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ジャズ喫茶夢想

まもなく父親になろうとしている時に、ふたたび独身時代にまいもどったような生活をおくるのは、なにやら奇妙な気分ではあった。臨月の近づいた妻が里帰りしているあいだ、遅い夕食を一人外ですませたあと、ジャズとコーヒーをしばし味わってから家路に着くのが一日の終わりのささやかな楽しみになっていた。


私が暮らしている中央線沿線には、いまでも数軒のジャズ喫茶が残っている。学生の頃からその手の音楽を愛聴している私にとっては恵まれた環境なのだが、ただいかに60年代的文化の色濃く残る中央線沿線でもやはり今どきのジャズ喫茶の経営は一握りの熱心な固定客によってどうにかまかなわれているのが実状のようで、たいていどの店でもトランペットやテナーサックスと共に、閑古鳥まで一緒になって鳴っている。

しかし中には例外もある。私の行きつけにしている店がそうだ。もっともそれは悪い例外の方で、その店には、はたしてごく少数の固定客すらいるかどうかあやしい雰囲気なのだ。なにしろそこにはもとから絶対的に少ない客層を、さらに絞り込む商いの神様のようなある物体が店の看板となって来る客を待ちかまえているのだから....。


いったいなぜ、ジャズ喫茶の入り口にサーフボードなんかが必要なのだろう。ジャズとサーフィン、ただミスマッチなだけではあるまい。おしゃれなインテリアのつもりかもしれないが、これが今流行りのカフェなんぞならまだしも、私にしてみればジャズ喫茶の玄関脇にあんなものを置くのは、せっかく訪れてくれた客に塩をまくような行為だと思えてしかたがない。

例えばそれは、なじみの銭湯の番台に、いつもの婆さんの代わりにアルバイトの若い女の子が突然座っているような感じに近いかもしれない。レコード片手に訪れた眼鏡姿の実直なジャズ青年は、短い階段を上ったところでおよそ場違いな代物に出くわし、ふだんより素早く着替えをすます銭湯の男性常連客よろしく、そそくさと店をあとにするのだ。

そういった光景を私はじかに見たわけではないし、またべつに見たいとも思わないのだけど、この想像はそんなに的はずれなものではないと思う。そうでなければ、あの店にだってもう少し客が入っていてもいいはずなのだ。せめて夏が終わったあとの海の家ぐらいには。


私は断じて違うが、わざわざジャズ喫茶にまで足を運ぶようなマニアックな人にはけっこう頑固一徹な人物が多いようだ。そういう人の心に爽やかな海の潮風は吹いていない。そこにはただハードバップの熱い風だけが吹いている。

唯一の救いは、あのサーフボードのペイントが黄色であることだろう。ジャズファンはなぜか黄色が好きだったりする。その証拠にこのジャンルのレコードやCDには黄色を基調としたデザインのものが少なくない。もしも仮にまったく同じ内容の黄色と白の二種類のCDがあったとしたら、迷うことなく黄色のほうを手に取るのがジャズファンだ。もっともロック好きやクラシック愛好家も似たようなことを言うかもしれないが。


ちなみにその店はレンガ造りの階段をあがったテラスのついたビルの二階にあって、人通りも見た目も悪くない場所にある。しかも私の独断で決めてしまえば、ソファのスプリングは少々くたびれていたりするけれど、選曲はいたって趣味のいいものだし、コーヒーの味だって専門店に負けないぐらいに美味しい。おまけに夜遅くまで営業しているから、私のようにサービィス残業の多い営業マンなどなど、普通ならばもう少し客足があってもおかしくはないのだ。


もしかしたらあの店の丸顔の髭のマスターは若いころサーファーで、波とジャズとを共に語りあえる客がくるのを首を長くして待っているのかもしれない。遙か五十年代の古いジャズのレコードを聴きながら、髭マスターには背を向け、コーヒーをすする私は時々思う。きっと店前の黄色いサーフボードはそのためのサインなのだ。

もしもそうだったとしたら、とっとと商売換えをすべきなのだろう。ジャズ愛好家の集まるサーフショップがこの世に存在しないように、サーファーたちの集まるジャズ喫茶もまたありえない。まだサービィス残業を終えた営業マンだけが集うジャズ喫茶の方が考えられる。なんなら私がやってもいい。いいや、私には開店資金がないから、雇われ店長でもいい。


店の重たい扉を閉めた時には0時近くになっていた。黄色いサーフボードはやはりそこにあった。私はなんともなくそのボディに触れてみた。まるで自分のボードの感触を確かめるサーファーみたいに。きっと閉店後も表に出しっぱなしにしているのだろう。私が指先に感じたのは、ビーチの砂ではなくて、こびりついた深夜の都会の冷たい埃だけだった....。


私の妻の実家は千葉にあった。私たち夫婦が暮らしている杉並区の住宅地よりもよほど大きな街だ。週末になると中央線に乗ってお腹の目立った彼女にはるばる会いにゆくのが近頃の私のもう一つの習慣であり、楽しみであった。

べつに夫婦仲を自慢しようとしているわけではない。お腹の子供や彼女には少々バツが悪いけど、私のお楽しみはそれとは若干別のところにあったのだ。

やはり私の会社の上司にも以前奥さんが身ごもって、週末になると新幹線に飛び乗り、奥さんの実家のある仙台までわざわざ通っていた人がいたけども、その元上司は赤ん坊をさずかったきり、とうとう会社にはもどってはこなかった。

その上司と私とはどうも折り合いが悪かったから、思いがけない噂を社内で耳にした時にはこれ幸いと小躍りしそうになっただけだったけども、今になってみると、私には実感としてあの人の気持ちがよくわかる。

それはなにも会社の人間が口にしていたような、北国の森の都の風土が肌に合ったとか、食べ物が美味しいからとか、そんな単純な動機ではないように私には思える。

少し大袈裟な言い方になるかもしれないが、世の中の夫たちにとって、妻の育った見知らぬ土地で暮らすということは、言葉では上手く言い表すことのできない、なにか魅惑的な体験なのではないだろうか。そこではふと目にした朝の木漏れ日から、肌にふれた夜風まで、普段とはまったく違ったように感じることができる。それはたしかにそれぞれの夫婦関係にもよるだろうけども。

私は夜道を一人自宅へと歩きながら想像する。なにかのきっかけで自分の妻の故郷へと導かれた男たちが、一人また一人と、この東京の街から消えてゆく後ろ姿を。男たちはその土地でこれまでとは別の人間として生きてゆくのかもしれない。中にはジャズ好きの波乗りになったりする者もいたりするのかもしれない。


金曜日の夜、営業先から戻り、見積もりの束をデスクに築き上げた私は終電に乗って中央線沿線の街へと帰った。

その夜、閑古鳥の店は珍しく早くに閉店していたようだった。置き去りにされた店の看板のサーフボードだけが階段の上で私を待っていた。そう、たしかにそれは誰か待っていた。一枚の紙切れを細長いその身に携えて。

おそらく世界中のあらゆるマイナーな趣味を持った人間が共有しているであろうある予感を持って私はレンガの階段を上がってみた。そうして暗い店の玄関前で探偵よろしくライターの火を点けたのだ。

私のマイナーな予感は的中した。閑古鳥の店はついに店じまいしたのだ。それも永久に。ドアにはお決まりのお別れとお礼の挨拶がはしり書きされた張り紙がガムテープで止められてあった。私は今度は洞窟を彷徨う考古学者のようにその一文字一文字を照らし出していった。

一方、サーフボードの張り紙には『ご自由にお持ち帰りください』の文字が....。


あれは私への当てつけだったのだろうか。もしかしたら髭のマスターは私がこの細長い物体の存在を快く思っていなかったことに感づいていたのかもしれない。そんな私に店の後始末の一端を背負わせようとしたわけだ。だって、私のほかにあんな張り紙に注意を向けるような客はあの店にはいないのだから。

もしや髭マスターも奥さんの生まれ故郷の土地に惹かれた男性諸子の一人だったのかもしれない。以前、私は手荷物片手に店を訪れたマスターの奥さんらしい女性を見かけたときがある。華奢で色白の感じのいい人だったけども、悪いことにそのときも店内に客は私一人だけだった。それでも奥さんらしい女性は臆することなく私に笑顔で「いらっしゃいませ」と挨拶してくれた。髭の旦那よりも数百倍愛想がよかった。

いいだろう。自分でもよく分からないが、暗い階段の踊り場に一人たたずんだ私は、なぜだかすすんで髭マスターの共犯者になってもいいような心持ちがした。いつかの奥さんの笑顔とサーフボードの黄色が私をそんな気分にさせたのかもしれない。


金曜の深夜にサーフボードを抱えたスーツ姿の私は、周囲の通行人にはさぞかし華麗な週末を過ごすオシャレなサラリーマンとして映ったことだろう。そうでなければ大きな拾い物をした変わり者の勤め人か。

どっちでもいい。だって、今の私はたしかにそのどちらでもあるのだから。いや、少なくともそうなりつつあるのだから。

妻の実家は海に近い街にあった。帰り道の途中、私の頭はふたたびデスクで見積もりの計算をはじいているかのように働きだした。

車だってもうじき手に入る。出産に合わせ、会社がリースを受けている営業用の車両を格安で譲ってもらう予定でいるのだ。子供が大きくなったころには私のサーフィンの腕前もきっといくらかは上達していることだろう。週末には助手席に我が子を乗せて海へと向かうのだ。そしてそこで私は髭のマスターと劇的な再会をする....いいや、それだけはなんとしても避けたい。


まるで大海原を目の前した野ネズミのような心境だった。黄色いサーフボードは今、埃をきれいに拭き取られ、当マンションの居間の片隅に鎮座している。私は胡座をかきながら呆然とそれを見あげている。私の妄想は太平洋みたいに果てしなく広がってゆく。

その妄想の中で、私はなぜか海辺の街でカフェを開いていたりする。ガラス張りの日射しの降りそそぐ席には、お気楽なサーファーたちと堅物のジャズファンたちとが相席しあって、なにか楽しそうに雑談している。

店内には古いジャズのレコードが緩やかに流れている。隅の席にはいささか老けた丸顔の髭のマスターの顔も見える。彼は店の壁に立てかけられた黄色いサーフボードを懐かしそうに眺めている。

むろん私は声をかけたりはしない。私はただ専門店に負けないコーヒーを提供し、かつて閑古鳥の店でよくかかっていたレコードに静かに針を落とすだけだ。

そこへ買いだしに出かけていた妻が店のドアを開けて帰ってくる。彼女の顔を見た私は、やっと現実のマンションの一室へと戻ってきた....。

明日の早朝には中央線に乗って妻に会いにゆくのだ。はたして私は我が家の居間の一角を陣取ったこのサーフボードの存在をどうやって妻に説明すればいいのだろうか。私には彼女を納得させることのできる言い訳が、こちらは枯れた井戸のようにまったく思い浮かばないでいた。



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