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パラレルマン(後編)

そんなわけで俺はパラレル社の代理店に電話をして、ド変態パラレルマンからの申し出を正式にお断りし、ついでにその旨を代理店のホームページ上に発表してくれるよう要請したのだった。

サックスを吹くマイルス・デイビスには興味がわかなかったし、大衆の英雄でいるのは正直それほど悪い感じはしなかったけど、自分の身の程を考えるとさすがに気がひけた。

そしてなにより彼ら大衆のパラレルマンが彼らを迎えにやってこないことを、俺はもう知ってしまったから。それは俺の身の上だけに起こった特殊なド変態事情によるものだったんだ。でもみんなはそんなこととは知らずに、あるいはそこまで深く考えずに、俺のあとにつづけとばかりに無理で実現不可能な夢を膨らませている。

たとえにわか仕込みの英雄ではあっても、英雄が民衆に嘘をつくわけにはいかない。もらった勲章は返すことにして、あとはただ静かに消え去るのみの道を俺は選んだ。


これで少しは静かになるだろう、翌週の日曜日にはきっと区民グランドで気持ち良く無観客試合の草野球ができるはずだ。三振したってなにも怖くない。

パラレル社からいい返事をもらって電話を切った俺は、その時点ではそんなふうに高をくくっていた。まるでなにもなかったかのようにすべてが元通りになっていくはずだと。でも実際にはそのあと事態は良くなるどころか、前よりずっと悪くなったんだ。

俺は大衆の反応を見誤っていた。彼らは俺を放っておいてはくれなかった。世間は俺が選択したやり方に腹を立てた。それも猛烈に。

でも考えてみればそれは当然の反応だった。だってこっちにどんな理由があるにしろ、彼らにしてみれば俺がパラレルツアーに参加しないという選択肢は最初からあり得なかったんだから。


それに奴とグルになってるパラレル社をうっかり信用したのもバカだった。

たしかにパラレル社はホームページ上に俺の見解を載せてはくれた。それも一字一句違うことなく。ただし奴の方の主張も一緒に並べることを忘れずに。

それでどうなったか。大衆は奴の側についたんだ。みんながパラレルマンの味方になった。

ただの金持ちド変態であるはずの俺のパラレルマンは、どういうわけだか実らない恋を成就させようとするパラレルワールド界きってのロマンチストという称号を世間から頂戴した。それもあっという間に。奴は一人の女性のために全財産を捨てる、名誉も地位も捨てる、あっぱれな男の中の男ということになった。

逆に昨日までは街の英雄だった俺の評価はガタ落ちだ。俺は我がままで小心者のドケチマン、俺こそ相手の本当の幸せも考えずに一人の女性の関係だけに固辞しようとするド変態らしかった。


まんまと奴とパラレル社の罠にハマった格好だった。奴らは最初から分かってたんだ。俺がパラレルツアーを断ってくればこうなるってことが。

さらに頭にきたのは、この一件が奴にとってこの上なくいい宣伝になっているという点だ。もし俺が奴とパラレルツアーで入れ替わって、今回の事の顛末を小説に書けば、奴が言ったように、きっとこっちの世界でもベストセラーになること間違いなしだ。なにしろ世間の話題は、パラレルワールド界きってのロマンチストが、あちらの世界でいったいどんな本を書いているのかで持ちきりになっていたから。

親切なことに、それが彼ら夢見るパラレルツアー志願者たちの合言葉にもなっていた。彼らは俺に向かって直接「とっととあっち側の世界に行け!」とは言わなかった。彼らはみんなで「私たちはパラレルマンが書いた本が読みたい!」というメッセージがプリントされた黄色いTシャツを着はじめて、俺を困らせたんだ。


そのパラレルツアー志願者たちの急先鋒に立っていたのが、なにを隠そう俺のお袋だった。

どこで聞きつけたのか知らないけど、俺のパラレルツアーの噂を耳にしてからというもの頻繁に電話をかけてくるようになって、俺がなんの相談もせずにツアーを断ったことを知るとさらにヒートアップして、毎日のように電話してくるようになった。

もっともお袋は、ほかの志願者みたいに自分がパラレルツアーに参加したいわけじゃなかった。あくまでそれは家族内の、良くも悪くも身内の問題だった。そしてお袋は古今東西の母親たちがかつてあまり経験したことのない道徳上の難問にも直面していた。結果、お袋の話は時にパラレルツアーの志願者たちのように間接的にならざるを得ず、また時に身内らしいざっくばらんな内容になった。


ある日のお袋が俺に電話で言った。

「親戚のみんながさ、お前のパラレルマンが書いた小説を読んでみたいってお母さんに言ってくるんだよ。一冊でいいから分けてくれって。でもさ、向こうの世界の物をこっちに持ってくるのは法律で禁止されてるんだろ?そうなったらさ、あとはもうお前のパラレルマンにこっちの世界に来てもらって実際に書いてもらう以外ないじゃないか。お前には本の印刷はできたって、本を書くことはできないだろうしね」

またある日のお袋が言った。

「テレビで偉い学者さんが喋ってるの見たんだけどさ、お前とお前のパラレルマンはまったく同じ遺伝子を持ってるらしいよ。たぶんパラレルマンも小学生の時に40度の熱だしてお母さんに寝ずの看病をしてもらったんじゃないかね。それに自転車が欲しい欲しいって駄々こねて、お母さんを困らせたりしたかもしれないねぇ。でもそうするとさ、私がお前のパラレルマンを実の息子みたいに思ったってなにもやましいことはないんだよ。だって私だって40度の熱をだしたお前を寝ずに看病したんだからさ。そうだろ?」

またある日のお袋が言った。

「もしも、もしもだよ、お前が向こうの世界に行っても、パラレルマンとは電話で話せるらしいよ。だからさ、お母さんとお父さんのことはなんにも心配しなくていいんだよ。もう二人のお墓だって買ってあるんだしね。なにかあったらパラレルマンに電話連絡してもらえばいいんだからさ」

またある日のお袋は子供みたいに泣きじゃくりながら電話をかけてきてこう言った。

「お父さんがさ、私のことを人でなしって呼んで怒るんだよ。それでもお前の母親かって......でもさ実の母親だから言うんじゃないか。こんないい話は二度とないんだよ。それをなんでお前は断っちゃうんだろうね......ほんとバカだよ、大バカだよ。お母さんは一つも間違ったことなんて言ってやしないからね。お前はお父さんのダメなとこが似ちゃったんだ。だから親子で出世できないんだよ。今ようやくその悪い血筋を断ち切るチャンスが来たんじゃないか......」


そんな硬軟とり混ぜて言いたい放題のお袋だったけど、一つだけ触れようとはしない話題があった。それは電話で触れるにはあまりにデリケートな問題のように思えたのだろうか。

ただその問題をクリアーしなければ俺のパラレルツアーへの参加があり得ないことは誰の目にも明らかだった。

たぶんいろいろ考えた結果だろう、お袋はまったく予想外の方法でその問題にアプローチしてきた。

仕事帰りの夜の出来事だった。その頃にはすでに裏切り者のドケチマンなる称号を世間から頂戴していた俺は、一つ手前の駅で電車を降りて、人々の視線と〈私たちはパラレルマンが書いた本が読みたい!〉Tシャツを避けるように中央線沿いの暗い裏通りを、女房が待っている安アパートに向かって歩いているところだった。

スマホのテレビ電話が見知らぬ番号の着信を知らせた。それは昼にお袋からのメールで、夜になったらパラレル社の社員から電話がかかってくるからそれにでるようにと書かれていた、その番号だった。

いい予感はまったくしなかった。そもそもどういった経緯があってお袋と俺の親子の間にあっちの世界のパラレル社が割り込んでくるのか。

とりあえずアパートに着く前に面倒な電話はすませておきたかった俺は、通話ボタンを押した。


スマホの画面に映し出された映像は、俺の悪い予感のさらにその上をいくものだった。お決まりのフレーズが聞こえてきそうだった。あなたは損をしています......

でも実際に彼女が、画面に映った俺の顔を野蛮な古代人を見るかのように胡散臭げに一瞥してから、気を取り直して最初に言ったセリフはこうだった。

「こんばんわ。あなたのお母さんから電話するように頼まれたの」

「どうしてまた?」

俺は動揺を隠せずに、スマホの画面に向かって阿呆になったみたいに言った。

そのマネキンみたいにキラキラ光った巻き髪には見覚えがあった。新しいCMの撮影でもしているのか、スタジオセットめいた場所で喋っているのは、なぜかいつも俺にメールで偽のパラレルツアーを勧誘してきた、未来のパンナム航空の客室乗務員風の制服に身を包んだ偽パラレル嬢だった。彼女は右腕を伸ばしてスマホで自撮りしながら、スタッフの女性にメイクしてもらっている最中だった。

それは二重の驚きだった。だってそもそも彼女は、お袋が言ってたパラレル社の社員でもないんだから。すると彼女はそれが当然であるかのように、まるでそうするのが自分の責務であるかのように、俺の顔を見て答えた。

「あなたに伝えておきたいことがあるのよ。あなたの奥さんのことで」


彼女はたしかにパラレル社の人間ではなかったけど、そうかといって偽パラレル社の単なる美人の広告塔というわけでもなかったようだ。彼女はパラレルツーリスト社なるベンチャー企業の遣り手社員だったんだ。

たぶん俺のスマホの通話記録をどこからか入手して、そこから情報提供者たるお袋の存在を嗅ぎつけたんだろう。なんたって夢見るパラレルツアー志願者たちを顧客に商売している彼らにしてみれば、俺は場合によってはそれこそ絶好の広告塔になり得る可能性があるだろうし、もし上手く丸め込むことができたなら彼女だって出世間違いなしだ。

「私たちとあなたのお母さんは、完全に意見が一致したわ。まだ撮影中だから手短にお話しさせてもらうけど、私たち、あなたとスポンサー契約がしたいのよ」

「残念だけど、俺はパラレルツアーを断ったばかりなんだよ」

「まさにその件についてだけど、私たち、少し話し合ってみる余地があると思うの。あなたはなにか見当違いの思い込みをしてるようだわ。あなたはまだ知らないかもしれないけど、奥さんは、あなたにパラレルワールドに行ってもらいたがってるのよ」

モデル張りに決め込んだ長い付けまつ毛越しに、パラレル嬢は言った。


まったく寝耳に水の話だった。俺は住宅地の暗い裏通りで、スマホを握り締めながら途方に暮れていた。パラレル嬢はその途方に暮れている俺の、途方の暮れ具合を画面から判断しようとしてるところだった。

「どうしてそんなことが君に分かるんだ?」

俺はどうにか、答えを反証しようとするよりは、それを確認するために尋ねた。彼女たちが単なる憶測でものを言うはずがないのは分かっていたから。

つまり俺の知らない間に、パラレルツーリスト社はお袋だけでなく、女房にまで接触していたということ。そして彼女たちは俺の知らない情報を、しかも自分たちに有利な情報を、得ていたようなのだ。ある部分では彼女たちは俺より俺の女房のことをよく知ってることになる。でもいったいどうして女房の奴は俺をパラレルツアーに行かせたいなんて言うんだろう。まったくワケが分からない。しかも俺ではなくパラレル嬢に。そんなの理にかなってない。


「パラレル社との交渉期間はまだ残ってるわ。その間にこの件について、奥さんともう一度よく話し合った方がいいと思うの。そのあとでもう一度お話させてほしいのよ」

「女房は本当にそう言ったんだね?俺がパラレルワールドに行った方がいいってさ」

「それも奥さんの口から直接聞いた方がいいと思うわ。私たちはこれまでの調査を分析した結果、あなたは本来はもの分かりのいい、頭の柔軟な男性だと認識しているの。いい返事を期待してるから」

「もしかしたらそれは、俺がこのままだと損をするってことなのかな」

「そうね。パラレルマンがあなたになにを言ったか知らないけど、あなたは自分から進んで貧乏クジを引こうとしてるのよ」

「ありがとう。よく分かったよ」

「帰ったら奥さんと話してね」

パラレル嬢は電話を切って仕事にもどった。小さくチャーミングに手を振って。本来?じゃ今の俺はそうじゃないっていうのか?

パラレルマンからの電話を着信拒否にすることはできない。奴はパラレルワールドの特殊な回線を使ってるから。でもパラレル嬢はこっちの世界の住人だからそれができる。もの分かりのいい頭の柔軟な俺は、彼女の番号を着信拒否に設定した。


俺はべつにパラレル嬢に怒ってるわけじゃなかった。いいやむしろ礼を言いたいぐらいだった。俺が彼女の番号を着信拒否にしたのは、ただ単にパラレルツーリスト社の広告塔になる気がまったくなかったからだし、それをいちいち口で説明するのが面倒だったから。だって俺が広告塔になったところで、パラレルツアー志願者たちの運が良くなって、彼らのパラレルマンがお迎えにくるわけではないんだから。彼らがパラレルツーリスト社に支払ったエントリー料が無駄に終るのは目に見えている。

ただパラレル嬢の口から女房の話を聞けたのは幸いだった。それはとんでもなく重要な情報だ。泣きたいぐらいに。

てっきり俺は、女房も俺のパラレルワールド行きに反対するものと決め込んでいた。だって夫である俺自身が反対してるんだから。

それは俺たち夫婦にとってあまりに自明の事だと信じていたから、あらためて訊こうともしなかった。訊くのは女房にたいして失礼だとすら思っていた。

もしかしたら彼女の方でも同じふうに考えていたのかもしれない。そんなことを言ったら俺が怒るとでも。まあ、たしかに怒っただろうけど。

俺の歩く脚は自然といつもより大股になっていった。

「ドケチマン!」

どっかの誰かが道端で、新しい俺の名前を呼ぶ声が聞こえたけど、俺は振り返らず、もちろん手を上げることもなく歩きつづけた。あっという間に安アパートの前に着いた。錆び付いた外の階段を駆け上がって玄関のドアを開けると、女房がいつものようにテレビをつけて本を読んでいた。まったく本当に泣きたい光景だった。


俺が最初に女房を見たとき、彼女はやっぱり本を読んでいた。はじめて声をかけたときもそうだった。工場内にある倉庫の搬入口、そこが昼休みの彼女の指定席だった。ベージュ色した作業着姿の彼女は、そのときだけ帽子を脱いで、いつもそこで本を読んでいたんだ。

彼女はユニークだった。本を作ってる印刷会社で、休憩時間にまで好きで本を読んでる社員なんてそれまで俺は見たことがなかった。俺は同僚を誘って、倉庫の脇でキャッチボールをするようになった。もちろん彼女の気をひいて、声をかけるために。


「もう僕からの電話にはでないんじゃないかと思ってたよ」

白い部屋のパソコンの前で奴は言った。俺は仕事帰りの公園のベンチの指定席でスマホを握っていた。

パラレルワールドからの電話は着信拒否できない。だから俺は例の一件以来、奴からの電話やメールがあってもただひたすら無視することにしていた。でもこのときの俺には奴に訊きたいことが山ほどあった。

「それでもいつかは必ず俺が電話にでると確信してたんだろ?」

「もちろんさ。そして君はこうして実際に僕の電話にでてる。なにか状況の変化でもあったのかい?」

変化はあった。それもとんでもなく大きな変化が。

「あんたが俺に言ったことまだ憶えてるか?」

「例えばどんな?」

「あんた、人の女房を運命の女性だなんて言っただろ?じつは彼女が俺をパラレルツアーに行かせたがってる。つまり俺とあんたを交換させたがってるんだ」

「それは賢明な、尊い考え方だね。君は奥さんを責めちゃいけないよ。思うに君の奥さんは、自分のことより旦那さんである君のことを考えてそう選択したんだ。あるいは二人のこれからの人生のためにね」

「ああ、俺もそう思うよ。そこでだ、あんたに二、三訊いておきたいことがあるんだけど、いいかな?」

「もちろんだとも」


もしもパラレルツアーを知らない人がその夜の俺と奴のスマホでのやり取りを公園で覗き込んでいたなら、さぞかし世も末だと落胆したことだろう。スマホの中の自分に向かって浮世の質問を投げかける男。コンピューター依存性ここに極まりとでも思っただろう。

「あんた、結婚は?奥さんはいないのか?」

「もちろんだよ。並行世界の僕たちの中で結婚してるのは君だけだ。おめでとう、こっちの世界に来れば、君は自動的にもう一度独身貴族の仲間入りというわけだ」

スマホのスピーカーから、並行時空を超えて奴の乾いた笑い声が聞こえた。

「それはいいな。じゃ今度は唯一の既婚者である俺の意見を言わせてもらうけど、結婚生活はそんなに甘いもんじゃないし、もしもそれが、あんたのお気に召すようなものではなくても、すぐにパラレルワールドに帰らせてもらいますってわけにはいかないよ」

俺は嗜めるように言った。すると奴は、パラレルワールドの住人しか知らないとっておきのエピソードを披露した。

「こういう話がある。引退したNBAのスター選手がパラレルツアーで並行世界の自分と住む世界を交換した。もう一人の自分は怪我でシーズン当初から登録抹消されている大リーグの外野選手だ。当の彼は子供の頃に、ちょっと野球をやっただけ。それでどうなったと思う?なんと彼、シーズン終了前に大リーグデビューを果たしたんだよ。まだチームが地区優勝争いをしてる時期に、だ。話題性だけじゃない、彼はまさに即戦力として期待されてデビューしたんだ」


俺のパラレルマンはつづけた。

「つまりこれは運命なんだよ。あらかじめ遺伝子に僕たちの未来の情報が刻み込まれてるみたいにね。その世界では、彼は大リーグの選手になることを運命づけられてた。だから彼は大リーグの選手になれたし、なったんだ」

「それであんたもこっちの世界でなら俺の女房と上手くいくってわけ?話をもとにもどして恐縮なんだけどさ、結婚はそんなに甘いもんじゃないよ」

「僕だってなにも冗談に大袈裟な表現をしてるわけじゃないんだ。ただ僕たちの世界では、無数の並行世界が発見されてからというもの、僕も含めてみんながみんな運命論者になってしまってね」

「その運命の女性だけどさ、そっちの世界にだっているわけだろ?つまり俺の女房のパラレルマンにあたる女性がさ。彼女こそあんたの運命の女性じゃなかったのか?」

「こっちの世界では、僕たちは結ばれない運命のようだ。たぶんそう世界のDNAに刻まれているんだろう。なにしろこちらでは、彼女はほかの一般男性と結婚してるんでね」

「それでも諦めるのはまだ早いんじゃないか。あんた、そっちではベストセラー作家なんだろ」

「こっちはこっちでなかなか複雑でね。一度絡み合った運命の糸は、そう簡単には解けそうにないんだ。なんなら君がこっちに来たら奮闘してみればいいよ。ただし君が彼女の新しい夫になるよりは、作家として成功して何がしの文学賞を獲る確率の方が遥かに高いと僕は思うけどね」

「いいや、せっかくだからありがたく両方頂戴することにするよ」俺は言った。「だって俺はエラーなんだろ?」


もちろん俺がそんな強気な発言にでたのには奴の言うエラー以外にも根拠があった。そうでなきゃあんなバカみたいなこと俺だって言いやしない。ただ小説家の勘を働かされて、こっちの手の内がバレやしなかったかと、あとになって冷や汗がでたけど。

べつに俺は奴に奮起をうながして、彼女との再婚話を勧めたいわけじゃなかった。俺が知りたかったのは、あちらの世界にいるはずの、女房のパラレルマンにあたる女性の近況だったんだ。

「あなた、本当は行きたいんでしょ、向こうの世界に。だったら行ってきなさいよ」

あの夜、帰ってきたばかりの俺に向かって女房が言ったんだ。俺はびっくりして開いた口が塞がらなかった。しばらく畳の上で真っ赤な顔をして彼女のことを見下ろすしかなかった。女房は読んでいた本をちゃぶ台の上に置いてこっちをしっかり見上げていた。

ようやく気がついた。彼女が思い知らせてくれた。どうしてこれまで俺が、女房になにも訊けないでいたかってことに。

そうなんだ、俺は本当は心の底では行ってみたかったんだ、向こうの世界に。パラレルワールドに。


カレーの匂いが台所から漂っていた。これから俺はその匂いを嗅ぐたびにあの夜のことを思い出すだろう。無論、パラレルワールドにだってカレーはあるはずだ。ないわけがない。もしなかったら俺が作って一儲けも二儲けもしてやる。

俺は走る電車の車内をもう一度だけ見渡した。本当にこれが最後だ。

工場仙人は途中の駅で降りたのか、その姿はもう座席には見えなかった。スマホをいじってる人、寝てる人、ぼんやり窓の外を見てる人。本を読んでる乗客はあんまりいなかった。

人のことを言えた身分じゃないけど、みんなもっと本を読むべきだ。そうすれば、いざというときに、なにか困った問題が起きたときに、その解決法が思い浮かぶかもしれない。俺の女房みたいに。


「パラレルワールドに行ってきて。そして私を迎えにきて」

彼女は言った。俺はその意味がよく分からなかった。だってパラレルワールドに行った俺が、彼女を迎えに来るなんて物理的に不可能だから。でも女房が言ったのはそういう意味じゃなかった。彼女はつづけた。

「パラレルワールドに行ったら、向こうの世界に住む私に会いに行ってよ。そしてもし彼女が貧乏だったら、それから貧乏でなくても、あなたのお金をあげて欲しいの。もちろん彼女がパラレルツアーに申し込んで、私と入れ替わってくれることが交換条件よ」

なんて頭がいいんだろう。俺は完全な思い違いをしていた。俺の女房は決して奴のことをド変態とは呼ばないだろう。だって彼女ときたら、ド変態のベストセラー作家より上をいってるんだから。

ただ女房の計画が上手くいくかどうかは分からない。それにもし奴の運命論が正しかったなら、女房が無事にパラレルワールドにやって来れたとしても、こっちの世界では俺たち二人は上手くやっていけない可能性だってある。でも結局のところ人生は架けなのだし、なんだってそうだ。やってみなけりゃ分からない。それに俺はエラーなんだし。


俺は乗客の一群に混じって電車を降りた。エスカレーターに乗って自動改札機を抜けると、女房がロータリーで待っていてくれた。彼女が両手に抱えていのは、コンビニで受けとってきたばかりのパラレル社から届けられた小さなダンボール箱だ。その中には、俺と奴の体を同期させるための特殊な枕が入れられているはずだ。今夜、俺と奴は同じ時刻にその枕を頭の下にして眠るのだ。そうして朝になって目覚めたときに、俺は殺風景な、広くて白い部屋に一人でいることだろう。

「ただいま」

俺は女房の手荷物を受けとって言った。なんだか二人して新婚の頃に戻ったようだった。彼女が冗談みたいに笑って言った。

「お帰り、私のパラレルマン」


おしまい


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