グッドモーニング体操(後編)
その日から僕の知っていた会社は、まったくべつの会社になってしまった。
もはや社内でグッドモーニング教に入信していないのは、僕と重役連中だけのように思われた。マイクに向かってみんなに号令をかけた僕は、図らずも彼らをグッドモーニング教の啓発セミナーへと扇動し、完全に教徒化させてしまったようだった。
生き物以外なら何でも取り扱う通販会社に勤務していたことは、彼女たちにとってラッキーだった。なにしろその衣装や手に持つボンボンは、探さなくても配送センターの倉庫内にあって、電話一本で本社に届けられるのだから。
夜9時。以前ならすでに消灯されているはずの会議室から、女性社員たちの威勢のいいかけ声が聞こえてくる。
「ゴー・フォー・ビクトリー!ゴー・フォー・ビクトリー!ウィ・セイ・ハイ!」
女性社員だけではない。そこには「センター」呼ばれる男性社員たちも参加していた。各部署から選抜された先鋭たち。彼らは毎朝ほかの社員たちの前で、体操委員のようにお手本をしてみせるのだ。
来たる「社内体操コンテスト」当日には、彼らはステージ最前列で会場のお客さんたちに爽やかな笑顔をアピールすることになるはずだ。
ほとんどの社員たちが終電の時間ギリギリまで帰ろうとはしなかった。さらに終電を逃した社員たちは、みんなキャンプ用の寝袋で眠った。その寝袋ももちろん配送センターから届けられた。なんでもそれは氷点下20度まで対応する優れ物らしかった。
「まるでバブルの頃みたいだよ。いいや、それ以上だな」
そう言う部長の手の中には、ほかの社員たちとは違う色の寝袋があった。
「昔さ、残業が多かったころに、みんなで使ってた寝袋なんだよ。倉庫探したら一つだけ残っててさ」
部長はそのくすんだ黄色い寝袋にことのほか思い入れがあるようだった。もっともその寝袋の限界は氷点下5度までらしかった。
「そうすると、氷点下5度より下がったら、翌日に部長だけ凍死体で発見される可能性があるわけですね」
「嫌なこと言うなよ、金田くん。アハハハハ....」
部長は遠足前の子供みたいにはしゃいでいた。
蕎麦屋、中華屋、寿司屋、弁当屋、ピザ屋、ファーストフード....あらゆるデリバリーがフル活用された。夜ともなれば、わが社が入ったビルの前はデリバリー用バイクのモーターショーめいた様相で、ロビーや廊下には様々な格好をした出前持ちたちが、こちらはまるでデリバリーファッションショーのように往き来していた。
そんな慌ただしい社内で、出前持ちたちの陰に隠れるようにして一人退社を試みる不届き者がいた。それが僕。
出口のないサービス残業なんてまったく気が進まなかったし、寝袋の中で朝を迎えるのも真っ平御免だったから。
そんなわけで、ある夜は寿司屋に、またある夜はラーメン屋になりすまして、もう少し正確に言ったならその陰に隠れて、僕は退社していたのだけど、じつのところそんな面倒なことをするのは、べつに一人だけ早い時間に退社するのを周囲から白い目で見られてといった、ありがちな理由からではなかった。
それどころか、事態はまったく逆だった。
もしも帰りがけの僕が、廊下などで男性社員に見つかったとする。するとどんなことが起きるか。
その男性社員は「お、金田様のお帰りだぞ!」と周囲に知らせるだろう。部署内ではふたたびカネダコールが巻き起こる。僕はあっという間に女性社員たちに取り囲まれ、会議室からは松下さんを先頭にしたチアガール部隊も飛びだしてくるだろう。それからあの日の廊下での光景が繰り返されるのだ。
ようやく女性陣から開放された僕は「金田くん、明日もまたきてね」と、まるでどこかの社長さんみたいに送りだされる。
チアガール部がボンボンを振りながらフィナーレを飾る。
「フレー、フレー、金田!フレー、フレー、金田!ウィ・セイ・ハイ!」
おそらく僕の人生で、最初で最後となるモテ期がきているのだろう。それもかなり特化したモテ期が。
でも僕はこんな風に思ってしまう。もしかしたら彼らは、僕がグッドモーニング体操生みの親だと、いつからか勘違いするようになっているのではなかろうか、と。はじめて見たものを自分の親だと信じ込んでしまう鳥のヒナみたいに。
その誤解のとける日が来るのが僕は恐い。グッドモーニング教のバブルが弾ける日が来るのが。
そして、いつか必ずその日はやってくるのに違いない。だって、ついこの間までブツブツ文句ばかり言っていた彼らが、急に別人のようになってしまうなんてどう考えても無理があるし、経理の松下さんにしたって、以前はまったくと言っていいぐらいに目立たない社員の一人だった。ぜんぜん「ハイ」じゃなかった。
もしかしたらグッドモーニング体操には、人を覚醒させる作用があるのかもしれない。あるいはアルコールみたいに、普段は抑圧されているもう一つの顔が表にでてくるとか。経理の松下さんは、じつは高校生の頃からアメリカンな学園ミュージカルの熱烈なファンだったとか。
そういえば本当の生みの親である会長がグッドモーニング体操の夢をみたのは、嘘か真か、病院のベッドで三日三晩生死の境を彷徨っている最中だったそうな。
さては三途の川の畔でウロウロしているところを鬼たちに捕まって、宴の余興にグッドモーニング体操のもとになる踊りでも踊らされたのか。しかもそれが思いのほか鬼たちにウケて、ご褒美に此の世にもどってこれたとか。
とすると、グッドモーニング体操はあの世から此の世へもたされた三途の舞いということになる。はたしてこれは縁起がいいのか悪いのか。
仮にそんなことがあったとして、僕が願うことはただ一つ。どうかグッドモーニング体操の作用ができるだけ長くつづきますように、ということだけだ。少なくとも「社内体操コンテスト」がフィナーレを迎えるまで。
頬や鼻に付いたキスマークをハンカチで拭いながら、夜の東京にそびえる高層ビルを僕は見上げる。僕たちの会社が入っているのはその真ん中辺りだ。一つの窓も欠けることなく煌々と明かりが点いている。
僕はそんな窓という窓が日増しに眩しく発光していって、明日はいよいよ「社内体操コンテスト」という夜についに砕け散り、水銀の雨のようになって松下さんのボンボンと一緒にきらきらと降り落ちる光景を夢想してしまう。
それは悪夢だ。グッドモーニングバブルが弾け飛ぶ。
植え込みに引っかかったボンボンを僕は拾いあげるだろう。
ほどなくしてサイレンを鳴らした救急車が到着する。てっきり負傷者の救助にきたのかと思ったら、後ろのドアが開いてそこから降りてきたのは車イスに乗った会長だ。
ご老体は真っ白なバスローブを着ている。サングラスをしたボディーガードみたいなゴツい男が車イスを押してくる。会長はか細い手にブランデーグラスと葉巻を持っている。なんだか引退したマフィアのボスみたいだ。婦長の目が届かないところで羽目を外しているのか。昔を思いだして。
聞くところによると若かりし日の会長は、羽振りがいいだけでなく、結構な伊達男でもあったらしい。外車収集だけでは飽き足らず、自家用クルーザーなんかも持っていたそうな。
そんな男にしてみてば、夢は配送センター勤務の今どきの男社員なんて、道端のアリンコにも等しいだろう。
ただ、会長がいま乗っているのは、外車でも自家用クルーザーでもない。
でも、彼は僕の横に滑るようにやってきて、ビルを見上げてこんなふうに口走る。
「残念だったな。これで配送センターの夢はご破算だ。そもそもそんなものが夢だったらの話だが」
「部長から聞いたぞ。なんでも君、最近モテモテだそうじゃないか。配送センターみたいな田舎に移動するのは勿体ないんじゃないかね。考え直したらどうだ。君は独身だろ」
ある日、パソコンの中で本物の会長が言った。
「配送センターでもモテモテですよ。グッドモーニング体操さえあれば」
僕は答えた。なんの気なしに。部長がそんな報告を会長にしていたというのがなんだか意外だった。
いいや、実際に僕はモテモテなわけだし、グッドモーニング体操は総務部の管轄だから、部の責任者である部長が会長とそんな情報のやり取りをしていてもおかしくはないわけだけど、僕が毎朝社員たちの動画付きメールを会長に送ってるみたいに、部長は部長で、僕の体操アナウンス付きメールを会長に送っているような気がした。
もしかしたら部長の「ドント・ウォーリー」アドバイスは、会長の入れ知恵だったのかもしれない、と。
もしもそうだったとしたなら、そのアドバイスは見事に功を奏したわけで、ワイシャツ姿のまま寝袋から起きだしてくる同僚たちの姿を想像したらそんなことは口にだして言えないけど、さすが元カリスマといったところだ。
しかも元カリスマは僕の失言も聞き逃していなかった。
「グッドアイアだぞ。早速明日から配送センターでもグッドモーニング体操をやらせよう。いいや、配送センターだけじゃない。すべての取引先、トラックのドライバーにもやってもらう。巨大な社内体操シンジケートを作るんだ」
会長は一人興奮気味につづけた。
「どうして今まで気がつかなかったのかな。これは凄いことになるぞ。流通業界のコスト革命だ。早速会議だ、重役連中のバカ共を集めなきゃな」
それから会長は僕の存在を思いだしたように言った。
「なにか必要なものはあるかね。今の私は機嫌がいいぞ。なんでも言ってみなさい」
それどこじゃなかった。自分のしでかした失態の大きさを僕はようやく悟ってうろたえていた。
でも言ってしまった言葉はもとにはもどらない。冷めてしまった恋みたいに。
そこでせめて社員たちのためになりそうなアイデアをと、僕は次から次へと提案してみた。無理を承知で吹っかけた。
すると頭の中でどれだけ妄想を広げているのか、ご老体は事もなさそうに言ってのけた。
「それだけか。君自身はどうなんだ。君個人の要求はなにもないのかね。配送センターのほかに」
なにもなかった。で、いささか僕は自嘲気味に言った。
「そうですね。それじゃ僕にはドンペリとパナマ産のシガーを」
「いいだろう」
マフィアのボスはニンマリして言った。
こうして総務部社員の失言とくだらない冗談を合図に、グッドモーニンバブルはいよいよ膨れあがっていった。
朝靄に包まれたアスファルトを僕は蹴っていく。聞こえてくるのは自分の弾む息づかいと早起きな小鳥たちのさえずりだけ。時折、トラックのヘッドライトが森の影に走馬灯のように映っては消えてゆく。
僕は腕のG-SHOCKを見やり、あと一周したら寮にもどって熱いシャワーを浴びようと考える。それから一階のビュッフェに下りた僕は、朝食をとりながらタブレットで朝のニュースとメールをチェックすることだろう。
僕の妄想の中で、配送センターはまだ霧の中にあって視界には入ってこない。だいたい映画なんかでも、特別な建物というものは最初のうちはなにかに隠れて見えないものだ。それは徐々に姿をあらわすのだ。
だから日が昇りはじめて、それはようやく姿をあらわす。僕たちのマザーシップ。森の中の白いデス・スターが一歩一歩近づいてくる。24時間眠ることのない。
でも配送センターの周囲はとても静かだ。防音効果がゆき届いているから内部の音が遮断されているのだ。耳に入るのはここでも僕自身の吐く息と小鳥たちの....いや違う、なにか聞こえてくる。どこかで聞いたことのある声が....。
「....ゴー・フォー・ビクトリー!ゴー・フォー・ビクトリー!ウィ・セイ・ハイ!」
ああ、なんてことだろう。
昔の労働者たちはまるで遊んでいるように仕事をしていたと、どこかで読んだ記憶がある。
もしもそれを書いた人がいまの僕たちの会社を見学しにくることがあったなら、こんな風に書き記すかもしれない。
「彼らはまるでダンスするように働いていた」と。
ただ、僕にはそのダンスが、死の舞いのように見える。彼らの制服やスーツは、じつは目には見えない炎が点けられ、メラメラと燃えているのだ。
僕は彼らにそっと近づく。でもそれは炎を掻き消してやるためではない。僕は彼らの体の上でハバナ産シガーの先をゆっくりゆっくり転がすのだ。ムラなく火が回るように。
もう社員たちは寝袋に潜る必要はなかった。タイムカードも必要なかった。もう誰も退社しようとはしなかった。土曜日も日曜日も。
部長は用済みになった社員たちの寝袋を回収して倉庫にしまった。ただし自分が使っていた黄色い寝袋以外。
ある朝、どういうわけだか、部長はその懐かしのバブリー寝袋を着てデスクの椅子にチョコンと座っていた。
上のジッパーから顔をだし、真ん中と下の部分にそれぞれ二箇所ずつ穴を開けて、そこからワイシャツの腕とズボンの足とをだしていた。余った下のトンガリがちょうどトカゲの尻尾のように見えた。
「なんの真似ですか」
僕は聞いた。
「こうしてると落ち着くんだよ。なんだか昔の仲間たちと一緒にいるみたいでさ」
「なんの真似ですか」
もう一度僕は聞いた。
「金田くん、取引しないか。総務の仕事は私が一人で全部引き受ける。そのかわり君は私の格好をとやかく言わない。どうかな」
間違いない。グッドモーニング体操は人を覚醒させる三途の舞だ。
僕はデスクの黄色トカゲをまじまじと見て言った。
「いいでしょう」
そんなわけで、ほかのモーレツ社員たちとは対照的に、僕はまったく働かなくなった。
折しも、会社は景気の悪い上階の企業をビルから追いだして、ピザの日替わりトッピングみたいに、毎日一つずつ社員のためのアトラクションを造っている最中だった。昨日はチーズ、今日はサラミ、明日はポテトとでもいうふうに。そのうち屋上にメリーゴーランドでもこしらえそうな勢いだった。
もっとも、せっかく会長に提案して造ってもらった厚生施設は、仕事で忙しい社員たちには不評のようで、どこも僕一人の貸し切り状態だった。
せっかくの会社の好意を無駄にしたくはなかった。「遊んでいるみたい」じゃなくて僕はただ遊んでいた。シリコンバレーの社員たちだってこうはいかない。
朝一番のグッドモーニング体操が終わると、僕はできたばかりのジムへと一人直行して、たっぷりそこで汗をかいた。隣のシャワー室で体を洗い流して、疲れた筋肉をそのまた隣のスパでマッサージしてもらった。最後にジャグジーに浸かってから、フロアを一つ下りて、ビュッフェへと生まれ変わった社員食堂でゆっくり時間をかけて昼食をとった。
午後の時間は外にでて招待券で映画を観るか、カフェの梯子をしながら読書をした。
僕の一番好きな時間はジムからシャワーへの流れだ。スパとジャグジーはそれほど好きじゃなかった。のんびり寛ぐのが苦手なのだ。
通信簿に「落ち着きがない」と書かれるタイプの子供ではなかったけど、僕のそれは年齢を重ねるごとに強くなっていくみたいだった。
女性社員たちはすれ違うたびに僕の頭を撫でた。僕の髪はくしゃくしゃになった。だから僕は働かなかった。
男性社員たちはなにかの記しをつけるみたいに僕の肩に手をおいた。右の肩に。左の肩に。そっと。あるいは揉むように強く。だから僕は働かなかった。
上司は黄色トカゲになった。だから僕は働かなかった。
重役連中は僕の顔を見るなり背を向けて廊下を急いで逃げだした。だから僕は働かなかった。
会社の利益と株価と労働時間はどこまでも右肩上がりだった。それでも社員たちは自ら給与カットを申請して、それが笑顔で迎えられた。
僕は申請しなかった。それでも彼らは僕を特別扱いしてくれた。だから僕は働かなかった。
僕はまるで会社の王子様みたいだった。裸の王子様みたいだった。
こんなことが長くつづくはずはない、そう思った。いつか誰かがこのツケを払わされるのだ、と。
そして最初の「センター」の一人が倒れた。
それは営業部の「センター」だった。
彼は毎朝同僚たちの前に立ってグッドモーニング体操をしていた。部署内のお手本でありリーダーだった。
グッドモーニング体操のフィナーレはやはり深呼吸の運動だけど、彼は最後の深呼吸をしたあと床に倒れて二度と起きあがろうとはしなかったらしい。
その朝も僕はパソコンを前にグッドモーニングDJをしていた。ただ騒動にはまったく気がつかなかった。その前に画像を切っていたからだろう。僕がそれを知ったのは、部長の使いである営業部の社員に呼ばれて地下駐車場へと降りていったあとだった。
「さぞかし無念だろうな」
ベッドに横たわる営業部の男性社員を見下ろしてトカゲ部長は言った。まるで志し半ばで亡くなった部下を憐れむみたいに。
それはトカゲ部長の存在を差し引いても、なんだかおかしな光景だった。
どういうわけか地下の駐車場に車は一台もなかった。代わりにそこにはパイプの簡易ベッドが野戦病院みたいに剥きだしのアスファルトの上にいくつも並べられていた。
医者も看護婦もいなかった。営業部のほかの社員たちの姿も見当たらなかった。蛍光灯の下で、肩を並べて彼を見守っているのは、総務部の僕とトカゲ部長だけだった。
今日は避難訓練の日だったろうか、一瞬そんな考えが頭を過ぎった。
営業部の彼は倒れた時にぶつけたらしいおデコにバンソウコウを貼っていた。ベッドの上の青い寝袋の中で、ウーン、ウーンと、熱にうなされているみたいに震えていた。
「彼らは名誉ある殉教者なんだ。バンソウコウでなく、勲章が与えられるべきだよ」
部長はポツリと言った。
その日からというもの、毎朝のように誰かが倒れた。名誉あるグッドモーニング体操の殉教者たち。それはいつも決まってセンターの男性社員だった。昨日は営業部のセンター。今日は企画部のセンター。毎日一人ずつ。まるでホラー映画の犠牲者みたいに。
最後の深呼吸が終わるたびに女性社員の、チアガールの悲鳴が、パソコンのスピーカーをとおして聞こえてきた。
センター社員たちは青い寝袋にくるまれて地下駐車場へと運ばれていった。そしてそれっきり現場にはもどってこなかった。
翌日には何事もなかったかのようにべつの男性社員がセンターの場所に立っていた。夜になれば、彼は会議室で新人センターとして松下さんから厳しい教育をうけることになった。
その一方で地下へと降りた殉教者たちは急速に忘れ去られていった。誰も彼らのことを口にしなかった。「社内体操コンテスト」はもう直ぐそこまできていた。
彼らのことを口にするのは、哀れにもその世話係りを会長から命ぜられた部長だけだった。
「元気になれば、彼らももとの部署にもどれるようになるさ」
「大丈夫、彼らの身分は保証されてるんだ。給料もちゃんと支給されてるし、ボーナスだってでるんだから」
エレベーターでかつてのセンターたちの食事を地下へと運び、寝袋を変え、忙しそうにその尻尾を床に引きずるたびに、トカゲ部長は口を開いて言った。まるで自分自身に言い聞かせているかのように。
もしかしたら部長は、センター殉教者たちにかつての同僚たちの姿を重ね合わせているのかもしれなかった。追われるようにして社から消えていったかつての仲間たちを。
なんだかこのままだと部長の方が倒れてしまうんじゃないか、そう思った。あらたな殉教者たちもトラックで運ばれてきた。それは配送センターの元センターたちだった。
それでも僕は自ら進んで上司を助けようという気持ちには不思議とならなかった。どうしても僕でなければならないということはなさそうだったし、グッドモーニング体操のセンターみたいに代わりはいくらでも見つかりそうだった。
だから僕は相変わらずのジム通いと午後のボヘミアン生活と定時上がりを改めようとはしなかった。
「夜でないとダメだと思うんだ。彼らはもう何日も日の光を浴びてないからね」
ある日、部長が言った。
「新しい配送センターを建ててやるぞ。新しいアップル本社そっくりのUFOみたいなやつをな」
会長がパソコンの中で後押しした。
「彼らを散歩に連れだしたいんだよ。外の新鮮な空気を吸わせてやりたいんだ。でもさ、彼らはまったく私の言うことを聞かないんだ。困ったよ」
部長がつづけた。
嫌な予感はしたし、余計なことに首を突っ込むなという心の声も聞こえた。散歩だけで終わるはずがない、と。
でも、どうしてだか僕は腰を上げた。それはたしかに僕でなければならない要件のように思えたから。
日が落ちるのを待って、僕は部長と一緒に地下駐車場へとエレベーターで降りていった。
なんだか夜の動物園に忍び込むみたいにドキドキした。部長は慣れた手つきで鍵を差し込み、鉄製のドアを開けた。
かつての会社のエリートたちがそこにいた。殉教者たち。あるいは地下駐車場の住人。彼ら十数人の男たちはパイプ椅子に座って、蛍光灯の明かりの下でじっとテレビを見ていた。その画面には海中深く潜ってゆくクジラの姿が。まるで地上最低の哺乳類たちが地上最大の哺乳類を眺めているかのような構図だった。
けれど、久しぶりに会った彼らは思っていたよりずっと元気そうではあった。暗い地下室の寝袋の中でブルブル震えてるようなイメージがあったのだけど、そういうこともなかった。むしろ彼らは小綺麗にすら見えた。みんな真っ白でピッチリ糊付けされたワイシャツを着ていた。
一見どこも悪そうには感じなかった。彼らを地下駐車場に閉じ込めておく理由はどこにも見当たらないように思えた。
ただ、彼らが一心不乱に見つめているテレビの音声は消されていた。誰も一言も言葉を発しなかった。彼らは言葉のない世界で生きていた。
「『ディスカバリーチャンネル』が好きなんだよ。ああやって一日中見てるんだ」
部長が僕に耳打ちした。
「みんな潔癖性レベルでね。ワイシャツも一日に何度も着替えるんだ」
「どうしてテレビの音声を消してるんですか」
「怖がるからだよ。パニックが起きるんだ。でも不思議とテレビそのものは好きなんだよ」
彼らとは久しぶりの再会だったけど、お互いあまりいい印象は持てないようだった。挨拶はなかった。誰も僕のことを憶えていないようだった。誰一人こちらを見向きもしなかった。
部長は決して口にはしないだろうけど、僕の頭では、殉教者という呼び名より草食系ゾンビといった言葉の方が、彼らを言い表すのに適当な表現のように感じられた。彼らには表情というものがまるでなかった。これでは部長がなにを言ったところで馬の耳に念仏なのも理解ができた。
でも、彼らだっていつまでもこうして地下室にいるわけにはいかない。いつかは家に帰らなければいけないのだ。クジラだっていつかは海面にでて潮を吹きださねばならないだろう。その第一歩をはじめるのだ。そのために僕が呼ばれたわけだから。
テレビ鑑賞の邪魔にならないように、余計な騒ぎを起こさないように、僕は彼らの背後に立った。
最初に言葉ありき。僕は時差ボケの英語教師みたいに、その背中に声をかけた。
「.....グッドモーニング」
クジラから僕へ、彼らの視線がゆっくり動いた。深海の底にいるように。響くはずのないところで言葉が響いた。彼らの頭の中で古い回路と新しい回路がつながった瞬間だった。
高層ビルの谷間に満月がでていた。僕は小綺麗なゾンビ社員たちを会社の裏手にある小さな公園に連れだした。駐車場の裏口からでて、極力人目につかないように。
ビジネス街の夜の公園に人影はなかった。それでも彼らは怯えていた。怯えてひと塊りになってそこから動こうとはしなかった。まるで辱めをうけているかのような眩しくも異様なワイシャツ男たちの群れ。
なにが彼らをあんなふうにさせてしまったのか。それについて部長や会長と議論したことはなかったけど、だいたいの予想はついた。
僕はベンチに腰掛けて社の入ったビルを見上げた。深夜になっても窓の明かり一つとして消えてない。誰も帰ろうともしない。あのどこまでもノーストレスなエネルギー。
それを可能にしたのがグッドモーニング体操とセンターというシステムなのだろう。彼らはエリートどころか、言ってみればただのスポンジなのだ。それも使い捨ての。ほかの社員たちが吐きだしたストレスを一人で体に吸収する。
「買ってきたよ」
「今晩わ」
部長の声と一緒に聞こえてきたのは松下さんの声だった。会議室での練習中に呼びだされたのだろう、松下さんはチアガールのコスチュームに手にボンボンを持ったままだった。
松下さんの登場は嬉しかったし、心強くもあったけど、深夜の公園に、いいや深夜の公園でなくても、黄色トカゲとチアガールの組み合わせはなかなかシュールだった。
僕は部長の手からバーガーポテトとホットコーヒーを受けとった。社内のビュッフェに行けば美味しい手の込んだ料理がいくらでも手に入ったけど、今の僕たちに必要なのは、高カロリーの、取り返しのつかない、ジャンクフードなのだ。部長はそれを山ほど買い込んできていた
僕たち三人はベンチに並んでそれを黙々と口に入れていった。元センターたちに見せびらかすように。ムシャムシャと。指先や口のまわりをだらしなくソースで汚しながら。
やがて草食系ゾンビたちに変化が見えはじめた。彼らの負の結束が揺らぎはじめた。
ある者は月を見上げてゆらゆらと歩きだし、またある者は夜の木々に手を添えた。そしてまたある者は僕と部長の食欲に目を見張り、またある者は松下さんのミニスカートから生えた二本の太腿に視線を奪われていた。
僕と部長の食欲はいいとして、実際にそれはあらゆる視線を虜にする素晴らしい太腿だった。毎日の練習の成果で生命力に満ちていた。生物ピラミッドの底辺にいるような彼らにしてみれば、松下さんはさしずめピラミッドの頂点に君臨するヴィーナスのようにその瞳に映ったことだろう。
つまり彼らは完全には死んではいなかった。人として。それが証明された。たとえ底辺にいようとも、草食系ゾンビなんかではなかった。
松下さんがボンボンを手に立ち上がり、片脚をベンチにのせた。スカートの裾から太腿がさらに露わになった。これには彼ら元センター社員だけでなく、僕と部長もすっかりアテられてしまった。
彼女は一歩前にでて言った。
「ゴー・フォー・ビクトリー!ゴー・フォー・ビクトリー!ウィ・セイ・ハイ!」
部長は寝袋のジッパーを開いて、内ポケットから僕のノートパソコンを取りだした。
「金田くん、ゆっくりいこう。君まで倒れたら意味がないから」
部長の言葉に頷き、僕は最後のシェイクを喉に流し込んだ。さあ、食後の運動だ。
「グッドモーニング!」
僕は言った。それなりの声量で。
元センター社員たちはバラバラの立ち位置から僕たちを見ていた。なんだか珍しい生き物でも眺めるみたいに。
「グッドモーニング!」
返事はなかった。でもそれでいい。まだ始まったばかりなのだから。
トカゲ部長がパソコンをクリックしてテーマ音楽を流した。
「心を穏やかにし、共同作業を円滑にする運動!」
「背筋をのばし、美しいお辞儀をする運動!」
僕は言った。松下さんが横でボンボンを振り、脚を振り上げた。
ついに僕もグッドモーニング体操を踊った。それも夜の公園のセンターとなって。
彼らをもとの状態にもどすにはこの方法しかないように思われた。つまりもう一度グッドモーニング体操を踊るのだ。ただしセンターとしてではなく、今度はその他大勢の一社員として。
それが僕のアイデアだった。一か八かの。
でもダメだった。彼らはもう踊ろうとはしなかった。夜の公園に虚しくも場違いな体操音楽が響いた。
やがて彼らは僕たちから遠ざかり、公園の砂場で遊びはじめた。ワイシャツ姿のいい年をした男たちが。
僕の最初で最後のグッドモーニング体操はあっけない幕切れとなった。松下さんもボンボンを下ろした。つながったと思った彼らの回路は、どうやら僕たちが予想もしなかった場所へとつながっているようだった。
彼らはそこら中で穴を掘りはじめていた。両腕のシャツをめくり、あるいはそれすらお構いなく。真っ白いシャツは月明かりの下ですぐに泥だらけになって夜に同化していった。
誰ともなく、言葉を交わすこともしないまま、彼らは掘り起こした土を一箇所に集めはじめた。ちょうど公園の真ん中辺りに。まるで倒れた木々や生き物たちに水を汲むように。
僕たちはベンチに腰をおろして、彼らのすることを眺めていた。それはもうただの遊びのようには見えなかった。
一人のセンター社員がバケツに水を汲んできて集めた土を固めはじめた。すぐにそれは土を運ぶ者と固める者との分担作業になった。大勢の男たちが、祭りの火に映しだされた影みたいにうごめいていた。
黒々とした土の塊はどんどん太く、高くなっていった。それは月影の下で、公園の真ん中で、木の、人間の、なにかの生き物の、モニュメントのように見えはじめた。少なくとも僕には。
でも、両脇の二人にとっては、それはまったくべつのなにかに見えていたらしい。たとえばそれは僕にとっての配送センターのような....。
「これだ....これだよ.....私が夢でみたのは」
部長が声を震わせていた。
「私も....これと同じものを夢でみたわ」
そう言って、松下さんが口に手を押し当てた。
二人はおもむろにベンチから腰を上げた。僕は上げなかった。それからなにを思ったのか、部長が手を差しのべた。そしてなにを思ったのか、松下さんがそれを握り返した。
薄々感じてはいたことだけど、どうやらこの公園でマトモなのは僕一人切りのようだった。そしてこうも思った。マトモでいることはなんて詰まらないんだろう、と。
(そもそもそんなものが.....)
とうてい結ばれるはずのない、いいやむしろ結ばれてはならない手と手が、僕の目の前で結ばれ合った。
異形の男女は土でできたダーク・タワーへとゆっくり近づいていった。二人を闇の男たちが出迎えた。