帰ってきた帽子サラリーマン⑤
「帽子サラリーマンに会いたければ、レインマンのパレードを追え!」
いつごろからかそんな合言葉が、帽子計画対策チームのスタッフたちの間で、口元に浮かんだ流行歌の一節のごとく、まことしやかにささやかれはじめるようになっていました。
世間から厄病神みたいに毛嫌いされ、遠ざけられてきた、自称雲を司る者であるところのレインマンたちが、ついに矢面に立たされる日がやってきたようでした。
事の推移はこんなふうにすすんでいきました。
「私たちにこれをいったいどうしろと言うんだろう」
ある日の対策チームの若き主任は、手に負えずに、ついに呆れ果てたようにつぶやきます。彼の横には、〈編み人知らず〉の血を受け継いだ、若い女性スタッフが立っていて、祖母たち名の下に届けられた段ボール箱に入ったニット帽の一件からというもの、一兵卒でありながら、すでに彼女は主任の片腕になっているかのような扱いになっていました。
主任と女性が、あるいは対策チーム全体が、煮詰まっていたのは、ニット帽を帽子サラリーマンにかぶってもらって、彼らの記憶が無事戻るかどうか検証してみるという計画を立てたはいいものの、肝心の帽子サラリーマンのリストが一人分も手元に残っていないというジレンマでした。
市民の記憶を失わせたままの無謀な実験結果では、新しい帽子計画も進めようがなく、せっかく〈編み人知らず〉から届けられる、起死回生を期待させる品も宝の持ち腐れといったところでした。しかも期限切れである夏の花火大会は一日一日と確実に近づてきているのです。
「鴨川さん、いいアイデアはないかな?」
困った主任は若い女性に尋ねました。彼女の名は鴨川本子といって、オフィスの端に置かれた二人が前にしたデスクの上には、色とりどりの山高帽めいた大量のニット帽が山積みされているのでした。
それらはすべて段ボールに入れられた、地方の〈編み人知らず〉から届けられた品物でした。最初のニット帽が届いた日から少しずつ増えはじめ、やがて倍々ゲームのように雪だるま式に膨れていき、さらにお膝元である都内近郊からは気象庁の建物に直接〈編み人知らず〉本人たちからの持ち込みが多数寄せられるようになっていました。
地方の〈編み人知らず〉の面々は分かりませんけど、都心の〈編み人知らず〉たちは、世代や年齢はまちまちではあったものの、見た目には誰もみなごく普通の勤め人らしい女性たちでした。どうも本子の祖母の時代から数えて考えてみても、〈編み人知らず〉の世代交代は思いのほか順調に、拡大しながら進んでいるかのような印象を与えていました。
ただ、その編んだ品物の届け方が独特というか、世間一般の常識からはかけ離れていて、彼女たちは仕事前の通勤途中に港区にある気象庁の建物の前にフラリと立ち寄ったかのようにあらわれると、おもむろにバッグから編み終えたばかりのニット帽をとり出して、それを入り口に立っている制服姿の警備員の足元にプイッと落としていくのです。あたかも「たしかに届けましたから。あとはあなた方のお好きなように」とでもいうかのように。振り返ることもなく、急ぎ足で立ち去っていきながら。まるで親切心の固まりである逃走犯めいて。
そんな親切心の固まりである逃走犯が、毎朝気象庁の建物の前に何人も訪れるようになっていたのです。
「アイデアはないですね」
本子はおもむろに主任に向かって言いました。彼女自身の最初の期待感が間違いであったのを後悔するかのように。
主任は気をとり直して言いました。
「もう一度、ニット帽を頭にかぶってみたらどうかな。そうしたらなにかいいアイデアが浮かぶかもしれないよ。なにしろ君は〈編み人知らず〉の血を受け継いだ女性なのだから」
「どの帽子がいいですか?」
「どれでもいいよ。お好きなのを一つ。いいや、三つでも四つでも構わない。気がすむまで」
本子は言われるままに、デスク上のニット帽の山から一つ手にとって、頭にかぶってみました。「一職員の子供時代の記憶が戻っても今更なににもなりませんよ」とでもいう感じで。
すると主任の願いがとどいたのか、あるいは子供時代のあらたな記憶が甦ったのか、彼女は急になにかの閃きによって心変わりしたかのように言いました。
「すみません主任、ちょっと一人にしてください」
そう言い残して、本子は急ぐようにオフィスからでていきました。
帽子サラリーマン用のニット帽は女性にはワンサイズ大き目に編まれていて、本子がそれをかぶって、つばの部分を引っ張ると、耳の下まですっぽり隠れてしまうのでした。その姿はちょうどフードをかぶったレインマンのようでした。
彼女はうつむきながら省庁ビルの廊下を進んでいき、突き当たりの女性用トイレに入り、個室の扉を閉じて便座のフタの上に一人じっと腰を下ろしました。
そうすると辺りは静まり返り、さっきオフィスで一瞬だけ聞こえたかに思えた微かな女性の声が、海底に沈んでいた巻き貝を耳にあてたみたいに、海水のゆらめきをかい潜っては聞こえてきたのです。今まさに彼女に向かって交信を試みているかのごとく。
本子はニット帽の一つ一つに巻かれている黒いリボンに挟まれた小さなカードを手にとって、青いボールペンの文字をもう一度目で追ってみました。そこには彼女が耳にした女性からのメッセージを裏付けるかのように、「〈編み人知らず〉より。レインマンとともに」と書かれていました。
つづく