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竜巻二郎

電車の窓に映った小さな畑を見つけると、二郎はいつも故郷を思いだす。忘れたくても、ついつい思いだしてしまう。遠い日の初夏の一夜を。

都会の生活のほんのすき間から、草と土の香りが漂ってくる。錆びた血の匂いがする。鐘を突くような強い風の名残りが彼の耳をくすぐる。


二郎がはじめてあいつに飛ばされたのは小学3年生のときだった。二郎は早熟というよりは、少しおかしな少年だった。

お相手は教室で隣の席だった倉持ふさえさん。倉持さんは笑クボの似合うキュートな女の子だった。クラスの男子生徒でそのことに気がついていたのはたぶん二郎一人だけだったろう。まあ、それも仕方がない。なにしろ田舎の学校だったし、彼らはまだまだ子供で、ショートヘアーとオカッパ頭の違いすら分かっていなかったから。

でも、それは一つの才能ではあったろう。二郎のクラスにはいつも素敵な女の子がいて、その女の子はどういうわけだか必ず彼の横の席になるのだった。

だから二郎は素敵な女の子を探す必要がなかった。彼女たちはいつでも横の席にいた。それぞれに魅力的なところがあった。二郎は熱に浮かれたように彼女たちにそれを教えてあげることができた。それを彼女たちが受け入れるかどうかは別にして。


で、どのようにして二郎が奴に飛ばされていったかだが、そのへんの記憶はじつは二郎自身にも曖昧だ。むしろ彼のまわりにいた子供たちのほうがよく知っている。倉持ふさえさんとか、大島ゆきこさんとか。

なにしろそれはいつも背後からやってくるのだ。汚い奴だ。彼に見えないように、気づかれないように、近づいてくるのだ。二郎は二郎で女の子の方に神経が集中しているから、校庭にいるまわりの子供たちが「逃げろ!逃げろ!」と声を張り上げて知らせようとしても耳に入ってこない。

彼がそれに気がつくのは、目の前でうつむいていた女の子が、倉持ふさえさんが、大島ゆきこさんが、岩館まりなさんが、顔を上げてこちらの顔をある決意と共に見返したときだ。二郎の耳に、なにやら洞窟の暗い穴底に吹き込んでゆく嵐のような、深く空虚な轟音が聞こえてくる。


そのとき彼女たちもはじめて気がつく。びっくり仰天した彼女たちの丸い目玉が、二郎を飛び越えてゆく。そして二郎は彼女たちの瞳に映った奴を発見するのだ。グルグルと渦を巻き、校庭の砂を舞い上げながらこちらに向かってくる、エグい奴を。

二郎は咄嗟に振り返る。でもそのときにはもう手遅れだ。彼はうしろを向いた瞬間、小さな虫みたいに背中のランドセルごと奴の手にヒョイと掬い取られる。金魚掬いの金魚みたいに掬い取られる。放課後の校庭にはほかにも子供たちが何人もいて、倉持ふさえさんだってすぐ側に立っているのに、奴はどういうわけだか彼だけを雲の上の盗賊みたいに天高く連れ去っていく。


目覚めるといつも満点の星空が見えた。曇り空だったり、月夜だったりしたこともあっただろうけど、二郎の記憶にあるのはいつでも満点の星空だ。夜の闇にいくつもの角砂糖がぶつかって、砕け散ったような。

奴は二郎を町外れの畑に置き去りにしていくのが常だった。彼はいつもそこで吐き捨てられる。背中のランドセルはたいていどこか途中でなくなっていた。

二郎は女の子たちに幼い愛の告白をしたはずなのだが、彼女たちからの返事はついに一度も聞くことはなく、代わりに夏の虫やカエルの声を聞かされる羽目になった。それは彼の耳に、あいつが「十年早いんだよ、坊主」と言っているようにも聞こえた。

それからしばらくして二郎は、ずっと自分を束縛していた倉持ふさえさんへの想いが、どこかに綺麗さっぱり消えてなくなって、体が妙に軽くなっていることに気づく。ポッカリと穴が空いた彼の胸は、若葉と耕された土の香りと夜の空気で満たされていった。


二郎は柔らかな自然のベッドの上でしばらくそうしていた。彼の頭はまだフラフラして、ときに夜空が海のように見え、そうすると雲に張り付いている彼自身が、上から波間に瞬いている星々を見下ろしているような錯覚が起きるのだ。そんな状態では上手に歩くこともままならない。

田舎の夜の空気は澄みきっていた。二郎の体は10キロほども飛ばされたはずなのに、どこもそんなに痛くはなかった。それでもシャツのボタンは飛んで、顔や腕はすり傷だらけだった。

奴の中でなにを見たのか、どうしていたのかは思いだせなかった。上空から街の明かりを眺めたなんてこともなかった。ただ、耳をすますと、ゴーという轟音だけが、鼓膜の奥で鐘の音みたいにずっと鳴っていた。

それはいつも5月の終わりだった。二郎は渦の中でグルグル回って気を失い、ぼんやりしながら目を覚ますと、畑の真ん中に捨てられているのだった。

魂を抜き取られたゾンビみたいな有様で家に着くと、いつでもランドセルの方が彼よりも先に部屋に帰ってきていた。


学校や大人たちは大騒ぎして二郎を問題児扱いしたし、クラスメイトは、赤チンとガーゼと絆創膏だらけの彼を教室にでたお化けみたいな目つきで見たし、倉持ふさえさんに至っては、目も合わせてくれなかった。もっとも、倉持さんに関しては彼の方でもすっかり気持ちが醒めていたから、それでいっこうに構わなかった。

町の大人たちは昔の古い映画に引っかけて「竜巻を呼ぶ男」というあだ名を彼に付けた。子供たちはみんな「竜巻二郎」と呼ぶようになった。

でも、中には「死神二郎」と呼ぶ子供たちもいた。あのとき校庭にいた生徒たちだ。彼らは奴が口を大きく開いた男の顔のように見えたと言う。渦巻く砂ほこりの中に死神の顔があらわれたと言う。黒い沈んだ目をした死神が、巨大な石造の顔が、二郎を呑み込んだのだと。

彼らだけは二郎を「死神二郎」と呼んで避け、卒業するまで決して側に寄るのを許そうとはしなかった。

それにしても不思議だったのは、子供たちも大人たちも、みんな一様に竜巻の一件を二郎一人の素行の悪さに求めていることだった。倉持さんが本当は超能力者で、彼女がその力でもって竜巻を呼んだと考えるような人間は一人もいなかった。まあ田舎だからしょうがない。


でも、町の人々の反応より二郎が驚いたのは、じつは彼自身の両親の態度だった。

二人は二郎を怒ったりはしなかった。むしろ普段よりも淡々としていた。なんだか最初からいつかこんな日がくるものと、二人して観念していたような感じだった。

父はいつでもたいてい無口だったが、その日の夜はことのほか無口だった。ビールを呑みながらずっとテレビを見ていた。とても一人息子が、奇跡の冒険をして生還した晩のようには見えなかった。

風呂で体を洗ったあと、母は赤チンを彼の体に塗ってくれながら、もう女の子のことは忘れなさいと、まるで小さな悪戯か子供の喧嘩でも咎めるぐらいな感じで言った。あたかもそんなことを注意しても無駄であることがハナから分かっている風に。


母は正しかった。子供たちも町の大人たちも正しかった。

二郎は女の子を決して忘れなかたし、倉持ふさえさんは超能力者でもなかった。彼はそれを一年後に自ら証明してみせた。隣の席になった女の子が二年連続で超能力者である確率は、ほぼゼロに違いないはずだった。

二郎は4年生になった。通っていた小学校では一年毎にクラス変えが行われた。彼の横の席になったのは大島ゆきこさんだった。大島ゆきこさんはハイソックスの似合う女の子で、いつでもピタッとしたハイソックスを履いていた。それが彼女の長いスラリとした脚に似合っていた。ハイソックスがとてもよく似合う......もうそれだけで二郎が彼女に夢中になるのには充分だった。

5月も終わりになろうとしていた。二郎の病気はすっかり再発していた。

それから数日後、放課後の校庭では一年振りの猛烈な竜巻が発生し、逃げ遅れた生徒はやはり一名だけだった。死神を見たという子供たちもやはりまたいた。


大人になった二郎はこう信じるようになった。ずいぶんひどい目にも会ったけども、あれはきっと自分を助けてくれていたのに違いないと。

もしも奴が彼の体を遠くへ連れ去ってくれなければ、彼の頭は冷めることなく、きっと熱に浮かれたまま、もっとひどいことになっていたのだろう。

もしかしたらあれは二郎の遠い祖先たちだったのかもしれない。祖先たちの化身だったのかもしれない。そうすると、彼の父も二郎と同じように何度も土の上に叩きつけられ、無数のすり傷をつくりながら、夜道を一人とぼとぼと家路に着いていたのかもしれない。

それは宿命のようなものなのだ。二郎はそう考えるようになった。自分たちの呪われた家系の。そう考えた方がずっと楽だった。悪いのは自分ではない、この体に流れる血が悪いのだ。

けれども、自分の祖先がそもそもどうして竜巻なのかは、どう考えてもまったく理解ができなかった。


ただ、それはいつでも校庭でなければいけなかった。放課後の理科室だとか、昼休みの図書館だとかはあり得なかった。

なぜなら、それが理科室だろうが、図書館だろうが、どこだろうが、奴は必ずやってくると察しがついたから。

教室の隅っこで、図書館の司書室で、奴は小さな微風として生まれ、やがて渦を巻きだしては勢力を強め、ついには理科室の棚に並んだビーカーやら試験管やらを次々に粉砕してゆき、図書館の本を熱帯地方の蝶の群れのように舞い上げてはバラバラにしてしまっただろう。


二郎の熱病は中学の卒業と共にようやく終わりを告げた。ついに彼は彼女たちの返事を校庭で一度も聞くことなく、少女たちは彼の前から逃げるように去ってゆき、二郎はいく度となく畑の土に叩きつけられ、吐き捨てられ、ようやく先祖たちと和解した。精霊たちはふたたび土に還って眠りについた。二郎は少しずつだが大人になろうとしていた。周囲と折り合いをつけられるようになっていた。

もっとも完全にそうなるためには、森の熊のように一度冬眠しなければならなかった。彼の情熱は外から内に向かって流れていった。高校生になった二郎は一人で本を読むようになり、音楽を聴くようになり、休日には目的もなく隣の県まで一人自転車を走らせた。出口はどこにもなかった。

いつしか二郎はこの町からでていくことだけを考えるようになった。そのために参考書を開いて勉強するようにもなった。町をでるには進学するのが一番いいように思えたのだ。

進学先は東京の大学を選んだ。とにかく田舎でない場所に身を置きたかった。

志望校にどうにか合格して、中央線沿線の安アパートに下宿先を見つけた。大学がはじまったらサイクリング部に入ることに決めていた。


いよいよ故郷の町をあとにしようとする日、二郎は父のお下がりのボストンバッグだけを持って地元駅のホームに一人立った。ほかの荷物はあとから下宿先のアパートに届けてもらうことになっていた。

母が改札口まで見送りにきてくれた。父は朝からどこかへ出かけて姿を見せなかった。

二郎は一時間に一本しかやってこない田舎列車をホームで待っていた。天気のいい春の日だった。澄んだ気持ちの良い青空がどこまでもつづいていた。新たな門出に、これ以上のシチュエーションはないように思えた。

それでも彼の心には一抹の不安があった。細長いホームのどこかに、待合室の隅っこに、ホーム下の影に、小さな小さな竜巻の精霊が身を潜めているような気がしてならなかった。自分と同じ電車にこっそり乗り込もうとして。


せっかく暗い冬眠生活を終えて目覚めの春を迎えたというのに、竜巻二郎でも死神二郎でもなく、せっかくただの二郎として生まれ変わろうとしているのに、おせっかいな祖先の精霊と一緒に上京するつもりにはとてもなれなかった。

もしも学生生活の中で好きな女の子ができて、畑がないからどこかの学校のグランドにでも投げ捨てられたりしてはたまったものではなかったし、これから先々、街頭の木の葉が舞うのを気にしたり、ちょっとしたビル風が吹いただけで腰を抜かしたりするのは真っ平御免だった。

彼はまだまだ大人というわけではなかったかもしれないけど、そうかといってもう熱に浮かれた子供でもなかった。独り立ちする時がきていたのだ。

二郎は用心深く電車に乗り込んだ。車内はことのほか空いていた。彼は向かい合ったボックス席に一人で腰掛けた。


すべり出しは好調だった。天気も季節もよかった。電車は空いていた。

嫌な予感がしてきたのは、電車が繁華街を抜けて町外れにさしかかってからだった。家の数がどんどん少なくなって視界に入ってくるのは緑と土の畑ばかりになった。

そこは危険地帯だった。そこは奴の土地だった。緑色の土地、茶色い土地、黄色い土地、いつどこから現れてもおかしくはなかった。そしていったん姿をあらわせば、奴のスピードならば田舎電車など簡単に追いつけるはずだった。

彼は乗客のいない車内の両脇の窓に忙しく目をやった。まったくどこまでいっても畑ばかりだった。そんな風景が360度広がっていた。


電車はゆっくり鉄橋を走って川を渡った。そこからしばらく線路は高台になっていて、下方に広がる畑ばかりの土地がパノラマのように見渡すことができた。

そして二郎は奴を見つけた。

思ったよりずっと小さかった。人間の大人と同じぐらいの背丈しかなかった。でもそれは間違いなく奴だった。畑のど真ん中で猛烈に渦を巻きながら、堂々と周囲の草木や土をまき散らしていた。まるでそこから電車を睨みあげ、こちらの様子を探ってるみたいだった。

彼はとっさに窓の下に身を隠した。そして頭半分だけをだして下の土地を見下ろした。

奴は動かなかった。畑の真ん中にじっとしていた。動いているのは電車だけだった。奴の姿はどんどん遠ざかって小さくなっていった。いつか子供たちが言っていた死神めいた表情はどこにも見当たらなかった。

二郎は急に窓を押し上げた。それまでの自分の思い込みは投げ捨て、彼は身を乗りだして手を振りはじめたのだ。

でも、奴の姿はもう見えなかった。


(おしまい)


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