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寝言小説クラブ(前編)

あなたの夫はよく眠る。起きている時でさえ寝ているように見える。朝には夢遊病のサラリーマンみたいにフラフラと家からでてゆき、夜の食卓では茶碗と箸を持ちながら早くも瞼を重たそうにして、牛みたいに口だけをモソモソと動かしている。そうしているうちに本当に眠り込んでしまうこともある。体に埋め込まれたモーターの電池が切れたみたいに、茶碗と箸を手にしたまま。

仕事で疲れた夫を支える堅実な妻を装いながら、じつはその様子を逐一観察しているあなたは、スエットのポケットに黒いスマートフォンをいつも忍ばせている。隙あらば赤いスタートボタンを押して、良人を盗み撮りするために。ここひと月の間に、あなたはすっかり夫専門の盗撮のプロになっている。


ソファでうたた寝している夫の肩をあなたは揺する。パジャマ姿の彼は「ああ....」とつぶやき目を覚ます。テレビを消し、病人を看護するように、あなたは夫を寝室へと導いてゆく。

あなたにとっての一日のハイライトはここからはじまる。枕元に置いた電気スタンドの橙色した灯りを点けたときに。夫はふたたび寝入っている。あなたはスマートフォンを手に、あとから自分の布団に入ってくる。それからしばらく、向かい合った良人の寝顔を見つめる。ただ、それは二人のこれまでの結婚生活を振り返って感慨に耽ったり、一人で後悔をはじめたりするためではない。その証拠に、やがてあなたは林間学校にやって来た子供みたいに彼に話しかける。フクロウが鳴きだしそうな夜の森で、テントの寝袋の中にいる友達が本当に眠ってしまったか確かめるようにヒソヒソと。

けれども、その声はあまりに小さいので、あなたの唇はまるで無声映画のヒロインのように見える。眠るために生きているような良人はもちろんピクリともしない。すると様子を伺うように、あなたの声はしだいにトーンを上げてゆく。それは寝ている夫を起こすためではなく、まるで夢の中にいるもう一人の彼に向けて話しかけているようではある。あなたは夫の中に新しい友達を見つけたみたいにささやく。

「.....あなたは誰?.....あなたは誰?」


あなたの問いかけは熟睡している夫の耳には届かない。それでも、あなたは夜毎ささやきつづける。その寝顔をスタンドの灯りの下に見つめながら。

「.....あなたは誰?.....ねえ、あなたは誰?」

すると不思議なことが起こる。あなたの問いに反応するように、良人が寝つきの悪そうな唸り声を発するようになる。それは悪い夢にうなされているようでもあり、体内に閉じ込められた別の人格が、今まさに目覚めようとしている風でもある。

あなたはすかさず枕元に置いたスマートフォンを手に取る。そしてカメラアプリを立ち上げ、眠っている夫の姿を動画に収めはじめる。盗撮主婦の面目躍如。その間もあなたはささやきつづける。子供の問いかけのようだったそれは、どこか年長者めいてきている。

「....あなたは誰?.....あなたは誰?.....教えて頂戴」


時は来たと確信したあなたが、スマートフォンを握りしめて電車で向かった行き先は、都心の新興出版社。あなたは電話をしてすでに持ち込みの予約を取ってある。

グーグルマップの案内に従って駅からの道を勤め人たちに混じって歩いてゆくと、なにやら不吉な声の出迎えを受けてあなたは立ち止まる。拡声器によって増幅された中年女性らしき勇ましい声が聞こえてくる。首を伸ばすと、歩道に特徴的な一団が溢れているのが見える。プラカードを掲げた、ビジネス街には不釣り合いな色とりどりの老若男女が、一つのビルに向かってシュプレヒコールをあげている。周りには警官の姿もちらほら見つかる。

あなたはインターネットやテレビのニュースを思いだす。そしておもむろにスマートフォンをバッグに仕舞う。もうグーグルマップは必要ない。いや、むしろこんな物を手にしてウロウロしていたらいい標的にされてしまう。あなたは思う。出版社は間違いなくあのビルだと。

あなたは遠回りに、ピカピカと黒光りしてそそり立つ真新しいビルへと近づいてゆく。もう何年も感じていなかった興奮に包まれながら。まさか自分がデモやシュプレヒコールの対象になる日が来るなんて.....。

あなたは無関心な歩行者を装って、電話で言われたようにこっそり裏口から建物に入る。


新興出版社のロビーはシックなホテルめいている。大理石の壁に飾られた、ロココ時代の読書する女性が、ロビーのモノトーンな空間に色鮮やかに君臨しているように見える。

時を経てその下に列をなす現代の女たちの手には、本ではなく、あなたと同じようなスマートフォンが握られている。それはまるで女性たちだけのスマートフォン検定なるものが今まさにこの場所で開催されるかのような光景で、その列はロビーに弧を描き、壁沿いの回廊めいた長い階段へと途切れることなくつづいている。あなたは競争相手の多さに驚き、少し騙されたような気分になる。

漠然とだが、市役所に似たイメージを抱いてやって来たあなたは、どうせならもう少しお洒落な服を着てくればよかったと、後悔しながら列の最後尾に並ぶ。背後の自動ドアが開くと、表通りからは群衆のシュプレヒコールが嫌でも聞こえてくる。

「寝言小説はいらなーい!」「寝言小説を許すなー!」「寝言小説反対!」「出版社に夫を売るなー!」

さっきまでは非日常的だった群衆の叫びが、そこではむしろ現実と結びつく唯一のもののようにあなたには感じられる。とりわけ最後のシュプレヒコールが、あなたの罪悪感を呼び覚ます。


あなたはそわそわしながら他の女たちの様子を伺う。あなたによく似た女たちの反応を。なぜなら彼女たちの中には、すでに何度も出版社を訪れているベテランがいるはずだから。あなたはそう考える。そして彼女たちから罵声に対する出版社内での礼儀作法を学びとろうとする。

だが、あなたが女たちから学びとるものはなにもない。あなたはそれを学びとる。無反応。無表情。階段の上から下まで視線を走らせ、あなたが女たちの横顔やその背中から読みとったのは。誰の耳にもシュプレヒコールなど聞こえてないかのよう。あるいは聞こえていても、まったく自分とは関係ないかのような涼しい顔。ある者は瞑想しているかのようにじっと瞼を閉じたまま動かず、またある者はスマートフォンの画面を真摯に覗き込んでいる。どこか都合のいいマネキンめいた人妻たち。


似たような環境に身を置き、同じ目的を持ちながら、なにかしらの感情を共有しようとする者はそこには一人もいない。

ああそうだ、そうなんだ、とあなたは思う。私たちは遊びにきたんじゃない。私たちはお洒落して、空港のロビーでスタアの来日を待ってるんじゃない。私たちにはそんな時間はない。私たちには他人に与える時間なんてない。ここにいる人たちはみんな、普通なら取り戻せるはずのないものを取り戻しにやってきたんだから.....。


「スマートフォン検定」を終えた女性が一人また一人、階段から下りてくる。誰もその足取りに注意を向ける者はいない。それでもあなたは子供のように視線を向けてしまう。好奇心と、それによく似た優しさから。そして後悔し、自分の浅はかさを恥じる。あなたは彼女たちの表情からいとも簡単に失意を読み取ることができる。それはあなた自身がずっと抱え込んできた失意でもある。

(この世界に私が占める場所はない.....)

あなたは出版社の裏口から逃れるように出ていく女性の後ろ姿を目で追う。一時間後の自分の姿もああかもしれないと。

前の女性が列を一つ詰める。あなたの前に一人分の空間ができる。それはさっきまで、かの女性が占めていた小さな可能性だったかもしれない。あなたは一歩踏みだしてその場所を埋める。永遠に扉を閉じる。階段に並んだ影たちを見つめ、自分が最期の審判を待つ女たちの列にいるような気がしはじめる。


階段を上り詰め、二階にでると、そこは天上めいた光に包まれている。半円柱状の曇ガラスをいくつもはめ込んだ壁が、真珠貝のように淡白く発光している。まるで新装開店した高級ブティックの正面玄関さながらの輝きを放っている。

しかし、その光がつかの間の明るい未来を予感させることはない。むしろ自分が場違いな場所にいることを痛感させられる。でも、それでいいんだ、とあなたは思う。誰もが生まれ変わるために階段を上ってきたのだから、と。先頭の女たちは別世界の入口へと吸い込まれていく。


チーン。タイプライターみたいなベルの音が響く。「次の方どうぞ」。そう言ってあなたを案内するのは、キャビンアテンダントのような制服に身を包んだスラリと背の高い出版社の女性社員。あなたはそのヒールの響くあとについていく。

縦長のピカピカのオフィスに、仕切りで区切られた机がズラリと並んでいる。無数の箱庭の中で、女たちと、両手に白い手袋をはめたネクタイ姿の検定員たちが向かい合っている。あなたはそんな光景を今まで見たことがない。チーン。どこかでまたベルが鳴る。そうして席を立った女性とすれ違うが、一度学習したあなたは今度は視線を合わせない。


「はじめての方ですね」

髪を短く刈り込んだ丸顔の中年男性が落ち着いた声で聞く。日焼けした肌に白いワイシャツが眩しい。細身のネクタイもいい。あなたは発作的にワイシャツがこんなに似合う男性は見たことがないと思う。夫が毎日会社に着ていくあれは一体なんだったんだろうという考えもよぎる。

それがあなたの検定員。彼はあなたの目を覗き込むように聞いてくる。

「今日ここへ来ることは、ご主人にはお話しされてませんね?」

あなたは神妙に頷く。

検定員は机上に広げた履歴書に目をとおしながら手際良く質問を投げかけてくる。あなたは主婦専門の銀行の本店にお金を借りにきたような気分になる。

「結婚されて何年ですか?」「お子さんはいらっしゃらない」「なにかスポーツはされてます?以前はされてました?」「失礼ですが、ご主人のお勤め先は?」「読書はされますか?ご主人は?それはどんな本ですか?」

優しげでも、意地悪でもなく、あくまで事務的に資産を査定するように検定員は話しかける。自分の資産価値にまったく自信がないあなたに、ふたたび不安の種が芽生える。すべてを夫と、夫のワイシャツの所為にしたくなる。


「夫婦関係は円満でらっしゃる?」

最後の質問にあなたは幾つか目かの嘘をついて、いよいよスマートフォンを白手袋に手渡す。

「導電性の手袋です」

検定員はそう言うと、持ち主よりも慣れた手つきでそれを操作しはじめる。まるでスマートフォンの目利きのような顔つきで、あっという間に目的のフォルダにたどり着く。あなたは主婦銀行の本店で、自分のスマートフォンを下取りしてもらってるような気分になる。

「ご主人の写真を撮りはじめたのはいつ頃からですか」

「ひと月ぐらい前です」

「ご主人はよく眠る?」

「はい」

「以前からそうですか」

「いえ、ここ最近なんです。なんだか仕事で疲れてるみたいで」

目利きは頷きながら視線をスマートフォンの画面にもどし、「ちょっと失礼」と言って耳に白いイヤホンをねじ込み、本体にジャックを差し込む。あなたは夫婦の寝室を他人に覗かれるのがやはり恥ずかしい。特に白いワイシャツがこんなに似合う男性には。

しかし検定員はあなたの心の内など気にも止めず、白手袋の指で、まるで執刀医みたいに画面上を掻き回し、あなたが撮影した動画を細かく切り刻んでゆく。


やがて検定員はワイシャツの胸ポケットから黒いクリーニングクロスを取りだして、いいように扱われたスマートフォンをピカピカに磨き上げる。そしてそれをあなたの手に返す。

彼は机の引き出しから一枚の書類を抜き取る。万年筆で素早くサインし、隅に四角いスタンプを押す。唇を尖らせ、息を吹きかけて乾かし、白い封筒に収めて金色の封印をピンセットで摘まんで貼りつける。あなたは彼の動作を意味が分からないまま見つめている。

「紹介状です」検定員は封筒を差しだして言う。「あとでメールが届きますから。これを持って指定された場所に行ってください」

「それじゃ....」

「おめでとうございます」検定員はあなたの言葉を手袋の手で制止してつづける。「礼はいりません。寝言小説といえども、その道は長く険しい。あなたはまだスタート地点に立ったばかりです」

あなたは恐縮しながら封筒に手をそえる。でも検定員はまだその手を離さない。彼は最後に念を押すように、唇に白い人差し指をあてて言う。

「このことはくれぐれもご主人には内密に。何を聞かれたとしても決して答えてはいけません」

あなたが頷くと、検定員はやっと封筒を離す。その手で真鍮色した机上のベルを押す。チーン。キャビンアテンダントみたいな女性がこちらにやって来るのが見える。


あなたは長い階段を一人下りてゆく。壁際には女たちの列が相変わらずロビーまでつづいている。あなたは努めて自分のつま先だけに視線を向けるようにするけども、ふと階段の下から誰かに見られているような気がして顎を上げる。

一人の女性がこちらを見つめている。無表情なマネキンたちの列の中で。さっきのあなたと同じように、一人だけ好奇心のオーラを放っている。ほんの一瞬だけども、その不注意な好奇心にどう応えたらよいのか、あなたは迷う。でも、春を待つ人々に春の訪れを止めることはできない。あなたは女たちの礼儀作法に新たな一頁を書き加えることにする。鮮やかなロココ時代の女性に一矢報いる。ロビーの女性に明るく微笑んでみせる。


あなたは来た時とはまったく違った心持ちで出版社の裏口をでる。今はやるべきことが山ほどあるように感じられる。降り注ぐ外の日射しにもなにか特別な意味があるように感じる。

でも、あなたがまずやらなければならないのは、その意味を読み解くことではなくて、逃げること。その場からできるだけ早く立ち去ることだ。なぜなら、そうしている間にも敵はあなたの居場所を嗅ぎつけて襲いかからんとしているから....。

「あなたー!そこでなにやってんのよ!」

オフィス街の裏通りに女の罵声が響く。どこかの店で食い逃げでもあったのかとあなたは思う。でも、その声の調子には聞き覚えがある。あなたは思いだす。そう、表通りのシュプレヒコール。拡声器の中年女性。彼女だ。ようやくあなたは気づく。食い逃げ犯は自分だと。振り向くと、参議院から立候補した闘牛みたいな女が、あなたを睨みつけて立っている。


「見つけたわよ!あなた、自分のしてることが分かってんの?自分の旦那を廃人にしようとしてるのよ!社会にウイルスを撒き散らそうとしてるのよ!」

女はまくし立てながら突進してくる。あなたにはそれを闘牛士みたいに華麗に避けることはできない。あなたは真紅のムレータも真鍮の剣も持っていない。むしろそれは女の側にある。ピンクの派手なワンピースに大粒の真珠のネックレス。持つ者と持たざる者。なのにあなたは持つ者から激しく説教されなければならない。しかも公然の面前で。

「そんなにお金が欲しい?有名になりたい?そのためなら他人の人生をメチャクチャにしていいとでも思ってるわけ?出しなさいよ。あなたの携帯出しなさいよ。知ってるんだから!」

女はあなたのバッグを、「こんな安物!」とでも言うように強引に引っ張ろうとする。その時、頭の中で声がする。あなたを導く声が聞こえる。

路上に女の悲鳴が響く。アスファルトに真珠の雨が四方八方に飛び散ってゆく。女はとどめの一撃をうけた闘牛のように崩れる。ネックレスの残骸を手にしたあなたが、闘牛士のように立っている。


騒ぎを聞きつけたデモの仲間が裏通りになだれ込んでくると、アスファルトのピンクの牛は被害者を熱演しはじめる。

「あの女よ!あの女がやったの!」

あなたは周囲に身の潔白を主張することも忘れ、むしろ感心してしまう。なんてしぶとい生き物なんだろう、と。

遅れて駆けつけた警官の姿を背後に見つけた女はあざとく叫ぶ。

「お巡りさん、あの女です!あの女、窃盗犯よ!暴行犯よ!テロリストよ!バッグにとんでもない物隠してるわ!レディXの親衛隊よ!捕まえて!」

だが、警官が押さえ込むのはお喋り牛の方。それも二人がかりで。デモの仲間たちまでが彼女を取り囲む。あなたは呆気にとられてなり行きを眺めている。すると一人の男性が振り返り、顎を振る。いけ、と。

それであなたは我に返る。握りしめていたネックレスの残骸をアスファルトに捨てる。女の冤罪の叫び声を聞きながら、堰を切ったように走りだす。


あなたは線路沿いの通りを歩きつづける。まだ気が動転している。そんな自分に嫌気がさしはじめる。バカみたいに歩きつづけていることにもうんざりする。それであなたは電車に乗って帰ることにする。

そこでは男たちがみんな眠りについている。サラリーマンも学生たちも、揺りかごの赤ん坊みたいに、昼間から電車のシートで夢を見ている。ただ、彼らの寝顔は赤ん坊みたいに幸せそうではない。むしろ彼らは、眠ることによってあらたな疲労を蓄積しているかのように見える。その肩に細かい鉄の塵が降り積もっていく。

男たちの姿は、当然のように夫の姿と重なる。あの中にも寝言夫がいるのかしら、とあなたは思う。毎夜のごとく妻の横で、まだ誰も見たことのない、聞いたことのない、物語を紡ぎはじめる夫たち。でも、そんなことになっているのを寝言夫だけが知らない。知らずに夢だけ見ている。餌付けされた家畜みたいに。

寝言夫たちは本当にいつか眠れる廃人になってしまうのかしら.....寝言小説にのめり込む人々は本当に夢と現実の区別ができなくなってしまうのかしら......

あなたはあれこれ考えるけども、その答えはまだ誰にも分からない。だからあなたも考えるのはやめにする。あなたはただ、検定員の眩しいぐらいに白いワイシャツを思いだす。そしてあの輝きを忘れないように、電車の男たちから視線を上げる。


そこにあの女がいる。あなたはふたたびあの中年女と目を合わせる。

ただ、彼女はもうあなたに怒ってはいない。そのかわりに別のものに怒っている。週刊誌の中吊り広告の中で。モノクロの顔写真と名前入りで。彼女はこう言っている。「寝言小説が日本を滅ぼす!」と。

ようやく女が有名作家であることを知らされたあなたは思う。たぶん寝言小説のせいで仕事がなくなっちゃったのね。だからあんなデモに参加してるんだわ。転げ落ちる石みたいに....。

それからあなたは、女作家を少し不憫に思ってアドバイスを送る。.....転職すればいいのよ。あなたも寝言小説を書いてみればいいのよ。もし結婚してないんだったら、貯金の残りで寝言男を雇えばいいんだわ。編集者に紹介してもらうのよ。ちょっとイケメンの。でもその時には、私に投げかけた罵声は謝罪付きで訂正してもらいますから。一筆したためてもらうわ。私たちは、いいえ少なくとも私とあなたは、お金だって欲しいし、有名にだってなりたいの。あなたが本当に心配してるのは日本の将来なんかじゃなくて、自分の老後じゃないのかしら。


女作家へのあなたのアドバイスは、やがて辛辣になる。あなたは中吊り広告を見上げながら心の中でつづける。.....でもダメね。あなたは作家にはなれても寝言小説家にはなれない。残念でした。だってレディXはあなたにはメッセージを送らないから。さっきもそうだった。メッセージを受けとったのはあなたじゃなくて私の方。

それは発行部数数百万部の女性の声。十人もの寝言男を抱えていると週刊誌が書き立てる女性の声。あなたがはじめて寝言小説を読んだ時に、物語の中で突然聞こえてきた女性の声。そしてついさっき、あなたが路上で聞いた女性の声。

(引きちぎれ!奪い取れ!)

もうすぐ会える。あなたは思う。そしてバッグを開いて四角い封筒を覗き込む。そこにある文字は、金色の封印に刻印されたXだけ。


あなたは紹介状をバッグに入れたまま数日過ごす。憧れのスタアに握手してもらったきり手を洗おうとしない子供みたいに。

出版社からのメールはすでに届いている。それはあなたが思い描いていた文面とは少し違うけども、必要なことは書かれている。

あなたはこれまでの復習をするように寝言夫に問いかける。夜の布団の中で。

良人の寝言はだいぶマシになってはきている。言葉になりかけている。でもまだまだ物語の体をなすにはほど遠い。目を閉じてやっと寝言の主が人間であることが分かるレベル。

それでもあなたは落胆はしない。寝言夫はある夜、突然喋りはじめることを知っているから。夏の雨みたいに突然に。

だからあなたは辛抱強く待っている。二人の布団の上に、黒々とした不気味な雲たちが立ち込めるのを夜な夜な待ち詫びている。


出版社からのメールは、あなたの新しいバッグ購入プランを白紙にする。そこには聞いたこともない料理学校の名前が記されている。

料理学校にもいろいろあるだろうし、その一つとしてあなたはよくは知らないけども、料理学校に行くのに新しいエプロンは必要だとしても、新しいバッグは必要ないように思える。そもそも寝言小説と料理学校にどんな因果関係があるのかが分からない。

(なんで小説を書くために料理学校に行くのよ.....)

でもメールにはちゃんと料理学校の住所と電話番号に地図のリンク先まで貼られている。

そんなわけで、使い慣れた、なにかのついでに買ったバッグにエプロンは入れず紹介状だけを忍ばせて、あなたは晴れた日の昼下がりに中野にある料理学校に半信半疑おもむく。


大学の講義室めいた教室に足を踏み入れる頃、やっぱりこれはなにかの間違いなんじゃないかしらと、あなたは勘ぐりはじめる。

料理学校は新築の真っ白いファッションビルみたいで、その羽振りのよさを想像させる。一流企業みたいな受付に紹介状を渡したあなたは、五階の講義室に行くように指示される。そこにはスマートフォン検定に合格した、あなたと同じ年代の六人の女性がすでに着席している。相変わらず、他人にはまるで無関心な様子で。でも、なにも問題はない。問題なのは、そこが料理学校であることだけ。

傾斜のついた床に、中央の教壇に向かって細長い机が半円状に並んでいる。女たちはその席に、孤島のようにてんでバラバラに腰掛けている。でも、それがあなたを少し楽にする。女たちが身体から発する、どうして私はこんな場所にいるんだろうという不穏な空気が。誰もエプロンをしていないことも、あなたを安心させる。

しかし、やはり料理学校にエプロンは付き物であり、あなたはそれをあとで知ることになる。


上手の入口から一人の中年女性が入ってくる。彼女があなたたちの仲間でないことはすぐに分かる。女性は胸に二列のボタンが並んだ白いコックコートに、頭には山高のコック帽子をかぶっている。

女性は中央の教壇に立ってあなたたちを見据える。赤いべっ甲眼鏡に、料理家にはおよそ相応しくない派手な化粧。その視線はあなたたちとは対照的に確信に満ちている。

「こんにちは、皆さん。ようこそ中野料理学校へ」

女性が口を開く。あなたたちはなによりその声が頭の中でなく、耳から聞こえてきたことに驚く。

女性が眼鏡を外す。頭のコック帽子も取り去る。豊かな髪が露わになる。あなたたちの目の前に一人の成熟した女性が立っている。彼女は自信たっぷりにこうつづける。

「そしてようこそ、寝言小説クラブへ」

(つづく)


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