仮名小説#3トランポリン四郎
夜明けと共に女のマンションを出た男は、妻にメールをして昨夜のこの過ちを懺悔しなければならないという衝動にかられたけども、そうする前に目に入った公園のベンチに腰掛けて、缶コーヒーのプルトップを開けた。
女と、あるいは女でなくとも、寝たのはこれがはじめての経験だった。結婚して5年も経つけども、妻とだって一度もしたことがなかった。どんなことがあっても、それだけは慎重に避けて生きてきた。それが......。
彼は缶コーヒーを慎重かつ大胆に、まるで魔法の液体みたいにゴクゴクと飲みはじめた。
男の名はトランポリン四郎(芸名・29歳・マジシャン)、十年振りの小さな同窓会に出席した翌朝、公園のベンチで魔法の液体を飲み干した彼は、腰を上げて缶を砂場に投げ捨てると、なにを思ったか、たった今補給した魔法の液体の威力でもってそれを持ち上げようとするみたいに、転がっているアルミ缶に向かって自分の右手をかざしてみせた。
四郎の顔のシワは歪み、真っ直ぐに伸びた右腕は小刻みにプルプルと震えていた。まるでこの一瞬に、己の右腕に、自分の未来の全てがかかっているとでもいった形相だった。
すると彼の気持ちが伝わったのか、それともなにかしらの波動が公園の空間を伝わって共振でもしたのか、アルミ缶が砂の上でなにやらモゾモゾしはじめた。金属製の小動物が目を覚ました。
それからアルミ缶は吊るされた小舟よろしくぎこちなく宙に浮かび上がって、四郎の右腕と同じ高さに達したところでしばらく停滞したかと思うと、次の瞬間には強い磁力に引き寄せられるかのごとく彼の手のひらにピタリと吸いついた。
四郎は今一度、自分が飲み干した缶コーヒーの銘柄を確認し、それに満足したのか、やっと思い直してくずカゴに放り入れた。自宅の団地に帰っても、級友の家に泊めてもらっただけだと妻に説明して懺悔はついにしなかった。
その日のうちに四郎は実家に電話して、妻に懺悔する代わりに母親に昨夜の顛末を打ち明けた。
彼はべつにマザコンというわけではなかったけども、母親もまたトランポリン徳子という芸名で、独身時代にはチャイナドレスに身を包みマジシャンをしていた。それはやはり息子同様に、地味ではありながら嘘偽りのない、正真正銘のマジックだったのだ。
「1回も100回も同じだよ」
母親は受話器の向こうで言った。
「1回でもやっちゃったらもうダメなんだ。それでもう私たちの力は綺麗さっぱり消えちまうんだよ。鳩みたいにね」
「でも、空き缶はちゃんと浮いたぜ、母ちゃん」
「そりゃそうだよ。妊娠したからって、その日のうちにお腹が出るわけじゃないだろ」
「母ちゃん、俺は男だよ」
「例えばの話だよ。明日になれば分かるよ。私の時もそうだったんだ」
「男の場合は違うんじゃないの?母ちゃんは女じゃん」
「私も父さんにね、つまりお前の爺ちゃんだ、同じこと聞いたよ。爺ちゃんは奇術師辞めて植木職人になったんだ。悪いこと言わないから、お前も早いとこ気質の仕事見つけるんだよ。いいことだってあるさ。私だってこれで孫の顔が見れるかもしれないんだしね」
四郎は学生時代にやっていたマジシャンのアルバイトを生業にした。母親は反対したけども、大学の就職活動では一つも内定が出なかったから仕方がなかった。四郎の妻は彼の元アシスタントで、派遣のアルバイトだった。今はアシスタントは辞めて、知人が下北沢ではじめたカレーショップの手伝いをしている。
夕方になって日が傾むくと、近所をジョギングした四郎は小さな公園のベンチでスポーツドリンクのプルトップを開け、その空き缶を高く夜空に放り投げた。
弧を描いて地面に転がった空き缶を見つめ、四郎は右腕を伸ばし、朝と同じポーズをとった。
空き缶はふたたび金属の小動物と化し、街灯の弱い明かりの下でもぞもぞと動きはじめた。けれど今度はなかなか彼の右腕と同じ高さまでは上がってこようとはしなかった。魔法の絨毯のように飛んで行って彼の手のひらにくっつくこともなく、ついには力尽きて、そのまま地面に落っこちてカラカラと音を鳴らした。
翌朝、ジョギングの帰りに四郎はもう一度だけ公園で種の存在しない空き缶マジックを試みたけども、母親が言ったように、スポーツドリンクの形をした小動物はすでに命絶え、その役割を終えたかのように土の上でピクリともしなかった。
妻が店の手伝いに自転車で出かけたあとに、彼は団地へもどってシャワーを浴び、ふたたび実家の母親に電話をかけた。
「お前、幾つになったんだっけ?」
「29だよ」
「上出来だよ。よく辛抱したよ。母ちゃんなんて、22の時にお前の父ちゃんと出会って、それまでずっと我慢してきたのに、コロッといっちゃったんだからさ。お前は偉いよ。で、幸子さんには浮気のことは喋ったのかい?」
「いやまだ。今夜帰ってきてから話すよ」
「正直に言って、ちゃんと謝るんだよ。なんたって29年我慢してきたんだ、幸子さんだって許してくれるさ。二人にとっても長い目で見れば、この方がずっといいんだよ。これでやっと本当の夫婦になれるんだ。母ちゃん、泣けてくるよ。でもね、最初からやり過ぎちゃダメだよ。なんにだって節度ってものがあるんだからね。私たちが文明人だってことを忘れちゃダメだよ」
「あのさ母ちゃん、この先、俺の特殊能力が復活することはないのかな?」
「ないよ。ご先祖様に誓って、ないよ」
それから四郎は所属している芸能事務所に電話して、しばらく営業の仕事を休ませてもらうことにした。
夕方前にジョギングするために外へ出た。
本当に母ちゃんが言っていたとおりに、幸子は俺のことを許してくれるだろうか......今さら俺を受け入れてくれるだろうか......。彼は走りながらとめどなく考えた。確かに29年間は長かったけども、最後の5年間はもっと長かったような気がしていた。しかもそれを終わらせたのは、彼の妻ではないのだ。
アシスタントをしていた頃から妻の幸子は夫の秘密を知っていた。彼らは結婚前に二人で誓いを立てたのだ。彼はその誓いを自ら破ってしまった。
四郎はいつまでも走りつづけた。青い空にせり上がったまだ梅雨前の入道雲が、白い巨大な妻の裸体のようにそそり立って見えた。
おしまい