思い出アイドル(後編)
思い出アイドルもそうですが、泣き男も舐めてかかってはいけません。
それは先ほどから申し上げている通り、女性なら誰でも思い出ガールズになる可能性があるように、男性ならば誰でも泣き男になる可能性があるからなのですが、さらにもう一歩踏み出したものの言い方をすれば、泣き男になったが最後、その魔力にとり憑かれた男どもは、赤ん坊のようにとめどなく流れ落ちる涙を恥ずかしいとも思わないようになり、やがてはひどく優しく感傷的なゾンビになったみたいに何を見ても何かを思い出しながら、頬を濡らして街を徘徊する輩となってしまうのです。
ご存知のように泣くことはストレス発散にもつながり、またなにごとも空の下で行った方が健康にいいという調査結果もありますから、泣き男の行動はある意味では理に適ってはいるわけですが、いい歳をした男が人目をはばからずオイオイ泣いたりするのは、やはり褒められた行為ではありません。
しかし頭では分かっていても体が言うことを聞かない、やめたはずの煙草についつい手が伸びてしまう、ダイエットしているのに甘い物を口にしてしまう、そんな禁断の誘惑に悩まされた経験はないでしょうか。
その時の私はまさにそんな状態でした。大通りに集まった思い出ガールズたちの姿を、私はコンビニの窓から恍惚とした心持ちで眺めていたのです。一日だけにとどまらず、次の日も、また次の日も、私は定時になると急いで職場をあとにし、急ぎ足で秋葉原へと向かう電車に飛び乗っていたのです。胸の奥底では、こんなことを続けていてはいけないと分かっていながら。
なぜでしょう......私たちベソには、思い出ガールズたちが、若かりし頃の自分の母親のように感じられるのです。遠い見知らぬ土地で思いもよらず再会できた家族のように映るのです。だから私は夕方のコンビニの窓際で、彼女たちの帰りを今か今かと待ちわびてしまうわけです。
そして秋葉原駅の改札から、仕事帰りの彼女たちの柔らかに弾む、それでいて清らかな合唱が階段を一歩一歩下りてきて、交差点を渡ってこちらに届いた時には、私は彼女たちの子供になったようにオイオイ泣いてしまいます。
私よりも若い私の母たちは、そこではとても幸せそうです。彼女たちは、私と暮らしている時よりも、ほかの夫や恋人たちと一緒にいる時よりも、そこにいる時の方がずっと幸福そうなのです。私の目元の蛇口はもう開きっ放しになります。
やがて日が落ちて、トラックのコンテナに積まれた大砲から撃ち上げられた抽選券が夜の街に舞い、ひらひらと落ちてくる頃、私の感情は、私の夜は、マックスを迎えます。コンビニの窓に映し出された彼女たちは、街を舞台にした巨大なファッションショーのフィナーレを飾る踊り子たちのようです。抽選券を求めて思い出ガールズたちが狂喜乱舞する姿を、私はコンビニのテーブルから、偉大な命の発露の場に立ち会っているカゲロウのようにただ呆然と見つめています。
しかし恍惚の時間は長くはつづきません。私たち泣き男は道端のカゲロウに過ぎないのです。ご存知のようにカゲロウにはあまり時間はありません。
上手いことを言う奴だとお思いでしょうか。それとも私は自分自身をあまりに蔑み過ぎだとお思いでしょうか。しかしこれはかなり客観的な事実なのです。
思い出ガールズの妻を持ったベソ男は、彼女より先に家に帰っていなければなりません。彼女に見つかってはなりませんし、家で夕食の準備をして洗濯物を畳んで仕舞い、風呂掃除だってしなければいけないのです。
そんなわけで私は、観てる映画の一番いいシーンで席を立たねばならないように後ろ髪を引かれる思いで、いつも貸し切りコンビニの特等席を後にします。そうして目深く被りなおした帽子のツバに手をあてながら、通りを埋めた思い出ガールズたちを横目に、建物の壁に肩をこするようにして駅への道を急ぐのです。
もっとも、仕事帰りのほかのサラリーマンたちと並んで帰りの電車に乗り込んだ頃には、私の気持ちはその車両にいる乗客の誰よりも満ち足りています。どんなに大きな契約をとってきた営業マンよりもです。そうです、そこのあなたや、そちらのあなたよりもです。そして電車が地元の駅に着く前に、私は明日も必ずあの場所に行こうと、瞼を指でぬぐいながら心に決めているのです。
私はもうどこから見ても立派な泣き男になっていましたけど、この時点ではまだ〈思い出会〉の会員にはなってはいません。というよりも、私はそんな会があることすらいまだに知らなかったのです。
おかしな話になりますが、そういった集まりがあるのを知ったのは、私が泣き男から脱線して、その枠組みから一歩踏み外そうとしていた時でした。
私は、これまで遠くから眺めているだけで満足していた思い出ガールズの輪の中に、いつからか自分も参加したいと思うようになっていたのです。優勝が決まったホームチームのグランドになだれ込むファンみたいにです。そうしたらもっと素晴らしい体験ができるのにと、そんな考えにとり憑かれはじめていたのです。
皆さん、どうかお静かに願いします。ええ、皆さんのご心配は分かっています。なにをトチ狂ったことを言っているのかと。お前は男ではないかと。お前の本業は嫁の腕を掴み、家に連れ戻すことではないのかと。それを一緒に輪に加わってどういうつもりかと。気は確かかと。
いちいちごもっともです。でもどうかご安心なさってください。私が妻を連れ戻すのはもはや手遅れですし、私がブラジャーを付けたり、スカートを履いて街に出かけたりしたのもすでに過去の出来事です。それも一度だけの過ちです。今では私はすっかり厚生しました。
いいえ、決してスカートを履いたり、ブラジャーをしたりするのがお好きな一部の世の男性を差別して発言しているのではございません。私はあくまで個人的な、私個人に限定された話をしているのです。しかもそれはすでに過去の出来事です。今の私は真面です。ええ、差別などしていません。そうです。どうぞご安心ください。
賽は投げられました。とにかくある夜、私は一線を超えてしまったわけです。ついに私自身が思い出ガールズになるのです。
化粧品や身につける女性物の服などはすべてインターネットで購入しました。妻の引き出しから一時的に失敬するという考えも一瞬頭を過ぎりましたが、そんなことをしたらあとあと命取りになりそうな気がして思いとどまりました。それは正解でした。
着替えはいつものコンビニのトイレですませました。言わばそこが私にとってのクラーク・ケントの電話ボックスでした。
私は野球帽を脱いで茶色いセミロングのごわごわしたカツラを被り、ブラジャーをして偽の胸を作り、長めのスカートを履き、安物の香水を振りかけてから窓際の席に戻りました。丸い茶色のサングラスから眺めた秋葉原の街が外国の旧市街のように見え、スネ毛を隠すために買った黒いストッキングがひどくチクチクしていたのを今でも覚えています。
ここまでの話で気分が悪くなられたという方はいらっしゃいますでしょうか。前もって一つ安心しておいていただきたいことがあります。じつは私のこのようなおかしな行動は、秋葉原では決して珍しいことではないということです。
いいえ、そういう意味ではありません。私は秋葉原を訪れる男性がすべて「変なおじさん」だと言っているのではありません。そうではなく、私の行動が泣き男の一つの典型であるということなんです。つまり女装をして思い出ガールズの輪に加わろうとした男はなにも私が最初というわけではない、それ以前にも多勢いたということなのです。私はそれを後になって知りました。
コンビニから通りへ出ていき、いよいよ思い出ガールズの一員に加わろうとした時です。私は一人の男性に背後から肩を叩かれたのです。男性は内々の話でも持ちかけるみたいに私の耳元で囁きました。「ちょっとよろしいですか?」と。
それが私と〈思い出会〉との出会いでした。私の肩を叩いたのは、警察でも、私よりも趣味の悪いナンパ師でもなく、〈思い出会〉の会員であるAさんだったのです。
じつはこれもあとになって知ったことですが、〈思い出会〉では私のような新人お上りの「はぐれ泣き男」を補導厚生するために、会員が秋葉原の街を毎晩パトロールしているのです。ちなみにAさんは足立区内で印刷会社を経営されていらっしゃいます。
そんなAさんに引率された私は秋葉原の裏通りにあります地味な喫茶店へと入りました。
驚いたことに店内の席はこの会場と同じように男たちで一杯でした。彼らももちろん女装なんてしていません。みんな仕事の打ち合わせに喫茶店に立ち寄った会社員みたいでした。
でもじつは彼らは全員泣き男だったのです。類は類を呼ぶというのでしょうか、私にはそれが直ぐに分かりました。
〈思い出会〉の会員である彼らは、一歩離れた場所から、邪魔にならない裏通りから、思い出ガールズを眺めていたのです。それが彼らのルールだったのです。ちょうど街の中心に思い出ガールズたちがいて、その外側を泣き男たちが取り囲んでいるような格好です。
裏通りに点在する寂れた喫茶店が彼らの前線基地でした。派手な表通りばかりに目を奪われていた私はそれにずっと気づかないでいたのです。
計らずも喫茶店の中の紅一点になってしまった私でしたけども、そんな輩を白い目で見る会員はそこには一人もいませんでした。みんな温かく私のことを迎い入れてくれました。あるいは温かく無関心でいてくれました。
こうして晴れて〈思い出会〉の会員になり、同志を得た私はそれっきり化粧することもなく、地道なベソ男になりました。
しかし、これでめでたしめでたしというわけにはまいりません。これでは私はまだ進化した泣き男になっていませんから。ベソの最終形態、それが私のはずです。ただの〈思い出会〉の会員になったぐらいでは皆さんの前でお話する資格がないのです。
ある日、私はAさんにいつもの裏通りの喫茶店へと呼び出され、そこでB氏に紹介されました。なんでもB氏は〈思い出会〉の幹部をされているという方で、黒いサングラスに黒スーツでキメた、一見したところSPをされているような強面の男性でした。マイク端子がついた白いイヤホンを離さずに、それでつねに本部の幹部と忙しそうに交信しているのです。
私はそのB氏から一枚のコンパクトディスクと、真新しいまだ透明なビニールに包まれた一台のヘッドセットを手渡されたのです。
それは〈思い出会〉の秘密兵器でした。ついに泣き男たちが思い出アイドル勢に反撃を開始する時がきたのです。
思い出ガールズの数だけ〈思い出会〉の会員はいます。そしてその中には大企業の役員や社長、さらにはIT企業に勤めるプログラマーも多数いたりします。つまり〈思い出会〉は泣きべそ男たちの集団でありながら、じつのところ豊富な資金と権力と最新のIT技術を有した巨大組織でもあったのです。
本部からイヤホンに連絡の入ったB氏は、要件だけすますと、忙しそうに喫茶店からでていきました。
私は手渡されたコンパクトディスクを持ち帰り、深夜になるのを待って、それを言われたように自分のノートパソコンに挿入しました。そして妻のバッグから拝借してきた彼女の香水の匂いがついたヘッドセットを、私のパソコンとUSBケーブルで接続したのです。するとパソコンが勝手に作動をはじめ、コピーはほんの数分で完了しました。
その翌日、秋葉原には寄らずに帰宅した私は、居間に背広を脱ぎ捨てると、缶ビールとツマミを持って、早速ノートパソコンを前に腰を下ろしました。妻の方は秋葉原詣でをしていますからもちろん留守です。家内元気で留守がいい、です。
私はB氏から手渡された自分のヘッドセットをビニール袋から取り出してパソコンに接続し、その中のどこかに存在するはずの妻のバーチャルな故郷へと、その街のあらたな住人になるべく、旅立ちました。
「起きろよ、起きろよ、おっさん」
どこからか私を呼ぶ不機嫌そうな男の声が聞こえました。ふと私は降りるべき駅を乗り過ごし、たどり着いた終点駅のプラットホームで、若く生意気な車掌に肩を叩かれている自分の姿を想像しました。
しかし私が目覚めたのは終点駅ではなく、体育館のツルツルした堅い床の上で、私を呼んでいたのは生意気な車掌ではなく青いジャージを着て腕組みをした、くるくる頭の天然パーマの男でした。
私は体を起こしてジャージ姿の天パー男をぼんやり見上げました。どこか見覚えのある天然パーマだと、見覚えのある面だと、思ったのです。
男は眩しい日光が射し込む体育館の開いた扉を背に、ブロッコリー型の頭の形を影にして立っています。扉の向こうはどうやら学校の校庭のようです。私はようやく思い出しました。男はKという名の思い出アイドルだったのです。
「おっさん、これ履いて。これからトレーニングやるから。俺があんたのコーチ、分かった?」
Kは私に向かって手にしたジョギングシューズを放り投げました。私の格好は帰宅した時と同じでしたけど、驚いたのは、そのジョギングシューズが、私が普段履いてるものとメーカーからサイズまでまったく同一のものだったことです。
さて皆さん、それからどうなったと思いますか?
妻の故郷は神奈川です。私は妻の故郷が以前から好きでした。正直、自分が生まれ育った街よりも好きなぐらいでした。ですから、ヘッドセットをした私は、お金のかからないお盆休暇にでも出かけるようなウキウキした気分でいたのです。
実際B氏からもぶらぶら散歩するだけで良いと言われていました。〈思い出会〉の一番の狙いはバーチャル世界の情報収集にあったからです。
しかしいざ蓋を開けてみれば、そこには私をおっさん呼ばわりする思い出アイドルが待ち構えていて、「トレーニングやるから」とか口にするのです。
いったいぜんたい、これはどういうことなのでしょうか。
思い出ガールズには我ながらずいぶんご熱心だった私ですが、肝心の思い出アイドル自体にはそれまで不思議とあまり興味が沸かずにいました。そのせいで妻の選んだ思い出アイドルがいったいどこの誰なのか、どこの馬の骨なのか、それすら知らずにいたわけなのですが、ついに知る時がやってきました。
いいえ、もしかしたら私はそれを知るのをあえて避けていたのかもしれません。だってそんなこと妻に一言度尋ねれば五分ですむことですから。
Kは〈ヘイヘイヘイ・マイマイマイ〉、略してヘイマイというおかしな名前(思い出アイドルたちのグループ名はたいていそんな風におかしな名前が多いのですけど)のグループのメンバーで、10代から60代までのじつに幅広く取り揃えられた思い出アイドルたちの、年齢も人気もちょうど中堅どころのアイドルです。歌だけでなく、ドラマやバラエティー番組にもたまに出演しています。それで私もなんとなく覚えていたわけです。
ただ、やはりKは思い出アイドルの中ではどちらかといえば味のある脇役的な存在で、ドラマでもそんな役柄が多いようです。そこで私は、どうせファンになるのなら、どうしてもう少し中心的な人気のあるアイドルのファンにならなかったのだろうかと、自分の妻の性格を考え、少し不憫に思い悲しくもなったのですが、よくよく考えたなら私と結婚したのも、おそらくは同じ理由からなんだろうという結論にいたり、ヴァーチャルな体育館の床の上で余計に悲しい気分になったりしたのでした。
私は渋々ランニングシューズに足を入れました。でもそれはトレーニングをするためではなく、街を散策するためです。一人途中下車の旅をするのです。そもそもそれが私の使命であり楽しみでもあったのですから。
〈思い出会〉はヴァーチャル世界の情報を掻き集め、いずれウイルスプログラムを作り上げ、思い出アイドルを駆逐するつもりです。私としても思い出ガールズには特別な思い入れがありますけども、そうかといっていつまでも妻を野放しにしているわけにもいきません。
私はヴァーチャル世界が無くなってしまう前にその世界を存分に楽しんでおこうと思いました。妻が見た街並みや出会った人たちの顔や声を憶えておこうと思いました。角のあんみつ屋に入ってヴァーチャルあんみつとやらに舌鼓してみようとも思っていました。
そのためにはまず体育館から出なくてなりません。そして体育館を出るためには、あの少々頭の痛いヴァーチャル野郎にどちらがご主人様なのか分からせてやらねばなりません。たとえベソ男だろうとこっちは人間様なのです。思い出アイドルだかなんだか知りませんが、どうして人間様がヴァーチャルごときに命令されなければならないのでしょうか。ここは一つガツンと言ってやらねばなりません。
「奥さんにチクってもいいんだけどなぁ」
Kは言いました。
「あんたが不正アクセスしたの知ってるぜ。それも奥さんのヘッドセット使ってさ」
Kは言いました。
「あと変な女装趣味があるのも知ってる。いや知ってるだけじゃないな。その写真も持ってる」
「う、嘘つけ」
「おじさん、あんたは自分の目でこの世界を見てる気でいるんだろうけど、じつはこっちからも見られてるんだよ。何万、何千万、いいや何億って目でさ。しかも見られてるだけでなく、こっちからそっちにアクセスだってできるんだ。奥さんの携帯に、繁華街の監視カメラが撮影した変なおじさんの女装写真を送り付けることだってできるってわけ」
「分かった。トレーニングしようじゃないか」
私は言いました。そして立ち上がってこうもつづけました。
「でも、その前に一つ確認しておきたいことがあるんだが。どうしてそんなことしなきゃならないんだ?」
「どうして?自分で見てみなよ、その出っ張ったお腹。ブヨブヨした二の腕。垂れ下がった頬の筋肉をさ。醜いね、じつに醜い。彼女がこんな中年男と一緒に暮らしているのかと思うと虫酸が走るよ。いっそのこと地上から消えてもらいたいぐらいだ。でもそういうわけにもいかないからさ。だから俺があんたを鍛え直すことにしたってわけ」
さて皆さんは映画鑑賞などはなさいますでしょうか。「2001年宇宙の旅」という有名な外国映画がございます。宇宙船に乗って木星に向かうSF映画です。その中に、頭のおかしくなった宇宙船のコンピュータが乗組員である人間たちを次々に殺すシーンがあるのです。
私がなにを言いたいか、もうお分かりになっていただけたでしょうか。そうです、私はKが、Kの頭が、おかしくなったのだと思いました。
確かに怠惰な食生活を続け、おまけに運動不足な私のお腹は見事に出っ張り、二の腕だってブヨブヨでした。しかしそれにしたって「醜い」だの、「虫酸が走る」だの、ヴァーチャルごときが人間みたいな感情を語りだすなんて、どう考えても変じゃないですか。
ですから私は一先ずKの命令に素直に従うことにしたのです。彼の指導のもとにヴァーチャル体育館でトレーニングを開始したのです。
まったく馬鹿げた話です。どこの世界に頭のおかしなヴァーチャルタレントにヴァーチャル体育館でヴァーチャルなトレーニングの指導を受けなければいけない人間がいるでしょうか?ヴァーチャルですよ、ヴァーチャル。そんなの何時間やったところで、現実のお腹は一ミリだって引っ込むはずがないのです。
しかし頭ではそう思っていても、正直怖さが勝ってしまったわけです。そこはKの世界です。そこでは私はまったくの部外者です。確かに女装写真が妻の手に渡ってしまうのも恐怖でしたけども、それ以前に先ずこのヴァーチャル世界から脱出して、もとの現実世界に無事戻れるかどうかが心配だったのです。
ですから私はみっちり90分間、ストレッチ、腕立て、腹筋、スクワット、ランニングと、地獄のトレーニングに耐えたのです。
ヘッドセットを外した私の体は気のせいか少し汗ばんでいました。体育館の床にへたばった私に向かって、Kは最後「じゃ、シューズ脱いで」と言いました。
それが合図のようでした。着替えを嫌がる子供みたいに寝転びながらそれを脱ぎ捨てた私は、気がついたら自宅の居間のソファーに戻っていました。
それは不思議な感覚でした。頭の中では運動した記憶があるのに体はまったく疲れていない。それどころか軽い準備運動がすんで、いよいよこれから本番のトレーニングをはじめようかという感じなのです。
そして実際に、私はそのあとノートパソコンの内臓カメラの前でまったく同じメニューのトレーニングをはじめました。じつはそれがKの命令であり、私は実際にトレーニングした様子を証拠としてパソコン内に残さなければならなかったのです。
しかし、仮にそんな命令がされていなかったとしても、私は自ら進んで一人居間で黙々とトレーニングを開始したでしょう。スクワットが終われば、ヴァーチャル体育館で履いていたのと同じシューズに履き替え外に走り出していたはずです。
それは頭と体のバランスなのです。頭の中には確かに運動した記憶が残っている。それなのに体の方にはまったくその感覚がない。そのまま放っておくと、私の頭と体はバラバラになって分裂してしまいそうでした。私の体は記憶を追って、自分の影を追って、勝手に走りはじめようとするのです。
そのとき私が思い出したのは思い出ガールズの存在です。彼女たちは繰り返し繰り返しヘッドセットを覗いているはずです。いったい彼女たちの記憶と肉体はどうなっているのでしょうか。どう折り合いをつけているのでしょうか。私の家内の頭の中はどうなっているのでしょうか。
そのことを考えて私は気が遠くなりました。そして彼女たちが秋葉原詣でを繰り返す本当の意味がやっと分かったような気がしました。それと同時にそれだけではとても収まらないんじゃないかと不安にもなりました。だって、たった一度ヘッドセットをつけただけの私でさえ、バランスがおかしくなるぐらいなのですから。
その夜から私の秋葉原詣ではピタリと止まりました。代わりに私は居間でヘッドセットをつけ、Kのトレーニングを毎晩受けるようになりました。
それが終わると、パソコンの前で実際に体を動かしてトレーニングメニューをこなすのです。ちゃんとした運動なんてもう何年もしておらず、会社の健康診断を受けるたびにメタボリック予備軍の烙印を押されていた私は、自分でも生まれ変わったよう気がしていました。それはちょうど思い出ガールズへの執着が、トレーニングへとシフトしていったような感じでした。
でも、もちろん私は彼女たちを忘れたわけではありません。そのトレーニングは私にとってやはり思い出ガールズをめぐる一つの企てだったのです。すでに女装はしていませんでしたけども、これも現実と非現実の境界線をどこまでも曖昧なものにするための一つの企てだったのです。
トレーニングをはじめてひと月ほど経つと、私の体は以前とは見違えるほど引き締まってきました。筋肉の表面が常に心地よい微熱をおびて、踵が少し浮き上がるような感覚がしました。
ある日、Kはなにを思ったのか、ランニングシューズの他にポータブルスピーカーを持って体育館で私を待っていました。Kは言いました。
「基礎トレーニングは昨日で終わりだから。今日から歌とダンスのレッスンをメインに切り替える」
彼が手元のアイポッドを操作すると、スピーカーからKがメンバーとして参加しているグループ、ヘイマイの曲が流れ、体育館に彼らの歌声が響き渡りました。
Kはそれっきりなにも言わず、ジャージ姿のまま一人で踊りはじめました。彼らのグループの振り付けです。
以前の私だったらそんな彼を眺めて、「おいおい、なんでそんなことやらなければならないんだ?」と、お決まりのセリフを吐いていたでしょう。でもひと月の時間は、私も、私とKの関係も、変えました。私はすでに彼を頭のおかしなヴァーチャルタレントとは思っていません。Kは私のコーチなのです。私が彼に感じるようになっていた親近感は友情に近いものでした。私はKの体の動きに見様見真似でついていきました。
こうして私は一日一日と泣き男から脱却していったのです。
考えようによっては、その過程は、思い出アイドルの育成プロセスのようでもありました。一つの歌、一つの踊りを憶えていくごとに、ベソからKへと近づいていったわけです。
Kは私のことを「おっさん」とか「おじさん」とか呼んでましたし、さすがに現役アイドルだけあって見た目もシュンとして、ただのジャージの上下でさえ彼が着ているとおしゃれな流行のファッションのようでしたけど、じつは彼が私と同い歳であることは、出会った当初から予想はしていました。
なぜなら私と妻も同い歳であり、思い出ガールズは往々にして同い歳の同郷のアイドルを自分の思い出アイドルに選ぶ傾向があるからです。
それは私が推測しますところ、たとえあとから積み重ねられた偽の記憶ではあっても、土台の部分には多少の真実味が必要になってくるからではないでしょうか。
そんな同い歳の好で、私とKは言葉を交わすうち、二人が同じテレビ番組を見て、同じ女性アイドルグループのファンで、同じマンガを集めていたことを知りました。私はサラリーマンの愚痴を口にし、Kは中堅アイドルの愚痴をこぼしました。どうも思い出アイドルは端から見て思うほど楽な商売ではなさそうでした。
私と彼とはサラリーマンとアイドルという大きな境遇の違いにも関わらず、似ているところが随分ありました。正直申しまして、今日この会場にお出での同業者の皆さんより、よほどウマが合ったんじゃないかと思います。そうです、そちらのあなたや、こちらのあなたよりもです。同じ学校に通っていたら友達になっていたかもしれません。いや、きっとなっていたでしょう。
そんなわけですので、Kと一緒にいても私の心には嫉妬心なんて少しも沸いてきませんでした。それどころか、もし私とKの間に制服姿の妻がいたとしても、私たちはきっと上手くやれるだろうなどと思っていました。なにしろ私と妻はもともとは夫婦なのであり、彼女とKは思い出ガールズと思い出アイドルの仲なのです。上手くいかないはずがありません。
しかしそうなってきますと、〈思い出会〉のスパイという自分の身分が、だんだんと重荷になってきます。この心境は皆さんにも分かっていただけると思います。どこのオフィスでもよく見うけられる光景かと存じます。
Kと体育館で踊るたびに、寝室で妻の寝顔を見るたびに、私に残された幾ばくかの良心はズキズキと痛むようになりました。私がヴァーチャル世界を訪ねるたびに、〈思い出会〉の腕利きプログラマーはウイルスの完成へと近づいているのです。そして近い将来そのウイルスがKのジャージを切り刻み、体育館を焼き払い、思い出ガールズたちの愛する懐かしいヴァーチャル故郷を一つ一つサイレントヒルのような悲惨な場所に変えてしまうのです。
そんなことを許すわけにはいきません。秋葉原の交差点に響く彼女たちの歓びの合唱を呪いのそれに変えてはなりません。
私は妻にすべてを告白することにしました。ヘッドセットを黙って拝借したことも、一度きりの女装も、〈思い出会〉の恐ろしい計画も......。
しかしなんということでしょうか、その夜にかぎって、待てども待てども妻は我が家には帰ってこなかったのです。そして次の夜も、その次の夜も、帰ってはこなかったのです。
長々とご静聴いただきありがとうございます。まだ私の話は終わってはいませんが、このまま延々と続けるわけにもいきません。皆さんもなにかとお急ぎかと思います。
結論から先に述べます。私はまんまと騙されていたのです。〈思い出会〉にも、Kにも、そして元妻からも。
なんということでしょう、すべては一組の思い出ガールズと思い出アイドルのために仕組まれた茶番劇だったのです。
私の妻だった女性は間もなく思い出ガールズたちのレジェンドになるはずです。彼女はヴァーチャルではなく、本当の、現実の世界で、思い出アイドルと結ばれる最初の思い出ガールズになるのです。お相手の思い出アイドルはもうお分かりかと思います。
しかしどうしてそんなことが起きたのでしょう。皆さん、不思議に思いませんか?ヴァーチャル世界と現実の世界がどこかで交錯して、二人が偶然に出会ったのでしょうか。
はっきり申しましょう。出会ったのです。でもそれはずっとずっと昔の出来事です。私と妻が出会った時よりもさらに昔の出来事なのです。詳細はいずれ週刊誌やワイドショーが嫌というほど騒ぎ立てるでしょうから、そちらを楽しみに待っていてください。
彼女は今、実家で暮らしています。ヴァーチャルでない本当の故郷です。私も好きだった元妻の故郷です。天然パーマの彼もいずれその地に落ち着くことになると思います。そこは彼の生まれ育った街でもあるのです。
いいえ、私は泣いておりません。言いがかりは止めてください。
ただそうすると一つ困った案件が発生します。思い出アイドルはその性格上、既婚者では務まらないということなのです。独身であることが思い出アイドルの最低条件です。残念ですが、どんなに人気があろうと、いいえ人気があるからこそ、結婚イコール引退ということになります。
そこで寿引退によって欠員が生じたグループのメンバーを補うためにオーディションが開かれることになったのですが、先日〈思い出会〉を通しまして、思い出アイドル芸能プロダクションの方から、私宛にオーディション招待参加の連絡がありました。
まあ、これまでの話の筋からいってだいたい皆さんも予想はついていたとは思いますが、そういうことなのです。
しかし、これはこれで考えようによっては大事件ではないでしょうか。泣き男が思い出アイドルになってしまう可能性があるわけですから。まさに本末転倒の灯台もと暗し、これこそ進化した泣き男、ベソの最終形態になるのではないでしょうか。
物を投げるのはやめてください。
ある女性が思い出ガールズになり、その彼が泣き男になり、思い出ガールズと思い出アイドルが結ばれ、ついに泣き男が思い出アイドルになる。ここに誰も損なわれることのないサイクルが完成するわけです。
どうか、お前は頭がおかしいなどと言わないでください。この大馬鹿者め!なんて、父親みたいなこと言わないでください。よくよく考えてみてください。もしもこの会場にお越しのどなたかが泣き男になっても、もうは絶望する必要はないのです。私がその生きた証明です。私たちはもう誰も泣かなくていいのです。なぜならその次には、あなたが誰かの思い出アイドルになるかもしれないからです。私たちベソが思い出アイドル予備軍になるのです。スポットライトを浴び、歌い踊るのです。物は投げないでください。
私は今もレッスンをつづけています。いつかその成果をご披露できる日がくるのを楽しみに待ちわびています。それでは〈思い出会〉と思い出アイドルの益々のご成功とご発展を祝しまして皆さんのお手を拝借。よーお、目出度い、目出度い、目出度いな。
ご静聴ありがとうございました。
(おしまい)