仮名小説#2天使が通る
転職してはじめてむかえた連休前の夜、近所のコンビニにのり弁を買いに立ち寄った家名トク夫(仮名・26歳・元ラグビー部)は、レジの列に並びながら、誰にも聞き取れない小さな声で「天使が通る...」とつぶやいた。
それは以前つき合っていたOLのガールフレンドが教えてくれた、というよりOLのガールフレンドが発明した、おまじないで、列に並んでいて、もしも誰かに割り込まれて順番を抜かれた時にそんな風につぶやくのだ。
「天使が通る、天使が通る...」
「本当は会話が途切れた時に使う言葉なんだけど、ピッタリじゃない?」
「ピッタリ?」
「そう、ピッタリよ、あなたに」
ある日、OLのガールフレンドがトク夫に言った。
しかしそうは言われても、赤の他人は天使には見えなかった。そこで二人は公園のベンチに腰掛けて、行き交う人々が天使に見えるようになるまで毎日練習をした。
やがて二人がその技術を習得すると、折に触れ、トク夫だけでなく、OLのガールフレンドも自らそのおまじないを囁くようになった。二人して互いの顔を見合いながら、コンビニで、ファミレスで、テーマパークで、映画館で、駅の改札で、つぶやいてみせた。
「天使が通る、天使が通る...」
おまじないは効果てきめんだった。学生時代のガールフレンドは、いかに彼が社会人向きでなく、社会に出たらどんな種類の苦労にどれだけ苛まれることになるか、トク夫にいちいち説明してくれたけども、OLのガールフレンドは代わりにその処世術を教えてくれた。あいかわらずトク夫は他人に割り込まれてばかりいたけども、それで彼が怒ったり頭にきたりするケースは激減した。
どちらかが割り込まれ現場でカチンときても、どちらかがそのおまじないを二回も唱えれば、二人とも自然と顔がほころんで、なにか縁起のいい贈り物でももらったみたいな気分になれた。
そのうち二人は、なにか気まずいことが互いの間に起きれば、たとえ割り込まれ現場でなくてもおまじないを唱えるようになって、しまいにはなにも起きていなくても、それが起きるのを未然に防ぐために口癖のように、挨拶のように、同じ言葉を重ねるようになった。
「たぶん、あなたの前にポッカリ隙間が空いてるように見えるのね」
ある日、OLのガールフレンドが言った。それはトク夫とおまじないについての講釈だった。彼は言葉に彼女自身がつけ足したそんな意味があったのをその時はじめて知った。
「で、その隙間から淡い光が射し込んでくるんだわ。そこはなんだか天国みたいに気持ちが良さそうで特別な場所に見えるのね。だからみんな、あなたの前に割り込むんじゃないかしら。悪気はないのよ。天使みたいになった気分なの。人より先に行こうというんじゃなくて、その場所に立ちたいだけなの」
「おれはコンビニの聖者かい?」
「どうかしら。後光なら分かるけど、前光なんて聞いたことないわ」
「飛んで火に入る夏の虫?」
「違うわね」
「じゃ、歩くレンブラント光線だ」
「だといいわね。あなたが私たちを優しく包んで導いてくれる光なら」
OLのガールフレンドの言葉にはいくらか説得力があった。というのも彼女自身、かつては割り込み犯の一味だったから。彼が彼女を厚生させたのだ。
その時、スーパーの列でトク夫に肩を叩かれた彼女は、振り返ると、そこに人が立っていることにはじめて気がついたかのように彼と目を合わせて言った。
「あら、こんにちわ。ぜんぜん気がつかなかったわ」
それがトク夫のやり方だった。ちょこんと肩を叩くのだ。そうすると割り込んだ客は催眠術が解けたみたいにハッと我に返って、自分が犯した罪に顔を赤くしながら列のうしろへと下がっていく。
なぜだか分からないけども、トク夫はそんな目に遭う経験が昔から人よりずっと多かった。子供から老人、酔っ払いからOLのガールフレンドに至るまで、トク夫がなにかしらの列に並んでいると、彼らは目ざとく彼を見つけ出して、その横にゲームのインベーダーみたいにスルスルと近づいてきて、今度はスルスルとその前に割り込むのだ。
彼らはトク夫より一足先に、もしくは彼の目の前で、ラーメンを食べたり、社員食堂のA定食にありついたり、切符を買ったり、公共料金を支払ったり、用をたしたりできるのがことの他楽しそうだった。
そんなことが多い日には二度も三度もあった。言ってみれば、トク夫は生来の抜かれ男だった。体格だって他の男たちに見劣りしないし、声だって低くて勇ましいのに、彼はいとも簡単に、小さな子供にでさえないがしろにされる、子供たちにとっても、あるいは会社の上司にとっても、スーツを着ているピエロめいたどこまでも軽い透明な存在だった。
そんなトク夫も最近ではいちいち肩を叩くのが嫌になってきて、子供や老人に限っては、もう自ら見逃すようにしていた。
だからトク夫はそのおまじないが気に入ったし、助けられてもいた。たとえ言葉の意味は本来の使い方とは違っていたとしても、彼らが「天使」なんてお行儀のいいものではなかったとしても、そして発明者のOLのガールフレンドがすでに彼のもとを立ち去っていても、彼は彼らの頭のちょっと上辺りを狙って、その言葉をそっと囁いてみせた。そうするとやっぱり、なにか縁起のいい贈り物でももらったような気分がしたものだった。
コンビニの外に出ると通りの向こうに、さっき割り込んできた男の、レジ袋をぶら下げた小さなうしろ姿が黒い影になって見えた。彼はそれとは別方向に歩きはじめた。
穏やかな春の夜だった。彼はネクタイをさらに緩めてまた一度おまじないをつぶやいた。連休中の予定がなにもなくても、それだけでちょっと気分が良くなった。
(おしまい)