イヤホーン占い
国家公務員、榊原ユズルはチャーハンと電子音楽をこよなく愛する男であった。
新妻の波子はチャーハンが得意だった。彼女は三鷹にあるラーメン屋の看板娘だったのだ。ユズルは子供の頃からの大好物を今では好きなだけ食べられる環境にあった。
ただ、波子の方はユズルの愛聴する電子音楽はまったくうけつけなかった。彼女に言わせれば、それは身の毛もよだつような騒音なのだそうだ。ちょうど黒板を爪で引っ掻いたような。
そんなわけで、結婚後のユズルのリスニングスペースは主に通勤と帰宅の電車の中だけに限られていたのだが、それを彼が不便に感じることはほとんどなかった。なにしろ彼はまだ新婚ホヤホヤであり、音楽への愛情よりも、妻への愛情のほうがずっと大きく、また真新しいものであったからだ。
彼の悩みはただ一つ、しょっちゅう絡まる彼のミュージック・プレーヤーのイヤホーンのコードのみだった。
朝の通勤時間が貴重なものであることはサラリーマンやOLなら誰しもが心得ている。それはタイムカードを押す前に残された最後のプライベートな時間であるからだ。だが、ユズルのイヤホーンは毎朝決まって哲学的次元にまで絡まっているのだった。下手をするとそれを解ぎほぐしているだけで、ゆうに一駅分の時間がかかってしまう。
ユズルは不思議でならなかった。ただ普通にスーツのポケットにしまっているだけなのに、なぜこうも自分のイヤホーンはこんがらがっているのかと。まるで自分の見ていないすきに、コードが生き物のようにポケットの中で這いずりまわっているかのようだ。
「これはいけない。あなた受難の相がでていますよ」
ある朝のできごとだった。満員の電車の中で男がユズルに言った。それは一種の予言であり、忠告でもあったのだが、彼の耳にその言葉の響きはとどかなかった。
それはいつものようにユズルがイヤホーンのコードと格闘している真っ最中であったということもあったのだが、なにしろ彼はまだ新婚ホヤホヤの身分であって、そのこんがらがったコードをのぞいては、およそ受難とはほど遠い幸せのただ中にいたからだ。
電車が吉祥寺駅に到着した時、男性は乗客の人波に押されるようにプラットホームの彼方に消えてしまったが、そうなる前にもう一度だけ彼に忠告を発した。ちょうど一駅分の時間をかけてようやく実存主義的にからまったコードを解きほぐすことのできたユズルは、やっと男の声を聞き入れることができた。
「あなた、気をつけて。受難の相が....」
これまで見ず知らずの人間から電車の中で人相占いなどみてもらったことのなかたユズルは、てっきり頭のおかしな乗客がまぎれ込んでいるのかと思ったが、彼の前にいたのは、まるで学者然としたスーツに眼鏡姿の中年紳士だった。
だが、それよりもユズルが一番驚いたのは、その中年紳士が彼の顔ではなく、なぜか彼が手にしたミュージック・プレーヤーの白いコードを一心に見つめていたことだった。
偶然同じ電車に乗り合わせた占い師からなにかしらの相をみてもらうということは、かなり確率の低い出来事ではあるけども、あり得ると言えばあり得る。だがその占い師が、相手の顔や手よりもそのイヤホーンのコードの方を熱心に見つめているということは、むしろ論理的にあり得ない。ユズルが一瞬にして思い描いたことはそういうことだった。
おかしな占い紳士はあっという間に人波に呑みこまれて扉の外に見えなくなった。その姿はたしかに電車通勤にまるで慣れてない学者のようではあった。
ラッシュ慣れし、また新宿で電車を乗り換えるユズルは、上手く人の流れをよんでなんなく車内にとどまった。官庁までの通勤時間は彼にとって貴重なひとときだ。ユズルは何事もなかったかのように早速イヤホーンを耳に入れた。
だが、それから一ヶ月後の週末の晩、ユズルはおかしな占い紳士の存在を思い出すこととなる。場所は吉祥寺駅近くのアーケード通り。その夜、彼はそこからはるばる自宅のマンションのある三鷹まで歩いて帰ることに決めたのだった。踏切事故かなにかで中央線が全線ストップしてしまったのだ。
車内アナウンスが流れる中、ユズルはまだプラットホームに停車している電車を躊躇することなく降りた。バスを利用するという手段もあったが、改札をぬける前に歩いて帰ることに決めていた。
急いで帰宅する理由は今の彼にはもうなかった。気分転換が必要だった。幸福だったはずの彼の新婚生活は、この一週間で窮地に陥っていたのだ。
金曜日の夜ということもあって、吉祥寺駅周辺は人混みでごった返していた。彼はもう自宅で思う存分好きな電子音楽を聴くことができる身分ではあったが、酔っぱらいたちの奇声を聞く気分でも毛頭なかったので、やおらスーツのポケットからイヤホーンのコードを取り出した。案の定それはこんがらがっていた。哲学的に。あまりに刹那に。
ちょうどその時だった。雑踏の中から彼を呼ぶ声がした。と言っても、名前を呼ばれたわけではなかった。
「あ、そのまま、そのまま。解いてはいけませんよ」
その忠告に反応したのは、通行人の中でユズルただ一人だった。占い紳士を思い出してのことではない。一ヶ月前と同じように、彼はまたしてもイヤホーンのコードのあやとりをしている真っ最中だったのだ。
その厄介なコードを手に、彼は声の主の方に目をやった。そして思い出した。占い紳士はいつかの朝とまったく変わりない出で立ちでいた。ただ、椅子に腰掛け、手前にはいかにも占い師らしい黒い幕の掛けられた机が置かれていた。
紳士はシャッターを下ろした銀行の陰でひっそりと目立たぬように商いをしていた。だが、それでもユズルには一見無秩序な繁華街の人波が、実はちゃんと紳士の机の前だけは綺麗に弧を描くようにして避けて通っているのが直感的にすぐに理解できた。
それもそのはずで、机の黒幕には『イヤホーン占い』とマジックで書かれた張り紙があり、その横には『イヤホーンの絡み方であなたの現在と未来を占います』とただし書きがある。そんなものは週末の酔っぱらいだって相手にするはずがないのだ。
だが、ユズルだけは違っていた。なにしろ彼にはつかの間の出来事であるにしろ、実際に占ってもらった経験があり、さらに悪いことには、その呪われた言葉は見事に的中してしまっていたのだ。
有名大学を卒業し、政府の広報機関に勤める彼の順風満帆めいた人生の中で、それは生まれてはじめて直面する巨大な壁だった。
占い紳士はまねき猫のようにしてユズルにむかって手招いてみせた。ユズルは通行人の目を気にして最初は躊躇したが、すぐに意を決して紳士のもとへ歩み寄った。こうしている間にも彼の結婚生活は暗礁に乗り上げ、状況は刻一刻と悪い方向へむかっているのだから。
「みてもらえますか」
ユズルの放った第一声は、まるで今まさに医師から告知されようとする患者めいた響きがあった。そしてそれに対し、紳士はすべてを了解しているかのように頷いてみせると、背後からもう一つの椅子を取り出し、彼に勧めるのだった。
ユズルは供え物をするかのようにイヤホーンのついたミュージック・プレーヤーを仰々しく差し出した。紳士はガラス細工を手にするかのように、さも慎重そうに受け取った。ただ、二人のどこか儀式めいたやり取りは通行人たちにははなはだ関心が薄いもののようだった。二人のまわりには野次馬一人立たなかった。
「どんなもんでしょうか」
ユズルは尋ねた。ペットの診察をしてもらっている飼い主みたいに。紳士は彼の目の前で「ウム、ウム」と一々頷きながらイヤホーンのコードを右から左へ、上から下へとつぶさに調べていった。もっとも、いったいどこをどう調べているのか、ユズルにはまったく理解できなかった。しかし、それは彼にとってはどうでもいいことだった。重要なのはあくまで『答え』であって、その過程ではなかったからだ。
だが、答えはすぐには出なかった。ユズルははっきりとは記憶していないにもかかわらず、今夜の紳士はいつかの朝よりもずっと手間取っているような気がしてならなかった。そう言えば、イヤホーンの絡み具合もいつもにも増してその複雑さを強固なものにしているように見える。ほとんど曼陀羅模様か、DNAの螺旋模様のようにまで悪化している。きっと、すべての結び目を解いだ頃には、家のマンションの建物が見えていたのではあるまいか。そして、悲しいかなその窓に、暖かな灯りはこぼれてはいない。ちょうど今の彼の心のように.…。
おそらくこれまでの人生の中で、イヤホーンのコードをこんなにも長い間見つめていたことはなかっただろう。そのせいか、ユズルの目にもそれがただのコードではなくて、まるで己の分身のごとく見えはじめた頃だった。ようやく占い紳士が口を開いた。
「あなた」
紳士は自分の導き出した答えに驚いたように言った。そして、それから周囲の耳を考慮して、ささやくようにユズルに耳打ちした。
その言葉に反応して、ユズルの顔はすぐに赤くなってしまった。本当のところ、誰にも知られたくなかったのだ。紳士は遠慮がちにこう告げたのだった。
「もしや、奥さんに逃げられましたね」
「なんでわかったんですか」
おそらくこれまでも何度か同じような問いかけを受けてきたのであろう。紳士は、ユズルの質問にとっておきの例え話を用意しているようだった。氏は得意げに頷いてからそれを披露した。
「シャーロック・ホームズはご存じですか」紳士は言った。「かの名探偵シャーロック・ホームズは依頼主の靴を見ただけで....」
ユズルはポカンとして聞いていた。彼はサスペンスや推理小説の類は子供の頃からまったく受けつけない体質だったのだ。紳士の言葉が彼の耳よりも、その開いた口のほうに引き寄せられているのは、占い師でも探偵でなくてもすぐに察しがついた。
紳士はしかたなく二番目の例え話の力を借りることにしたらしかった。ただ、そちらの方はあまりお好みではないようだった。
「動物園の猿はご存じでしょう」氏の口調はいくぶん投げやり気味になっていた。「私たちには、群の中にいる猿たちの顔は区別がつきませんね。しかし、動物園の飼育係にはそれが人の顔と同じように、一つ一つの個性を持った違った表情として見えているはずです」
今度はユズルにも紳士の言わんとしていることが呑み込めた。つまり氏は、イヤホーンのコードを動物園の猿たちに例えているのだ。氏は話をつづけた....。
「今の仕事を始める前、私は長い間、中堅のオーディオ機器メーカーでイヤホーンやヘッドホーンの設計に携わっていたんです。これまで私は何万本もの絡まったコードたちを手にとって見てきたんですよ。知り合いの修理屋にも、持ち込まれたオーディオ機器の蓋を開けただけで、持ち主の職業や性格がすぐにわかる技術者が何人もおりましたけど、私たちのような技術屋は、みんな人間どうしの交わりよりも、オーディオ機器との付き合いの方がずっと長いような生活を送ってきてるわけです」
占い紳士の話は一般の人々には、にわかに信じがたいものだったが、ユズルにはそれが半ば同業者の内輪話のように聞こえるのだった。
ユズルは毎日毎日、『〇〇白書』といった政府が刊行する書籍類と何時間も睨み合いをしていた。その一つ一つのページから誤字や脱字、文法的な誤りを見つけだすのが彼の主な仕事だったのだ。
それはまったくの単純作業ではあるのだが、一字一句の違いが、時に関係省庁のトップの首を飛ばすこともあったから、否応なしに神経を使う仕事でもあった。
「文章を追ってはいけない」それが彼の先輩の口癖であり、彼の部署の鉄則でもあった。文章を読んでしまうと、どんなに熟練した職員でも簡単な誤字すら見逃してしまうことがあるからだ。読むのではなく、書面を一枚の絵として眺める。そうすると、文章のつながらないおかしな箇所だけが、パズルの食い違いのように、そこだけ浮かんで見えてくる。ただ、そうなるまでにはやはり長年の鍛錬を必要とした。ユズルのような若手の職員にとって、目薬とビタミン剤は毎日の生活に欠かすことのできない常備薬であった。
そんなわけで、彼には紳士のかつての仕事と、自分の今のそれとが、どこか共通している部分があるように思えてならなかった。おそらくは、かの名探偵が関わった難事件も。
「それで、僕はこれからどうすればいいでしょうか」
ユズルはようやく本題に入った。当然のこと、彼が本当に知りたかったのは占い紳士の素性ではなくて、彼自身の将来のことだったからだ。しかしそうなってくると、占い紳士に彼の仕事や性格が分かるとしても、そこからどうやって未来のことを当ててゆくのか、まだ疑問は残った。いかに熟練の技術者とはいえ、イヤホーンのコードが未来まで語りかけてくるとは思えない。
すると紳士は、ミュージック・プレーヤーごと彼に返して言った。
「これをもう一度あなたのポケットに入れてください」
ユズルは絡んだままのコードをスーツのそこへ押し込んだ。紳士はつづけた。
「あなたの知りたいことは、奥さんとの関係ですね。どうすれば奥さんと鞘をもどすことができるか」
ユズルは頷いた。
「それでは目を閉じて奥さんのことを考えてください。あなたは奥さんのことを心から愛していますか」
ユズルもう一度同じように頭を振った。
それからも占い紳士の似たような夫婦愛に関する質問がつづいた。ユズルはいくぶんこそばゆかったが、やっと本当の占いを受けているような気分がしてきた。
「目を開けてくださってけっこう。イヤホーンを取り出して、そのまま机の上に置いてください」
最後の質問に頷いてみせると、占い紳士が言った。ユズルはほとんど催眠術にかけられていたような面もちでふたたびポケットに手を入れた。そして彼をさんざん悩ませつづけてきたそれを麺の玉みたいに掴んで机に置いた。
嘘のようにコードの絡みが解けていた....。
ユズルの耳には軽快なテンポのテクノ・ミュージックが流れていた。灯りのついていない我が家の窓はもうすぐ見えてくる。はたして、占い紳士がどんなトリックを使ったのか、それともユズルの体と心の作用が彼のイヤホーンのコードにマジックをおこしたのか、知る由もなかったが、それはやはりどうでもいいことだった。今や彼はしっかりとした答えを受け取っていたからだ。
『自分と妻との戦いの時は、迷わず妻の側につくべし』それが一本のコードから占い紳士が導き出した答えだった。
波子には電子音楽以上に嫌いなものが一つあった。それは一種の家訓のようなものですらあったのだが、彼女の家族は全員、区役所の職員から大臣にいたるまで、およそ公務員と名のつく人間が大嫌いだったのだ。特に政治家や官僚たちは彼らにとって虫ずの走るような存在らしかった。
というのも、波子の家族は三鷹に移る以前には、長らく下北沢の地で店を営んでいたのだが、新たな環状道路の建設計画にともなって、なかば強制的に移店させられたという家系図的な苦い経験があったのだ。
そんな事情はつゆ知らず、チャーハン好きの国家公務員ユズルは足げく店に通っていたのだが、実家の手伝いをしていた波子の目には、彼はいつもチャーハンしか注文しない、客の中で一番仕事に疲れている男のように映っていたらしかった。
チャーハンはいいとして、そんな疲れ果てた男と、波子がどうして付き合ってみる気になったのか、それはそれで謎ではあるけれど、彼女の公務員嫌いに関しては、結婚前にもう少し二人の間で突っ込んだ話し合いがあってよかったと、今になってユズルも後悔はしていた。なにしろ波子が家を出ていってしまったのは、官僚の天下り問題をテーマにしたTVのワイドショーを見ていたおり、つい彼が官僚の側を擁護するようなことを口にしてしまったのが発端になっていたからだ。
ああ、おいしいチャーハンが食べたい。吉祥寺のおしゃれな中華店の前を通りすぎた時、ユズルは思うのだった。波子が家を出ていったきり、彼はまるで妻に操をたてるかのようにずっと『チャーハン絶ち』をしているのだ。
もしかしたら本当に今の仕事を辞めなければならないかもしれないな、ユズルはそう感じはじめていた。チャーハンと引き替えに。いいや、妻の波子のために。
じつは彼女と出会った当初からその予感がよぎることはこれまでも何度かあったのだが、深く考えないようにしていたのだった。なにしろ、ずっと机の前で人生を過ごしてきたようなユズルにとって、それはかつて経験したことのない、まさに未知の領域だったからだ。
けれど、今晩の彼の頭は解けたコードのように以前よりも大夫柔軟になっていた。たとえどんな結果が待っているにしろ、自分の好きな人となにか新しいことがはじめられるのはむしろ喜ばしいことなのではあるまいか、そう感じられるようになっていたのだ。
例えば仮にそれが、テクノ好きのラーメン屋の出前持ちであったとしても….。