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小指サポート終了のお知らせ(改訂版)

ある朝、いつものように通勤電車の車内で仕事用のスマートフォンを開いたら、『重要なお知らせ』というメールが届いていた。中を覗いてみると、『期日にあなたの左手小指のサポートが終了します』と書かれていた。

はて、いったいこれはどういうことだろう。私は小首をかしげた。これまでどこかの誰かに自分の左手小指をサポートしてもらっていたという認識はなかったし、そんなことを頼んだり申請した記憶もなかった。

しかしメールのつづきを読んでみるとそこには「サービス継続を希望される場合は、こちらから更新手続きをしてください」などと書かれている。


たぶん誰かの悪戯だろう、そう思って私はメールをすぐに削除した。この頃ではなにかにつけてサポートやら更新やらの手続きがいろいろと必要なご時世だから、それをどこかの誰かがおかしく茶化しているのだろうと。だって左手小指のサポートなんてあり得ないではないか。

でもそうではなかった。もしかしたら私はいつかどこかの取引先で左手小指のサポート申し込みをして、そのことをすっかり忘れていたのかもしれない。あり得ない話ではない。それで仕事が一つ取れるぐらいなら、私はスラスラと契約書にペンを走らせてサインしたはずだから。

メールに記されていた期日の朝がやってくると、私の左手小指はまったく動かなくなっていた。まるで実る前に手の先で枯れてしまった植物のような姿になり果てていた。


前兆はあった。二三日前から妙に小指の付根部分が疼くような感じがしていた。とくに反らせるような動きをすると痛みが走った。

それでも結局なにもしなかった。私がしたことといえば、風呂上りに冷却スプレーを吹きかけたことぐらい。とにかく仕事が忙しかったし、毎日のノルマをこなさなければならなかった。だから病院や接骨院には行けなかったし、小指サポートの更新手続きが頭をよぎってもついつい後回しになった。それに最悪の場合、私は右利きではあったし。


私は小指サポートのメールを無視したのと同じように、動かなくなった自分の左手小指の存在も無視することにした。もしくはしばらく様子をみることにした。もしかしたら明日になってみれば、嘘のようにふたたび動きはじめるかもしれないし、さらに考えてみれば、同じような目に合った人たちがどこかに多勢いて、やがて私の代わりに声をあげるかもしれない。そのときになって、きっとはじめて私は動かなくなった自分の左手小指の存在を公にできるだろう。

べつだん急ぐ必要は感じなかった。それ以外のことで私は充分忙しかったのだし、動かなくなった左手小指の影響は私にとって微々たるものだった。仕事は細かい手作業を必要とするものではなく、楽器を演奏したりするような凝った趣味もなかった。あるいは私の身の回りに相談したり、話しかけたりする親しい人間がいなかったせいでそんな簡単に受けとめていたのかもしれない。


しかし呑気なことは言っていられなくなった。小指が動かなくなった一週間後には今度は『期日にあなたの右脚の脛のサポートが終了します』というメールが届いたのだ。

いったい私はどれぐらいの肉体的なサポートを受けているのだろうか。あるいは契約欲しさにそんな申し込みをしてしまったのだろうか。左手の小指ぐらいならまだどうにかなるけども、脚の脛となるとさすがにマズいのではないか......そんな悪い予感が走った。もしかしたら仕事に差し支えるような事態になるかもしれない。

今度ばかりは忙しさを言い訳にすることはできなかった。外回りの合間に早速スマートフォンから脛サポートの更新手続きをすることにした。

すると更新手続きを行う画面に進む前に本人確認のためのメールアドレスとパスワード入力の画面が表示された。......パスワード?

私は自分で決めたであろう脛サポートのパスワードがまったく思い出せなかった。ためしによく使う数字やアルファベットの組み合わせをいくつも入力してみたけどもだめだった。

サポートを更新しようにも、その更新手続き画面にアクセスすることがでないという悪夢めいた悪循環に私は陥ってしまった。サポートセンターのアドレスにパスワード確認のためのメールを送信したのに返信のメールはいつまでたっても届かなかった。


私の脛サポート終了期日は刻一刻と迫っていた。サポートセンターからの返信メールはまだ届いていなかった。

動かない小指をぶら下げながら、今度は右脚も動かなくなるかもしれないという恐怖を抱きつつ外回りをして、どうにか無事に会社にもどってからは遅い時間まで見積もり書を作成する葛藤の日々がつづいた。

けれど悪いことばかりでもなかった。そうしたこれまでの日常では考えられない体験をするうちに、私はビジネス街に見られるある異変に気がついたのだ。

それは押し寄せた新しい感情が、狭すぎた私の視界を開かせてみせたような光景なのかもしれなかった。これまでだってずっとその場所に存在していたのに、取引先の顔色ばかり気にしていた私は気がつかずに通り過ぎていたのかもしれない。

見たことのなかった街の風景がそこにあらわれていた。右脚を引きずるようにして歩く黒や紺の営業マンや営業レディの姿は、修行の地からはるばるビジネス街に下りてきた聖職者たちのようだった。彼らの存在は経済の枠組みの外にあるらしく映った。

そんなビジネス街の聖職者たちを、私はときに十人も二十人も目撃する日があった。彼らの左手小指はみんなだらんと垂れ下がってアスファルトを指さしていた。


どうして彼らがそろって営業マンや営業レディであって、同じビジネス街で働く勤め人ではあっても受付嬢や人事部の社員や重役役員ではないのかは分からなかった。ただ彼らと同じ左手小指や右脚を持った人間はほかの職種の人々の中には見当たらなかった。もしかしたら彼らはみんな、禁断の取引先と契約を交わした営業マンや営業レディたちなのかもしれなかった。あるいは彼らが契約を結んだ相手は街そのものなのかもしれなかった。なぜならその姿は一様に歩く権化めいていたから。

そしてそんな彼らを見ているうち、私は自分の心境にある変化が起きていることに気がついた。もはや右脚の脛サポートの終わる日がやってくるのを恐れなくなっている自分に。むしろその日がやってくるのが待ち遠しいような心持ちさえしていた。そのとき、私は彼らの仲間の一員となって、彼らビジネス街の聖職者たちに言葉をかけることを許されるだろう。


サポート終了の日がいよいよ近づいてくると、街中で黒い聖職者を見つけるたび、枯れたはずの私の左手小指がそのときだけ疼いた。そしてついにサポート終了当日になると、私はとりわけ大きな聖職者に街中で出会った。

それは黒いビジネススーツに身を包んだ太った営業レディだった。どんな業種の営業レディだかそこまでは分からなかったけども、彼女は右脚を引きずるようにのしのしと、まるで黒い水牛みたいに、午後のビジネス街の主みたいに、歩道をゆっくりこちらに向って進んできた。

なんだかとても辛そうな歩き方だった。彼女一人だけが目には見えない丘の坂道をのぼっているようにも思えた。


そのとき私の小指はこれまでになかったほど激しく疼いた。スーツの袖口から覗く、枯れてもなお太くて白い彼女の小指と指切りするのを求めているかのような。

私はその疼きが自分の意思とはまったく関係ないところで彼女の小指に伝わってしまいそうな気がして、慌てて右手で覆い隠し、すれ違いざま決して目を合わせないようにした。

ヒューと風が吹いた。一瞬のビル風だろうか。雨上がりの夏のアスファルトみたいなムッとする匂いが鼻についた。「ついて来い」。女の低い声が聞こえた。背くことはできなかった。


おしまい


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