帰ってきた帽子サラリーマン⑩
長いコートに身を包んだ男たちが、フードで顔を隠し、静かな雨に打たれながら、午後をすぎた東京の街中をパレードしていました。空はすっかり晴れていましたけど、一行が通り過ぎたあとではアスファルトが黒く濡れ、車道の端だけが日光をより多く集めているようでした。
彼らのうしろには、スーツ姿のサラリーマンたちが、そぞろ連れ添っていて、やはり同じように、灰色した頭上の雲の絨毯から滴り落ちる雨に濡れていました。
早春からはじまったレインマンの物言わぬ静寂極まりないパレードは、静かなだけに彼らを制止させる者は誰もなく、晩春になってもまるで我がもの顔で都心のあらゆる街中を練り歩いては濡らしていました。ただ、ついにここにきて、その止まらない歩みに向かって、立ちふさがる者が姿をあらわしました。
それはスーツを着た、一人の若い女性でした。彼女はカラフルな色をした変わった形のニット帽を頭にかぶっていて、車道の端に立ち、パレードがやってくる方向を仁王立ちで見定めているのでした。
レインマンのパレードは、ブレーキの音は立てませんでしたけど、まるで長い貨物列車のごとく、ゆっくりゆっくり停止しました。先頭を歩く二人のレインマンから車道に立った本子までの距離は、およそニメールといったところです。
ガードレール沿いには、やはりニット帽をかぶり、肩にトートバッグを掛けた五人の女性と、まるで引率の先生めいた若き主任とが、ピットインで待機するレーシングチームのごとくスタンバっているところでした。
レインマンと本子の双方が、お互い口を開くことなく睨み合っているような格好でした。そもそもレインマンの顔はフードで隠れていて、その表情は誰一人として読みとれないので、本子としてもどう切りだしてよいものか迷っているような感じです。緊張感が漂う時間だけが、都心のアスファルトの上をいたずらに通り過ぎていきました。
そんな間にも車道では車がパレードの脇を関係なさそうに次々と走り去っていき、その一方で歩道では午後の野次馬が、停止したままのパレードの様子をうかがって大勢集まりはじめていました。
やがてパレード先頭の左側に立ったレインマンが、フードの先に手をかけて、本子の目の前で頭からそれをゆっくり脱ぎ去りました。その下から覗いたのは、若き帽子サラリーマンであるBの素顔でした。
「......帽子サラリーマン」
何度かの路上での帽子チャレンジで、すでにBの顔を覚えていた本子は、呆然とつぶやきました。仕事柄、レインマンの素顔をよく想像してはいたものの、かぶったフードの下からまさか知った顔があらわれるとは想定すらしていなかったので、肝をつぶした思いです。
本子が驚いた表情をギャラリーに向けると、主任と五人の仲間たちも狐に摘まれた表情でこちらを眺めていました。
ただレインマンBの方は、本物そっくりな涼しい顔で振り返り、列のうしろに向かって素早く手招きしてみせるのでした。すると後方から慎重な足どりで姿をあらわしたのは、パレードに参加していたのでしょう、さらに想定外な、髪を濡らしたスーツ姿のB本人でした。彼もまた本子以上に驚いた様子で、自分と同じ顔をした男性から路上で手招きされるとは思っていなかったでしょうから、距離を積めるにつれて疑惑が確信へと変わっていくと、ついには慎重な足どりでさえも途中で止まってしまうようでした。
レインマンBは、凍りついたB本人にはお構いなく、本子に向かい「時はきた」と、数秒の狂いも生じない電波時計めいた言葉を発しました。
やがてB本人がパレードの先頭に到着すると、彼は自分のドッペルゲンガーに尋ねました。
「もしかしたら、君はあのときの雲じゃないかしら?」
「記憶を返しにきた」
レインマンは頷いてそう答え、人差し指を上空に指し示すと、頭上に敷かれていた灰色した雲の絨毯が御役御免とばかり、空へと昇っていって、遠く小さな点となってやがて消えてしまいました。
「ボクに君の頭にのったニット帽をかぶせてくれないか、〈編み人知らず〉さん」
レインマンは本子にお願いするように話しかけました。本子は彼が〈編み人知らず〉の名を、あるいはそれ以上の素性さえも、心得ていそうな事実に一瞬怯みましたけど、それもそのはずだと考え直して、一度うなずいてみせてから近づいて彼の頭にニットの山高帽をのせました。レインマンは帽子を持った本子の手に彼自身の手を重ね、しばらくその格好のままでいると、やがて帽子だけを残して、雲のように消えてしまいました。
レインマンが消える間際に本子の耳に聞こえるように微かな響きで残した言葉は、「これを帽子サラリーマンにかぶせてあげて」でした。
本子はレインマンの遺言をすぐに実行に移しました。彼女はBの頭に〈編み人知らず〉からの贈り物をのせ、ずっと言いたかった言葉をやっと口にだして話す機会に恵まれました。Bは一度瞼を閉じてからまたゆっくりと開いて、すべての迷いが晴れたかのように静かに答えました。
「お帰りなさい、帽子サラリーマン」
「ただいま」
春が終わりに近づいて、初夏の夕焼けが都会の空を包み込む頃になると、どこからともなくリヤカーを引いた男たちがあちらこちらにあらわれて、少し濁り気味な声を東京の街中で聞かせはじめました。彼らは口笛を吹くように、あるいは陽気に歌うように、夕暮れ時を迎えたビジネス街に声を響かせるのでした。
「お待たせしました、毎度お馴染み偽たこ焼き売りでございます。毎度毎度と言いながら、じつは四年振りの登場でございます。お仕事帰りのあなたのお帽子に、小さな小さな雲はお一ついかがでしょうか?ほんま一つで十分でっせー」
おしまい