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ピアノマンの見つけ方(前編)

これまで一日も欠勤することなく永年勤続満25年を迎えようとしていた記念すべきその日に、印刷職人一筋の凸版氏はついに仕事を休んだ。

ただその日が氏にとってそんな特別な一日であることを覚えている同僚は一人もいなかったし、凸版氏本人ですらまったく記憶していなかった。しかも朝のうちに会社には「腰痛のため」というもっともらしい電話を入れたものの、25年目にして初の欠勤理由は本当のところただのズル休みにほかならなかった。


決して魔がさしたわけではなかった。予兆は以前から少しずつ進行していたし、誰よりも凸版氏自身がそのことを自覚していた。

電車のドアにもたれながら窓の外に流れては消えていく東京の乾燥した冬の街並みを、とくになにかに気をとめる様子もなく、ただぼんやりと眺めていた。それが25年間つづけてきた氏の通勤スタイルで、月日が過ぎ去る間に沿線の風景と彼の外見は徐々に変化していったけども、その通勤スタイルとぼんやりとした平坦な心境だけはほとんど変わることがなかった。

それがここへきて急展開をみせはじめた。


(海が見たいな......砂浜に一人腰を下ろして......一日中ずっと波を眺めているのもいい......)

都心を走る通勤電車の窓から水平線など見えるはずもないし、駅のホームに降りれば吐く息が白くなる寒さなのに、そんな考えが突然思い浮かんだ。もちろんその唐突さに驚いたのは凸版氏本人だけで、思いがけない閃きのすぐあとにこう自問せずにはいられなかった。

(いいや待てよ。どうしてそんなものが見たいなんて思うんだ?いったい私という男のどこに『海』と関連する事柄が含まれているというんだ?)

最後に潮風に触れたのはいつのことだったか思い出せなかった。それでも今日にいたるまで、海を眺めたいなどと思ったことは一度もないはずだった。なぜなら凸版氏は子供の頃からずっとカナヅチだったから。


自分で自分が不思議でならなかった。ただその生まれたばかりの感情は残業仕事を終えて帰宅するころには潮が引いたようにすっかり消えていた。けれども翌日になってまた同じ通勤電車から窓外の風景を眺めていると、波打ち際の白い泡のようにそれはフツフツと蘇ってくるのだった。そのサイクルは数日間つづいて、日付けが変わるたびに蟹が吹きだす泡のごとく増えていき、一週間後には頭の中はすっかり洗われて生まれ変わっていた。


鏡に映った自分の肉体に惚れ惚れするボディービルダーよろしく、凸版氏は砂浜で一人海を見つめている自分の姿を想像して、毎朝のように通勤電車の車内でうっとりした。そんなふうに幸福感に包まれたのは生まれてはじめての経験だった。自分で自分の姿にうっとりするなんて。

今まで失ってきたものと再会できるような気がした。取り戻すことは不可能だろうし、取り返しのつかないことばかりだけども、砂浜に腰を下ろしているだけで波や潮風がそれを運んできてくれそうな。そうしてしばしの間、氏は失われたものたちと浜辺で語らい、時間がきたらまた海へと返すのだ。


地図や路線図を眺めなくとも、これまで何度も足を運んでいるかのごとく、その海岸まではなんの苦労もなく、ごく自然にたどり着けそうな予感がしていた。

凸版氏はついに休日の朝、いつものように早く起きて平日よりも賑やかな色で溢れた電車に乗った。

そこでは行楽客の方がずっと多かった。氏もその一人だったのだが、その服装は地味な少数派である休日の勤め人たちよりもさらに地味で、近所のホームセンターで安売りされていた茶色いニット帽とツヤツヤした黒い防寒コートという取り合わせだった。

もっともこれから彼が向かおうとしていたのは夏の青い海ではなくて、鈍いビー玉色した真冬の海なのだから、むしろその方がお似合いかもしれなかった。


しかしいざ休日の電車に乗り込んでみると、凸版氏は数分もしないうちに自分が過ちを犯していることに気がついた。

海までの乗り換えがまったく分からない。昨日までは目を閉じていてもたどり着けそうな、まるで魔法の通勤電車に揺られているような気分だったのに。今朝だっていつもと同じ時刻に起床して、車内での立ち位置でさえ昨日と一緒で、窓の外の風景も寸分と違わないはずなのに。それなのになぜだか今朝はなにからなにまで様変わりしてしまったような感じがした。車内のいたるところに意地悪な空気がただよっていた。まるで行楽客たちが放つオーラが、先端のギザギザした粒子となって車中に舞っているかのような。そのギザギザには、平日の通勤電車にかけられた魔法や海からの呼び声を無力にしてしまう働きがあるのかもしれない。


車内の路線図はどこまでも複雑な迷路のようだった。ドアの窓に不安げな表情を覗かせた見慣れた中年男が映っていた。泳げない罰として、小学校のプールの飛び込み台に一人立たされた子供じみた顔をした。もはや海どころか乗車したもとの駅までもどれるかどうかさえ定かではなかった。

こんなはずではなかった。凸版氏は思った。それと同時に妙に落ち着いた、腑に落ちた感慨もあった。なぜなら氏のこれまでの人生はずっと〈こんなはずではなかった〉の連続だったから。

彼はよく不思議に思ったものだ。

(私が学校に上がる前に、なぜ私の両親は息子を一度ぐらいは泳ぎに連れていこうと考えはしなかったのだろうか。もし連れていったなら......)


凸版氏の〈こんなはずではなかった〉感はそんなふうに他人から見れば取るに足りない些細な出来事からくる些細な感情の寄せ集めだった。

べつに氏にしたところで両親に恨みがあったわけではない。彼らが彼らなりに一人息子を愛していたのは凸版氏にだって分かっていたし、その無頓着ぶりは二人の素朴さや人の良さからきていることも了解できたから。

ただ氏の両親が教育者としては少々想像力と前向きさに欠けていたのは事実だった。二人は泳ぎだけではなく、風邪薬の飲み方も教えなかったし、蝶々結びの結び方だって教えなかったし、そもそもそんなことは思いつきもしかなかった。その一方でテレビでベルリンの壁が崩壊したニュース映像が放送されているときには、炬燵でみかんを食べながら、世の中はいつなにが起きるかわかったものではないと、息子の前で見当違いな用心を垣間見せるのだった。


そんな環境で育った凸版氏にしてみれば、今回もなるべくしてそうなった感がなきにしもあらずだった。〈こんなはずではなかった〉があまりに連続して起きると、それはある時期から〈そうなるべくしてそうなった〉へと変貌をとげるのだ。

凸版氏は考えた。そもそも海と縁もゆかりもない輩が、離れ小島で生まれ育ったみたいに急に潮風の風景が恋しくなるなんておかしな話だし、むしろ期待を裏切られた今のほうがよほど自分に相応しいのだ、と。

(だってそうじゃないか?海がこの私になんの用があるっていうんだ。私ぐらい潮風の似合わない男もそうはいないはずだ。竜宮城の支配人はきっとほかの乗客と人違いしたんだろう。なにしろ朝の通勤電車は混んでるし、勤め人ばかり乗っているから。しかしそんな支配人がいたとして、一介の勤め人にいったいなんの用があるというのだろう......)


凸版氏は持ち前の〈こんなはずではなかった〉感から獲得した回避能力をフルに発揮して、なにかを吐きだすように急に開いたドアをすり抜けプラットホームへと飛び降りた。だがホームを走り去る休日電車を見送ったあとに、彼の〈こんなはずではなかった〉感が最もあり得ない形でそこに現実化していることを見てとった。

凸版氏が下車したプラットホームは、彼が乗車した駅だった。つまり氏を乗せた電車はまだ発車もしていなかったのだ。呆れるほど乗り慣れた地元駅のプラットホームに立ちながら、凸版氏はこれまで経験したことがなかったほどの完璧な〈こんなはずではなかった〉感を味わった。

行楽へと向かう新たな家族連れがエスカレーターからホームへ上ってくるのが見えた。凸版氏の頬に行楽オーラのギザギザが痛いほどにチクチク刺さった。氏はやっと海からの正確なメッセージを受けとることができた。

(たしかに私は間違えていたのかもしれない。ただしそれは裏切られたという意味ではない。今度ばかりはそうではない。私は乗るべき電車を間違えていたのだ。あの行楽客たちは私にそれを教えてくれていたのかもしれない。今日は日曜日だから、きっと竜宮城も休みなんだろう......)


その夜、念願だった浜辺の砂を足で踏み鳴らすことができなかったにもかかわらず、布団にもぐった凸版氏の足もとにはある奇跡が起きていた。

月曜日の朝が待ち遠しかった。こんなことはかつて千に一夜もなかったことだ。まるで一足早い春が訪れたかのように、その感情は布団の先からちょこんと覗いた足の指先をもぞもぞとのぼっていっては、産毛をくすぐってまわるのだった。


まだ夜が明け切らない冬の朝、始発電車を降りた、あるいはそれに乗り込んだ、乗客たちの吐きだす白い息とともに通勤電車の魔法は復活した。ただそれはとても地味な復活の仕方で、凸版氏以外の駅の利用客を少なからず困惑させることになった。

どんよりした灰色の雲、鉛のような黒い海、人の姿が見当たらない寒々とした砂浜......。そんなカラスにも見放されたような世界の果てを連想させる風景が、誰も知らぬ間に駅構内の一角に姿をあらわした。

そのポスターは両脇のスキー場と温泉の観光ポスターとは見るからに異質な性格を持っていた。まるで地中深くを潜って、自らの意志によって駅の暗い壁の中から這い出てきたみたいな。そしてもともと仲良く並んでいたスキー場と温泉を押しのけて、無理矢理に間に割って入っておさまったのだ。

人々を旅情へと誘う広告コピーも、旅行会社の名前も、文字は一つも見当たらなかった。それは観光ポスターというより、むしろこれから旅に出ようとする人々を怖じ気づかせ、その足を強引に家へと引き返させる代物だった。


その謎のポスターを最初に見つけたのは夜勤明けのガードマンかもしれなかった。千鳥足のホステスかホストかもしれなかった。全国ダンス大会を目指す早朝練習の高校生かもしれなかった。

一瞬何処からともなく吹いてきた風の塊に頬を強く押されたような感じがして、彼らは急ぐ足か千鳥足を止めた。顔を向けると、四角く切り取られた風景の中に強い風が吹き抜けていた。

最初それが不吉な啓示のように思えたのは仕方のないことだった。なにしろカラスにさえ見放された風景なのだ。彼らは皆一様に首を傾げた。どうしてこんな暗いポスターが駅の通路に貼り出されているのだろう......。

けれどすぐあとに彼らはそれとよく似たもう一つの風景をどこかで見たことがあるのを思いだした。テレビだったか、インターネットだったか......。でも、それが具体的にどんなニュースだったかは思いだせない。

そこに映し出された人気のない海岸こそ何かの啓示であった。しかもそれは決して悪い知らせではなかったはず。あの灰色のグラデーション調に重なった雲の隙間からやがて一筋の光が射し込んでくるような。


時間の経過とともに構内を行き来する乗客の数は増えていき、謎のポスターはフル稼働をはじめた。頬にあたる風に立ち止まった人々は年齢も職業も様々ではあったけども、皆一様に自分の記憶の扉を開いては、いつかどこで目撃したはずのもう一つの海を思いだそうとした。そこにはなにか重要なメッセージが込められているような気がしてならなかった。その場所でなにかが起きていたのは間違いなかった。でも神隠しにあったみたいに結局誰一人として思いだすことはできなかった。


正体不明のポスターは駅を利用する通勤客たちをいたずらに刺激する、風景と風の記憶装置としての役割を果たした。その効果は広告代理店が作った正真正銘の観光ポスターや中吊り広告よりもずっと強力で、内容の地味さにも関わらず、しばらく駅の構内とプラットホーム、発車した通勤電車の車内は、行き場のない乗客たちの欲求で充満することになった。なにしろその風景をめぐる謎を解き明かさないことには、魚の小骨が喉の奥に引っかかったみたいに一日中気分も体調も悪いことこの上ないのだ。

凸版氏はそんな空気の中を毎朝行き来していた。ただ彼自身は謎のポスターの存在には一度も気がつくことはなかった。すでに家をでたときからそれ以外のことで頭が一杯だったし、そもそも氏の頬には風は擦りもしなかったのだ。


凸版氏は悩んでいた。会社を休む方法を考えあぐねていた。

休日がダメなのはもう分かっていた。そうなると平日に仕事を休む以外に方法がない。けれどその理由を有給休暇の申請書に記載するのに、バカ正直に〈海に行くため〉と書き込むわけにはいかないことぐらい、これまでその申請を一度もしたことがない氏にもさすがに予測できた。そこでなにか適当な理由をでっち上げようとするのだけども、最初は簡単そうに思えたその作業は、いざはじめてみると困難を極めた。


これまでは仕事を休まないことだけが唯一の取り柄のような凸版氏ではあった。ただ氏のものの考え方は以前とはだいぶ様変わりして柔軟になっていたし、なにはともあれ彼は海に行きたいのだ。そんなふうに心の奥底から突き上げてくる感情に動かされるなんて、もうずいぶん昔に忘れていた。

だから有給休暇をとることぐらいは造作もないことのように感じた。だって実際まわりにはその制度を活用している同僚が大勢いるわけだし、それは心の奥底からわいてくる感情などとは無縁のあくまで事務的な手続きのはずだ。


病気、冠婚葬祭、不慮の事故。これならば公明正大に会社を休めそうな100通りもの嘘の理由を凸版氏は考えた。けれどその100通りもの公明正大な嘘の出来具合を自己検証してみようとすると、氏の頭の中にはどこからともなく夜勤明けのガードマン似の、ホステスとホスト似の、早朝練習の高校生似の、小さな総務部の社員たちが壁の陰から一列になってでてきて、並んだデスクの上で氏の書いた100枚の申請書に一枚一枚チェックを入れていくのだった。

小さな総務部社員たちによって氏が考えた病気は仮病と見なされ、冠婚葬祭は過去にもそして未来永劫にも招かれることのない冠婚葬祭となり、不慮の事故は保険会社の研究機関でさえ予測できない、つまり起こり得ない不慮の事故と化した。100枚の申請書は氏の目前で一枚一枚破り捨てられていった。おかげで凸版氏はあらたに100通りの理由を考えださなければならくなった。


凸版氏の〈こんなはずではなかった〉感がふたたび静かに通勤電車の車内で炸裂した。

そうこうしているうちに月曜日が火曜日になり、火曜日が水曜日になった。氏は相変わらず会社を休む理由を、有給休暇の申請書に書き込むべき文句を、その車内で考えつづけていた。そしてついに金曜日の朝を迎えて、あらたな100通り目の有給休暇の理由を考えついたとき、凸版氏を乗せた通勤電車はとっくに降りるべき駅を、氏が勤める会社のある駅を、通り過ぎていた。

ようやく顔をあげた凸版氏は、電車の窓外に25年の間一度も眺めた記憶のない郊外の風景が広がっているのを目撃して唖然とするばかりだった。


それでも次に到着した駅で上手く電車を乗り換えられれば、まだどうにか始業時間に間に合いそうな予感はあった。でも結局のところ凸版氏はそうはしなかった。なぜなら氏が顔をあげて通勤電車の窓外に25年間見たことのなかった風景を目撃したとき、その上空には見事なまでにどんよりした冬の雲が広がっていて、その灰色の帯がやがて水平線と重なっていることを彼はすでに知っていたから。

凸版氏が会社に電話をかけたのはそれからさらに時間が過ぎてからのことだった。氏は東京から遠く離れた郊外のプラットホームで携帯電話を開いた。彼が口にしたその欠勤理由は、小さな総務部社員たちによって一番最初に破り捨てられたはずの案件だった。


つづく

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