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服部くんカフェ(前編)

世の中大変なカフェブームであるらしい。ちょっと気の利いた街には、ちょっと気の利いたカフェが必ずあるらしい。犬も歩けばコーヒーテーブルにあたるらしい。

私が住んでいる東京は中央線沿線の街が、はたして気の利いた街かどうかは定かではないけども、その駅近くの商店街にある〈服部くんカフェ〉が最高に居心地のよいカフェであることはたしかだ。

ただ〈服部くんカフェ〉は私個人にとっては特別なカフェであっても、世間的にはただのコインランドリーだったりする。


昨今のブームに乗って、都会にはカフェとコインランドリーがセットになったランドリーカフェなる類いの店もあるらしいけども、〈服部くんカフェ〉はあくまでも昔ながらの純コインランドリー然とした店構えを保持した店だった。あえて喫茶店に例えるならば、そこは純喫茶と呼んで差し支えない純コインランドリーであった。

であるから〈服部くんカフェ〉に洗濯物を買い物カゴに詰め込んだお客さんがやってきても、服部くんという名の若いマスターがコーヒーの香りとともに出迎えてくれることはないし、とくべつ居心地のいい椅子やテーブルが備え付けてあるわけでもなかった。


それでも私がそのコインランドリーを〈服部くんカフェ〉と呼ぶようになったのにはもちろんそれなりの理由がある。

たしかにそこは見たところとくに変わった様子もない、洗濯機と乾燥機が並んだだけの、都内の住宅地によくある平均的なコインランドリーであった。朝になれば当たり前の顔をして「ここでは変わったことはなにも行われていません」といったふうにシャッターが下りているのが常だった。

にもかかわらず私はその前を通るたびに漠然とした、ある不思議な感覚に包まれることがよくあったのだ。ただどうしてそんな感じがわき起こってくるのか、自分でもよく理由が分からずにいた。私とコインランドリーの間には、眉をひそめるような怪しい関係などなかったはずなのだ。


ようやくその理由に気がついたのは、しかしコインランドリーとは関係のない、街の花屋の前を通りかかったときに赤い花をつけた植木鉢を手にした女性が店からでてきたのを見たのがきっかけだった。

そのとき私はふと思ったのだ。はて私が最後に花を買ったのはいつのことだったろうか、と。いいやそもそも私はこれまで一度だって花屋で花を買ったことがあっただろうか、と。

似たようなことがほかのことにも言えた。私は女性が手にした赤い花を見つめながら、こう連想せずにはいられなかった。私が最後に花を買ったのはいつのことだったろうか、と。そして私が最後に本を読んだのはいつのことだったろうか、と。


〈服部くんカフェ〉はいつも混んでいた。仕事帰りに商店街を通れば、明るい店内にはたいてい三、四人の客が、めまぐるしく回転する乾燥機のドームの前で椅子に腰掛けているのが常だった。

しかもその客というのがまだ苦労を金を払って買っているような若い人たちばかりでなく、とっくにコインランドリー生活は卒業していてもいいはずの私のような仕事帰りの中年サラリーマンやスーツ姿のOL、家事を終えた近所の主婦から散歩がてらの老人まで、あらゆる年齢にまたがっているのだ。


まるで月明かりの公園に集まる猫みたいに、夜な夜なUFOの窓めいた乾燥機のドーム前へと集結してくる近所の住人たち。

でもそれだけだったなら、たぶん私は〈服部くんカフェ〉を見過ごしていただろうし、名前をつけることもなかっただろう。なぜなら私たち市民には平等に〈コインランドリーにおける自由〉が保証されているのであって、誰もがそこを利用できる権利を有しているはずだから。まるで〈図書館の自由に関する宣言〉みたいに、その自由が冒されそうになったとき、私たちは戦うのだ。洗濯物を片手に。


そんなわけだから、たとえ帰宅途中にあるコインランドリーが一年365日、常夏の市民プールみたいに混み合っていたとしても、私はそれほど不思議には思わなかったろう。それはコインランドリーで洗濯をすることが単に私たちの自由であるばかりではなく、月明かりの青さに引き寄せられる猫たちのごとくごく自然な行為であるからだ。

であるからして私が〈服部くんカフェ〉になにか不思議な光景を発見したのは、つまり洗濯乾燥という極めてシンプルでどこまでも日常的な目的をもった世界に、理にはかなっていてもどこか異質な、下手をすると世界を果てしなく複雑化しかねない行為を見とめたということなのだ。


そこでは誰もが本を読んでいた。〈服部くんカフェ〉はコインランドリーの形をした図書館のようだった。一歩足を踏み入れたなら、商店街の八百屋の主人も、魚屋の女将も、洗濯から乾燥が終わるまでの数十分間は一端の夜の読書家に変身する。そこにはなにか風変わりな魔法の時間が流れているかのように、彼らは洗濯機に数枚のコインを入れて、そのチケットと時間を手に入れるのだ。それから備え付けの積み重ね可能な簡易椅子に腰をおろし、持参した缶コーヒーやらペットボトルのお茶やらを適当な場所に置いてやおら本のページを開く。


それは魔法の時間と呼ぶにはあまりに静かで地味で理にかなった光景ではあった。

そもそもそれが一人の客の行為であったならそれは魔法でもなんでもなかったし、洗濯と乾燥が終わるまでの空いた時間に読書するのはむしろ合理的ですらあると言えた。

でもそれが一人の客ではなく、コインランドリーを利用する客全員となると話はちょっと違ってくる。しかもその店はどういうわけだかいつでも混んでいるのだ。もしかしたらそこにはなにか特別な力が働いているのではないかとつい勘ぐりたくもなる。


いったいいつごろからその場所でそんなことが毎夜繰り返しおこなわれるようになったのか、店前を通っていつも帰宅している私でさえつい最近まで気がつかなかった。しかしいったん気がついてしまえば、今度は逆にその光景がもつ不思議さが嫌でも目につくようになった。それまではなんの変哲もなかった近所のコインランドリーが、ある日を境に突然奇妙奇天烈な趣味空間へと変貌してしまったのだ。

いったい彼らはなぜ一人の例外もなく本を読んでいるのか。それはなぜ携帯電話でもマンガでもゲームでも雑誌でもなく、本なのか。世間には読書好きが集まるコインランドリーが存在するのか。それともあのコインランドリーを利用する客がたまたま読書好きな人間ばかりだったのか。いいやそれともコインランドリーで毎夜開催される読書クラブでも存在するというのだろうか。それというのも、あのコインランドリーのオーナーがじつは有名小説家で、〈服部くんカフェ〉に集まってくる客はすべてその熱心な読者であり、彼らが洗濯がてら広げている本はもちろん全部その著書なのだ。


そんな妄想をふくらませながら私は毎夜毎夜駅の自動改札をぬけては商店街を歩くようになった。花屋の前で赤い花をつけた鉢を手にした女性を見たあの日から、私は商店街の調査員になったみたいだった。

通りを照らすコインランドリーのなんでもない蛍光灯の明かりでさえ以前とは違って見えた。それはまだ遠くにありながらほかのどの店の明かりよりも力強くどこか原初的な光に映った。商店街を照らす灯台めいた。〈服部くんカフェ〉は遠くから眺めれば存在的に灯台であり、近くから眺めれば図書館なのだ。


商店街の調査員は私以外にも多勢いた。じつは〈服部くんカフェ〉の前を通って帰宅する勤め人のほとんどがそうだった。ある夜、私の前を歩いていたスーツ姿の若いサラリーマンやOLも、みんな判で押したように〈服部くんカフェ〉を不思議げに横目で見ていった。みんなとっくに〈服部くんカフェ〉の異常さに気がついていたのだ。私は殿だったわけだ。それもそのはず、なにしろ私という男は周囲にはいたって無関心だし、だから周囲は私に無関心なわけで、つまり私には情報を交換する相手が一人もいなかったのだ。

しかし少々遅れをとったとして、やっていることは先人たちとそう変わりはしなかった。仕事や学校帰りの誰も彼もが首を横にふっては〈コインランドリー読書クラブ〉の様子を不思議そうに眺めていく。そこでは洗濯にやってきた近所の客たちがそれぞれ好き勝手な方角に体を向けてただ黙々と本のページに視線を落としている。それを見た〈帰宅クラブ〉の私たちは、もしや読書にも風水的に最適な方位というものが存在するのだろうかなどと考えたりする。つまり〈服部くんカフェ〉は偶然にも風水的に読書に最適な場所に建てられたコインランドリーなのだろうかと。


おそらく開店当初の〈服部くんカフェ〉黎明期には、洗濯乾燥が終わるのを待っている利用客の手に、ほかのコインランドリーと等しく携帯電話や雑誌やマンガがあったはずだ。それがやがて一人また一人と本へと持ち替えていった。かたわらに置いた飲み物もジュースからコーヒーやお茶へととって替わった。やはり読書にはコーヒーかティーが相応しいようなのだ。〈服部くんカフェ〉を訪れる利用客はいく度となく通っているうちに経験的に学んでいったのに違いない。買ったばかりのピチピチだったTシャツが、洗濯機や乾燥機のドラムの中でいい具合にヨレヨレになってきた頃に。そこではなにが相応しく、なにが一番心地良いかを。

〈服部くんカフェ〉は人を本好きに変える。そこに一歩足を踏み入れ、数枚のコインを洗濯機の挿入口に落としさえすれば、ドラムが回りはじめるのと同時に人は誰だって紙の上に印刷された空想の世界に入り込み、そこで自由に遊ぶことができる。

そうして現代の〈服部くんカフェ〉では携帯電話や雑誌やマンガはすっかり滅び去り、本だけが生き残った。地上最強の恐竜たちは姿を消して人類の祖先であるか弱い哺乳類が大地に栄えた......。


しかしこれはあくまでも私の妄想。そしてあくまでも〈服部くんカフェ〉はカフェではなくコインランドリーだ。

だから〈帰宅クラブ〉の私たちの中に店内に足を踏み入れ、読書クラブに入会しようとする者はいなかった。だってセレブな私たちは本以前に〈服部くんカフェ〉に入店するために必要なチケットを、つまりは洗濯物を持っていないのだから。そもそも私たちにはコインランドリーに立ち寄らなくても、家に帰れば洗濯機がすでにあるのだ。おまけに私がマンションのベランダに置いている洗濯機ときたら暮れのボーナスで買い替えたばかりなのだ。いったいなにが悲しくてわざわざコインランドリーに行かねばならないのか。


洗濯物を持っていない者は、あるいは自宅に洗濯機を持っている者は、仮に読書クラブに興味をもったとしてもそこに出入りすることは許されない。誰もみな一旦は不思議そうに店内を眺めても、つぎの瞬間にはなにも見なかったようにふたたび家路を急ぐのが常だ。

本嫌いというほどではないにしても、久しく物語を型どった活字らしい活字を読んでもなく、風水にいたってはなんの知識も関心も持ち合わせてなく、しかも洗濯機を買い替えたばかりの私の態度ときたらもっとあからさまだ。あからさまに差別的だ。私はみんなよりも長い間足をとめて〈服部くんカフェ〉の店内の様子を通りから眺める。世間知らずで夢見がちな我が子を心配する一貫して現実主義の父親のごとく、なかば呆れた畏怖の念を込めて。


しかしある夜ついに私は目撃してしまったのだ。帰宅クラブから読書クラブへと鞍替えした造反者たちの姿を。

二人は以前、商店街通りで私の前を歩いていた若いサラリーマンとOLではなかったろうか。いいやまさにそうに違いない。蛍光灯に照らされたその横顔には見覚えがあった。

紺のスーツに身を包んだ二人は、〈服部くんカフェ〉の常連客に混じって簡易椅子に腰掛け、すでに勝手気ままに物語の世界に入り込んでいた。もう一端のカフェの住人になったみたいに背中を丸めて。

時刻とその身なりから考えて、二人は仕事帰りに直接〈服部くんカフェ〉に寄ったようだ。だとしたら量は少ないだろうが、鞄に洗濯物を一日忍ばせて仕事していたことになる。〈服部くんカフェ〉は図書館ではなくあくまでもコインランドリーだ。そこでは本よりもまず洗濯物が必須アイテムであり、つぎに小銭、それからコーヒーかお茶がつづいて三種の神器となる。さらに補填として洗濯物カゴがあり、本の出番はそのあとだ。帰宅クラブから読書クラブへと一線を超えてしまった二人もその一線だけは越えられないはず。


私はかなり動揺していたらしかった。その証拠にその場をただ素早く立ち去ればいいものを、なぜだか自分でも気がつかないうちに商店街通りを駅方向へとUターンしはじめた。

もしかしたらそれは表向きには、より完璧になにも見なかったことにするために駅まで戻って最初からやり直そうと考えての行動だったのかもしれない。

しかし今にして思えば、その夜の私の子供染みた過剰反応は、すでに自分が〈服部くんカフェ〉の入り口へと一歩一歩近づいていることに無意識のうちに気がつきはじめていたがためだった。


あるいはそれは動揺というより嫉妬に近い感情だったのかもしれない。〈服部くんカフェ〉の簡易椅子に腰掛けているのは本来ならばこの私であるべきだと。

しかし私には過去の苦い経験の数々から、どうしても自信が持てずにいた。家に洗濯機があるからというのはただの言い訳にすぎなかった。若いサラリーマンの彼だって、OLの彼女だって、事情は似たり寄ったりのはず。二人の自宅に洗濯機がないはずがない。たぶん。

私の心の奥底に潜んでいたのは、もしも洗濯物と本を持参して〈服部くんカフェ〉を訪れたとして、洗濯機に洗濯物とコインを入れドラムが回りはじめたのはいいが、肝心の本の扉を開いたとき自分の身になにも起こらなかった場合、つまり私の身にだけなぜだか魔法の麻酔が効かなかったときに、いったい私はどうしたらいいのかという身も蓋もない戸惑いだった。そしてこれまでの同じような身も蓋もない人生経験からなる悪い予感では、そうなる確率はかなり高いはずなのだ。

決して自虐のつもりで言ってるわけではない。そんな実り少ない人生を送ってきた。不惑の年歳を過ぎて家族もなく、親しい友人もなく、地位や名誉はもちろんなく、これといった趣味すらない。


その夜から私は商店街通りを避けて、少し遠回りをして自宅のマンションまで帰ることにした。それぐらい〈服部くんカフェ〉の光景は精神衛生上よろしくないように思えた。そこにはなにか私の生活を根本から変えてしまう得体の知れない魔物が凄んでいる気配がした。若い二人ならそれもいいかもしれないが、不惑の年齢を超えた輩には処方上の注意が必要だ。

だが結果的にその不惑な選択が私をさらに〈服部くんカフェ〉へと近づけることになったのだ。遠回りをしたつもりが、知らず知らずのうちにせよ、せっせと私はその入場チケットを手に入れようと行動していた格好だ。

もしかしたらこの時点ですでに私は〈服部くんカフェ〉の術中にはまっていたのかもしれない。よしんば店内にいたあの若い二人も......。


自らすすんで花を買う人の気が知れなかった。若いころからそういう傾向はあったけども、歳をかさねてからはさらにその傾向に拍車が掛かったようだ。

もちろん私にだって花の美しさぐらいは分かる。しかし同時にそう遠くない将来に必ずそれが枯れてしまうこともよく知っている。

どうして最初から枯れてしまうと分かっているものにお金や労力を使う人があんなに多勢いるのか私には理解できない。それほどに私たちの生活は豊かなものだろうか。祝福されるべきものだろうか。きっと花を買う人たちは私とは次元の異なった暮らしをしているのに違いない。懐具合は言うに及ばず、精神的なあれやこれやも。

そんな私にしてみれば、本を読むことは花を買うことにどこか似ているように感じられた。花を買う人と本を読む人とはそう遠くない親戚同士なのだ。


世の中には徹夜して読み進めたくなるような面白い本が存在するのかもしれない。いいやきっとするだろう。でもそれは所詮はフィクションなのだ。それがどんなに面白い物語であろうと、扉を閉じたとき私たちの目の前に残されているのは以前となんら代り映えしないノンフィクションの方だ。

それでも時間があり余った若いころならせっせと読書に精をだすのもいいかもしれない。若さそれ自体が一種のフィクションみたいなものだし、時間があればそれだけかかったコストを回収できる確率だって高くなる。


静かな裏通りの街灯の下にそれは並んで置かれていた。小学校のグランドを取り囲んだ金網のフェンスと住宅地の道路との境になった灰色のセメントブロックの上に。赤い小さなつぼみをつけた五鉢の観葉植物が、兄弟のように仲良く一列に並んで。

花の前で思わず足を止めた経験はたぶんこれまでだってあっただろうが、これほど驚いて見入ったことはなかっただろう。

道端によくある打ち捨てられ枯れ果てた植木の群れとは違って、鉢の中の土はこんもりと新しく葉も青々としていた。陶器の鉢の外側に砂ほこりがこびり付いているようなこともない。今朝も誰かが水をあげたような気配がある。ただ置かれているだけでなく、人の手によってちゃんと管理されている様子がうかがえるのだ。

しかもそれはいつか花屋の前で遭遇した女性が手にしていた観葉植物によく似ていたのだ。もっとも私は植物にはまったく詳しくない。咲いた花の色や葉の大きさがだいたい同じならなんでも同じ植物に見えてしまう。

なにかの啓示だろうか。そんな気がせずにはいられなかった。わざわざ商店街通りを避けて遠回りした最初の夜だったし、鉢の上のフェンスには「ご自由にお持ち帰りください」とマジックで書かれた白いプラスチックの札がかけられていたし。


花屋で見かけたあの女性が書いたのだろうか?いいやまさか。わざわざ店で買ったものをどうしてタダで道端に置くのだ。しかも五鉢も。

もしかしたらあの女性は客ではなく、花屋の店員なのかもしれない。そしてあの花屋は売れ残った商品を密かに街角のいたるところに無料で置いているのだ。いったいなんのために?もちろん街を、そこに暮らす人々を、祝福せんがためだ。

それでこそ啓示なわけだ。これまでの厭世的なものの考えを捨てて前向きに生きなさいとメッセージを送ってくれているわけだ。ある女性が私にこう忠告してくれるのだ。「祝福なさい」と。


それで結局私はその夜どうしたか。もちろん一つ頂いて帰ることにした。片手に黒鞄、もう片方の手に陶器の鉢を持って。なんだか仕事帰りに下町の朝顔市かホオヅキ市にでも立ち寄ってきた風流なサラリーマンみたいに。

私もやっと心を入れ替える気になったのだろうか。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。ただ私としては、せっかくの人の好意を無駄にするのは勿体なく思えたし、そもそも人が与えてくれた好意を無駄にできるような資格は私には備わっていないのだし、それになによりタダなのだ。祝福するにしろしないにしろ貰って帰らない手はない。

鉢はキッチンの流しの空いたスペースに置いた。独り暮らしだから部屋に空いたスペースを見つけるのには事欠かない。場所を選ばずにどこでも好きなとこに置けた。豊かに繁ったハート型の小さな葉の上に早速コップの水をかけてやったら、錯覚だろうが、赤いつぼみが葉を振るわせて喜んでいるように見えた。


翌日も商店街は避けて、小学校沿いの静かな住宅地の通りを歩いて帰ることにした。そしたら私はまたしても鉢に植えられた花の前で足を止めることになった。ただし昨夜とはべつの場所で。けれど鉢の数は今回もやはり五つだった。

それは小さな公園の苔の生えた低いブロック塀の上に並べられていた。近くに街灯がなかったら昨夜は暗くて見逃したのだ。

同じ人間が置いたものだろうか。葉の色や大きさもよく似ているし、つぼみだって赤だ。しかもブロックの手摺りには「ご自由にお持ち帰りください」と、見覚えのある筆跡で書かれた白いプラスチックカードがかけられている。同じ種類の観葉植物かもしれない。でも自信がない。はっきりとは断言できない。だって私の推定では小学校はまだ200メートル以上先にあるのだ。とても個人の業とは思えない。やはりこの街に徳の高い花屋がどこかに存在しているのだろうか。ここは一つ携帯電話のカメラに収めて家に帰り、キッチンに置いた観葉植物と比較してみようかとも思ったけども、そんな面倒な手順を踏む必要なんてない。わざわざ「ご自由にお持ち帰りください」と書いてあるのだからありがたく貰って帰ればいいだけだ。


こうして私は二晩つづけて風流なサラリーマンへと変身したのだったけども、途中思うことがあって街灯の下で立ち止まり、陶器の鉢を両手で持ってその底を下から覗き込んでみた。そうしたら型で押したらしい横書きの文字でなにかが書かれているのが見つかった。影になって判読できないので、観葉植物を横向きに持ち替えてみたらやっと読めた。鉢の底には〈服部道久くんのために祈る会寄贈〉と刻印されていた。

仕事帰りの風流なサラリーマンが小学校のグランド脇の街灯下にたどり着くと、そこにも観葉植物の鉢はちゃんと五鉢あった。昨夜一つ貰って帰ったわけだから、一日のうちに誰かが補充したのだ。

そこにもやはり〈服部道久くんのために祈る会寄贈〉と、同じふうに横書きの刻印があった。念のために五鉢の底を全部確認してみたけども、すべて同じ仕様になっていた。当然キッチンに置いた鉢も。新しく持ち帰った観葉植物は居間の棚の上に置いた。


〈服部道久くんのために祈る会〉とはどんな会なのか。もしやそんな名前の花屋の組合がどこかにあって、その組合が無料の観葉植物を街角のいたる場所に置いていく運動でもしているのだろうか。なにかの啓蒙のために。生きる目的を失った中年男に啓示を与えるために。それにしたって〈服部道久くん〉とはいったいどこの誰なんだ?

インターネットを使って調べてみたらなにか出てくるかもしれない、すぐにそう考えた。なんたって私が住んでるのは東京の23区なのだ。通りを一日歩いてもまったく人と出会わないような田舎町に暮らしているわけではないのだ。どこかの誰かがその〈服部道久くんのために祈る会〉についてインターネットに書き込みをしていてもおかしくはない。

だがおかしなことはつづくものだ。インターネットの中に〈服部道久くん〉はどこまでも徹底的に不在だった。それらしいものはまったくヒットしなかった。〈服部道久くん〉も〈服部道久くんのために祈る会〉も。

それはなにより一番あり得ない結果ではないだろうか。少なくとも街で見かけた単語をインターネットで検索してみて、それに関する情報がなにもでてこないなんて。


それで私は自分の足で情報を集めることにした。私にはある予感があった。それは「祝福なさい」とはまったくべつの啓示なのだ。そしてその予感は見事に的中した。

〈服部道久くんのために祈る会寄贈〉の観葉植物は街のいたるところにあった。小学校の住宅地だけではなく、あらゆる通りに。マンションやコンビニの脇っちょに。民家の前や店先に。歩道のあちらこちらに。駅の反対側にも。必ず「ご自由にお持ち帰りください」のカードを付けて。

私は通りに〈服部道久くんのために祈る会寄贈〉の観葉植物の鉢を見つけるたびに、アーケード通りの雑貨屋でもらった街の〈お買い物MAP〉に赤マジックで小さな印をつけていったけども、イラスト風に描かれた街の通りはすぐに赤まるで数珠つなぎ状態になった。ただ一つ、駅からつづくある通りをのぞいて。それが〈服部くんカフェ〉のある商店街通りだったのだ。


最初からその予感もあった。というのも、もしも〈服部道久くんのために祈る会寄贈〉の観葉植物が街のいたるところに置かれていたとして、そのことに私がずっと気がつかないか、あるいはかの女性を目撃したときにそれに考えが及ばなかったのは、それはつまり私が日頃同じ通りしか使ってなく、なおかつその通りだけにはなぜだか〈服部道久くんのために祈る会寄贈〉の観葉植物が置かれていなかった可能性が高いからだ。よほど私が鈍感でない限り。

ではなぜあの商店街通りにだけ観葉植物が置かれていなかったのか。その理由はまったくわからないけども、やはりなにかしらの予感はする。いいやそれは予感と呼べるほどには成熟してはいない。それはまだ漠然とした胸騒ぎだ。そして私がその胸騒ぎをあの商店街に感じる場所は一つしかない。


私が〈服部くんカフェ〉に足を向けたのは日曜日のまだ午前中のことだった。なるべく読書クラブの人々の邪魔はしたくなかったし、私は読書クラブに入会したいわけでもなかった。だから洗濯物は持参せずに手ぶらでマンションの玄関をでた。〈服部くんカフェ〉の開店時間は前々から頭の中にあった。

着いたときシャッターはすでに開いていたけども店内にまだ客の姿はなく、洗濯機も乾燥機も一台も動いてはいなかった。開け放たれたドアから日曜日の明るい陽射しが差し込んだ静かな〈服部くんカフェ〉は、たぶん朝の掃除が済んだあとということもあるのだろう、いつもより広くて清潔そうに映った。


私は素早く無人の店内に立ち入った。コインランドリーの住人たちが洗濯物を抱えてやってくる前に現場検証を終えなければならないのだ。胸騒ぎの正体を暴きださなければならないのだ。なぜならそれこそがすべての謎を解くキーなのだから。

しかしそもそも謎っていったいなんだろう。それは本当に存在するのだろうか?もしやそれは私一人の早合点ではないのか?

いいやそうではない。やはり謎は存在するし、謎が存在するのならそれを解読するキーも必ず存在する。なぜなら解読できない謎は謎ではないのだから。


私はそれをあっという間に見つけた。S・ホームズが無名の被害者の素性をあっという間に読み取ってみせるかのように。

私は驚きとともにそれを見つめた。まさかコインランドリーみたいな日常的な場所にこんな驚きが待ってるなんて少し前までなら夢にも思わなかったろう。

それは本棚のように見えた。いいやそれはたしかに本棚だった。〈服部くんカフェ〉にはちゃんとした本棚が備え付けられていたのだ。ただそれは店の壁の部分がちょうど背になって外からはうかがい知れない構造になっていた。だからこれまで私もその存在を知らずにいたわけなのだ。


本棚は三台の洗濯機が並んだ上の空いたスペースにあった。ホームセンターで売っているような白いカラーボックスを二段に重ねて載せただけのような代物だったけども、そこにハードカバーの本がビッシリ詰まっていた。

でも私が驚いたのはなにも〈服部くんカフェ〉に本棚があったからではない。ただ単に本棚を備えたコインランドリーならほかにもあるだろうし、実のところそれは予想の範囲内でもあったのだ。

私は棚の本に次々と手をのばしては、古本の査定をするみたいにそのページを自分でもビックリするぐらい器用にめくっていった。どの本にも最後のページには必ずオレンジ色の朱肉で〈服部道久くんのために祈る会寄贈〉のスタンプが押されていた。


これにはさすがに少し驚いたけども、それでもやはり予想の範囲内ではあった。なにしろ私の予想範囲はそれを予想する私の予想範囲よりもさらに広いのだ。それにそもそも私が驚いた理由はもっと個人的なところにあった。

棚に収まった本たちを一通りチェックし終えると、私はようやく手を休め、もう一度そこに広がった光景を呆然と見つめた。

『失われた時を求めて』『細雪』『魔の山』『百年の孤独』『白鯨』『異星の客』『カラマーゾフの兄弟』『1Q84』『重力の虹』......。

そこには高名で恐ろしくぶ厚い小説のタイトルがいくつも並んでいた。でももちろん私が驚いたのはそのことでもない。

私が驚いたのは、その本棚に収まった本が、いつか私が読もうと思ってずっと読んでいなかった、このままだと一生読むことなく終わってしまいそうな、本たちのオンパレードだったということだ。

つまりそういうことなのだ。〈服部くんカフェ〉にあった本棚とは、間違いなく私のための本棚だったのだ。


(つづく)



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