うしろの霊子さん(前編)
ついにわが社にも霊子さんがやってきた。待った甲斐があった。社長をはじめ全社員の表情がパッと明るくなった。これでわが社も安泰だ。みんながそう思った。
目撃情報によると、その日の午後、霊子さんは会社玄関の自動ドアから、ごく普通に、極めて自然に、あたかも前々からうちの社員であったかのように入ってきたらしい。
しかしその場に居合わせた人々にとって、それは普通でも自然な出来事でも、どちらでもなかった。霊子さんの登場は、まるでロビーの空間が彼女を中心に歪んでいく、世紀末の油絵の中にいるような錯覚を彼らにもたらしたのだ。
美術館や映画館のスクリーンでしかお目にかかったことがない、存在するはずのない美が、なぜだか会社のロビーに突然出現して、重力をも支配するかのように自らは音もなく移動してゆく。荒波を優雅に泳ぐ一羽の白鳥のごとく。
美女ばかりと言われる霊子さんの中でも、わが社にやってきた霊子さんはとびっきりの美女だった。東京一、いいや関東一だった。各業界の霊子さん事情に詳しい営業部の社員たちも、あんなに綺麗な霊子さんには今までお目にかかったことがないと言うぐらいに。
電話対応していた受付嬢は受話器を落とした。商談していた社員の指から取引先の名刺が紙屑のように滑り落ちた。その取引先は腰を抜かして床に尻もちをつき、急ぐ営業社員はつまずいてカーリングの石さながら床を滑っていった。呆然と見惚れて我らの美の行く手を塞いでいた重役は、まだ研修中の新入社員によって尻を蹴り上げられた。
「霊子さんはある日、なんの前触れもなく、玄関から入ってくる」
その都市伝説は本当だった。アポイントもなく、誰の紹介もなかったけれど、その姿をはじめて見た誰もが、彼女が霊子さんであることを、私たちの霊子さんであることを、すぐさま確信した。お約束の淡いピンク色の事務員めいた制服を身にまとって。
けれどそのスカートの丈は標準的な事務員のそれより数センチほど短い。そしてその数センチは、世界中のすべての数センチを集めた合計よりも巨大なすき間であり、クレオパトラの鼻の高さぐらいに遥かに偉大なのだ。
エレベーター前に立っていた社員は、まるで歴史上の偉人に仕えるかのように霊子さんが指差した階のボタンを押した。
そのとき私は10階の会議室にいた。通称「帰らざる部屋」と呼ばれる場所に。
そこで私は十名ほどの老若男女の社員たちと一緒に、いかに我々が能なしで、いかに我々が会社のお荷物で、いかに人生の落伍者であるかを、自己開発セミナーさながら延々と説き伏かされているところだった。私たちの堕落した社会人生活を建て直すのには、もう早期退職という荒治療しかないというのが会社側の言い分だった。
私たちは長いパイプ机を前に横一列に座らされていた。私たちと奴隷とを分け隔てるのは、もう尻の下にある椅子の存在のみと思われた。
目の前の短いパイプ机には、不気味な笑みを浮かべた二人の社員が並んで掛けていた。ダリのような髭をたくわえた謎の双子社員。彼らは笑い男のお面を被っていた。彼らはスーツを着た笑う死刑執行人だった。
それは午後の仕事がはじまったばかりの時間に起きた悲劇だった。いつものように自分のデスクにいた私は、突然オフィスに侵入してきた笑い男に肩を叩かれたのだ。
笑い男が浮かべるその微笑は人を愉快にするより、むしろ不安にさせる記号だ。そしてその記号性はここ社内で、この会社で、とくに際立っていた。
その場に居合わせた何十人もの同僚たちは、今まさに自分たちの部署で繰り広げられようとする光景に凍りついていた。オフィスは一瞬にして氷の宮殿へと場面転換したかのようだった。誰かがボールペンを床に突き立てれば、そこから稲妻のようなヒビが瞬く間に広がって、オフィスのすべてが崩れ落ちそうな気配だった。
みんな動かなかった。息を殺していた。ミシッ、ミシッと、どこかで氷の魔のささやきだけが聞こえてくるようだった。
「これから配る書類に必要事項を記入してください」
笑い男がスーツの上のお面から籠った声を発した。もう一人の笑い男が横長のパイプ机の上に書類を置いていった。その一番上には「早期退職申請書」と書かれていた。
「不明な点があったら遠慮なく挙手してください」
籠った声が言った。
まったくなんて茶番だろう。社外の人間がこの光景を見たら一体なんと言うだろう。私は思った。しかし同時に、私は彼ら笑い男たちの気持ちも分からないではなかった。もしも私が彼らと同じ立場にいたなら、やはりなにかしらの方法で顔を隠したいだろうから。
悪いのは会社や経営陣ではない。ましてその手先に過ぎない人事部社員でもない。さらに言えば、我々リストラ対象者ですらない。
悪いのは霊子さんだ。わが社のライバルであるB社側にとり憑いた霊子さんだ。悪いのは彼女一人だ。
とり憑かれた側にとって霊子さんは世紀の女神だけども、とり残されたその他大勢にとっては世紀の悪女になる。そこは一人の勝者がすべてを手にする世界なのだ。
「霊子さんを恨んで会社を恨まず」
いつごろからかそんな格言が当たり前のように社内でささやかれるようになった。誰も彼もが観念していた。営業部も、宣伝部も、企画開発部も。ぐーの音もでなかった。霊子さんが相手ではしょうがない。歯が立たない。
今や企業の業績を決めるのは品質でもサービスでもアイデアでもなかった。それを決めるのは霊子さんだ。霊子さんの存在だ。消費者は一番美しい霊子さんのいる企業の製品を買いたがり、サービスを受けたがり、取引先は契約したがるのだ。
そんなわけだから私も潔く観念して、机上の書類に必要事項を記入しはじめたのだった。
「なんですか?」
笑い男が唐突に言った。
「どういう要件ですか?」
もう一人の笑い男があとを追った。
私は書類に記入していた。空欄を埋めていった。私にできることはそれだけだった。
「ちょっと待って。みなさん一旦ペンを置いてください」
笑い男がなにやら緊張した声で発表した。私はかまわず書きつづけた。私にできることはそれだけだった。
「もういいです。ペンを止めて!」
笑い男が私に向けて声を荒げた。私はもう意地になっていた。〆切に追われる漫画家のごとくペンを走らせた。
気がフれはじめた私の手の上に笑い男がその手を置いた。力はあったけども女みたいにしなやかな指をしていた。彼はもう笑い男ではなかった。私より一回りは若い人事部社員だった。彼はお面とはだいぶ違う端正な顔付で私を真剣に見下ろしていた。髭なんてまったくなかった。
「もういいんです」彼は静かに言った。「すべて終わったんです。もうこの会社では誰も解雇されません」
なんだか長かった戦争がやっと終わったみたいな物言いだった。さっきまで死刑執行人だった男が自由と平和をもたらす開放軍になった。スローターハウスが日曜日の教会に様変わりした。
人々は笑顔をとり戻して自分の席を立った。喜びの輪に参加するために。けれど、彼らがとり囲んだのは解放軍ではなくて、捕虜仲間である私の方だった。
老若男女の同僚たちが、元笑い男たちが、一つの家族になったみたいに私のなにかしらをお祝いしてくれていた。
でも、その日は私の誕生日ではなかった。私はなんのことだか分からないまま、彼らの幸福そうな笑顔をパイプ椅子から見上げていた。
「僕の名は加藤。ついさっきまでこの会社の人事部社員でした」
笑い男のお面を被っていた男が、私の手を握ったままおかしなことを言いだした。
「じゃ、今はなんなんだい」
私は握られた手から視線をあげてたずねた。
「これから僕はあなたのマネージャーです。よろしく」
「私にマネージャーなんて必要ないよ」
「あなたがそうでも、会社はそうは言わないでしょう。これからあなたにはマネージャーが必要だし、あなたのうしろに立っている女性に、男として興味を抱かない社員もそうはいないでしょうから」
加藤と名乗る若い男は、そう言って机にお面を置いた。
その午後、社内のそこかしこのオフィスでは、さぞかし不思議な空気に包まれたことだろう。なにしろ「帰らざる部屋」に連れて行かれた同僚たちが、もとのデスクにもどってきたのだから。それもまったくの無傷のまま。こんなことはかつてなかった。
それはUFOに連れ去られて行方不明になっていた肉親が、ある日ふと、玄関のポーチからもどってきたような、そんな感じに近かったかもしれない。
しかし全員が無事に故郷に帰還できたわけではなかった。そこには例外もいた。さらなる遠い異郷の星へと連れ去られていった者が一人。それが私。
同僚たちが劇的な再会に喜びあっていた頃、私は「帰らざる部屋」よりさらに上階にある役員室という場所にいて、やはりそこでもパイプ椅子に座らされているところだった。
ポッカリ空いた円卓の中心に私はいた。高価そうな柔らかな照明が天井から降りていた。黒光りする革張りの椅子を背にした社長と重役たちの視線が、四方八方から私に向けられていた。いいや正確に言えば、その部屋にいる全員が、私を見ていそうでじつは見ていなかった。彼らはパイプ椅子の私よりちょっとだけ上の方をずっと見つめていたのだ。惚れ惚れとしながら。
「みなさん、わが社の霊子さんです」
円卓の外側に一人立った加藤が誇らしげに言った。とっておきの新製品を紹介するみたいに。
小学生よろしく頬を赤く染めた社長や重役連中から、じっと見つめられるのはじつに妙な気分だった。そしてじつに困ったものだった。
霊子さんは企業に成長と繁栄をもたらす背後霊だ。あるいはその背後霊の総称だ。霊子さんが行く所そこには一際明るいキラキラとした光が射す。
人々は霊子さんの美しさとその希望の光のもとに平伏す。とくに男どもは完全にノックアウトされる。霊子さんは彼らにとって、ピンク色の制服に身を包んだ、永遠に若いままの母であり恋人なのだ。
「推定年齢24歳。栗色のロングヘアに黒い瞳。身長165cm、バスト推定90cm、ウエスト推定55cm、推定ヒップ....」
加藤が霊子さんに関する適当な数字を一つ一つ発表するたびに重役たちは感嘆の声をあげた。彼らはすでに完全に霊子さんの魔力に、ピンク色の制服に、かどわかされた子供めいていた。残された僅かな社会人としての社会性をどうにか保持しているのは上座の社長一人だけのようだった。
どちらにしても、それらの数字は私にはまったく意味がなかった。べつにフェミニストというわけではない。ただ私には、霊子さんにとり憑かれた私だけには、彼女のお姿が見えないから、という意味でだ。
「で、どうなんだ肝心のところは。わが社の霊子さんはB社の霊子さんと比べて。勝てるのか、勝てないのか。どっちなんだ。一業界に一霊子だからな。一つの業界に二人の霊子さんは許されんぞ」
社長が加藤を問い詰めた。核心を突いてきた。それでも加藤はまったく落ち着いた様子で、円卓の外側から冷静に答えた。
「社長はどうお考えですか。ご自身の目で直にご覧になって」
「それが私はB社の霊子さんの顔を憶えてないんだ。あんな憎たらしい女は、いいや背後霊は、この世に存在しないからな。これ以上血圧が上がるといけないから、忘れることにしたんだ」
「そうですか。じつはB社の霊子さんをよく知る営業部長からの情報によりますと、わが社の霊子さんはですね....」
加藤は円卓に並んだ重役たちの顔を隅から隅まで見渡して言った。
「わが社の霊子さんは....よろしいですか、みなさん....圧勝だそうです!」
役員室に地響きめいた男たちのどよめきが広がった。それから安堵と賞賛の拍手が沸き起こった。それは上座の社長と円卓の中心にいるであろう霊子さんへと向けられた。間違っても私にではなかった。加藤は声のボリュームを一段と上げた。
「おめでとうございます!これでわが社は安泰です。わが社はB社を蹴り落とし、B社の霊子さんを放りだし、間違いなく再び業界のトップへと躍り出るでしょう!」
社長が腰を上げて喝采した。重役連中も直ぐさまそれに倣った。私もパイプ椅子から立とうかと思ったが、加藤が仕切りに首を横に振ってみせるのでやめにした。きっとうしろでは、霊子さんが短いスカートと栗色の長い髪を揺らしながら、私の分まで重役一人一人に抜群の愛嬌を振りまいてくれているのだろう。
すると社長が加藤を手招きし、私をあごで指して言っているのが聞こえた。
「あの男は?」
「田中康彦といいます。事業部の社員です」
加藤が答えた。なぜだか私には発言権がまったくないらしかった。
「独身かね」
「そのようです」
「恋人は」
「もちろんおりません」
「そうか。霊子さんは素晴らしいが、あの男の方は早急にどうにかしないといけないな。霊子さん共々、これからわが社の顔になってもらうわけだから」
「私にお任せくだい」
加藤が頭を下げて答えた。
もしかしたら彼は私の外見だけでそんな見当をつけたのかもしれない。でも加藤の推理はハズレていた。
たしかに私は独身ではあった。けれど私にだって恋人はいた。霊子さんほど美しくはないかもしれないが、しかし霊子さんと同じぐらいに若々しく、しかも温かな血がかよっていて、心が通じ合い、誰にでも優しく、こんな私にはもったいなさ過ぎる素晴らしい恋人が。
社長の命を受けた私と加藤は、いつもは重役たちが使っている社用車の後部座席に乗っていた。真ん中に霊子さん分の空間をあけて。
「しっかり前を見て運転しろ!」
加藤が運転手を叱った。
会社のお抱え運転手の男は、その空間部分が気になるようだった。バックミラーには決して映らない霊子さんの美貌をどうにか拝もうと、たびたび首をまわして肝心の信号を見落としそうになっていた。
「なんで社長にあんなことを言ったんだ。はっきり断っておくが私にはれっきとした恋人が....」
二人の会話の途中にも加藤が運転席に蹴りを入れる。彼は前屈みになって話した。もちろん加藤にも彼女が見えているから。
「田中さん、あなた、霊子さんの都市伝説聞いたことありますか?」
「霊子さんはある日突然あらわれる、かい?」
「そう。でもそれにはつづきがある。こっちの方あんまり知られてないけど」
加藤は私たちの間にあるスペースを指さして言った。
「霊子さんはある日突然あらわれる。そして会社で一番愛されている男の肩をたたく」
加藤はニンマリしながら、今度は私の顔を指さした。
「おめでとう。よかったですね、田中さん。だから、あなたに恋人がいることは知ってます。霊子さんは恋人に本当に愛されている男にしかとり憑かないんだから。でもその話はまたあとで」
そう言って加藤は本当の重役になったみたいにシートに身を預け、窓の外に目を向けた。
私は生まれて初めて乗った重役用の社用車にいて落ち着かなかったけども、加藤の方は毎日ハンドルを握っている運転手よりも乗り慣れてるみたいな様子だった。
加藤は若くして成功する、野心家で頭の切れる男のように見えた。私なんかとはまったく違った。そして今回の件で、実際に彼は成功の階段を登りはじめたのかもしれなかった。
「〈お憑かれさま〉って言うんですよ」
「なにがだい?」
「田中さんみたいに、霊子さんにとり憑かれた社員のこと」
「君はヤケに霊子さん事情に詳しいんだな」
私は加藤の横顔にたずねた。綺麗な横分けをしていた。
窓外に映る街並みをどこか懐かしいそうに見つめながら加藤は答えた。もしかしたら彼には、ありきたりな東京の街並みが、いつかスクリーンやニュース映像で観た、紙吹雪の舞うニューヨークの五番街のように見えていたのかもしれない。
「人事部の人間として当たり前のことです。今じゃどの業界だって霊子さん抜きには語れないんだから」
「おまけに君だけは、霊子さんの横にいてもぜんぜん平気なようだ」
「免疫があるんですよ。綺麗な御婦人にね」
「なるほど。ところでその綺麗な御婦人はいまなにをしてるんだ?」
「あなたの顔を見てますよ。さっきからずっと。でも僕は妬きません。これでどうして僕があなたのマネージャーになれたか分かったでしょ?」
「要するにあれか、君は女より男の方が好きだってわけか?そう言いたいのか?」
「アハハハ....」
加藤は年頃の女性みたいな無邪気な笑い声を立ててつづけた。
「そう見えますか?ならそういうことにしておきましょう」
誰もが不思議に思う。わが社の社長じゃなくったって。よりによってどうして女神のような霊子さんが、あんな男に、あんなオッサンに、とり憑いたのかって。あれなら、まだ俺の方がマシなんじゃないかって。
でも違う。断じて違う。私にはそれが分かる。たぶん霊子さんにとり憑かれたそれぞれの業界の会社員たちも、〈お憑かれさま〉たちも、同じ気持ちでいるのではないだろうか。
無論、霊子さんから直接聞いたわけじゃない。霊子さんと会話なんてできないし、心が通じ合うことだってない。そもそも私たち〈お憑かれさま〉には、自分にとり憑いた霊子さんの姿が見えない。
けれど私にはなんとなく分かってしまう。理解できてしまう。
なぜなら私はすでに愛されていたから。一人の女性に。それは奇跡的な経験だ。一人の女性に心から愛されるということは。人生でそうはない。誰にでも起こるってわけじゃない。
だから霊子さんが私にとり憑いたからって、そんなに驚くことはないのだ。だって奇跡はもうすでに私の身に一度起きているのだから。
それでも、やはりその日、私が経験したことは驚きの連続ではあった。
私たちの行くところ、そこには必ず霊子さんの後を追ってくる男どもの行列ができ、黒山の人だかりができ、霊子さん信者を名乗る女たちの大集団までがそこに合流し、子供たちは手にした風船を空へと離してしまっては泣き叫んだ。
パレードと交通渋滞がつづき、店という店がシャッターを下ろして、ついにはゾンビが集団発生したという噂がまことしやかに流れ、街中はパニックになって、通りはパトカーと消防車と救急車で溢れた。
加藤によると、こういった騒ぎは新たな霊子さんがあらわれるたびに毎度起きるものらしかった。
「一種のセレモニーですよ。みんなが新しい霊子さんの、オラが街の霊子さんの、誕生をお祝いしてるんです」
そんな騒動の間をぬって、私たちは百貨店で一ダース分のスーツを仕立て、それに見合った分のシャツとネクタイと靴を見繕い、理髪店に寄っては身嗜みを整えて、通りにはまだ霊子さんを追ってくる男どもと本気でゾンビの集団から逃げまどう人々でごった返していたけども、護送されるマフィアのボスみたいにサイレンを鳴らすパトカーに先導されて社用車を走らせた。
数時間前までは会社から追いだされそうとしていた身だった。それがどうだろう。重役用の社用車の後部座席に、柔らかなコロンの香りを漂わせながら、これまで一度だって試着すらしたこともなかったような高級ブランドのスーツに身を包んで乗っている。
ついに私にも日の暮れかけた東京の街並みが、紙吹雪の舞う五番街に見えはじめた時だった。窓の外を見つめていた加藤がこちらを振り返ってなにか言った。私は聞き返した。パレードに押し寄せた観衆たちの騒ぎでよく聞こえなかったのだ。加藤は今度は強めに、同じ言葉を繰り返した。
「あなたはもう恋人には会えない」
ようやく私にも聞こえた。でも結果は同じことだった。私には彼の言っている意味が分からなかったから。
「それが〈お憑かれさま〉の宿命なんです。あなたはもう二度と恋人には会えません」
「私の恋人はできた女性なんだ。霊子さんみたいなとびっきりの姑がいたってきっと上手くやるよ」
やっと打ち解け合えたみたいに、私は彼の冗談を冗談でもって打ち消そうとした。笑い男めいた微妙な笑みを浮かべながら。
「いいえ。ダメです」
加藤は真顔でつづけた。
「あなたの恋人がよくても、霊子さんが嫉妬するから」
そう言って加藤はふたたび窓の外に視線を移した。
私はふと思った。彼が車中にいてよく街並みに目を向けたがるのは、べつにそこに紙吹雪が舞っているからではなくて、ただ横にいる霊子さんを見ないようにしているだけではないのだろうかと。彼の顔はまるでもう一つお面を被っているようだと。
(つづく)