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帰ってきた帽子サラリーマン④

「これはただの帽子ではありません」

若い女性スタッフはそうつぶやいて、集まった同僚たちに向かい、あとの言葉をつづけました。

「たった今、一つ思いだしたお話しがあるんです。ずっと頭のすみに追いやってて忘れていた出来事です。たぶんこのニット帽が思いださせてくれたんです」

女性は頭にかぶっておどけてみせた山高帽をすでに脱いでいて、それは色とりどりの、かつてはただの帽子であったはずのものであるかのように、不思議な存在感を放ちはじめつつ彼女の手のひらにありました。


オフィスの会話の輪の中で、向かいのデスクに寄りかかって立っていた年上の男性が、若い女性スタッフのユーモアを引き継ぐように口を開きます。彼は対策チームの若き主任の一人でした。

「まるで記憶がもどった帽子サラリーマンめいた口調じゃない?」

「ええ、まさにその帽子サラリーマンです。私が思いだしたように、彼らもまた思いだすかもしれません」

女性が答えました。もっともその顔からは、おどけた表情はもう消えていて、ついさっき自分の頭上に舞い降りたばかりの奇跡に驚いているかのようでした。彼女は主任に向かって言いました。

「もしかしたらこの帽子が、私たちみんなの救世主になってくれるのかもしれません。これがこの場所に届いたのは、決して偶然ではないような気がするんです。どうしてかというと、私の母の母、つまり私のお婆ちゃんは、その昔、〈編み人知らず〉の会員の一人だったんです。スタッフのみんなに集まってもらってお話しさせてもらった方がいいのかもしれません」

主任はうなずき、輪の外のデスクで仕事中のスタッフたちにも呼びかけて、午後の緊急ミーティングがはじまります。

「おーい、みんな、集合。重要な話しがあるんだ。私たちの誰にも関係がある帽子に関する話しだ」


〈編み人知らず〉と呼ばれる、あるいは名乗る、編み物を編む女性たちによる集団は、すでにだいぶ以前に解散したというのがもっぱらの噂でした。

その日、虎ノ門にある気象庁のオフィスで、老若男女からなる帽子計画対策チームのスタッフ数名が、届いた段ボール箱の中から取り上げた、たった一つのヨレヨレとしたニットの七色山高帽は、世間が目撃した、十数年ぶりに世にでたところの〈編み人知らず〉による一品でした。その内側には、☆印が記された小さな白いタグが縫い込まれてありました。

「この☆印の付いたタグが、〈編み人知らず〉のトレードマークだったそうです。母がまだ子供だった私に話してくれたのを覚えています。お婆ちゃんが編んだ品物は、もうほとんど手元に残っていないのですけど、その形見である子供向けの手編みのセーターは、母が手もとに残して大切に保管していて、実家のタンスにいまも残っているはずです」

対策チームのオフィス内でただ一人、〈編み人知らず〉の存在を記憶していた若い女性スタッフは言いました。椅子に座って話す彼女の周囲には一山の群衆ができあがっていて、若き主任はいまは背もたれの上に腕を組み、椅子に跨るように前のめりに腰掛けていました。スタッフの手には各自それぞれ、お気に入りのペットボトルが握られています。


〈編み人知らず〉の前身である、女性たちの編み物クラブは、戦後の第一次ベビーブームが生みだした東京郊外のマンモス団地内に、男性の住人たちによる草野球チームがいくつも乱立したように、春に顔をだすつくしのごとく、必然的にいくつも誕生しました。

マンモス団地には草野球チームや編み物クラブのほかにも、囲碁将棋クラブや子供たちのためのそろばん教室に習字教室、女性たちのための料理や着付け教室など、様々な趣味娯楽のための集まりが存在しました。ただ、その中にあって女性たちの編み物クラブが異質だったのは、その集団には建物の棟の集まりごとに正式な名前を持ったいくつかの編み物クラブのほかに、名前を持たない、建物の棟の壁を超えた、裏の顔を持つ集まりがいつごろからか存在していたところです。


「もしかしたらその裏クラブが、名前を持たないからこそ、〈編み人知らず〉という名前になったわけなのかな」

「そうなんです」

若い女性スタッフが、主任の質問に答えます。

対策チームの緊急ミーティングは、そんなふうに説明と質問が並行する形で、オフィスに言葉が活発に行き交いながら進行していきました。たまにスタッフの誰かのスマホが鳴って、外の廊下へと場を離れてゆきます。

「団地は円形の広場を中心にして、五方向に星の形に広がっていました。その五つの棟がさらに星の形に五つ集まって、合計で二十五棟からなる一つのマンモス団地を形成していたそうです」

女性は話しをつづけます。彼女の言葉は聞く者にとって、〈編み人知らず〉の生き証人のそれであり、その血を継ぐ者のそれでした。集まったスタッフたちは、いまとなっては、歴史上の遺言と化したかのような伝説上の言い伝えに耳を傾けていました。

「住人の数があまりに多いので、編み物クラブは五つの棟ごとに、それぞれの曜日に別々に開かれました。ただ〈編み人知らず〉だけは必ず五つの団地の集まりが同時に五ヶ所で開かれていたのだそうです。それが〈編み人知らず〉のトレードマークである星の形のもとになりました」


〈編み人知らず〉が団地の五つの集会所において、必ず同時に開かれていたのには理由がありました。

それは〈編み人知らず〉がただ普通に編み物を編むだけの会ではなく、祈りのための、あるいは祈るための、集いであったからです。彼女たちにとっては、時に編む行為は祈る行為にも等しい行動だったからです。

そして祈りのためには、なるべく大勢の人数が、同時にそして同じ場所で、それを捧げるのが効果的であると考えられていたのです。しかもそれは大っぴらにではなく、秘密裏に、なるだけ厳かに行われるのが良しと考えられていました。〈編み人知らず〉が、名前を持たない裏クラブである由縁です。


ベビーブームが生み落とした団地にはマンモスの形容が付いて、そこには数万人の住人たちが一同に、文字どおり寝起きをともに暮らしていました。

当時のマンモス団地はそれ自体が一つの街であり、間違いなく一つの共同体でもありました。そこには高度経済成長期へと向かう世相とも相まって、現代の高層マンションにはない、あとにも先にもその時代にしか存在し得なかった濃密な時間が流れ、独特の空間が築かれていました。同じ棟に暮らすすべての住人が、お互いのすべての住人の名前を覚え、その家族構成から子供が通う小学校の担任の名前まで熟知しているのが当たり前のような時代だったのです。


人々が不意に襲われる不幸の数や確率は、ある時代が抱えた巨大な特殊性を除けば、今も昔もさほど変わりはないでしょう。事件や事故や病いの類が今になって急激に増加している事態は起きてはいないはずです。保険会社の営業マンが会社の支出増加による赤字経営でリストラされているという噂は耳にしません。

それでも他人が被る不幸にたいする人々の感情は今と昔では違っているかもしれません。共同体としての絆が強かった時代にはとくに。


〈編み人知らず〉はいつも夜に開かれました。その日になると、まだ日中の時間帯に、団地内にある五ヶ所の掲示板に「編みましょう」の六つの文字と指定の時間が、なんの予告もなしに唐突に書きだされるのです。こんな具合に。

「編みましょう。19:00」

謎の暗号めいて、はたから覗いたならなにを意味しているのか定かではない掲示板の文字列も、いざ約束の時間がくると、まるで秘密の武器を隠し持ってきたかのようにリュックやトートバッグに毛糸と編み棒を忍ばせた女性たちが、黙々と団地内にある五つのドアを開け、折り畳み式の簡易デスクとパイプ椅子が並んだ集会所へと駆けつけます。なるべくほかの住人には見られないように、こっそり顔を隠して。

こうした謎の組織の暗号を思わせる〈編み人知らず〉の告知は、当時の団地内の掲示板でたびたび目撃されていたようです。団地の内外でなにかしらの不幸の知らせを耳にした場合には。


彼女たちは、そこでいったいなにを祈っていたのでしょうか。秘密の武器めいた毛糸と何本かの編み棒を使って。

若い女性スタッフは言います。

「私は子供だったころ、冬の寒い時期にコンコンと風邪をこじらせると、よくお婆ちゃんが編んだセーターを着せられたのを覚えています。そのセーターは母が子供だった当時も、やはり冬に風邪を引くと、私と同じように着せられて、夜に布団に寝かされていたのだそうです。そして不思議なことに私たち親子の病いは、日が昇って朝がきたらすっかり消え失せていたのです。まるで夜中に雲の上のお婆ちゃんがこっそり風邪のもとを取りに下りてきて、リュックかトートバッグの中に入れて持ち帰ってしまったかのようでした」


若い女性スタッフの説明に、集まった職場の仲間たちはみな一様になにをどう表現していいのか分からず、困ったように黙り込むのでした。

どうも帽子計画対策チームの面々は、かつては自分たちの手で夏の夜に大がかりな奇跡を起こしておきながら、過去に起きたらしい東京郊外の奇跡話しにはとんと疎いようなのでした。あるいはそこには、帽子サラリーマンには存在していた「科学」が足りなかったのかもしれません。

オフィスに気まずい沈黙がしばし流れたあと、ようやく若き主任が口を開きました。

「もしかしたらこういうことじゃないかな。君の話しの中で重要なのは数字の5なんだよ。それは団地の棟の数であり、同時に〈編み人知らず〉のトレードマークである☆を指してもいる。つまり〈編み人知らず〉の人々が編み物によって一心に祈りを捧げているとき、マンモス団地の敷地内では、五ヶ所の集会所の点を線で結んだ、ナスカの地上絵にも似た、巨大な☆の形が浮かび上がるというわけさ」

しかし、主任の説はこれといった反応を周囲から得られず、スタッフたちの沈黙を余計に長引かせるだけの結果を招いたようでした。


主任のトンデモ説はそれほど的外れなものではありませんでしたけど、結果的にふたたび舞い降りたオフィス内の沈黙を破ったのは、やはり〈編み人知らず〉の血をうけ継いだ若い女性スタッフ本人でした。

彼女は帽子サラリーマンたちの頭をあらたに飾るべき、七色したニットの山高帽を手に話しました。

「第二次ベビーブームが終わって、高度経済成長期が去ると、人口の減少と建物の老朽化が相まって、マンモス団地の運命は縮小から統合へと急速に向かっていきました。散り散りになった住人たちのゆくえと一緒に、女性たちの編み物クラブも、男性たちの草野球チームも、どちらも自然消滅の憂き目をたどりました。〈編み人知らず〉のゆくえも、当然のようにその親元である女性たちの編み物クラブとともに消え失せたかのように思えました」

女性はそこで一呼吸置き、周囲のスタッフたちの関心を推し量るように見渡します。待ち切れないように主任が一人口を開きました。

「本当に消滅しちゃったの?」

「じつはそのあとで、〈編み人知らず〉は、一度だけ復活した形跡がありそうなんです」

若い女性は言葉をつづけます。

「それはかの震災が列島をふるわせて、少し時を経たあとにあった出来事でした。全国紙の一面の端っこに、〈編み人知らず〉と思われる、求人広告クラスめいた小さな広告が掲載された例があったんです。そこにはただ、〈編みましょう〉の六文字が並んでいたそうなんです」


つづく

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