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新ムツゴロウ伝

白い柴犬が尻尾の使いのようにあとをついてきた。次の日には柴犬と一緒に黒猫もあとをついてきた。その次の日にはカラスと雀が上空から舞い降りた。さらには、子犬と子猫が。暖かくなってくるとトンボや蝶々の昆虫たちも。ついには、どこからきたのか野生の狸まで、その行列に加わった。


彼らはマションの玄関先で青年がでてくるのを朝の日課のように待っていた。犬は尻尾をふり、猫は尻尾を立て、狸は鼻をなで、カラスは電柱で翼を広げて。その光景は、まるで動物たちが演じる宗教劇のような、滑稽な厳粛さがあった。

そして、いよいよネクタイ姿の青年が姿をあらわすと、駅までの道のりを、獣の巡礼者みたいに、小さき者たちは彼のあとにつづいてゆくのだった。


動物たちが、どこから来て、どこへ帰ってゆくのか、青年は知らなかったし、知りたいとも思っていなかった。べつにそれで困ったこともないから放っておいた。エサはおろか水さえやったことはなかったし、毎朝顔を合わせても、名前を付けて呼ぶこともしなかった。

ただ、たまに柴犬の到着が遅れたときには、他の小さき者たちと一緒にマンション前で待ってやることはしていた。

柴犬が遅れるのは、大抵いつも金曜日で、時間にして5分程度だった。そんなとき黒猫は、少し不安そうに三日月の眼をまるくして、青年を見上げるのだった。だが、やがて通りの向こうから全力疾走でやってくる柴犬を、同じ方向に見つけることになるのだ。


動物たちは駅前のロータリーまでついてくると、必ずそこで立ち止まった。駅の構内まで入ってくるようなことは絶対になかった。それが彼らの暗黙のルールであるかのように。尻尾のある者たちは横一列に並び、翼と羽根のある者たちはバス停の屋根や電線にとまって、構内に消えてゆく青年の背中をそれぞれ見送るのだ。


当の青年は、小さき者たちの存在にはいたって無関心な様子だったが、その大まかな観察眼によれば、彼の姿が見えなくなったあと、動物や虫たちはそれぞれ四方八方に解散して、日が暮れて彼が仕事から帰ってくる頃になると、またどこからともなく集まりはじめ、朝と同じ場所に尻尾を垂れ、翼と羽根をおろし、彼の到着を静かに待つようだった。

そして改札口から、朝より気持ちくたびれたスーツを手にした青年がでてくれば、小さき者たちと彼とのマンションまでの巡礼の旅が、街中の商店街でふたたびくり返されることになった。

もとから仕事帰りに寄り道しない質の青年ではあったが、巡礼のお供たちが彼の帰りを待つようになってからは、ますますその傾向に拍車がかかった。


そんな青年を見て、いつからか街の人々は彼を『ムツゴロウ』と呼ぶようになった。街の子供たちは嬉々として彼のあとについてきた。オモチャみたいに動物たちに触りたがった。駅のロータリーでは、彼と動物たち見たさに集まった人々が輪を作った。みんなが携帯のカメラで写真を撮った。

年寄りたちは青年にお辞儀をして、スーツ姿の釈迦の生まれ変わりみたいに、彼に両手を合わせて拝む者までいた。商店街の店主やおかみさんたちは、彼にオカズのおまけをくれた(青年が動物たちを養っていると勘違いしてるようだった)。

大勢の人たちが彼に質問した...「動物たちの名前は?」「どうして後をついてくるの?」「結婚はしてるの?」

ただ、中には青年と動物たちの存在を快く思わない人々もいた(柴犬も黒猫も首輪はしていなかった)。そういう人たちは不愉快極まりないように、刺すような視線を巡礼団に投げかけた。つばを吐き捨てる輩もいた。


いずれにせよ、好もうと好むまいと、人々が青年とその連れたちから得られるものは、その好奇心とは反比例して少なかった。彼らは期待外れの転校生だった。

それと言うのも、青年も動物たちも、周囲にいたって無関心だったから。動物たち(それはカラスでさえ)は無口で、青年以外には尻尾をふらず、彼らはどこか使命を帯びた秘密裏の旅の途中といった感じが漂っていた。

春風の強い日は首を垂れ、梅雨にはしとしとと濡れて歩む彼らの姿は、大道芸の見世物とは一線を画す存在で、そんな世界があることなどまるで知らないといった様子だった。


そういったわけで、青年と動物たち一行は、転校生がやがて普通の一生徒の立場に落ちつくように、時が経つにつれ、人々の好奇の的から外れてゆき、当たり前の街の一風景として受け入れられていった。

状況が少し変化したのは、夏になって、トンボが青年の肩にとまり、蝶々がヒラヒラとそのまわりを舞うようになってからだった。

ある朝、青年がいつものようにマンションからでてくると、そこには動物たちと一緒に、一人の少女が立っていた。

「またか」青年は思った 。以前にも似たようなことがあった。思春期にありがちな強すぎる好奇心。たぶん、二三日もすれば諦めるだろう...。

だが、今回の少女は違っていた。彼女は一週間過ぎても、二週間が経っても、やはり青年のあとをついてきた。強い夕立ちにあった帰りには、動物たちと一緒に煙草屋の軒下で雨宿りした。その間、青年はたまに少女の横顔に目をやったけど、少女の方はずっと動物たちと雨足を見上げていた。

青年はやっと、少女が小さき者たちの仲間なのだということを理解した。


新入りの少女はいつも最後尾の狸のあとについて歩いた。動物たちがどこからきて、どこにゆくのか知らないように、青年は少女の素性についてなにも知らなかった。彼は少女を特別扱いはしなかったし、少女の方もそんなことは望んでいないようだった。だから名前も知らなかった。

でも、街の住人たちがいろんな噂を立てたのは事実で、肉屋の主人は「あれは絶対、男と女の仲」だと主張し、おかみさんの方は「妹さんかもしれないじゃないの」と反論し、鍵屋の主人は「お弟子さんかもしれないね」と言い、酒屋の配達人は「いや、あれは狐に違いない」と踏み、喫茶店のウェイトレスは一人傷心気味だった。

大胆なのは子供たちで、青年と少女にむかってヒューヒューとはやし立てた。

ある日、プール帰りの小さな女の子が少女の横にきて、彼女のTシャツの裾を引っ張って、「お姉ちゃん、ムツゴロウさんのお嫁ちゃん?」と聞いてきた。少女は笑って首を横にふった。

いったい彼らが何者なのか、知る人はいなかったが、とにかく夏の間、青年と少女と小さき者たち一行は、本人たちの意思とは関係なく、街のにぎやかで新しいシンボルとしてもてはやされたのは事実だった。


「虫さんたちは待ってても来ないから」

ある朝、少女が言った。青年はそのときはじめて少女の声を聞いた。そして「ああ...そうか」と思った。夏が終わったのだ、と。でも、どうして彼女はそのことを知ってるんだろうか....。

それから季節が秋に近づくたび、青年は少女の言葉を聞いた。少女はまるで青年にとって、自然界に通じた魔法使いのようだった。


ある朝、少女は「鳥さんたちはもう来ない」と言い、さらにしばらくすると、子犬と子猫が、そして狸が、もう来ないと青年に告げた。巡礼の列はしだいに淋しく、短くなっていった。

もとから動物たちがなぜついてくるのかわからない青年には、彼らがなぜ去ってゆくのかもわからなかった。青年にわかったのは、少女の言っていることが事実だ、ということだけだった。

そしておそらく、残った柴犬と黒猫もいつか姿を消すのだろう。そして自分はそれを少女の口から聞くことになる。では、少女がいなくなったとき、その事実は誰の口から告げられるのだろうか....。


黒猫が消え、柴犬も消えた。街の子供たちも彼のあとをついてこなくなった。商店街の人々は彼とは目を合わさなかった。青年を「ムツゴロウ」と呼ぶ人間はもういなかった。

それでも少女だけは毎朝、必ず青年を待っていて、駅までの道をついてきた。帰りの電車の中で、もうロータリーに少女は立ってないんじゃないかと思っても、やっぱり彼女は朝と同じ場所で彼を待っていた。


いつか少女が去ってゆくのはわかっていた。でも、それがいつなのか、どうして去ってゆくのか、言葉にして聞きだすことは青年にはできなかった。二人はいつも無言で歩き、二人の距離はいつまでも近づきも遠のきもしなかった。

だがある晩、青年はついに道端で足を止め、少女を振り返りたずねた。

「きみもいつかいなくなるんだね。柴犬と猫みたいに」

少女は微笑みながらこっくりうなずいた。

「でも、きみがいなくなったら、それを教えてくれる人もいなくなる。ぼくはずっと、きみを待ちつづけなきゃならない」

「そうね」

「だから聞かせてほしいんだ。きみはいついなくなっちゃうの?」

少女の顔から笑みが消えた。彼女がそれを取り戻すまで少し時間がかかった。やがて彼女は気丈そうに言った。

「あなたが私にそれを聞いたとき」


少女の残した言葉がまだ夜の空気を震わせていた。けれど、彼女はもうそこにはいなかった。

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