)

凸版氏は心の中に突然生まれ落ちた、ある不穏な可能性を打ち消そうとした。しかしそれを完成する前に、青年のあらたな言葉が耳に入ってきた。それは凸版氏も知らない凸版氏の偉業だった。

青年はまるで誰かに埋め込まれた偽の記憶のように、遠く水平線に浮かんだタンカーから遠隔操作されているように、その唇だけを動かした。

「パパ......永年勤続25年おめでとう......」

凸版氏は青年からもっと話を聞いてみたい衝動にかられた。いったいそれはどういう意味なのかと。けれどもラブラドールはもうすぐそこまで迫ってきていた。凸版氏は青年をその場に残し、砂を蹴り、高台の壁を目指して猛ダッシュで走りだした。


つづく


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ