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グッドモーニング体操(前編)

はじまりは「全国社内体操コンテスト」。日本中から集まった、スーツや作業着やユニフォーム姿の会社員やパートたちが、我が社ご自慢のオリジナルな朝の体操をステージ上で披露し、その年の栄えある社内体操グランプリを決定する、そんなイベントが毎年東京のどこかのホールで開かれているらしいのだ。

で、そのコンテストの映像をうちのワンマン会長が病院のベッドで見た。そしていたく感動した。感動して独創的なワンマン体操の夢まで見た。自分の会社の社員たちが一致団結して、自分の考案した体操で、社内体操コンテストに出場している夢芝居を。

ある朝、ご老体はそんなはた迷惑な妄想と共に目を覚ましたのだ。それがグッドモーニング体操誕生のいわれとなる。


社員たちの風当たりはすこぶる悪かった。寝耳に水の「社内体操コンテスト」出場の件はさらに火に油を注ぐ結果となった。

「老人の妄想なんかにつきあってられるか」

「私、人前で体操するためにこの会社に就職したんじゃありません」

「体操手当をだせ」

僕の耳に入るってくるのは、社員たちの愚痴と文句ばかり。会長の困ったアイデアは逆の意味で彼らを一致団結させた。

もっとも僕だって総務部という職務上、それを社員たちに徹底させなければならない立場にいたわけだけど、内心ではこんな馬鹿げた仕事はないと思っていた。そもそも社内体操なんて、終始体を動かしたり、長時間機械を扱ったりする仕事ならわかるけど、僕たちのそれは、ほぼ100%デスクワークなのだ。


それでも、これがもし昔のバブルみたいに景気のよい時代だったなら、まだどうにかなっていたのかもしれない。「会長のわがままにも困ったもんだ」と笑いながら、夜遊びで疲れた眠い体をそろそろと動かしていたのかもしれない。

でも今はそんな状況ではなかった。長い景気の低迷は僕らの会社にある烙印を押そうとしていた。僕たちはリストラに怯えながら、日常的にサービス残業、ノルマ達成、昇給カットを強いられたデスクワーカーだった。

そんな長い一日がはじまろうとするまさにその時間に、誰も好き好んで集団盆踊りみたいな真似はしたくないだろう。

それでも朝になれば社内の全オフィスにグッドモーニング体操の場違いな明るいテーマ曲が響いた。重役連中と我が総務部以外のすべての社員たちがそれに参加した。どんなに馬鹿げたアイデアだろうと、会長の言うことはこの会社では絶対だったから。


「社内にチアガール部を創設したらどうかな。若い女子社員にコスプレして声援してもらうんだよ。そしたら男子社員は張り切って体操するようになるんじゃないかな」

バブル組の生き残りであるデスクの部長が言った。

「いいですね。じゃ、まず部長がお手本を。若い女子社員の前でチアガールのコスプレしてくださいよ」

向かいの僕が答えた。狭いオフィスに部長と僕の二人きり。それが総務部の現状だ。

「金田くん、私になにか恨みでもあるのかね。あるならこの場ではっきり言ってくれ」

「ただのシミュレーションですよ、部長。もし我々がそういう提案をしたなら、そういう答えが返ってくるということです。そして僕たちの立場は今以上に悪くなる。もしかしたら社員食堂にだって出入りできなくなりますよ。それでもいいんですか?」

大学生の二人の息子さんを持つ部長にとって、社員食堂は必要不可欠な存在だ。彼はそれっきり黙って自分の仕事にもどった。

しかし、本当のところ僕には部長を非難する権利なんてこれっぽっちもなかった。方向性は間違っていたとしても、まったくの無策よりはマシだし、社員食堂に出入りできなくなったって、クビになるよりは全然いいわけだから。


「グッドモーニング!」

僕の仕事は毎朝このフレーズをノートパソコンのマイクに向かって声を張ることからはじまる。新しい朝。希望の朝。それに見合ったトーンで。「グッドモーニング!」

この時の僕の心境はリスナーのいない孤独なDJ。あるいは翼の折れた残り少ない総務部社員。僕のノートパソコンには、制作者がつい表情をつけ忘れた人形みたいな顔をした社員たちの、まったく覇気のない声が返ってくる。

「....ぐ.....も.....」

彼らの消え入りそうな心の声をどうにか聞きとった僕は、パソコンのキーを叩いて架空のターンテーブルにキラーチューンをのせる。

各部署に設置されたスピーカーからグッドモーニング体操のテーマ曲が流れはじめる。それは日本人ならば誰でも知っているある体操のテーマ曲によく似ている。


そう、グッドモーニング体操の音楽や動作はほとんどがあの「ラジオ体操」の変形あるいは劣化版だった。わずかな独創性といえばやはり社内体操という性質からか、一つ一つの動作に、これも会長発案による仕事に関係した題目がそれぞれつけられているということぐらい。

営業部、企画部、事業部、人事部....オフィスにうごめく社員たちのスーツやネクタイの舞いを、九つのマス目に分割されたノートパソコンの画面上に見つめながら、僕はメモ片手にテンポよくその題目を入れてゆく。

「心を穏やかにし、共同作業を円滑にする運動!」

「背筋をのばし、美しいお辞儀をする運動!」

これを毎朝。本当にやってられない。


はたして社員たち一人一人の心が穏やかになり、美しいお辞儀が習得できたかは定かではないけども、彼らの体の動きは、彼らのグッドモーニング体操は、はじめてひと月もしないうちに、ある種のプロフェッショナルな域にまで近づいていた。僕はそれをノートパソコンの画面上に感じることができた。

もっともそれはなんと言うか、やる気はなさそうだけど、そうかと言って明らかに手を抜いている風ではない、そんな微妙なプロフェッショナルの域だ。

バカみたいな考え方だけど、そこには一つの洗練さまで宿っているかのように見えた。オフィスの無駄な空気の流れをなるべく少なくしようとしているかのような、シンプルで慎ましい様式美。

僕がちょっと驚いたのは、おそらく彼ら全員がそれを無意識のうちに身につけていたという点だ。


しかしその無意識にしても、じつは会長の力あってのことではある。なぜなら録画されたグッドモーニング体操の映像を僕は病院の会長にメールで送っているのであり、社員たちもそのことはよく知っているのだから。だからこその微妙なプロフェッショナルなのだ。

ただ、いかにそれが洗練されていようとも、社員たちが体操名人に近づくほどに、やる気のなさを自由にあやつれる体操仙人に近づくほどに、僕の立場は危ういものになっていく。なにしろ、つぎの「社内体操コンテスト」はすでに半年後に迫っていたから。我が社の目標はもちろんグランプリ。悪くても三位入賞。もしそれが達成できなければ、半年後に僕のデスクはなくなっているかもしれない。


そんなわけで、グッドモーニング体操の一番の被害者は、それを毎朝実行している社員たちではなくて、その音頭取りである僕自身になろうとしていた。

刻一刻と状況は悪くなるばかり。なにか対策をとらなければいけなかった。でもいいアイデアはなかなか浮かんでこない....。

「もしも、もしもですよ。コンテストでグランプリをとったら、全社員に特別ボーナスを支給してもらえないでしょうか」

ある日、僕はノートパソコンに映った病室の会長にむかって提案した。グッドモーニング体操生みの親であり、小さな問屋を一代で国内有数の通販会社に育て上げたカリスマ経営者に。

入社以来、そんなカリスマ経営者と平社員の僕とが面と向かって話をすることなんて一度もなかったけど、体操係を担当するようになってからというもの、幸か不幸か、会長への報告業務が総務部の日課になっていた。

それは思い浮かんだ冴えないアイデアの一つ。ただしケチで有名な会長が特別ボーナスなんてだすわけがないことは最初からわかっていた。僕の本当のねらいは、状況が思わしくないということを、それとなくご老体に伝えることにあったのだ。


どこがどう悪いのかくわしくは知らないけど、病室のベッドに横たわった会長は、日に日に小さくなっていくように見えた。空気が抜けて萎れてゆく風船みたいに。

それでも声と人を見やるときの視線には、かつてのカリスマの片鱗が残っていた。その声は痩せこけた体からでているとは思えないほどよく響き、その目は獲物を視界にとらえた獣めいていた。

でも、そんな風に感じたのはあるいは僕の買いかぶりだったのかもしれない。会長は瞼をゆっくり開くと、すごく意外な言葉を口にしたのだ。すごく。

「いいだろう。優勝したらな。ほかに望みはあるか。なんでもいいぞ。言ってみなさい」

ついにボケたのか。それともこれまでの人生を悔い改めて悟りの境地にでも達したのか。

どっちでもよかったけど、あまりに予想外の答えが返ってきたので、僕は僕で、しばしパソコン画面を見つめるだけの風船人形みたいになってしまった。



望み?望みだったら僕にだってある。ちゃんとした、れっきとした社会人らしい望みが。

ただ、そもそもうちの会社が「社内体操コンテスト」で優勝する可能性はないわけだから、それを会長に伝えてもしょうがない....最初はそう思った。けれどすぐにそれは、今言っておけば、のちのちなにかの役に立つこともあるかもしれないという打算に変わった。

「配送センターに移動したいんです。コンテストで優勝したら、僕を配送センターに移動させてもらえませんか」

本社から配送センターへの移動といったら、それは普通、降格とか左遷を意味する。僕の望みを聞いた会長が、ちょっと驚いた表情をみせたのもそのためだろう。僕はそう思った。ご褒美に自ら降格を申しでる人間はいないだろうから。

だが、いたらしい。そういう人間がほかにも。もしかしたら同じゼロ世代の社員かもしれない。会長は言った。

「君たちは本当に配送センターが好きだな。君たちはあそこをディズニーランドかなにかと勘違いしてるのではないかね。まあ、いいだろう。コンテストで優勝したらな」


通勤電車の窓に映る東京ドームを遠くに見つめながら僕はよく夢想する。森に囲まれたアップル本社めいた郊外の巨大配送センターを。朝靄に包まれたマザーシップみたいに静かにそびえる配送センターを。

巨大な三棟のエンタープライズ号。そこにはなにもかもがあり、また、なにもかもがない。

おかしな話だし、自分でも理由がよく分からないのだけど、あの場所でなら、世間から隔離されたあのコンテナの人工都市でなら、30歳を過ぎても結婚もできないというゼロ世代の呪縛から逃れて、僕は自分の家庭を持てるような気がする。恋人を見つけて、結婚して、自分たちの子供をつくる。夫になり父になる。そんな真っ当な社会人としての営みを。


妄想かもしれない。なにしろ僕は入社したてのころに一度だけ配送センターを見学したきりだから。でもたとえそうだったとしても、妄想すらできない場所にとどまって老いてゆくよりはよっぽどいい。

しかしそうは言っても、今の社員たちのやる気のなさでは、その可能性も限りなくゼロではある。

おそらくボーナス効果も望み薄だろう。いや、むしろ社員たちは逆に余計やる気をなくすような気がする。問題は金ではないのだ。

僕はまた一つグッドモーニング体操を発展向上させるべき決定的な理由を見つけたのだけど、かと言って、それをどうすることもできない焦燥感に囚われていた。


それは精神衛生上、必要な行為だった。自分一人の力ではどうにもならないことなんて世の中にはいくらでもあるし、思い悩んだ暗い表情をした男の顔なんて、半年後に会うかもしれない面接官だって見たくはないだろうし。

いろいろと考え込んだ末に、僕はグッドモーニング体操のことは目に入れず、耳にせず、口にしないことにした。いいや、それだけではない。会社の一切合切から距離をおくようになった。

僕は総務部社員らしくそれを自分でも驚くほど律儀にこなした。

できるかぎり狭い総務部のオフィスから出ず、部長に付き合っていた社員食堂での昼食もやめた。どうせ行ったって、ほかの部署の社員たちから「グッドモ~ニ~ン」とバカにした口調で声をかけられ、からかわれるのがオチなのだ。

録画した記録はあいかわらず会長にメールで送っていたし、体操のマイク係りもつづけてはいた。でも、もういちいち画面上の社員たちの動きを目で追うことはなくなった。声のトーンも落とした。パソコンのスピーカーから耳に入ってくるテーマ曲だけで、どのフレーズをどこで入れればいいか体で覚えていたし、その音量もできるかぎり絞ることにした。

自分の仕事が終われば一目散に退社して、電車の車中でも叶わぬ配送センターの夢はみないように文庫本を開いた。


僕はグッドモーニング体操の存在を身のまわりから消した。だから周囲でなにが起きているのか、その変化にまるで気がつかなかった。

僕以外の人間に変化がおとずれるなんて考えてもみなかった。僕の頭の中では、会長の気が済むまで、あるいは会長にお迎えがくるまで、みんながみんな、あのどこまでも凡庸なプロフェッショナル体操をつづけていくものだと決め込んでいた。

でもそうじゃなかった。

会社員を長くつづけていると、まれに社の人間がまるで変人の集まりのように見えてしまうことがあるけれど、その変化はそんな感じにどことなく似ていた。


よりによってそれは、僕がグッドモーニング体操への執着を忘れ、配送センターの夢ももはやなかったことになりかけた頃にやってきた。会社の玄関前で発生した、季節外れの熱帯低気圧みたいに。なにかしらの熱に引き寄せられて。

責任者である僕だけではなかったろう。たぶん当事者である社員たち自身、自分たちの体から発せられているある種の熱に、ある時期まで気がついていなかったような気がする。

それはほんとに小さな雲の集団に過ぎなかった。そしてエネルギーを徐々に蓄えていきながら社内に潜入し、誰も想像しなかったコースをたどって、社員たちの熱を感知しつつ、ついに渦を巻く台風となってオフィスに上陸したのだ。

本来ならば社員としても、また一個人としても、僕は真っ先に発見しなければならない立場にいたのだけど、総務部シェルターに避難していた輩が、ほかのオフィスの変化を察知するのは不可能だった。

僕にそれを教えてくれたのは、唯一の隣人であり、かつての昼食仲間である部長だった。


ある日、部長は言った。

「金田くん、この頃ようやく社員食堂でほかの社員たちからバカにされなくなったよ」

またある日、部長は言った。

「金田くん、最近なんだか妙に社内の雰囲気が明るくなったような気がしないか」

さらにある日、部長は言った。

「営業部いったらさ、営業目標の横断幕が、『社内体操コンテスト絶対優勝!』に代わってたんだよ」

そしてある日、部長は言った。

「社員食堂いったらさ、また『グッドモーニング』って声かけられたんだけど、もう以前の『グッドモーニング』とはまるで違うんだよ。なんだか軍隊で敬礼されてるみたいだったな」

そしてついに部長は言った。

「金田くん、明日から私もグッドモーニング体操に参加してもいいかな」

で、ようやく僕は顔をあげた。


「やっとチアガールのコスチュームを着てみる決心がついたんですか」

僕は言った。

「違うよ。ここじゃ狭いからさ。営業部のオフィスで混ざってやらせてもらおうかと思うんだ」

「かまいませんよ。ただ問題なのは、営業部の人間がなんて言うかですね」

それは、てっきり社員食堂の孤独に耐えかねたのかと思っての、部下の親心だった。僕の上司はあちら側に寝返ったというわけだ。

でもそれも致し方ない。なにしろ彼の方はあと何年も、あるいは定年を迎えるまで、この会社に留まらねばならないのだから。

だけど、どうもそういうことではないらしかった。部長は上司の面目もどこ吹く風といった感じで、さも嬉しそうに部下の僕に言った。

「じつはね、営業部長の了解はもうとってあるんだよ。あとはグッドモーニング体操の責任者である金田くんのOKをもらうだけだったんだ。いや、よかったよ、金田くんがそう言ってくれて。営業部の社員たちもぜひ来てくださいと言ってるしさ、やっぱりああいうのは大勢でやった方が楽しいからね」

楽しい?いったいこの人はなにを言っているのだ?

たとえ部長がバブル生き残り組のすべてのプライドを投げ捨てて、自らチアガールのコスチュームを着たいと言いだしたとしても、僕はこんなには驚かなかったに違いない、そう思った。


その日の午後、総務部では異例のグッドモーニング体操会議が開かれることになった。出席者は僕と部長の二人。

この議題にたいして僕が言いたいことはなにもなかったけれど、部長の方はそうではなかったらしい。彼は人が変わったみたいに、あるいはやっと上司らしく、僕に意見をはじめた。もっとも、そうする前に僕にコーヒーを入れてくれたけど。


「思うんだけどさ、金田くんはグッドモーニング体操にちょっと偏見を持ってるんじゃないかな」

部長は言った。向かいのデスクで椅子に背もたれながら、僕はなんだかインチキ医者のカウンセリングを受けてるような気分がしていた。

「そりゃ確かに最初はみんな半信半疑だったよ。でもさ、状況は変わったんだ。今ではみんな心の底から楽しんでやってる」

「だからさ、金田くんの体操DJも、もう少し元気よく溌剌とやった方がいいと思うんだよ。あれじゃなんだか葬式のアナウンスみたいだからさ」

「ドント・ウォーリー・ビー・ハッピーだ、金田くん。みんなが、君が生まれ変わるのを待ってる。人生も仕事も楽しまなきゃ。そうだろ、金田くん」

どうやら部長は人が変わったというよりは、バブルの頃へと逆戻りしてしまったと言った方がよさそうな感じだった。


なにがドント・ウォーリーなものか、そう思った。少なくとも僕らの世代にそんなフレーズは存在しない。だからこそ僕は配送センター行きを希望したのだ。

僕はパソコンのグッドモーニングファイルをクリックした。不惑の年を超え、はたして上司が本当に一人バブルへとタイムスリップしてしまったのかどうか確かめるために。もしもの場合、今度は彼がカウンセリングを受ける番だ。

そのファイルにはグッドモーニング体操の映像記録が一日も欠かさず残されていた。もっともこれまで再生してみたことは一度もなかった。僕はとりあえず一週間前あたりの映像から見てみることにした。

そうしてようやく僕は知った。自分が自らすすんで貴重な時間を無駄にしていたことを。

なんてことだろう。配送センター行きのチケットは目の前に、僕のデスクの上に、すでにのっていたのだ。


翌朝、総務部オフィスに部長の姿はなかった。彼は僕のノートパソコンの中、営業部の奥の方で遠慮がちに映っていた。

それでも高解像度のおかげと言うべきか、僕は部長の表情を読み取ることができた。我が上司はカメラの向こう側にいる部下に向かってせっせとあるサインを送っているところだった。口を大きく開きながら。

社内は静まり返っていた。みんなが、制服姿の女性社員が、スーツ姿の男性社員が、直立不動でカメラのある一点を見つめていた。

今日という日が特別な一日になることを彼らは知っているようだった。この日がくるのをずっと待っていたのだ。王の帰還を待ちわびる民のように。

時計の針が9時を指した。始業ベルが鳴り響いた。それが終わるのを待って、ようやく僕はパソコンのマイクに向かって声を上げた。民の期待に応えるべく、それにふさわしい声量で。

「グッドモーニング!」


声はすぐには返ってはこなかった。彼らは一瞬だけ夢の中にいるみたいだった。それから僕のパソコンのスピーカーに全社員の歓声が届いた。

「グッドモーニング!」

僕は一度だけでは満足しなかった。何度も声を上げた。そうするたびに、社員たちの声も一際大きくなって返ってきた。

「グッドモーニング!」「グッドモーニング!」

会社の入ったビルのフロアが歓喜で揺れた。僕はようやくテーマ曲をかけた。パソコン画面に映った社員たちの動きは水を得た魚さながら、制服やスーツを着たアスリートたちが社内体操をしているようにキビキビと躍動した。


いったい彼らになにがあったのだろうか。なぜ彼らはこうも短期間で心身共に変わったのか。ボーナス効果だろうか?まさか、そんな。

僕はそれ以上考えようとはしなかった。考えても仕方がない。いいや、むしろ考えない方がいい。だって僕がなにもしない間に彼らはこうなったのだから。要は「社内体操コンテスト」に出場した彼らが、見事に優勝してくれさえすればそれでいい。それで万々歳だ。

「頭をグルグル回して、アイデアをひらめく運動!」

「足を大きく開いて、粘り強く交渉する運動!」

僕の題目紹介にも自然と熱が入った。自分でも笑ってしまうぐらいに。まるで格闘技のリングアナウンスめいていた。


いたるところで拍手が鳴り、歓声が沸き起こった。ハイタッチが交わされ、社員たちが飛び跳ねていた。

それはグッドモーニング体操のテーマ曲が終わった瞬間だった。すべてのオフィスが祝祭のムードに包まれていた。

僕だって拍手した。妙な満足感すら感じて。

するとパソコンの画面から突然、全社員の姿が消えた。忽然といなくなった。民衆に見捨てられた古い都みたいに、オフィスはどこももぬけの殻だった。

やがて総務部のオフィスに一人とり残された僕の耳に、どこからか怒号めいた声が聞こえてきた。

「カネダ!カネダ!カネダ!....」

ドアが乱暴に開けられたかと思うと、社員たちが雪崩のようにデスクに押し寄せてきた。

僕は彼らに立たされ、ハグされ、男からも女からもキスされ、オフィスの外へと連れだされ、そしてあっという間に持ち上げられ、社員たちで埋めつくされた廊下を宙に舞い、どこまでもどこまでも彼らの手によって運ばれていった。


何度か廊下を往き来した僕の体は、ふたたび総務部のドアの前でおろされた。

なんだかもうコンテストで優勝したみたいな騒ぎで、会社で胴上げされたのも初めてなら、女性社員から、そしてもちろん男性社員から、キスされたのも初めての経験だった。なにもかも初めてづくしだった。

何百という視線が僕一人をとり囲み、カネダコールはまだつづいていた。そこに一人の女性社員が踊りでてきた。経理の松下さんだった。総務部社員である僕は、全社員の名前と顔を記憶していた。

松下さんは声を張って言った。

「みんなー、ちょっと聞いて。私、グッドモーニング体操チアガール部を創設したいと思うの!入部希望者はいますか!?」

ハイ!ハイ!とたちまち何人もの女性社員が手をあげる。部長が聞いていたら泣いて喜びそうな光景だけど、あいにく部長の姿は社員たちの影に隠れて見えなかった。


ここまではよかった。すべてなんだか上手くいっていた。

様子がおかしくなりだしたのは、べつの女性があらたな発言をしたときだった。

その女性社員は言った。

「男子は?男性社員は会社のためになにもしないの!?」

すぐに一人の男性社員が反応した。

「俺は無給で休日出勤するぞ!」

そしたら、つぎつぎにバカ共があらわれた。ただ、そのたびに拍手と歓声が沸き起こった。

「俺はボーナスを返上する!」

「なら俺は残業代を全額返上するぞ!」

「俺も!」

「俺も!」

「俺も!」

僕はなんだか急に気分が悪くなってきた。柄にもなく胴上げなんかされたせいかもしれない。

「それよりみんな!大事なことを忘れてる!」

僕は怒鳴った。

「もう仕事の時間はとっくにはじまってるぞ!」

「そうだ!そうだ!」

みんな一斉に走りはじめた。それぞれのオフィスへと。蜘蛛の子を散らすように。

そして僕はやっと一人になれた。と思ったら、誰かに肩をたたかれた。部長だった。

僕の上司は笑顔で言った。

「みんな美しい愛社精神じゃないか」

彼は満足そうに総務部のオフィスに入っていった。

僕はなにも考えずにいるつもりだったけど、考えずにはいられなかった。

なにかおかしい。なにかが狂いはじめている。それもとんでもなく....。


(つづく)


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