きみは覚えている
その若者はどこからどう見てもコンピューターエンジニアらしく見えた。そして実際に彼は正真正銘のコンピューターエンジニアだった。しかもその日、その夜、よほどのワーカーホリックでないかぎり、〈世にも不幸なコンピューターエンジニアクラブ〉の会員の一人に違いなかった。
体型はやせ気味で髪は七三分け、黒縁メガネをかけ、グレーの作業服の上に夜間外出のための防寒用ジャンバーを着ている。片手には鈍い銀色したアタッシュケースをぶら下げ、ちょうど電気工事人と銀行員が混ざったような感じ。それは偶然にも、市役所勤めの公務員だったハザマ氏(45歳・男性・既婚者)の父親の若かりし頃の風貌によく似ていた。
それこそが狭間業界の狭間業界新聞に勤務するハザマ氏が、45分前に頭の中で思い描がいたコンピューターエンジニアの想像図だった。そして都会の夜の冷気にメガネのレンズとアタッシュケースを白く曇らせながらオフィスに入ってきた若者は、見事に氏の想像と合致していた。いいやそれどころか、ハザマ氏の頭の中から抜け出てきたみたいだった。そのせいで氏は一瞬、若者をコンピューターエンジニアとは思えなかったのだ。まるで自分の思い描いた幻想が、在りし日の父親が、時空を超えてオフィスの入口に立っているようだと。若者のあごに生えた短いポートランド風の髭以外は。
「コーヒー飲むかい?温ったかいやつ。なんならピザとシャンパンも頼もうか」
ハザマ氏はオフィスの窓に背を向けながらエンジニアの若者に尋ねた。ちっとも急いでなんかいないように。でも実際のところ氏は急いでいた。それもかなり。だからこそわざわざエンジニアを電話で呼び寄せたのだ。
イブの夜だった。都心にある雑居ビルの九階に入っているオフィスの窓には、今夜、氏が目にはしたくない光景がいくつも映っているのに違いなかった。ハザマ氏はわざと窓に視線を向けないように、そこに背を向けて話をした。
外は寒いし、オフィスには二人切りだし、壁の時計はもう九時を回っていた。それこそエンジニアの若者の〈世にも不幸なコンピューターエンジニアクラブ〉の会員資格の条件だった。そしてハザマ氏はオフィスのコーヒーメーカーでタダで飲めるコーヒー以外に、なにかしら個人的な誠意を、その夜にかぎっては若者にみせる必要があった。つまりそれが氏の口にしたピザとシャンパンだったわけなのだが、じつのところマンションのリビングで待っている夫人のことを考えて、ハザマ氏自身はピザもシャンパンもできるだけ遠慮したい気持ちでいた。
ただ若者にも似たような事情があったのだろう、ハザマ氏の申し出に対してエンジニアの彼は「あ、ピザとシャンパンは結構です。作業に差し支えますし、オートバイで来ましたから。コーヒーだけありがたく頂きます」と、いたって率直に答えた。
すれ違ったとき、若者は懐かしい古風なオーデコロンの匂いがした。ハザマ氏の鼻先をくすぐるような。氏は直ぐにその若者に好感をもった。
ハザマ氏はオフィスの隅にあるコーヒーメーカーの前で二つの紙カップにホットコーヒーを注ぎながら考えた。
もしかしたらエンジニアの彼もガールフレンドと約束があったのかもしれない。そうでなければ賑やかなパーティーの予定とか。どちらにしろそうなると私はぜいぶん無理難題なお願いをしてしまったことになる。そりゃ誰だって暗い雑居ビルで見ず知らずのオッサンとピザをパクつくよりは、一分でも早く待っていてくれる人のもとへ帰りたいと思うのが人情だ。なんたって今夜はイブなのだから。
デスクでは脱いだジャンバーを同僚の椅子の背に掛けたエンジニアの彼が、ご機嫌を損ねた子供みたいに言うことを聞かなくなった氏のデスクトップパソコンの診察をはじめていた。
ハザマ氏はその横にコーヒーの入った紙コップを置いた。若者は画面に視線を向けたまま「ありがとうございます」と言って一口だけ唇にあて、また指をキーボードへともどした。
さっきまでウンともスンとも言わなかったパソコンの画面に、狭間業界新聞社の平社員であるハザマ氏には到底理解できないコンピュータープログラムの羅列が、若者の両手の指の動きに合わせて次々に映し出されては消えていった。
氏はホッと胸をなでおろして、エンジニアの背中を頼もしそうに眺めながら自分でもコーヒーを一口味わって思った。私もじきに家に帰れるだろう......彼のあの調子なら。もしかしたら待ちきれない妻は、先にベランダに立って私を出迎えてくれるかもしれない......。
遅筆とサウナ好きで業界では有名な劇作家から原稿メールが届いたのがちょうど一時間前。あとはそれを校正して印刷所にメールで送信すればいい手筈だった。急げば予定の時間までには家に着く計算だった。
一安心したハザマ氏はデスクを離れて、その日最後の仕事にとりかかる前に温かなコーヒーを入れるためにコーヒーメーカーの前に立ったのだ。しかし湯気の立つ紙コップを手に戻ってきたとき、三文作家の原稿を開いていたはずの氏のパソコン画面は、電源を切ったように真っ暗になっていた。そしてふたたび電源を入れ直してみても、ハザマ氏には意味不明な文字の羅列を一度表示した切りウンともスンとも言わなくなってしまった。
印刷所への入稿の〆切時間は刻々と迫ってくるし、普段なら遅くまで残業しているはずの同僚たちもその夜ばかりは皆早々に退社していた。オフィスに残っていたのは劇作家の原稿待ちをしていたハザマ氏一人だけだった。しかも氏にはどうしても予定の時間までに帰宅せねばならない理由があった。
悩んだあげく、氏はこれまでしたことがなかった行動に出た。会社が契約している24時間対応のシステム管理会社に助けを求めたのだ。そうしてやって来たのが懐かしいオーデコロンの香りを漂わせ、はるばるポートランドからやってきたような若者だった。
彼が操る数字とアルファベットの羅列はハザマ氏には理解できないからこそ価値があり、また意味があると思われ、やがてそれが魔法の呪文のように氏のパソコンをふたたび生き返らせるはずだった。なにしろ彼は正真正銘のコンピューターエンジニアなのだから。
だがしかし、好きなレコードジャケットの写真をあしらったパソコンのホーム画面が映し出される前に、氏の目の前でエンジニアの彼の指の動きはピタリと止まってしまい、それに合わせて横並びの呪文の羅列も増殖をやめた。
紙コップを掴んだ若者の手がデスクに肘をつき、あごの髭を撫でた。ハザマ氏の目に彼のあご髭は精神集中の御守りみたいに映った。ただその御守りの御利益はあまりなかったらしく、ふたたびキーボードの上を動きはじめた彼の指はすぐにまた止まってしまうのだった。
ハタから眺めていても作業が上手くいっていないのが分かった。雑居ビルごと暗くて寒い夜の海の座礁へ乗り上げてしまったみたいだった。ハザマ氏は壁の時計に目をやったあと、窓の外に視線を移すのをどうにか我慢した。
「もしかしたら今流行っている新種のコンピューターウイルスに感染した可能性がありますね。最後にメールを開いたのはいつですか?」
エンジニアの彼が率直に尋ねた。ハザマ氏はすぐに劇作家の原稿メールを思い出した。
奴だ、奴のメールだ......あのヘッポコ作家め、遅れに遅れたあげく、余計なクリスマスプレゼントまで送ってよこしやがった......。
ハザマ氏はエンジニアにこれまでの状況を説明してから尋ねた。
「修理が上手くいったとして、時間はどれぐらいかかるかな。じつはこのあと大切な約束があってね。遅れるわけにはいかないんだ」
「じつは僕にも約束があるのです。ただ少々遅れるぐらいならかまわないのですが。でもそういうお話でしたら、ここは一つ最新のウイルス対策プログラムを試してみましょう。上手くいけば、そうお時間はとらせません」
「ぜひ頼むよ」
話がまとまると髭の若者は銀のアタッシュケースを開いて黒い革表紙の小さな手帳をとり出し、栞を挿したページを開いた。そうしてまるでミサにでも参列するようにこうべを垂れ、作業服を着たエンジニア界の神父よろしくコンピューターに向かって語りはじめた。
「きみは覚えている。小学生の頃に一度だけあった冷夏の夏休みを」
両手に持った小さな手帳に視線を落として、若者はコンピューターとの対話をつづけた。
「きみは覚えている。その夏休みには楽しみにしていた学校のプールが毎日休みになってしまったのを。それでも曇り空を見上げながら、きみは毎朝なぜかウキウキしていた」
「きみは覚えている。夏休みに父親の田舎に帰省したとき、親戚のお兄さんが運転するオートバイのうしろに乗せてもらったのを。それがきみがオートバイに乗った初めての経験だった。でこぼこした田んぼのあぜ道を風を切って走った」
「きみは覚えている。夏休みの最後の一日で、学校に提出するひと夏分の日記をでっち上げてしまったのを。それは(あったかもしれない)もう一つの夏休みの記録だった」
「きみは覚えている。夏休みの最後の一日が、小学生のきみにとって一年で一番忙しい日だったのを」
「ゴホン、ゴホン」
ハザマ氏はわざとらしく咳き込み、貧相ではあってもここが会社のオフィスであることをエンジニアの若者に思い出させようとした。ついでに今が小学生の夏休みではなく、季節だって冬であることも。
「きみの夏休みは思い出で一杯のようだね」氏は優しく語りかけた。「でも今夜はせっかくクリスマスイブなんだし、どうせだったらクリスマスの思い出を話してやったらどうかな。まぁ、どっちにしてもコンピューターにとっては同じことだと私は思うけどね」
「すみません、べつにフザケてるわけではないのです」若者は手帳から視線を上げてこたえた。「じつはこれが最新式のウイルス対策なんです」
「それがウイルス対策だって?私の目には、きみがコンピューターに向かって何か話しかけてるように見えたがね。あれはなんというんだったかな.....日記のような、物語のような......」
「詩です」
「そうだ、それだ。きみはまさにコンピューターに詩を聞かせていた。そうだね?」
「ええ、仰るとおりです。僕はコンピューターに詩を聞かせていました」
「ふむ、よろしい。それでだ、さっき私が言ったことは覚えてくれてるかな?私はね、時間がないと言ったんだよ。聖夜の教会は待ってはくれないんでね。今のは一つのメタファーだけど」
「お気持ちはよく分かります。クリスマスイブに約束があるのは、世界にあなた一人だけというわけではないですから。僕にだって行くべき教会はあるのです。もちろん今のもメタファーです。ですが一分でも早く帰りたい気持ちは僕も一緒です。どうか僕を信じてください。そしてできたら協力をお願いします。それがあなたと僕が時間どおりに教会へ到着できるベストな選択なのです」
ハザマ氏は目を瞬かせた。氏にはもう一杯の熱いコーヒーが必要だった。ただし今度のはミルク抜きのブラックで。なんならシャンパンも。
ハザマ氏はまったく思いもしなかったところでその夜に相応しい命題を与えられてしまったのだ。日常では出会うはずのない出来事を信じるべきか否かの。
エンジニアの若者は言った。
「あなたの協力が必要なのです。なぜならこのウイルスを削除するためには、なるべく多勢の人間が自分で作った詩をコンピューターに話して聞かせてやるのが最も効果的だからです」
いかに奇跡の夜の出来事とはいえ、その必然性を判断するには、ハザマ氏はコンピューターにも詩にも不慣れ過ぎた。それで追加の基本的な質問を尋ねてみたのだが、じつのところそうする前に、正確にはオーデコロンの香りに妙な懐かしさを覚えたときから、氏の気持ちはすでに決定付けられていた。ある意味、奇跡はすでに起きていたのだし、それにイブの夜に待ってくれないのは教会だけでなく印刷所だって大差なかった。
十分後、ハザマ氏はポートランド髭の若者と椅子を並べ、意味不明な暗号を表示させたまま凍りついてしまったデスクトップパソコンの画面を見つめながら、お手製の詩を創作するために自分が小学生だった頃の出来事を必死になって思い出そうとしていた。ただし氏が当時の記憶にたどり着くのは容易ではなかった。
「コンピューターに語って聞かせる詩は必ず自分で創作したものでなければなりません」若者はコーヒーを分かち合った教師らしく言った。「題材は空想の出来事でもかまいませんが、できれば現実にあった、本人が経験した思い出深い出来事の方がいいようです。逆にやってはいけないのは他人が作った詩、特に本に載っているような著名な詩人の詩を引用してしまうことです。それをしてしまうと二度とコンピューターが作動しなくなる危険性があります」
「このウイルスはウイルスのくせして盗作がお嫌いなわけだ」
「そうです。なにしろ相手はウイルスでもコンピューターですから。インターネットの世界にはありとあらゆる古今東西の詩が記憶されています。たとえ本人が盗作ではないと言い張ってもたちどころにバレてしまいます」
「どっちにしても結果は同じではないかな。引用しようにも、そのための詩の一行すら私には思い浮かばないんでね。そんな輩が即席で作った詩なんて、古今東西のあらゆる記録を記憶しているコンピューターにしてみれば、まだ盗作するだけの教養があるだけ少しはマシなのではないかな」
「いいえそれは違います。大切なのは上手い下手ではありません。その思い出が、本人にとってどれくらい大切な記憶であるかということです」
「きみはまるでコンピューターに人間のような人格があるかのように語るね」
「あなたもそうですよ」
「ふむ」
さらに若者はつづけた。
「僕が先日お手伝いしたお婆さんは、子供の頃にお兄さんと一緒に作ったクールエイドという粉ジュースの詩をコンピューターに語って聞かせました。それはほとんど詩とは呼べない老婆の長い長い思い出話でしたけども、コンピューターは彼女の思い出に見事にシンクロしてみせました」
ハザマ氏は若者の話を頭の中で思い描いてみようとしたけども、自作の詩がまったく思い浮かばないように、コンピューターに話しかけている老婆の姿も想像することができなかった。そもそも氏はクールエイドなんて粉ジュースはこれまで聞いたことがないような気がした。
「僕たちはそれを〈シンクロ〉と呼ぶのです。コンピューターがユーザーの記憶にシンクロしたと。今こうしている瞬間にも世界中の何万人というユーザーが自分の記憶を詩の形に置きかえてコンピューターに語りかけているはずです。今最先端にいるエンジニアやプログラマーたちは、みんな詩の猛勉強をはじめているところです。僕たちエンジニアが立ち上げた詩のウエブサイトも沢山あります」
「きみたちの仕事は以前とはぜいぶん様変わりしてるようだね。なんだか、きみのことが本物の詩人みたいに見えてきたよ。詩の伝道師とでもいうのかな。髭も生やしてるしね。詩人というのは、だいたいが髭を生やかしているんじゃなかったかな」
若者は自分の髭を撫でながら笑った。ハザマ氏は気持ち良さそうにつづけた。
「もしもコンピューターがきみたちの詩をすべて記録していたなら、きっと世界一長い詩集ができるだろうね。しかもそこに載っている詩はすべて〈きみは覚えている〉ではじまるわけだ。おまけに作者はすべて無名の庶民ときてる」
「あなたもだんだん詩人らしくなってきたようです」
「このウイルスを発明したハッカーは文学カブレのインテリゲンチャなんじゃないかな。まるで人とコンピューターを詩と言葉でもって結びつけようとしているみたいだ。〈きみは覚えている〉ではじまる詩なんてまったくキザだしね」
「どうして私たちの唱える詩が〈きみは覚えている〉ではじまらなければならないのか、それはご自分で三回唱えてみれば分かりますよ。これは魔法の呪文なんです。この言葉を三回唱えれば誰だってアマチュアの詩人になれるんです」
若者はハザマ氏の目を覗き込むようにしてつけ加えた。「ゆっくりとね」
それで氏は半分疑るようにおもむろに口を開いたのだが、おかげでついうっかりと窓の外に視線をやりそうになってしまった。氏はなんだか妙にそわそわした気持ちで、自分の言葉を他人のように耳にしながら、言われたとおりにゆっくりと三回唱えてみた。
「きみは覚えている......きみは覚えている......きみは覚えている......」
デスクの上にコトンと音がした。誰かが紙コップを置いていったような気がした。ただハザマ氏がそこに視線を向けたとき、その誰かの姿はどこにもなかった。雑居ビルのオフィスに見慣れた無人のデスクが平然と並んでいるだけだった。
ハザマ氏の紙コップはデスクに一つしかなかった。飲みかけのコーヒーが入っているはずのその紙コップを氏は手に取ってみた。
中に人工的な赤い色の液体が入っていた。けれど氏は不思議となにも躊躇することなく、それに唇をつけた。フルーツのような味がした。クールエイドのチェリー味。
「そろそろはじめますか」エンジニアの若者が言った。「準備はよろしいですか?」
ハザマ氏はもう一度紙コップの中を覗いてみた。今度そこに見えたのは褐色のコーヒーだった。けれど氏の舌には、子供の頃に駄菓子屋に行って、半ズボンのポケットから取り出した何枚かの十円玉で買った懐かしい原色めいた味が残っていた。
「いいよ」ハザマ氏は若者に言った。「私にもなにか思い出せそうな気がしてきたよ。特に面白くもない中年男の思い出話になりそうだけど、一つコンピューターにもお付き合いしてもらおうかな」
クリスマスイブの夜、都会の通りではいたる場所で年に一度の大渋滞が起きていた。通行人は足を止め、車は歩道に寄せて、野良猫たちでさえ公園の隅に集まって一斉に動くのをやめていた。
ただこの夜にかぎって人々が眺めていたのは、広場に飾り付けされた大きなクリスマスツリーや、東京タワーや並木通りのイルミネーションというわけではなかった。
イブの夜に人々がイルミネーションの周りに集まり渋滞や行列を作ったのはすでに過去の出来事だった。少なくとも都会の街では。そこで暮らす人々は、今ではイブになれば街のイルミネーションではなく、星空のイルミネーションを眺めるために足を止めるのだ。
それは年に一度、都会のクリスマスイブにだけあらわれる天の川だった。ただし本物の星ではない。それは郊外の巨大配送センターから、都会に暮らす人々に向かって一斉に飛ばされたドローンの群れなのだ。クリスマスプレゼントを積んだ何万機というドローンが、小さな無数のプロペラを忙しく回し、LEDライトの信号をチカチカ点滅させながら都会のビルの上空を渡り、記憶されたそれぞれ顧客の家々へと遠く旅してゆく。
その光景は地上から見上げると、あたかも冬の夜空に突然出現した動く天の川のように見えるのだった。
夜風がいつもより何倍も刺すように冷たかった。ハザマ氏はエンジニアの若者が運転するオートバイの後部シートに乗っていた。氏が頭にかぶっているのは、若者のガールフレンドのためのヘルメットだ。二人が乗ったオートバイは渋滞している車の列の横をスイスイと進んでいった。
彼らが雑居ビルで語ったいくつもの詩はついにハザマ氏のパソコンとシンクロして、その画面にふたたび氏お気に入りのレコードの壁紙を飾ることに成功したのだったが、時すでに遅しで、約束の時間に遅れそうなハザマ氏を気の毒に思った若者が、オートバイで家まで送ってくれることになったのだった。
そんなわけで慣れない乗り物に跨ったハザマ氏は、その後部シートで若者の体に必死にしがみ付いているところだった。
脇の歩道では道ゆく人々が足を止め、停めた車の窓からは人々が顔を出し、みな嬉しそうに都会の動く天の川を見上げていた。去年まではハザマ氏も彼らのうちの一人だった。残業帰りに足を止め、星空を仰いだものだった。でも今年のクリスマスイブは違った。今年の氏は見学者から当事者になっていたのだ。つまり冬の夜空を渡る何万というドローンの中に、ハザマ氏夫婦がチャーターした一機が飛んでいるわけだった。
それは何万分の一の幸運だった。クリスマスイブのドローンをチャーターできるのは。一年前に予約して、なおかつ抽選で選ばれなければならない。
本好きの夫人にハザマ氏はツリーハウスの絵本を買い、レコード好きの氏に夫人はアメリカの州に因んだレコードを買った。二人のクリスマスプレゼントを積んだ記念すべき人生初の二人のドローンは、北極星のように夜空に輝きながら、二人が暮らすマンション目がけて飛んでくるはずだ。ハザマ氏と夫人はベランダで毛布に包まりストーブにあたりながら、ホットレモネードに舌鼓をうちつつ、それを待つ計画でいたのだ。そうして二人のドローンは、なにかしらのトラブルに巻き込まれないかぎり、ほぼ時間どおりに到着することだろう。
だからこそハザマ氏は遅れるわけにはいかなかった。だからこそ窓の外にも目をやらなかった。ドローンの光を見るのは、マンションのベランダからと朝から決めていたのだ。
けれどオートバイが都会の喧騒を抜け、広い一本道に出るなり急に視界が開けたとき、ついにハザマ氏は夜風の誘惑に負けてしまい天を仰いだのだった。そして夜空に一本道と同じ方向に進んでゆく天の架け橋を見てしまったのだ。
ただしハザマ氏は少しも後悔はしなかった。むしろ氏は喜んだ。なぜなら自分がエンジニアの若者とよく似た記憶を持っていたことをようやく思い出せたから。
それはやはり冬の日、市役所勤めの父親がどういう気まぐれか、同僚が通勤に使っているらしいスーパーカブを借りて、自宅まで乗って帰宅した夕方の出来事だった。父親はまだ小学生だったハザマ氏をうしろに乗せると田舎道をスーパーカブで走り出したのだ。すぐに日は暮れて、空には満天の星空が広がった。ちょうど今見上げているイブの夜空のような。
いつか家で使っているパソコンがウイルスに感染してしまったら、あの冬の夜のことを詩にしよう。それから今夜のことも......。
ハザマ氏は若者の背中のうしろで星空を見上げながら思った。
そのとき私は今度はきっと妻と一緒に、ゆっくり三回唱えることだろう......きみは覚えている......きみは覚えている......きみは覚えている......
おしまい