パラレルマン(前編)
「あなたは損をしています」
庶民の夢を悪用したパラレルツアーの偽装勧誘メールはたいていそんな文句ではじまる。いつの時代にも満たされない人々の気持ちは存在するし、そんな人々のために約束の土地が用意される。その最新型がパラレルツアーの悪用というわけ。
メールのリンクをたどれば、パラレル社の専売特許であるパラレルツアーのはずなのに、なぜだかパラレルツーリスト社やらパラレルテクノロジー社やらのホームページに誘導されて、そしてなぜだか決まってSF映画にでてくるパンナム航空の客室乗務員みたいな未来的なデザインの制服に身を包んだ、偽のパラレル嬢が画面にあらわれて、パラレルツアーがいかに魅力的で、いかに安全で、そしてこの世界で暮らしている俺たちがいかに損をしているかを優しく語ってくれる。偽パラレル嬢は言う。
「世の中にはなんでもできて、なんでも持ってる人が多勢いるのに、どうして自分だけは......。あなたはこれまでそんなふうに思ったことはありませんか?自分だけが損をしているんじゃないかって。それは決して間違いじゃありません。あなたは実際に損をしているんです」
おかしいのは今日の今日になっても俺のスマホにパラレルツアーの偽装勧誘メールが届くということ。もっともメール業者は、俺がかつて正真正銘のパラレルマンによって選ばれた男だということを知るはずもないだろうけど。もし知ってたらさすがにメールは送信してこないだろうし、パラレル嬢だって恥ずかしくて画面から姿を消すかもしれない。でもパラレル嬢の映像はそもそも録画されたものだろうから、彼女は消えることなくこうつづける。
「別の世界では、あなたはJリーグのサッカー選手かもしれません。世界を旅する冒険家かもしれないし、高層マンションに暮らす映画スターかもしれません。パラレルワールドは無数に存在します。あなたの希望に合った世界が必ずどこかに存在しているんです。さあ、もう憂鬱な月曜日を待つ必要はありません。私たちと一緒に新しい世界に旅立ちましょう!」
それから偽パラレル嬢は最後に決まって笑顔でこう締めくくる。
「まずはエントリーを......」
そんな厚顔の心優しい偽パラレル嬢にまで悪者にされてしまった月曜日、俺は久しぶりにタイムカードの退勤欄に定時の時刻を打って着替えをすませた。残業前のわずかな休憩時間に外の喫煙所で一服していた作業着姿の同僚の口から、俺のもう一つの名前を呼ぶ声が聞こえた。俺は振り返らずに右手をちょっとだけ上げて工場の門へと向かった。さらにもう一人の同僚が別れを告げた。
「さようなら、パラレルマン!」
正確に言ったなら俺はパラレルマンではない。パラレルマンによって選ばれた男の方だ。勘違いしてる人間は多いけど。
工場にはまだ俺がその選ばれた男だったことを覚えている人間がいる。そしてその内の何人かは、俺に用意された正真正銘のパラレルツアーの交渉期間がもうすぐ切れることを気にかけている。かつて印刷機の扱い方を教えてくれ、俺を工場仲間で作った野球チームに誘ってくれた工場長もその一人だ。
「思い直したのか?やっぱり行く気になったか?」
今朝一番に今日は定時であがらせてくれと工場の二階にある事務所に頼みに行くと、工場長は理由も尋ねずに俺にそう訊いた。顔にそんなようなことが書かれてあったのかもしれない。「インキと油よ、さようなら、今までありがとう」とか。
実際の俺は肯定も否定もせずに口を少しだけ曲げてみせただけだった。でもそのジェスチャーは工場の中では相手に対しての最高級の敬意のあらわれだ。工場長は俺の肩に手をおいてつづけた。
「よく考えみるんだな。明日になって別人のお前が来ても私は驚きはしないよ。ただまた機械の扱い方を一から教えなきゃならないのはちょっと骨だけどな」
「そのときは奴をよろしく頼みます」
「野球はできるのか?」
「俺と同じですよ。レフトをやってたって言ってました」
「じゃ一番レフトで決まりだな」
工場長は満更冗談でもないふうに言った。
もちろん奴は、俺のパラレルマンは、工場勤めはしないだろう。だから草野球チームにも参加しない。工場長だってそのぐらいのことはわかっている。なんたって奴は、俺のパラレルマンは、インキと油の臭いをさせた俺たちとは違うんだから。
「野暮なことを訊くようだけど、奥さんはどうするつもりなんだ?」
たしかに野暮な質問だ。それを俺はずっと悩んでいたんだから。でも工場長であり、愛妻家でもある男としては最後に聞かずにはいられなかったんだろう。それに、もし俺たち夫婦が式を挙げていたなら、仲人はきっと工場長夫婦に頼んでいただろうし。
「あとで迎えに来ますよ」
そう言って俺は事務所を出た。工場長は腑に落ちない様子でまだなにか話したそうだったけど、俺が言ったことは嘘じゃない。ちゃんと夫婦二人で話し合って決めたことなんだ。
帰りの中央線は仕事帰りの勤め人たちでいつもより混んでいた。俺はドアの脇に立って窓の外に流れる夜の東京の街並みを眺めていた。朝と夜、もう何年も見つづけてきたお馴染みの風景だけども、もしかしたらそれも今夜で見納めになるかもしれないと思うと、さすがに感傷的な気分になった。
この世界での最後の夜、俺が最後に見た街、最後に乗った電車、今日の俺は最後尽くしだ。そういえば偶然の悪戯か、俺が最後に工場で印刷したのは『地上最後の刑事』という本だった。なんでも偉い作家の名前がついた賞を獲った外国の刑事小説らしい。プライベートでは本を読まないというのが俺たち印刷稼業の暗黙のルールだし、印刷稼業に就く以前から俺はそのモットーを実践していたわけだけど、パラレルワールドに行ったら奴の著書に目をとおす前に一つ読んでみてもいいかもしれない。もっともあっちの世界にも同じ本があったらの話だけど。
「親父の本棚にさ推理小説とか探偵小説が何冊かあっただろ?僕たちがまだ小学生だった頃にさ」
もう一人の俺が、つまり俺のパラレルマンが言った。もう三ヶ月近く前。
並行世界って言うぐらいだから、パラレルワールドには俺たちの世界と同じ時間が流れている。ただそこでの奴の暮らしぶりは俺とは大分違ってた。
奴はいつも白を基調とした、モデルルームみたいな、豪勢だけどもどこか殺風景な広い部屋にいた。使ってるパソコンはたぶんマックで、うしろの壁にはなぜだかテナーサックスを抱えた見たことのないマイルス・デイビスの黄色いレコードジャケットが掛けられていた。
パラレルワールドとの会話は、特殊回線を使ったスマホのテレビ電話でおこなわれた。ただその特殊回線とやらにこちら側からアクセスすることはできなかった。そんな技術は俺たちの世界には存在しないから。あと百年経っても無理だろうと、偉い学者さんがテレビで話してたのを見たことがある。だからこの世界の住人である俺たちは、雲の上からひょろひょろと紐が垂れてくるみたいに、パラレル社からの着信を待つしかないんだ。
「ああ......」
そのとき俺は奴にそんな曖昧な返事をしたはずだった。正直、小学生だった頃の親父の本棚なんて、まったく覚えていなかったから。俺と同じ遺伝子を持っているはずのパラレルマンは、俺よりもずっと記憶力が良さそうだった。
「僕はあれを全部読んだんだよ。まだ子供だったけどね」
奴は言った。まるでそんな些細な出来事がその後の二人の人生を大きく分けたとでもいうように。
でも意外とそんなものかもしれない。それで奴はベストセラー作家になって、俺はそのベストセラーを印刷する側になった。奴は小さなチャンスを見逃さずに掴み取り、俺はそんなものが身近にあることすら気がつかなかった。
仮にそうだったとしても、そんなことはもはやどうだっていい。だって時間を巻き戻すなんて、向こうの世界のパラレル社にだってさすがにできそうにないから。今重要なのは、そんな奴が、成功者の奴が、ベストセラー作家のパラレルマンが、印刷稼業のこの俺と、パラレルツアーでもって住む世界を入れ替わりたと言ってることだ。俺に頼んでるってことだ。
いったいどこの世界にわざわざ好き好んで俺みたいな一般庶民になりたがる金持ちがいるだろう。
ある朝、目を覚ましたら世界はパラレルワールドと繋がっていた。頼みもしないのに向こうの方からやってきた。おまけにそこには、Jリーグのチームでサッカーボールを蹴っている俺とか、映画スターになってペントハウスでジャグジーに浸かってる俺がいたりするらしかった。パラレル嬢が言うように、並行世界が無数に存在するのなら、どんな可能性だってある。もちろん悪い方の可能性も。ただし金持ちが自ら進んで貧乏生活をおくりたがる世界だけはどう考えたって存在しない。
俺だけじゃない、みんながそう思っていた。だからパラレルツアーは金持ちとかセレブの連中と、金持ちのパラレルマンだけの秘密の道楽だとばかり受けとめるられて、庶民には人気がなかったんだ。
そこに俺のパラレルマンがあらわれたってわけ。奴は俺たち凡人から見たら、革命家か、頭のおかしな変人の成功者といったところだった。頭のおかしな変人であることと、成功者であることは、決して矛盾しないはずだ。
俺は電車に乗っている仕事帰りの人々を見渡した。疲れて眠り込んだ人、携帯電話を覗き込んでいる人、吊革を握ってぼんやり夜の街を眺めている人。みんな心のどこかで、いつかパラレルマンが自分を迎えに来てくれる日を待っているように思えた。
一人の老人男性がこちらをじっと見つめていた。一目で工場労働者だと察しがついた。なにしろ俺の両親は繊維工場の職場結婚だったし、兄貴は地元の自動車工場で働いてるし、上京した俺は職を転々としたあと、結局は印刷工場に落ち着いて、そこで女房と出会ったんだ。嫌でも俺の体には工場勤めのDNAが刻み込まれている。だから人を見たら工場勤めの人間かどうかはほとんど一発で見分けがつく。そりゃそこで何を作っているのかまでは分からないけど。
ちょっと大きい工場なら必ず一人はいる、工場に住みついた仙人のような老人だった。人間より機械を眺めている時間の方がよっぽど長いであろう工場仙人は、仕事帰りに街中で幸運を運んでくれるとても珍しい伝説上の動物に出会ったみたいに俺の顔を見ていた。
でもその幸運は期待倒れだったらしい。知らず知らずのうちに油の染み込んだシワの中に仙人の歓喜は沈んでいって、最後に俺を見る目はむしろ軽蔑の感情が込めらていた。鉄のボルトとナットを見つづけてきたその瞳は、俺にこう言ってるように思えた。
「ほんとあんたにはガッカリだよ。あんたはわしたちの希望の星だった。英雄だったんだ。でも本物のあんたはただの臆病者だったってわけだ。せっかくパラレルワールドからお誘いが来たっていうのに、あんたには一歩踏み出す勇気すらなかった。パラレルマンからの誘いを断っちまった。運が良けりゃ、次はわしの番だったかもしれないのに、そのチャンスをあんたはぶち壊しにしてくれた。もうこれに懲りて、パラレルワールドの金持ちたちは、わしらの世界には誰もやって来なくなるだろうよ」
仙人、あんたの言うとおり。俺は勇気なんて持ち合わせてない。でもさ、どうやってこの世界に女房一人残して、自分だけパラレルワールドに行けるって言うんだ?俺と彼女は同じ印刷工場で三年間一緒に働いてたんだぜ。それがどんな意味だか、あんたなら分かるだろ、工場仙人。
「ああ、分かるとも。よーく分かる。だから言わせてもらうけどな、あんたはとんだ阿呆だぞ」仙人は言う。「そのために行くんじゃないか。それともなにか、この先、あんたが奥さんを幸せにできるって保証でもあるのか?」
工場仙人が言ってることは的を得ているところもあったけど、間違えてることの方が多かった。
最初の一ヶ月、たしかに俺はみんなの英雄であり救世主だった。それは正しい。てっきり俺はパラレル社の代理店から情報が漏れたんだろうと思っていた。道ゆく人たちは誰もみな俺に握手を求めたし、笑顔を振りまく人たちに肩を叩かれ、通りでハグし合ったものだった。どこへ行くにしたって俺のまわりにはすぐに黒山の人だかりができた。マスコミの論調ですら好意的だった。仕事帰りに混んだ電車に乗っても乗客たちは競い合うように座席を譲ってくれたし、女房と一緒に飲食店に入れば決まって一番いいテーブルに案内された。日曜日に工場仲間と野球をしようとするものなら、区民グランドの周囲にはプロ野球のキャンプ地ぐらいの群衆が集まったものだった。
みんながみんな、次は自分の番だと考えてたみたいだった。庶民が夢のパラレルツアーのチケットを手に入れる。しばらくの間、俺は彼らにとって御利益がある、生きた御守りみたいな存在のように思われていた。俺がパラレルマンからの誘いを断る宣言をするまでは。
仙人、せっかくだけどあんたの夢は叶わない。俺がパラレルツアーの契約書にサインしようとしまいと、そんなことは最初から関係がないんだ。
あんたのパラレルマンは大金持ちかもしれない。でもそのパラレルマンはわざわざパラレル社の口座に大金を振り込んでまで、あんたと入れ替わりたいとは思わないだろう。そうするだけの理由がどこにもないんだから。だから仙人、あんたのパラレルマンはあんたを迎えには来ないんだ。
庶民の生活に憧れて街にでた世間知らずの王女様だって、いつかは公務に戻るし、あれは映画の中のおとぎ話。俺のパラレルマンが俺と入れ替わりたいと言ってきたのは、べつに奴が庶民の生活に憧れたからってわけじゃない。奴には奴の考えがあってのことだったんだ。ただその考えっていうのが世間知らずの王女様よりちょっとぶっ飛んでた。
奴はイカれてる。俺のパラレルマンは映画や小説の中の物語を地で行こうとしてる。本気で時間を巻き戻そうとしてるんだ。
自分と同じ顔をした人間と向かい合うのはそれほど奇妙な体験じゃない。それは鏡を覗き込むのとそう変わらない。
本当に奇妙なのは、その自分と同じ顔をした人間が、自分と同じ声で、自分とはまったく異なった考えを口にだして喋りはじめるときだ。
当初からどうして工場勤めの男と入れ替わりたいと思っているのか疑問に感じていた俺は、パラレルワールドから着信があるたびに奴にその理由を問いただしたけども、奴はなかなか本心を語ろうとはしなかった。それよりいかにこの交換条件が両者にとって有意義なものかをとくと俺に説明してみせたりした。奴の貯金残高は俺がリアルに想像することができる額を遥かに超えていたし、奴は奴で、新しい世界に身を置くことによって創作上の新たなインスピレーションを得ることができるらしかった。
印刷以外の創作活動をしたことがない俺に向かって、創作上のインスピレーションがどうのこうの言ったとこで大した効果はないし、作家のスランプにしたって、俺に理解できるのは、日によって工場の機械の調子が変わるぐらいの例え話の範囲だ。
それでも正直に言えば、奴の財産が魅力的でないはずがなかった。悪魔のささやきが耳元で聞こえてきそうだった。ネット上でパラレルツアーの契約書にサインさえすれば、法律上はそれはそっくりそのまま俺の財産にもなるんだ。もしも女房同伴でいいっていうんだったら、すぐにでも俺はサインしたかもしれない。たとえ奴が、俺のパラレルマンが、本当はなにを企んで俺と住む世界を交換したがっているのか知らなくても。
「本当のことを話そう。君は知る由もないだろうけど、君は特別なんだよ。それも凄く特別なんだ」
まだ俺が街の英雄だった頃、奴がスマホの画面の中でとうとう言った。
その夜、奴は白い部屋のパソコンの前で『アビーロード』のTシャツを着ていた。あちらの世界でもビートルズはビートルズであるらしかった。ただ胸のプリントをよく見ると、横断歩道をわたるメンバーの順番が俺の知っている『アビーロード』とは違っていた。御法度だけど、もしそのレコードをこっちの世界に持ってこれたらきっと高く売れるだろう。
「もし俺が特別なら、あんただってそうだろ。俺たちは並行世界に暮らす同じ男なんだから」
俺は仕事帰りの公園のベンチで言った。女房の前でスマホは開かないというのがこのところの俺の原則だった。
「いいや違うんだ」奴は言った。「君だけは違うんだ。君は、あるいは君が暮らす世界は、エラーなんだよ。だから君は誰とも違う。だから僕は君と入れ替わりたいんだ」
「分からないな。どうしてわざわざエラー男と入れ替わるんだ。あんたがやろうとしてることは、俺にしてみればほとんど自殺行為に思えるけどな」
「逆だね。僕は今まさに生きようとしてるとこさ。僕はね、ありとあらゆるパラレルワールドを捜したんだよ。そしてやっと君を見つけたんだ。僕は何百人ものもう一人の自分を見てきたよ。でも君だけだった、彼女と結ばれた男は。彼女は僕の運命の女性なんだ」
「運命の女性?それって女房のこと?あんたは俺の女房を運命の女性って言うのか?」
「そうだよ。ほかに誰がいる」
「そんなこと言って、俺がそうですか、はい分かりましたと言うとでも思ってるのか?」
「いいや、自分からは言わないだろうね。ただ君はそう言わざるを得なくなるんだよ、そのうちね」
このとき俺はようやく察しがついた。俺の情報は漏れたんじゃなくてわざとリークされたんだ。恐らく奴とパラレル社によって。
「俺の女房なら、きっとあんたを変態って呼ぶと思うな。いや、ただの変態なら俺だって言われたことがあるから、あんたはたぶんド変態だな」
「そうだね。僕はド変態だ。そして同時に僕はベストセラー作家だ。この世界でも、それからきっと君たちの世界でもね」
そう言う奴の表情はどこか勝ち誇っているようだった。とてもド変態と、自分を蔑む男の顔には見えなかった。
それもそのはずだ。俺の女房は印刷工場で働いてたくせに、本を読むのが大好きだったのだ。俺は自分の間抜けさ加減を思い知った。
ベストセラー作家で大金持ちの男が俺と入れ替わりたいと言う。奴は俺の女房を運命の女性だと言う。果たしてこの状況をパラレル嬢だったらなんと言うだろうか。やっぱり俺は「損をしている」と言うだろうか。俺にはまったく予想がつかなかった。
(つづく)