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仮名小説#5ノーペット、ノーライフ

街の方角から昇ってくる潮風が木立を揺らし髪を優しく撫でた。すでに日は暮れようとしていた。それなのに雑草が生い茂るだけの寂しい丘に腰を下ろして、黒い林の影の向こうに碁盤の目のように広がった街の灯りを見下ろしながら、坂下ススム(芸名・47歳・タレント俳優)が、一人思いを馳せているのにはそれなりの理由があった。


「あなたに家は買えませんよ」

ある夜、タクシードライバーが穏やかな口調で言った。

テレビ局から自宅マンションへのいつもの帰り道。坂下は興味深そうに窓外から運転席へと視線を向けた。はじめて見る、いつもより若い運転手だった。

今まで散々「本当に家を買うんですか?」とか「どうしてこの間の家は買わなかったんですか?」やらの質問は聞かされてきたけども、「あなたは家を買えない」なんて言われたことは一度もなかった。

これには、視聴者に話しかけられてもいつも笑って無視を決め込むことにしている坂下も、毒舌家として活躍している彼の毒舌タレントとしてのプロの血が、若干騒いだ。しかもそれを言ってきたのが、サービス業に携わる人間だったものだから余計に面白い気がした。疲れてはいたけども、家に着くまでの暇つぶしにはいいかもしれないと思った。もしかしたら次の収録のネタに使えるかもしれないし......。


「買えないんじゃなくて、買わないんだよ」

坂下はバックミラー越しに冗談ぽく言ってみせた。運転手は大人しそうな顔をした歳下の男だったけども、彼に挑発するように答えた。やはり坂下が出ている番組のファンらしかった。

「まさか買ったら番組のコーナーが終わっちゃうからなんて言いませんよね?」

「まあ、それも正直ちょっとあるけどね。でも本当に気に入った物件があったらすぐに買うつもりだよ。セカンドハウスが欲しいのは事実なんだ」

「でも先週の放送で紹介されてた箱根の物件なんて良かったじゃないですか。すごく買いたそうでしたよ」

「ああ、あれは確かに良かったね。ただ駐車場がなかったんだ」

「その前の熱海の物件も良かったじゃないですか。旅館みたいな造りの。ペットも大喜びだったし」

「うん、そうだね。でもセカンドハウスにはちょっと広過ぎた。俺は独身だし、連れはペットだけだから」

「でもペットって、あれが5匹でしょ?」

「あれって言うなよ。5匹でも旅館は広すぎるよ」

「外房の物件はどうしてダメだったんでしたっけ?寝室のベッドから太平洋が一望できる」

「よく観てるな。うん、あれも良かった。ただ渋滞がひどくてさ。シーズン中はもっと混むらしい」


もちろん真実ばかりを話す必要はなかった。お互い企業秘密というものはある。

坂下が出演していたのは、タレントが番組の中でプライベートなセカンドハウスを購入するというバラエティ番組で、5匹のペットと共に過ごす休暇のために、すでに何十軒もいろいろな土地の中古物件を見て回っていたけども、まだ一度も購入には至っていなかった。それもそのはずで、めでたく彼がセカンドハウスを購入した日には、そのコーナーが終わってしまうのだ。

本当のところ最初の台本では、番組の三回目でセカンドハウスを買う予定になっていた。ところがいざ放送がはじまると、これが番組一番の人気コーナーになってしまい、実際に買いたい家にめぐり合っても買うことは許されなくなってしまった。おそらく視聴者がこのコーナーに飽きるまで、坂下がセカンドハウスを購入することはないだろう。それが一体いつになるのか、誰にも分からなかった。


「ねぇ、今度は俺から運転手さんに質問していいかな?」

「ええ、どうぞ」

「俺がセカンドハウス買うのって、そんなに見てて楽しいの?」

「ははは......」運転手は笑ってつづけた。「買い物ってギャンブル性があるじゃないですか。恋愛と一緒ですよね」

「恋愛か。じゃ俺が箱根とか小田原で毎週やってることは、金のかかったデッカい合コンみたいなものなんだ」

「そうかもしれないですね」

「分かったよ、運転手さん。だから俺には家が買えないんだな。俺が結婚できないのと同じでさ」

「はは......似てるって言っただけですよ」

「そうだっけ?」

「そうですよ」

「でも、それ案外当たってるかもよ。運転手さん、今の仕事就く前に占い師やってなかった?」

「いいえ。でも不動産関係には長らく勤めてました」

「なるほど、そっちか」


タクシーは都心から住宅地へ入った。坂下は明かりが消えたマンションの窓の群を見上げ、近頃一人になると決まってそうするように、別れたばかりの恋人のことを思い出した。

そうすると不思議なことに、恋人を恋しく思う気持ちよりも、セカンドハウスが欲しい気持ちの方が益々強くなるのだった。だからそれは彼に決してセカンドハウス購入を夢に終わらせないための自己啓蒙法になっていた。

東京を離れた静かな場所で、5匹のペットたちと自分だけの暮らしがしたかった。別れた恋人より、ペットと暮らす静かな休暇の方がずっと魅力的だった。ホテルや旅館では得られない完全プライベートな時間。完璧な黄金の休暇。必要なのはそれだけのように感じられた。


運転手が静かに口を開いた。

「一つだけ方法があるんですよ。あなたがセカンドハウスを手に入れるための」

それは答えたくなければ答えなくてもいい、といった声の調子だった。業界の厳しさを身に染みて知っている坂下はどちらでもなく、べつの質問をした。

「やっぱり不動産の仕事長くやってるとさ、家欲しくてお金持ってるのに家買えないお客さんとか、顔見ただけで分かるのかな?」

「ある程度分かりますね」

「まるで占い師だね。人の顔見ていろんな運勢が分かっちゃうみたいなさ」

「共通するとこはありますよ。変な言い方になりますけど、家も生きてますから。あんまりあそこが気に入らない、将来ここがダメになるって、悪い面ばかり言ってると、そういう気持ちが家に伝わっちゃうんです。そうなると仮に大金積んで契約書にサインすることはできたとしても、一緒に長く暮らしていくことはできません。人間と同じです」

「まさに毒舌タレントの面目躍如だな。家にまで嫌われるなんて」

「しかもその毒は行く先々の壁から壁へ、柱から柱へと伝わっていきますから」

「そうなってもまだ俺がセカンドハウスを持てる方法なんてあるの?」

「ええ。それがあるんです」

タクシーは上坂の住むマンションの前で止まった。


釣りを手渡しながら運転手が言った。

「土からはじめるんです。いい土地を見つけたら、試しにその上に何時間か座ってみるんです」

「それでなにが分かるの?」

「なにも。ただ、あなたもその土地の一部になれる。その上に建てられた新しい家は、きっとあなたを受け入れてくれるでしょう」

「俺がずっと探してたセカンドハウスは新築だったってわけだ。それはそれで厄介な問題が起きるけどな」

「そうですね。でもじつは私、今夜このことを坂下さんに伝えにきたんです」

「え?」

「元不動産屋のタクシードライバーとしてどうしてもお伝えしておきたくて、今晩だけいつものドライバーと受け持ちを代わってもらったんですよ」

運転手は恥ずかしそうに言って笑った。知り合いの客も乗っていないタクシーを見送ったのはその夜がはじめてだった。

踵を返すと、玄関前に並んだ花壇に目がいった。坂下はおもむろにそこに指を挿し入れてみた。湿った黒い土が手のひらに吸い付いて爪のすき間にめり込んだ。


そんなこんなで坂下は日の暮れた丘の上に一人たたずんでいるとこだった。

そこは以前に番組のロケで訪れて気に入っていた、海と山に挟まれた静かな街だった。

こんな土地で誰にも邪魔されずに、5匹のペットと自分だけで休日を過ごして夕陽を眺められたら最高の気分だろう......。ロケの時もやはりそうは思ったけども、番組の性格上、その時もセカンドハウスの購入はカメラの前で断念してみせた。

だけどもうがっかりさせるわけにはいかなかった。期待を裏切るわけにはいかなかった。恋人の期待は裏切っても、いずれは視聴者の、スポンサーの期待も裏切ることになるとしても、もはや5匹のペットと元不動産屋のタクシードライバーの期待を裏切るわけにはいかなかった。

坂下は停めた車から寝袋を持ち出した。それを広げて包まって、土と雑草の上に身を横たえた。神々しい星々が見渡すかぎり視界の中で瞬きはじめていた。何度も深呼吸した。それから彼はゆっくり瞼を閉じた。


おしまい


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