車両交換
春の訪れはおおむね人の気持ちを明るくするものだけど、その年の微風や光の中には、さらに人を愉快にして、心の動きを活発にする成分が多く含まれているようだった。それは朝焼けの空気に金や銀の粒子みたいにキラキラと舞って、人の肩や犬の尻尾へと降りていった。
明方の気温はまだ低く、道端の人々の白い吐息をプリズムのように日射しに透かして見せていた。
青年は朝日を正面に浴びながら、都心につなぐ郊外の駅への通勤路を闊歩していた。卸したての淡色した春物のスーツを着込み、これも新調したばかりのオレンジ色のネクタイを水夫のスカーフめく軽やかに揺らして。その足取りは野原を闊歩する少年さながら、その息吹は春の泉の蒸気を思わせた。
べつに急ぐ理由があるわけではないけども、青年の歩調はしだいに加速がついて今にも駆けだしそうな勢いになり、まわりに向い風の微風を巻き起こした。しかもその様子には無理をしている感じは微塵もなく、知らず知らずのうちに彼の興奮が自然と道行くまわりの通行人にまで伝わっていくようなのだ。
というのも、彼はその日、社会人になってはじめてプレゼンテーションなるものを披露することになっていて、半年も前からこつこつと進めてきた仕事の成果をいよいよ取引先の前で発表する手はずでいたのだ。それで彼には人一倍、陽気で活発な春の粒子が作用していたわけだった。
そんな青年の目になにやら花束の散らかったような一群が飛び込んできた。よく見るとそれは道端に落ちた赤と緑のチェックのマフラーだった。きっとコートのポケットかバックに一旦忍ばせたご婦人が、気づかずに落としていったものに違いない。もしかしたらそのご婦人は駅に向かっていって、まだホームのどこかにいるのかもしれない。青年は歩みを止めずに、馬に跨ったポロ選手のごとくマフラーをヒョイと拾いあげてみせた。
すると彼の目に、駅の階段からプラットホームへと下りてくる小柄なおばさんの姿が映った。薄水色のスカーフを頭巾のようにかぶって、腕には茶色いハンドバッグをぶら下げ、ベージュ色した薄手のコートを着ているマトリョーシカめいたご婦人。
そこに足りないのはアクセントになる首元のマフラーだけのように思われた。あのご婦人ならきっとそうするだろう。青年はおしゃれ評論家になったみたいに思った。
スカーフの下にチェック柄のマフラーを巻いたマトリョーシカおばさんの姿を容易に想像することができたように、彼はまたとても早口な探偵よろしく、その外出理由も推測することができた。つまり彼女は、舞台から転げ落ちて脚を骨折してしまった俳優の弟を見舞いに、病院へと向かう途中なのだ。
青年は手にしたマフラーを路上から駅のホームに向かって大きく振った。ホームは路上よりも小高になっている。マトリョーシカおばさんは直ぐに気がついて、そこからびっくりしたように口に手をあててみせた。
もう上り電車がホームに滑り込もうとしている。青年はいよいよ本当に駅へと走りはじめた。
間一髪、青年が一番うしろの車両に飛び乗るのに成功すると、一緒に乗り込んだマトリョーシカおばさんは、お礼に深緑色の喉飴を掌一杯にくれた。
「これは風邪でも吐き気でも、どんな偏頭痛だって治しちゃうのよ。万能飴なのよ」
おばさんは言った。彼は風邪も吐き気も頭痛もしていなかったけども、早速透明な包みを開けて一粒口に放り入れてみた。
はたして推測どおりマフラーは彼女のものだった。ただし弟の入院理由はちょっと違っていた。手品師の弟子をして修行中の弟は、師匠のナイフ投げ師が投じた刃を掌に受けるという名誉ある傷を負って、目下入院中とのことだった。
青年はまん丸の万能飴をポケットに詰め込み、そこだけハロウィンの日の子供みたいになって先頭の車両へ向かっていった。どうも今朝は一時もじっとしていられない気分なのだ。
電車はほどよく混んでいた。青年は立っている乗客の間をすり抜けるようにして進んでいった。その間にも車内で咳する人を見つけては、マトリョーシカおばさんからもらった水晶めいた万能飴をスーツのポケットから一粒取りだして、手渡すことを忘れなかった。貰った乗客たちも「これはご親切にどうも」と言って、とくに疑う様子もなく、急ぎ包みを開いて口に放り込むのだった。
電車の中で咳き込んでいる乗客はとても多く、彼のポケットは目的の駅に到着する前に平になりそうだったけども、そこに予定外の荷物が舞い込んだ。
というのは、座席で発作に苦しんでいる白髭の老人の咳を沈めたお礼にと、横で背中をさすっていた奥さんだか娘さんだかよく分からない女性が一冊の本をくれたのだ。
「とっても為になることが書いてあるのよ。あなた若いんだし、これからの人生できっと役に立つこともあるから読んでおいた方がいいわ」
奥さんだか娘さんだかよく分からない女性は言った。でもハードカバーの立派な表紙を覗いてみたら、タイトルの横に下巻と書いてある。それを青年が尋ねたら、
「あとは自分でお買いなさい」
と女性が言うので、彼もそれはもっともだと思って、ありがたく下巻だけを頂戴することにした。
青年は本を小脇に抱えながら先を急いだ。するとまた横の座席から男性の咳が聞こえて、彼は最後の万能飴を配った。あんじょう、男性の咳はすぐに治まった。ネクタイをした、青年より一回り歳上の赤ら顔のサラリーマン先輩だった。
「ありがとう。今日は会社で大切なプレゼンがあってね。どうも喉の調子がおかしくて困ってたんだ。君は学者さんかい、それともご同輩?」
青年の脇に抱えた本と胸のネクタイを見比べてサラリーマン先輩が聞いた。
「ご同輩ですとも。僕も今日は大切なプレゼンがあるので。入社してはじめてのプレゼンなんです」
「そうかい。それは結構。何事も最初が肝心だ。当たって砕けろだ。ところで君はずいぶん素敵なネクタイをしているね」
「あなたのも満更じゃありませんね」
青年はサラリーマン先輩の胸元を見下ろした。サラリーマン先輩は青いシャツの襟元に、新婦の父親めいた貫禄のあるストライプ柄のネクタイを結んでいた。先輩は青年の胸元を見上げた。若々しく眩しげなオレンジ色のネクタイがそこにあった。
二人はどちらともなくそれぞれの特徴と持ち味を譲り合い、それによって思いもよらなかった色彩効果が現れるアイデアにとり憑かれてこう言った。
「交換しようか」
「そうしましょう」
上と下の歯で本を噛みながらストライプのネクタイを結び結び、青年はなおも車両の先頭へ進んでいくのをやめなかった。
そんな彼の車内探索を止めたのは今度は乗客の咳ではなくて、ドア越しに立っている一人の可憐な女子高生だった。真っ直ぐな黒髪が頬をかすめて、額みたいに狭い制服の両肩に垂れている。
青年は霊感に襲われた犬よろしく口から本を落とすと、いまだ左右のバランスが極端に悪い竹馬さながらのネクタイから手を離してそれをキャッチした。
なんとその少女が黒々としたまつ毛を伏せて視線を落とし熱心に読んでいるのは、青年が手にしたものと同じ本だった。しかも彼女の細い指先を目で追ってみれば、あと数ページで読了しそうな様子なのだ。もしかしたらそれは、まさに彼が自腹で購入しなければならない上巻なのかもしれなかった。
青年は女子高生の向かい側に立つと、せっせとスーツの袖で自分の下巻を磨きはじめるのだった。
彼はなんだかソワソワして、ラブレターでも手にして待っている同級生みたいに落ち着かなかった。でも実際に青年が手にしているのは、女子高生が読んでいる本と同じかその続きなのだ。
彼はわざと目につくように、それを空港のお出迎えのプラカードみたいに胸に掲げてみせ、ついにはあからさまに本の表紙の下巻の文字を彼女に向かって指し示したい衝動にかられたけども、やはり読書の邪魔をする気にはなれないので、ここは珍しく大人しそうにじっと待つことにした。
電車の窓の外に見慣れた都心の街並みが通り過ぎてゆく。もう下車する駅までそう時間はかからない所まできていた。
青年は窓から射し込む暖かな陽光に包まれて急にうとうとしはじめた。ドアの横に立ったまま眠りに落ちてしまいそうだった。もしかしたらこれも万能喉飴の効用の一つなのかもしれなかった。
夢の中で車のタイヤがパンクした。びっくりして目を開けたら、鼻の先に車のドアが迫ってきた。
でもよくよく見たら、それは件の本の背表紙だった。それと一緒に文学少女の白い指先が見え、真っ直ぐ横にハサミを入れた髪の下で見開いている彼女の一途な瞳と目が合った。
どうやら読み終わったようなのだ。車のパンクは女子高生が本を閉じる音だったのであり、彼を朝のうたかたの眠りから目覚めさせるためのものだったのだ。
それから二人は指定された場所で落ち合った秘密工作員みたいに、無言のまま手にした本と本とを交換した。女子高生はその扉を開くと、ふたたび長いまつ毛を伏せ、なにごともなかったように朝の読書をはじめた。
青年もドアを離れ、車両探索を再開した。手に入れたブツは間違いなく上巻だった。
「その本を僕に譲ってください」
追いかけてくる少年の声に青年は足を止めた。
振り返ると、車両と車両の間のドアを背に、詰め襟の制服に身を包んだ眼鏡姿のほっそりした男子高校生が緊張した面持ちで立っている。なんだかこれから全校生徒の前で祝辞を述べそうな勢いだった。
青年は即座に秀才君というあだ名を彼につけたが、祝辞を拝聴する前にこう言った。
「ヤなこった」
青年はこれっぽっちの優しさも見せずに先を急いだ。秀才君も彼の腕を掴んで止めにかかった。
「タダとは言いませんから」
だが、ポケットから財布を取りだそうとする秀才君の手を制止して青年は言うのだった。
「結構だ。もとからこの本は金で手に入れたものではないんでね。金では譲れないよ」
秀才君は予想外の答えに唖然とするばかりだった。この世にお金で買えないものがあるとはじめて知ったような表情を詰め襟の上に浮かべた。
「あ......あ......」
秀才君は弱音を吐きながら財布の代わりになるものをどうにかポケットの中に探し求めようとした。でも結局それは見つからなかった。
追い込まれた彼はついに学生鞄の中から禁じ手を差しだした。それは黄色いハンカチに包まれた弁当箱だった。
「おかずはなんだい?」
「たぶんメンチカツと卵焼きだと思います」
育ち盛りの高校生にとって弁当と引き換えという条件がどれほど重大なものであるのか、青年も想像するのにやぶさかではなかった。
「君の昼食はどうするの?」
「売店でパンを買います。弁当箱は兄のお下がりがあるので大丈夫です」
「なるほど。そこまで言うのなら」
二人は本と弁当箱を交換した。
「読み終わったら、向こうの車両に下巻を読んでる女の子がいるから交換してもらうといい。あるいは、おかしなネクタイをしたおかしなサラリーマンからそう助言をうけたと彼女に告げてもいい」
青年がそう言うと、秀才君は頬を赤らめた。
乗客の誰もが青年を振り返る。それは彼が手にぶら下げている黄色いハンカチに包まれた弁当箱がとてもいい匂いを放っていたためだった。それは街角の早朝のパン屋的効果を車両にもたらしていた。
乗客の誰も彼もが弁当箱を狙っていた。そしてついに一人の男が青年の前に踊りでた。
「あんた、その弁当、俺にくれないか。礼はいつか演奏で返すよ」
楽器ケースを肩にぶら下げた男は言った。
「これからバンドのオーディションがあるんだ。でも、俺はもう丸一日なにも口に入れてやしない。腹が減っては戦だってできっこないさ」
「デューク・エリントンは好き?」
「ああ。俺の神様だ」
青年は男の手に弁当箱を握らせて先を急いだ。
青年はついに先頭車両に到着した。彼の車両探索はやっと終了したかに思えた。
でも、そうはならなかった。そこはもう一つの出発地点だった。すべてが振り出しにもどった。
彼は我が目を疑ってゴール前に立ち尽くした。ゴールテープの一歩手前でそれを切ることができなかった。というのも車両の先頭に、つまり運転室の扉の手前に、決してあるはずのないものを青年は見たからだ。
彼女は花束を手に彼を待っていた。薄水色のスカーフと赤と緑のチェックのマフラーを巻いて。
彼女は本当にマトリョーシカおばさんだった。寸法を計ってみれば、きっとほんの少しだけ喉飴をくれたお姉さんに当たるマトリョーシカおばさんより小さいのに違いなかった。
そして妹マトリョーシカおばさんは彼に喉飴ではなく、一輪のバラを手渡した。
「また僕にくれるんですか?」
「いいえ違うわ。あなたがそれを誰かにあげるのよ」
妹マトリョーシカおばさんの視線が、うしろを振り返りなさいとサインを送った。青年がそれに従うと、そこに彼は朝の市場を見た。花を見て、歌も聞いた。
車内がなにやら騒々しかった。いつもは静寂に包まれた通勤電車が、フリーマーケットめいた賑わいになっていた。乗客たちは席を離れ、異国人になったみたいに自由に車両を行き来し、物々交換をはじめていた。
もしかしたらそれは青年が乗客に配って歩いた万能喉飴の効用なのかもしれなかった。その光景は奥の車両の方までつづいていて、まるで気の利いた百貨店が、通勤電車を会場にしたバーゲンを開催しているようだった。
サラリーマンたちはネクタイを交換し、学生たちは読んでる本を交換し、おじさんたちは持ってる朝刊を手渡し、お姉さんたちはバッグの中の化粧品をくらべ合い、おばさんたちはそれぞれのスカーフを吟味し、子供たちはなにかの秘密の遊びを教え合っていた。
いよいよ電車が止まってアナウンスが流れても誰の耳にも聞こえていなかった。
プラットホームへ降りたのは青年一人きりだった。
(おしまい)