帰ってきた帽子サラリーマン⑥
それは主任の催促によって、ふたたびニット帽をかぶった本子が耳にした、謎のメッセージに端を発していました。
まだ午前中のオフィスで、主任は彼女を横に、デスクを埋めた全スタッフを隅から隅まで見渡して立っていました。そのあとで手にした〈編み人知らず〉からの贈り物をトロフィーみたいに掲げて言い放ちました。
「名付けて〈帽子チャレンジ作戦〉。他に誰かいいネーミングはあるかな?なければ〈帽子チャレンジ〉で決まりだけど」
本子を除いた、老若男女からなるスタッフ全員が、デスクの上にキョトンとした表情を並べていました。みんながみんなが、若き主任のアイデアの本気度と、信じ難い本子の血筋の正当性をどこかで疑っているような感じでした。それでも壇上の本子は、「主任はユーモアで場を和らげてくれているのかも」と考えていました。「場合によっては、発言の主である私の責任でさえも」と。
どちらにしても、彼らにはゆっくり考えている時間はありませんでした。午前中に本子が耳にしたメッセージは、そんなふうに若き主任が名付け親となって、起死回生になるはずの作戦として、その日のお昼前には早くもスタートしたのです。
〈帽子チャレンジ作戦〉はいたってシンプルな内容でした。その分、スタッフはみんな、自分たちの体を張る必要性があるみたいでした。趣旨はこうです。
先ず、東京中の通りでいくつもパレードしているレインマンたちの居場所を割だします。パレードしている通りは警視庁の交通課に協力してもらい特定します。
レインマンたちの姿を発見したなら、付近の野次馬の中に元帽子サラリーマンらしき男性が混じっていないか見つけだします。
元帽子サラリーマンらしき人物を発見したら、彼に事情を説明し、ニット帽を頭に試着してもらいます。それから「お湯を入れて三分待つ」みたいに、ひたすら待ちつづけます。果たして元帽子サラリーマンの記憶が三分でもどるのか、それとも五分かかるのか、あるいはやはりもどらないのか、それはやってみないことには分かりません。
ただ、その名のとおり帽子サラリーマンである彼らが、仕事の合間にパレードを見物している可能性はかなり高かそうなので、そうそう長い時間をかけるわけにはいかないでしょう。
レインマンのパレードは夏休みの盆踊りみたいに、東京の至る場所で同時に行われます。対策チームのスタッフは少人数のグループに分かれて、それぞれニット帽を片手に、東京の各地の通りへと散らばっていきました。
当初は主任と本子は本庁のオフィスに残って、そこから各グループに指示を送る計画だったようです。しかし、レインマンのパレードが気象庁ビルの近所で行われているという情報が入ると、二人は居ても立っても居られずに、オフィスをでて、現場に赴いたのでした。
それというのも、元帽子サラリーマンがニット帽を頭にかぶったとき、どういった反応を見せるのか、二人ともその目で直に確認したかったからです。それにそもそも帽子サラリーマンとレインマンの関係も気になるところです。どうして彼らレインマンの頭上にはいつも雲が立ち込めていて、雨が降っているのかという根本的な問いも含めて。あれは本当に世間の人々がこぼしているように、ただの歩くイリュージョンンに過ぎないのかしらんと。
本庁ビルをでて、GPSが指す方向に通りを向かっていくと、主任のスマホにはパレードを発見したという各グループからのメールが続々到着します。
「主任、どうしてレインマンのパレードに毎回決まって行政側の許可が下りるのか知ってますか?」
本子が歩みを止めず、ショルダーバッグの紐を握りながら主任に尋ねます。
「っていうか、そもそも許可取ってるの?」
「取ってるそうです。私は思うんです。あれは帽子サラリーマンのデータが省庁のコンピューターから消されたのと似た、なんらかの同じような方法を使ってるんじゃないかって」
「それはあり得ない話しじゃないね」
「かなり高度な技術が必要です」
スマホのメールを確認した主任が急に足を止めて本子に向かってつぶやきます。
「鴨川さん、どうも様子がおかしい。みんながそう報告してる」
やがて通りの前方に見えてきたパレードは、しかし二人が知っていたそれとはずいぶん印象が違っていました。雲を頭上に従えた丈の長いコート姿のレインマンたちと、歩道の野次馬はいつもと同じなのですが、一つ大きくパレードの見た目を以前と変化させていたのは、三十人から四十人ほどからなるレインマンたちの列のうしろに、スーツ姿の十人ぐらいのサラリーマンたちがまるで使徒に付き添う人々のごとく、雨に打たれながらパレードに参加しているところでした。
「彼らはいったいなんだ?」
主任が前方のサラリーマンたちを見つめて呆れたように歩道の上でつぶやきます。
「主任、これを見てください」
そう言って本子が上司に向けたのは、自分のスマホの画面で、そこには地下鉄車両のスペースに掲載されたレインマンによる広告の文章が写っていました。
「今の君たちは、私たちの友人だ。さあ、忘却の帽子を脱いで灰色したレインコートを身にまとおう。それからみんなで生暖かい六月の雨を浴びながら、腕を組みつつ賑やかな街並みをパレードしようじゃないか」
主任にレインマンの広告を見せた本子は、スマホを上着のポケットに仕舞うと、このチャンスを是が非でも逃したくないとばかり、主任も置き去りにして一人ガードレールを乗り越え、元帽子サラリーマンたちへ駆け足で近づきます。そしてしんがりのサラリーマンの肩に脇からそっと手を添えて、相手を驚かせないように穏やかに言葉をかけました。
「もしも人違いでしたらすみませんけど、もしかしたらあなた方は、かつて帽子サラリーマンと呼ばれた人たちではありませんか?」
肩にかけられた本子の手に、彼女をジロリと振り返り見たのは、元帽子サラリーマンの一人であるBでした。
つづく