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うしろの霊子さん(後編)

丘の上ホテルはその名のとおり都心に位置する丘の上に建っていて、こじんまりとした昭和風のホテルだったけども、歴史があり、部屋からは敷地を囲んだ林の向こうに山の手の街並みを見下ろすころができた。

私と加藤はその最上階を貸し切りで使っていた。ホテルのあらゆる所に会社の雇った黒服のSPたちが24時間張り付いていた。朝になると私たちはホテルの駐車場から社用車で出て丘を下り、霊子さん共々、諸々のスケジュールをこなし、挨拶回りをし、夜になると今度は丘を上って真っ直ぐホテルへと帰ってくるのだった。

恋人にはもうずっと、つまり霊子さにとり憑かれてから一度も、会っていなかった。持っていた携帯は取り上げられ、代わりに手渡された携帯は、加藤だけとしか繋がらないようになっていた。

それが会社が決定した方針らしかった。私はまるで人質にされたアイドルみたいだった。


「〈霊子さんバスターズ〉という危険な組織がいるんですよ」

ホテル一階の中華レストランで加藤が言った。ディナーの時間だったけども、テーブルについている客は私たち二人きりだった。

「だいたい霊子さん暗殺を目論んだライバル企業が雇うんです」

「暗殺って言ったって、霊子さんはもともと背後霊じゃないか」

「幽霊退治ですよ。除霊の最先端なやつです。特殊な電子光線を霊子さんに向けて至近距離から発射するんです。そうすると霊子さんは空気中に分解されて消えてしまうらしい。もっともこれまで暗殺に成功したって話は聞いてませんけど」

「電子光線なんて眉唾だな。どうせ端からインチキなんだろ」

「それがその〈霊子さんバスターズ〉たち、噂によると、霊子さんのあまりの美しさに手が震えて、手元が狂ってしまうらしいんです」


どうも〈霊子さんバスターズ〉は、その存在自体が私にとっては眉唾ものだった。それは私をホテルに幽閉するために、会社と加藤がグルになって考えだした大袈裟なホラ話のように思えた。愚かな権力者たちが、恐怖心を煽って民衆を統治するかのような。

でもそうではなかった。そんな連中が確かに存在したのだ。しかも事実は噂以上に奇天烈なものだった。私はそれを加藤がホテルの部屋まで持ってきた朝刊の一面で知った。

ベッドの上でパジャマ姿のままトーストに噛り付きながら、私はその記事に目をやった。そこには霊子さんの美しさの前に懺悔し、どういうわけだか襲撃の前に自首してきた〈霊子さんバスターズ〉たちの間抜けな顔写真が並んでいた。彼らは特殊な防護服に身を包んだビルの清掃員みたいだった。


しかし、そんな組織を雇う企業にしろ、襲撃前に自首する〈霊子さんバスターズ〉にしろ、私たちの乗った社用車を追いかけてくる男どもにしろ、女どもの霊子さん信者(彼女たちは、霊子さんを霊子様と呼ぶのだ)にしろ、私はどうも世間一般が霊子さんを過大評価し過ぎているような気がしてならなかった。みんなが広告代理店の作りだした「霊子さんバブル」に踊らされているかのような。

でもそれもまた私の誤りだったのだ。なにしろ私には、私だけには、霊子さんの姿が見えないものだから、つい見当を間違えてしまうのだ。

けれどもある日、ついに私も霊子さんの姿を目の当たりにするに至り、ようやく自分の考えを正すことができたのだった。

ただしそれは、巷の霊子さん信者たちのような霊子さんの美貌だけに踊らされての結果ではなかった。私はもっと深い所で霊子さんの存在意味をセットで理解したのだ。霊子さんとその傍に立つ冴えない男たちの存在の。


とある経済団体のパーティーでのことだった。会場になった一流ホテルの大広間には、様々な業界のトップたちが出席していた。

業界のトップがいる所、必ず霊子さんがいる。つまりその会場には様々な業界に君臨する、様々な霊子さんたちが集結していた。様々なピンク色の事務員制服のパターンを確認できた。いってみればそのホテルの大広間は「全日本霊子さん博覧会」状態なのだった。

加藤によればそういった催しは年に数回行われていて、新人霊子さんの公式なお披露目の場にもなっているらしく、私も霊子さん共々、万雷の拍手と歓声でもって金屏風の並んだ壇上に上げられ、社長も鼻高々の様子だったけども、まあそんなことはどうでもいい。

肝心なのは、私がそこではじめて霊子さんと呼ばれる、女性背後霊の集団を目撃し、さらに言えば、自分以外の〈お憑かれさま〉たちに出会えたことだった。


なんというか、それはこの上なく貴重な経験だった。私は決して一人ではなかった。私たちは同じ時代をともに生きていた。それが嬉しかった。私は霊子さんたちに手を振り、手を振り、手を振った。拍手もした。同じ時代に生きている喜びを体全体に感じて、なにかを大量に発注したくなった。私は何人もの霊子さんと顔を合わすたびに、彼女たちの輝きを目の当たりにするたびに、その思いを強くした。

そして恐らくは、その感情は霊子さんを取り巻く世間一般のそれに限りなく近いものであっただろう。世の中を動かしているのは間違いなく彼女たちなのだ。

だがしかし、そんな霊子さんたちを背にして立つ男たちの顔といったらどうだろう。〈お憑かれさま〉たちの顔といったらどうだろう。

彼らにはまったく表情がなかった。いいや、表情はあった。笑い男のお面のようなツルツルした不気味な微笑がそこに張り付いていた。彼らはまるで、うしろの霊子さんに生気を吸いとられ、操られている、醜い笑うサラリーマン人形のようだった。


「あれが元B社の霊子さんと〈お憑かれさま〉ですよ」

パーティーも終盤になったころ、加藤が私にそっと耳打ちした。

一つ向こうのテーブルに私よりちょっと若い社員と、私たちに生きる喜びを与えてくれるピンク色の制服姿の女性が並んで立っていた。私と私の霊子さんによって業界から追いだされてしまった二人は、揃って別の業界へと転職していたのだ。一業界に一霊子さんの決まりによって。

しかし、ああ、なんということだろう。私は思わず目を背けずにはいられなかった。元ライバル社員の男にはやはり表情と呼べるものがなかった。お面のようだった。私は苦労してまで彼と同じ時代を生きたいとは思わなかった。

しかし、そのうしろに立っている霊子さんはやはり素晴らしかった!そして私のうしろにいる霊子さんは、あの彼女よりもさらに美しいのに違いないのだ!


「〈霊子さんバスターズ〉を呼んでくれ。今直ぐにだ」

パーティー帰りの車中で、私は機嫌悪そうに言った。実際に私の機嫌は悪かった。秘かに世界を呪っている中学生並だった。

「なに言ってるんですか。霊子さんのいる隣で」

加藤がたしなめた。レディの前でなんてことを口走るんだ、といった感じで。私の機嫌はさらに悪化の一途をたどった。なにが霊子さんの隣で、だ。私は〈お憑かれさま〉だ。私が主人なのだ。

「君はよほど背後霊が大事らしいな。生きてる人間よりも」

「そんなこと言ってませんよ」

「なら今直ぐ〈霊子さんバスターズ〉を雇うんだ。〈お憑かれさま〉たちの顔を見ただろ?私はあんな風にはなりたくない。あんな風になったら人生お終いだからな!だからもう霊子さんとはおさらばだ!」

「〈霊子さんバスターズ〉なんてインチキですよ。自分でそう言ったでしょ」

「なら恋人に会わせてくれ。私の恋人に。これから車で直行するんだ」

「それはできません」

「できるさ。だって君ですら毎週のように私の恋人に会ってるじゃないか。それを会えないとは言わせないぞ」

私は二人の間の霊子さんを飛び越え、加藤の胸ぐらを掴んだ。

私が言ったことは本当だった。マネージャーである加藤は、私と恋人との橋渡しの役も担っていたのだ。彼は私の言葉を彼女に伝え、彼女の言葉を私のところまで運んできた。それだけではない。加藤は私の洗濯物を彼女から受け取り、ときに私のために彼女がこしらえた手作り弁当まで運んでいたのだ。


「手をどけてもらえますか」

車中で加藤が言った。私はそれを無視してつづけた。

「あいつらの顔を見ただろ?〈お憑かれさま〉たちの。あれはすべてを諦めた男の顔さ。愛する恋人を捨てて霊子さんを選ぶと、人間はあんな間抜けな顔になっちまうんだ」

「違いますね。あれは恋人が石になるのを見た顔ですよ。自分の目の前でね」

加藤の意外な言葉に、私はようやく手を離した。彼は乱れた髪をしなやかな指先で直してつづけた。

「霊子さんの怒りを買った女性は、彼女に石にされてしまうんです」

「嘘つけ」

「そう思うのなら、今夜のうちにコールガールでも買ってホテルに帰ってみればいい。明日の朝には、ベッドの隣で横になってる石の冷たさで目が覚めますよ」

「縁起でもないこと言うな」

「大丈夫。不可抗力だから逮捕はされない。その代わり、あなたは一生罪の意識に苛まれる。石になったのが自分の恋人ならなおさらだ。〈お憑かれさま〉みたいな顔になる」

加藤はハッキリと言い切った。私の反乱はあっという間に制圧された。自分から見ても、自分自身が袋小路に陥っているのが分かった。


「要するに君はアレか、私の残りの人生、独り言とオナニーだけを糧に生きろって言いたいのか」

私はなおもレディの前であることを無視して口走った。ただ、さっきまでの勢いはもうなかった。加藤もいくらか私に同情するかのように声のトーンを下げた。

「まあ、そんなとこですね。その代わりにあなたは巨万の富を手に入れる」

「そんな人生になんの意味がある。私は金も名誉もいらない。ただ愛する女性と一緒にいたいだけなんだ。私は君たちみたいにモテる男じゃないからな。彼女は、私がこの歳になって、やっと手に入れた幸福なんだ」

加藤はしばらく黙り込んだ。唇に人さし指をあて、何事か考えあぐねている様子だった。それからようやく彼は口を開いた。

「一つだけアイデアがありますけどね。これが上手くいけば、あなたは毎日恋人に会えるかもしれない」

「なんだ、なんなんだ、それは」

「赤の他人の振りをするんです。マユミさんと。霊子さんが嫉妬しないように、距離を置いて接するんです」

「なるほど、その手があったか」

「名付けて、プラトニックラブ作戦です」

べつに名付けなくてもいいのだが、よほど自信があったのか、加藤は調子にのった参謀みたいに言った。

しかし、そのプラトニックラブ作戦には大きな欠点もあった。私は恋人に会いたい一心でそれすら気がつかなかった。

私はただ、まんまと加藤の術中にハマっていたのだ。


加藤が私のためを思って、私の願いを聞き入れるとは考え難かった。加藤はそういう男だ。彼が私のために危ない橋を渡ることはない。

だから私は、きっと加藤が私の恋人に根負けしたのだろうと考えた。彼は私ではなく、私の恋人に説得させられたのだろうと。彼女の思い込みの激しさに、その一途さに気後れして。彼はいく度となく彼女からも催促されていたのだ。恋人に会わせてくれ、と。

実際、私の彼女にはそういうところがあった。べつに普段から気が強いわけではないのだが、ただ一度こうと決めたらもう一歩も引かない、商売人の娘として育った一本気なところがあった。

加藤は、私と恋人との橋渡しをするうち、そんな彼女に心動かされてしまったのに違いない。私はそう思った。もしかしたらちょっと惚れてるのかもしれないと。

それはそれで考えられないことではなかった。でも今回だけは許してやろう、見逃してやる、私はいつになく太っ腹だった。だって、なにしろ私の恋人ときたら、霊子さんとはまた違った、不思議な魅力を持った愛すべき女性なのだから......。

「すべての準備ができました」

数日後、同じ車中で加藤が言った。

「ホテルに帰ったら、マユミさんが部屋にきています。でも、決して彼女に手を触れたり、愛の言葉をささやいたりしてはいけません」

「霊子さんの祟りか?」

「そうです。マユミさんを石にしたくはないですからね。くれぐれもホテルに滞在してる一人の客として振る舞ってください」


車が丘をのぼりだした。私の鼓動も舞い上がった。ついに恋人に会えるのだ!

けれども、じつのところ私は、生まれ変わった自分の姿を彼女に見てもらえるのが嬉しくもあったのだ。だからこそ、触れることもできないという厳しい条件を呑むことができた。

会社をクビになりかけた輩が、高級スーツを着て、ホテル暮らしをして、会社の車で送り迎えをしてもらっている。そんな姿を見てもらいたかった。自慢したかった。今の私だったら、彼女を援助することだって朝メシ前なのだ。

私たちはホテルの玄関前で車をおりた。SP付きのエレベーターに乗って最上階に到着すると、加藤が部屋のドアを開けた。

窓際のソファーに腰掛け、夜の東京のネオンを見下ろしていた彼女は、入ってきた私たちを出迎えて静かに立ち上がった。

いつもの三角巾と前掛けではなく、ホテルの黒いメイド服に身を包み、その上に白いエプロンと頭にカチューシャをのせた別人のようなマユミがいた。隠れ恋人である偽メイドは私に挨拶した。

「お帰りなさいませ。今日からお客様の身の回りのお世話をすることになりました、マユミと申します。よろしくお願いします」

そう言って、彼女は少女のように頬を赤らめて深々とお辞儀をした。私はマユミと二十年振りに再会した夜のことを思いだした。


彼女は私が学生時代に足繁く通った大衆食堂の一人娘で、その店の看板娘だった。ただ、私がマユミと最初に出会ったとき、彼女はまだランドセルを背負った女の子で、最後に会ったときもやはりランドセルを背負った女の子だった。彼女はあくまでマスコット的なオカッパ頭の店の看板娘だったのだ。

だから二十年振りにその中央線沿いの学生街にある大衆食堂にふたたび足を踏み入れたとき、「久しぶりね」と声をかけられても、その白い三角巾を被った女性がランドセルを背負っていた女の子と同一人物であるとはまったく気がつかなかった。

なにしろ二十年振りなのだし、以前だってほとんど会話らしい会話などしたことがなかったのだし、私は大勢いた客の中の一人に過ぎなかったわけだし、さらに本当のことを言えば、その大衆食堂にそんなマスコット的な女の子がかつていたことさえも、ほとんど忘れていたのだ。


けれど、どういうわけだかマユミの方は私のことを憶えていた。おまけに店に入ってきた瞬間、すぐに分かったらしかった。昔々、自分がまだ子供だった頃によく店にきていた貧乏そうな学生が、スーツを着て二十年振りに帰ってきたのだと。

「久しぶりね」

そう言って彼女がテーブルにコップの水を置いたとき、この女性はてっきり私をほかのサラリーマン客と勘違いしているのだろうと思った。

けれども私がメニューを手にとるよりも早く、「B定食でしょ?」と言って注文を書きとめ、カウンターにもどってゆく後ろ姿を見ているうち、頭の中の錆びついた記憶の歯車がギシギシと回りはじめたのだった。

(なんで.....B定食?)

そうだった。それはB定食で正解なのだ。なぜなら学生だった時分、私が注文するメニューはいつもB定食に決まっていたのだから。


そんなわけで、私は昔懐かしいB定食を味わいながら記憶の糸をほどき、それを急いでたどることになったのだった。

そうしないわけにはいけなかった。なにしろカウンターでは、さっきの三角巾の女性がなにやらこちらの方を訳知り顔でチラチラ見ながら微笑んだりしているのだ。

これは一大事。私のようなモテない男にとっては青天の霹靂だ。

早くなんとかしなければならない、そう思った。私とあの女性との間にはなにか接点があるのだ。そうでなければ、食事中の客の顔をジロジロ見るわけがない。遅くとも、レジで財布を開くまでにそれを思いださねば......。

私はもう女性が勘違いしてるとも、それが客寄せのためのサービスなのだとも疑ったりはしなかった。

私の頭は学生だった頃にフルスピードでタイムスリップしはじめた。それは意外に簡単な作業だった。食堂の内装は昔のままだったし、壁のテレビの中で喋りつづけているお笑い芸人でさえ昔と同じ男だった。ただちょっとだけ皺の数が増えただけだった。

「お水足しましょうか?」

数分後、三角巾の女性がテーブルのコップにポットの水を注ぎにきてくれた。

「ありがとう」

私はコップをうけとって言った。それから久しぶりに会った親戚のおじさんみたいにこうつづけた。

「大きくなったね」


どこからどう見ても大人の女性に対して、それはまるでバカみたいな挨拶の仕方ではあった。でもまあ、なにも言わないよりはずっとマシだった。

その夜からというもの、私は毎日のように彼女の微笑みを見た。次第に食堂の外でも見るようになった。そしてついには毎夜のように間近で見るようになった。

それはこれまで女性にモテたことなどなかった私にとって信じられない事の成り行きだった。マユミはときに私が尻込みしてしまうぐらいに積極的だった。

でもそこには彼女なりの理由があったのだ。相手が私だからって、決して誰でもよかったというわけではなかったのだ。


マユミがふたたび店にでるようになったのは、離婚して実家に帰ってきてからのことだった。

彼女はOL生活に挫折し、結婚生活に破綻し、夢も希望もなくした状態で、おまけに体調まで崩して実家にたどり着いたのだった。

食堂にでて働くようになってから、マユミは肉体的にも精神的にもゆっくりとだが回復していった。大衆食堂は彼女にとってまさに家であり、職場であり、子供の頃そうだったように、ふたたびかけがえのない場所になっていった。そこには人々とのまっとうな繋がりがあり、生活の活気があり、笑顔があった。

マユミは子供だった頃の自分に日々もどっていくような心持ちがしていた。そして店のカウンターに立っては、子供だった時分に眺めていた昔の常連客たちが、ふたたび暖簾をくぐって、この店に帰ってくる光景を夢想するようになった。もしもそんなことが起きたなら、彼女の妄想は完璧な現実へと昇天するはずだった。

けれど、一度この街からでていったかつての若者たちは、二度ともどってはこなかった。誰も彼もが、履きつぶした草履のようにこの街を捨てたきり、帰ってはこなかった。

そこにヒョッコリあらわれたのが私なのだ。右肩下がりのサラリーに堪えきれず、昔住んでいた家賃の安い学生街へと、私はのこのこと帰ってきたのだ。


「マユミは私のことなにか言ってたかい?」

「いいえ、特になにも」

「それじゃ、私がマユミのことをなんて言ってるか、マユミは聞いてなかったかい?」

「いいえ、特になにも」

丘の上ホテルにマユミがやってきてからというもの、私と加藤は毎朝同じ会話を車中で繰り返すことになった。

それはある意味当然のことではあった。なにしろ私と彼女は同じ建物の中にいながら、遠く身分の離れた者同士のように、直接会話することができないのだから。

しかし加藤からでてくるマユミの言葉は、丘の上ホテルへの賛辞と、霊子さんへの賞賛ばかりなのだった。私へのねぎらいの言葉など一言も聞かれなかった。

この状況に、てっきり私は加藤がわざとマユミの発言を自主規制しているのかと勘繰らずにはいられなかった。訳ありな言葉で、私の下心が妙な気を起こさぬようにと。

それでつい私は車の中で加藤を執拗に質問攻めにしてしまうのだった。つい彼がポロリとこぼすのを期待して。

だが実際にはそうはならず、マネージャーが癇癪を起こすのが常だった。

「だからなにもないって言ってるでしょ!」

いつも冷静な加藤はうんざりして言うのだった。


事態は思わぬ方向に進んでいった。いいや、むしろ事態は真面過ぎるほど真面に進んでいたのかもしれない。マユミは私よりもよほど状況を理解して、それに順応していたのだ。

彼女が丘の上ホテルに馴染むのにそう時間はかからなかった。彼女はもう偽メイドではなかった。せっせと働き、仲間の信頼を勝ち取り、冗談を言い合っていた。

マユミは従業員の一員になっていた。職場の人気者ですらあった。霊子さんの存在と共にホテルを明るくする看板娘だった。誰よりもメイド衣装が似合い、外国のホテルだったらきっと従業員一のチップ稼ぎになっていた。

彼女は今一つの天職を見つけたかのように私の目に映った。実家の食堂を愛するように、ホテルを、メイドの仕事を愛していた。

マユミはよく働いた。まるで恋人である私のことなど忘れてしまったかのように。


それでも折に触れ、たとえ言葉は交わすことはなくとも、私はマユミの優しさを感じることはできた。

彼女は毎朝クリーニングされたスーツとシャツを私の部屋にとどけてくれた。コーヒーとトーストを運んでくれた。いつも部屋を清潔にしていてくれた。

そしてときにホテル内で交わる視線には、特別な愛情を感じることもできた。彼女は私と目が合うたびに少女のように頬を赤らめては嬉しそうに微笑むのだった。私はその一つ一つの限られた瞬間に、かつての長い愛撫よりも、深く秘めた純粋な愛情を感じることができた。まるで十歳も二十歳も若返ったみたいなこんな初々しい男女交際は、これまでの私たちにはなかった経験だった。

けれども結局のところ一人になれば、私は悶々とした眠れぬ夜をベッドで過ごさなければならなかった。昼間の二人が純血であればあるほど、夜の私の悶々は淫らになり、それはマユミがメイドとして働くようになってからかえってひどくなる一方だった。

部屋の明かりを消してベッドに入ると、私の目の前にはピチピチのメイド衣装を着たマユミの姿が、夜の海原に浮かんだ満月のように、ありありと昇りはじめるのだ。


そんなわけで私はマユミに会うことができ、マユミもまた石にならずにすんで、加藤が考えたプラトニックラブ作戦は見た目には大成功だったのだけども、眠れぬ夜がつづき、このままでは身が持たないと、ついにマユミにはしばらくメイドの仕事は休んでもらって、当分の間、また実家の食堂を手伝ってもらった方がいいのではないかと考えはじめたころだった。

その夜も私はまた眠れずに、何度も寝返りをうっては、マユミの肉体を闇に葬り去ろうともがいていたのだけども、ついに頭にきて、ベッドに起きあがったのだった。

そこに彼女が立っていた。メイド姿のマユミが。頭にカチューシャをのせたまま。

カーテンの隙間から月明かりが射していた。最初は幻を見ているのかと思った。でも幻にしてはリアルすぎた。ついに我が妄想もここまできたかと、なかば自分に呆れ、自分の身の上を呪うための言葉を探しはじめた。

だが幻は、そんな私を諭すかのように優しくつぶやいたのだ。「もういいのよ」と。


幻は言った。つまりマユミは言った。

私は彼女に救われたのか。それとも奈落の底へ落ちようとしていたのか。

「もういいの」

マユミはまたつぶやいた。そしてエプロンを取り、私の目の前でメイド衣装を脱ぎはじめた。

「いけない。石になってしまうよ」

私は言った。でも彼女には聞こえていなかった。

「ありがとう。あなたは私を救ってくれた。私はあなたのおかげで本当の愛を見つけることができたの」

そう言ってマユミは最後の一枚を脱ぎ捨てた。

私は自分の背後で何かが動きはじめる気配を感じた。何かが私の背を強く押した。尖った爪をした手に肩を鷲掴みにされた。私は動くことができなかった。息をするのがやっとだった。

マユミが獣のようにベッドを上ってきて、私の唇に唇を押し当てた。私のパジャマのボタンを外し、ズボンとパンツをずり下ろした。そして私をベッドに押し倒した。

悲しいことに私はすでに勃起していた。恋人が石になろうとしているのに勃起していた。マユミはとうとう処刑台の上に跨った。

やがて彼女の激しい息づかいが聞こえてきた。マユミは私の耳元でささやいた。私を強く抱きしめながら、もがきながら、何度も熱くささやいた。

私はようやく理解した。〈お憑かれさま〉たちのあの微笑の意味を。あれは霊子さんに生気を抜きとられたのではなく、恋人が石になったのを見たのでもなかった。あれは自分の恋人をその同性に寝とられた男たちの顔だったのだ。

「霊子様......ああ、霊子様......」

マユミは私の耳元で何度もそう言っていた。


目覚めは悪くなかった。いや、むしろ最近では一番いい方だった。裸のままベッドで上半身を起こすと、スーツ姿の加藤がソファーで朝刊を読んでいた。

そこにメイド姿のマユミが入ってきて、コーヒーと、気恥ずかしそうな微笑を残してスウッとでていった。コーヒーは加藤のために。微笑は恐らく霊子さんのためだろう。これまでだってずっとそうだったのだ。

「彼女、石にはならなかったようだ」

「そのようですね」

加藤は新聞から目を離さなかったし、必要最小限のことだけしか口にしなかった。でもそれで良かった。

「君はアレだろ、最初からこうなるって分かってたんだろ」

「なぜそう思うんですか?」

「推測するに、それはかつては君も〈お憑かれさま〉だったからだ」

「おもしろい」

「どうやって消したんだ?〈霊子さんバスターズ〉を雇ったのか?」

加藤は新聞を畳んでテーブルに置いた。

「コーヒーどうですか?」

「いいね。でもその前に熱いシャワーだ」

私は忌々しいベッドをでた。


(おしまい)


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