スーパーフライなОL
カナ子くんがはじめてチョンチョコリンをおデコに付けて出社した日のことを私は今でもはっきりと覚えている。
いや、私だけではあるまい。おそらく、社長から掃除のオバサンまで、この会社に勤務しているありとあらゆる人間があの日のことを記憶しているはずなのだ。
でも誰もなにも言わない。口にしない。まるでそんなものは最初からアリはしないかのように。カナ子くんの額に、その額以外にはなにも存在していないかのように。
それでも私は知っている。社内の廊下を行き来する社員たちがカナ子くんとすれ違うとき、目のやり場に困ったように彼女の顔からわざとらしく視線を外すのを。そしてまた、その光景を目の当たりにした私の視線からも逃れるように、大した用事もないのに急にいそいそと廊下を小走りになってゆくのを。
「その人、きっとスーパーフライのファンなんじゃない」
夜の食卓で娘は言った。
不景気で残業が減り、家族団欒、娘と二人で夕食をする機会が増えたのはいいが、高ニになる娘はたまにウチにきてもいつもテレビに夢中で、父親の話などにはまったくアウト・オブ眼中。それがその夜は、彼女のほうから話に加わってきた。
「スーパードライ?」
とぼけたように私は言った。たぶん、話かけてくれたことがよほど嬉しかったのだろう。いつも娘から厳しくオヤジギャグをたしなめられているのだが。
案の定、娘は花の十七歳にして、まるで生きているのに疲れ果てたような顔をしてこちらを見ている。なにしろ彼女に言わせれば、オヤジギャグは世の中に存在する諸悪の根源の一つであるらしいのだ。
「オヤジギャグってさ、言ってる本人だけは面白いと思ってるわけじゃない?それって、自分だけは正しいと思い込んでる人間と大差ないのかも」
娘は言う。なんだか、暗に妻と離婚した原因を突きつけられているような気がする。二重の意味で人格を否定されているような気がする。自分の娘が宇多田ヒカルみたいに見えてくる。
はたして娘がどこまで考えて言っているのかは、はっきりとはわからないけども、たしかに彼女の意見にも一理はあると思う。もしや賢人の入れ知恵かもしれない。彼女はテレビも大好きだけど、妻に似て読書好きでもあり、私なんかよりよほど本を読んでいる。
しかしそうなってくると、娘にしてみれば、たまに父親と夕食をともにしても、その父親が諸悪の種を、それこそご飯粒みたいにせっせと夕食のテーブルにまき散らしていることになるわけで、たしかにウンザリするのもうなずける。
それでも、娘はその『スーパーフライ』なる和製ロックバンドのCDジャケットを、カバンからとりだしたiPodの画面をとおして私に見せてくれた。
なるほど、そこにはカナ子くんと同じように、おデコにヘアーバンドを巻き付けた女の子が映っている。
「カチューシャっていうんだけど、これ」
そう呼ぶらしい。さらに娘によれば、このボーカリストの女性は若い女の子たちの間でカリスマ的な人気があるようで、それとあいまってその70年代風ファッションにも注目が集っているんだそうな。なにやら巷では、彼女のようにヒッピー風ファッションに身を包んだ女の子たちが通りを闊歩しているらしい。まるで往年のリンリンランランみたいに....。
いやいけない。危うくまた詰まらないことを口にだしそうになってしまった。
しかし、それがリンリンランランではなく、スーパードライでもなく、あくまでスーパーフライではあっても、ファッション云々は若い女の子たち限定の話であるようで、カナ子くんはオバサンではないけど、かといって女の子と呼べるような歳でもない。
それに、仮にカナ子くんがそのスーパーフライのファンであったとしても、それでは会社にまでチョンチョコリンを付けてくる理由にはならない。ましてや、私を除いた社員全員が、彼女の行為を見て見ぬふりをしていることも。
「私、その人見てみたいな。お父さん、今度、写メで送ってくれない?」
「ああ....いいよ」
詰まらないオヤジギャグの自責の念からか、それとも離婚への罪滅ぼしか、つい私はできもしない口約束をしてしまった。
あるいは、それは私の思い過ごしにすぎなかったのかもしれない。中学校の校則じゃあるまいし、一OLがおデコにカチューシャなるチョンチョコリンを付けて出社しようがしまいが、どうでもいいことなのかもしれない。私が必要以上に神経質になっているから、周囲の人間たちが過敏な反応を逆に隠しているように感じるだけなのかもしれない。
しかし、私には神経質にならざるをえない理由があったのだ。というのも、私はカナ子くんの直属の上司であったから。
私が勤めているのは、ペットと不動産以外ならばなんでも売るような、都内の大手ネット通販会社で、私はそこのコールセンター所長の肩書きを持っていた。
コールセンターというのは、ようするにお客様相談室みたいなとこなのだが、なにしろ会社自体が大所帯だから、相談室の規模もそれに比例して大きくなる。
センターは本社の地下にあり、広さは学校の体育館ぐらいもある。でも実際には、その半分を更衣室が占めている。それは、センターに勤務しているほとんどが契約社員の女性たちだからなのだが、しかし考えようによってはこれほどの無駄もない。
そこで私は、責任者会議の席で、コールセンター内の女子社員の制服を廃止したらどうかと提案してみた。
そうすれば、オフィスは広くなるし、制服にかかるコストは当然会社もちだから、廃止されればその分経費だって浮くわけだ。それに、コールセンター内の女子社員たちが、顧客と直接顔を合わせるということは必然的にないわけで、ならばべつに制服を着なければならない理由もない。それでなくとも、窓のない地下のオフィスで、彼女たちは一日中電話対応に追われているのだ。まだ若い彼女たちにしてみれば、私服のほうがオシャレのし甲斐だってあるし、会社にくる楽しみも一つ増える。誰も好き好んでエンジ色した地味な制服など、そう着たくはないだろう。
私の提案はセンターの女子社員からは絶大なる支持を得ていた。だが会議の席で、私の提案は否決されるどころか、議題にものぼらず、ただただ黙殺されるのみだった。
彼等はなにか制服に特別な思い入れでもあるのだろうか。役職連中、じつは揃いも揃って、全員制服フェチなのか。
まあ、考えても仕方がない。そういった連中に、そういった会社なわけだ。しかし結果的に、私は何十人という女性たちに、できもしない口約束をしてしまったことになる。
もしかしたら、カナ子くんはあのときの一件を覚えていて、今になって無言の反抗を自らの行動によって意志表示しているのかもしれない。
もしそうだとすると、それは当然、所長である私に向かっての意志表示でもあるわけだ。
なるほど、そういうことなら辻褄があう。あえて会社にまでカチューシャを巻いてくる理由にもなる。ただし、それはあくまでカナ子くんが、冬の凍てつく雨のように執念深い性格の持ち主であったならば、の話。
私の知るカナ子くんは、まったくその逆で、彼女は春の陽射しのように穏やかな女性だ。付き合いはじめたばかりのころの妻みたいに。
コールセンターにはしばしばクレーマーめいた顧客からの苦情電話がかかってくるけども、そんなときでもカナ子くんが眉間にシワを寄せるような表情をみせたことは一度だってない。
アレがもし私だったならば、ものの三分と経たないうちに受話器の向こうの顧客と大喧嘩になって、始末書の一枚や二枚では済まされない結果をまねいているはずだ。
しかもカナ子くんは、上司である私が半日ともたないそんな仕事をもう三年もつづけている。私をのぞけば、センター内一の古株だ。
まさに神様、仏様、カナ子様。そんな彼女が、私や会社の役職連中にむかって、一人で反乱を起こすということはとうてい考えづらい。
あるいはセンターの皆が、カナ子くんのチョンチョコリンを見て見ぬフリをしているのには、逆にそういった彼女の性格や仕事ぶりを熟知しているからなのかもしれない。カナ子さんなら仕方がない、というわけだ。
たしかにその気持ちはわからなくもないのだが、私の場合、どうしても見て見ぬフリのできない立場にいるのだから困る。
カナ子くんはセンター女子たちのリーダー的存在なのだ。精神的な支柱と呼んでも過言ではない。彼女を姉のように慕う女子社員だって多い。もしも彼女ら良き妹たちが、長女の真似をして同じようにチョンチョコリンをおデコに付けて出社するようになったらどうなるか。一人が二人、二人が三人と。いつの間にやら、コールセンターは遠い日のウッドストック状態に。ズラリと並んだデスクの列に、カチューシャをおデコに巻いたOLたちが、ラブ&ピースな電話対応をしている図。
そうなったら、これまで見て見ぬフリをしてきたヨソの課の社員たちもさすがに騒ぎはじめるだろう。社内のアチラコチラであらぬ噂が立ちはじめる。いったいコールセンターではなにが起きているのか、と。なにか良からぬ宗教の巣窟にでもなっているのじゃないか、と。
センター内の私服化を亡きものへと追いやった役員連中がこの自体を見逃すはずがない。
きっと私は疲れているのだ。考えすぎなのだ。まさかコールセンターがウッドストックなんかになるはずがないではないか。かりにも会社のオフィスであり、私たちはみな良識ある社会人なのだから。
いいや、待て。今、私は自分が疲れていると言った。もしそうなら、いやそうに違いないのだが、センターの女子社員たちはもっと疲れているはずだ。だって、彼女たちのほうが所長の私なんかより、よほどハードワークをこなしているのだから。
所長の主要業務といえば、デスクで書類に目をとおし、それにハンを押すことぐらい。それだって急いでいるときには、ロクに目もとおしていなかったりする。
たしかにセンターの乙女たちはストレスを溜め込んでいる可能性がある。エンジ色の制服に身を包み、来る日も来る日もクレーマーたちのお相手をして。しかもその報酬ときたら、これが嘘みたいにじつにささやかなものなのだ。
それがどんな形であるにしても、彼女たちがなにかしらの自由を求めていてもおかしくはない。ささやかだけども、転職するよりはリスクが低く、なおかつ即効性のあるような自由。それがカナ子くんのラブ&ピースなチョンチョコリンなのではないのか。
いや、そんな抽象的なことよりも、あのチョンチョコリンにはもっと具体的なご利益があるのかもしれない。
たとえば、磁気ネックレスみたいに、頭痛、肩凝り、腰痛に効果があるとか。女性特有の冷え性にも効いたりして。なるほど、デスクワーク中心のOLにはもってこいの商品だ。
いいや、バカな。あんなものをおデコに巻いていたら逆に血行が悪くなって、頭痛だって余計ヒドくなるにきまっている。
やはりチョンチョコリンはカナ子くん限定のアイテムなのだ。それがほかの女子社員にまで広がることはない。まだ二十代の彼女たちは、そもそもウッドストックなんて知りもしないはずだし、ラブ&ピースだってとっくに死語だ。ましてこの不景気なご時世に、解雇につながるようなバカな真似をするはずがない。
私はデスク上の始末書の束を片付け、小さな安堵に確認のお墨付きをするかのようにタイムカードを押し、明かりの消えたコールセンター内を見わたした。オフィスの花たちはもういない。彼女たちは嘘みたいに素早くオフィスをあとにする。残業がないのが、彼女たちセンター業務の唯一のメリットなのだから。
やっと心の平安を得たのもつかの間、私が考えだした防御システムはいとも容易く突破されることになった。それも会社とは無関係なはずの自分の家族に。
家に帰ると、リビングから懐かしい歌が聞こえてきた。ジョニー・ミッチェルが歌う『青春の光と影』だ。昔、妻が好きだった曲だ。
こんなふうに帰宅したばかりの私の耳に、別れた妻が学生時代に好きだった懐かしい音楽が飛び込んできたりすることがタマにある。彼女の置き土産の中から、娘が古いCDを引っ張りだしてきて聴いているのだが、そんなとき私はいつも二度ドキッとしてしまう。まず、妻が帰ってきたのかと勘違いしてドキッとし、そのあとに、いよいよ娘が妻に似てきたような気がしてドキッとしてしまうのだ。
娘はソファで文庫本に目を落としていた。『キャッチ=22』だ。それもやはり私が若かったころに読み耽った小説だった。
会社の同僚に、娘さんが家族との夕食の間、ずっと耳にイヤホンをしながら携帯電話でメールしていると嘆いていたヤツがいたけども、それと比べると、我が家の音楽事情は比較にならないほど健全であり、趣味の遺伝についても確実に親から子へと正当な伝達がなされているようだった。
ただ、その夜にかぎって、私はそれを心からは喜べなかった。
「面白いだろ、その本」
私はネクタイをほどきながらたずねた。娘は文章を目で追ったまま「うん」とこたえた。できるものなら、このまま娘と小説談義をつづけたかったのだが、そういうわけにはいかなかった。
「ところで、おまえ、それ何おデコに付けてるんだい」
「ああ....学校いく途中に、知らないおばさんが電車の中でくれたんだ。これ付けてると願い事が叶うんだって」
娘はようやく顔をあげ、イタズラっぽく微笑んでみせた。
「カナ子さんみたいでしょ?」
みたい、じゃない。そのままだ。材質まで同じじゃないのか。それに知らない女の人って....。
私は娘のおデコを何年かぶりに真剣に見つめた。たぶんまだ小さいころ、同級生の男の子が下校途中に不注意で投げた石ころが命中して、額から血を流して家に帰ってきたとき以来。
ただ、正確に言えば、今回私は彼女のおデコではなく、そこに張り付いた一本の線を見つめていたのだ。
「もしもクレオパトラの鼻が3センチ低かったら....」という話があるけども、それと同じように、カナ子くんのチョンチョコリンがあと5センチ上にあってくれたなら、と私は思わずにはいられない。
もしそうだったなら、あのチョンチョコリンはただの髪留めであり、誰の視線も引きつけることはなかっただろうから。
あるいは、あれが細い紐でなく、タオル状の帯みたいなものだったら、まだ昔のモーレツサラリーマンみたいで、周囲の笑いを誘えたかもしれない。「コールセンターにはすごく気合の入ったOLがいるもんだな」ぐらいの。
しかし、それがおデコを飛行機雲みたいに横一線に走っているばっかりに、あらぬ問題が起きてしまう。まるで社内に制服を着た巫女さんが紛れ込んでいるみたいになってしまう。オフィスやエレベーターや会社のロビーに、なにやら呪術的な白い煙が立ちこめてしまう....。
娘のチョンチョコリンは、カナ子くんのそれとまるで瓜二つだった。ベージュとこげ茶色の二本の細い紐がしめ縄みたいに螺旋状に巻かれて一本になっている。それが真ん中分けした髪を土星の輪のように囲んで、頭のうしろで結ばれている。
それにしても、知らない人がくれたというのはどういうことなのか。それも電車の中で。
いや、もしかしたら娘は私をかつごうとしているのかもしれない。年頃の茶目っ気ぶりを発揮して、父親をビックリさせようとしているのかもしれない。でも、そうであるならば、カナ子くんとまったく同じカチューシャというのは逆にマズい選択だったと思う。さすがにそこまで偶然がかさなってしまうと真実味が薄れてしまう。
しかし、だからといってすぐに真相を暴いてしまうのは、父親としては落第だろう。ツメの甘さはあったにせよ、せっかく娘が親子の会話を盛り上げようとしてくれているのだから、それをさらに発展させ、面白い話に仕立て上げるのが親としての務めというものだ。
「まさかお前の夢って、コールセンターで働くことじゃないだろうね。もしそうなら、お父さん賛成できないな」
もちろん私はジョークのつもりで言った。日頃、オヤジギャグを連発させている輩としては上出来の部類だったように思う。娘にもそれはちゃんと伝わっているはずだ。ただ、肝心の娘のこたえのほうが、私の頭には上手く伝わってこなかった。
「私の夢はね、韓国の大学に留学して、韓流スターと恋に落ちること、かな。だからさ、お父さん、私、韓国語教室に通いたいんだけど、ダメ?」
娘は言った。どうしていきなり韓国なのか?ウッドストックじゃなかったのか?
例の同僚の笑う顔が目に浮かんできそうだ。
最近、よく遊びにくるなと思っていたら、やっぱりそうだった。
娘は吉祥寺の妻の実家で、今どき珍しい大家族暮らしをしているけども、気がむくと阿佐ヶ谷にある私の一人暮らしマンションに遊びにくる。気がむくというのは、ようするになにか買って欲しいものがあるときだ。とかく父親というのは娘には甘いものだし、特に私の場合にはたまにしか会えない弱みもあるから、つい色よい返事をしてしまうのだ。そうすると、二三日して、別れた女房からお怒りのメールがとどくことになる。「甘やかさないでくれる?」云々と。
今となってはそのメールのやりとりが、元夫婦の唯一のコミュニケーションになっていたりする。ある意味、娘の物欲が壊れた家族の最後の絆になっている。
いや、もしかしたら娘はワザとそうした役割を演じているのかもしれない。だとしたら、なんてよく出来た娘だろう。ますます自分の娘が宇多田ヒカルに見えてきた。もっとも、本物の宇多田ヒカルなら、欲しいものを親にねだる必要はないだろうけど。
どうやら娘には、親子の会話を盛り上げようという意図などまったくなかったようだ。あり得ない出来事だが、娘の話は創作でもなんでもなく、ただありのまま事実を伝えていただけなのだ。電車でチョンチョコリンをくれたおばさんも、韓流の夢も。
父親である私には両方とも同じぐらい信じ難い話だ。ただ、娘によれば、チョンチョコリンおばさんの存在は、彼女が通う中央線沿いの女子高生たちの間では以前から噂になっていたらしい。いわゆる都市伝説というやつだ。
それによれば、チョンチョコリンおばさんは女子高生たちの間では『カチューシャおばさん』と呼ばれていて、歳は四十代。やせ型で、けっこう美人らしい。おデコには自作と思われるカチューシャを巻いていて、長い黒髪を二つに分けている。
彼女は夫と二人で高円寺に暮らしている。結婚する前はやはり服飾関係の仕事に就いていて、若いころはモデルの経験もあるんだそうだ。夫はデザイナー。彼女の奇行はこの夫の浮気がそもそもの原因になっているようだ。ありそうな話だ。
そんなこんなで、彼女は中央線の電車に乗り込み、自分が気に入った若い女性を見つけては、お手製のカチューシャをくれるようになるわけだが、「自分が気に入った女性」というところがいかにもご都合主義だし、旦那に浮気された女性の手による品で夢が叶うというのも設定的に無理があるような気がする。どちらかといえば、それは本来『呪いのカチューシャ』になるべきではないのか。
まあ、実際それが『呪いのカチューシャ』であったなら、もらっても付ける人間はいないわけで、そうなってしまうと伝説も広まらない。それにカチューシャおばさんは、ちっと頭がおかしくなっただけで、心は優しい女性のままなのかもしれない。
「必ずおデコの上に巻かないとでダメなんだって。そうしないと、いくら頭の中で夢が叶うように念じても、それがカチューシャまで伝わらないから」
娘は言う。
その言葉自体が表しているように、都市伝説なるものはあくまで伝聞であるはずだ。チョンチョコリンおばさんだって、それを直接目撃した人間が語っているわけではあるまい。伝聞に大袈裟な尾びれがついた、そのまた伝聞なのだ。
もともと営業マンだった私は時々思うけど、どうも人は往々にして、当事者から直接聞いた話よりも、むしろ伝聞のほうを信じやすい傾向にあるような気がする。
たとえば、私が「私は雪男と遭遇したことがある」と言っても、誰もそんな話は100%信じないだろうが、これが「私は雪男と遭遇したことがあるという男を知っている」となると、5%ぐらいならば信じるような気がする。
もちろんその5%は、本来「私が男を知っている」部分に含まれるべきものなのだ。でも、人間の頭は、こと言葉に関しては曖昧な契約を結んでいる。話術に長けた営業マンならば、その5%を雪男の存在のほうに言葉巧みに移動させ、さらにその数字を広げることができるだろう。
しかし、韓国語教室の授業料をおねだりしたいらしい我が娘は、あくまで直接チョンチョコリンおばさんに会ったと言っているわけで、自説によれば、私はその話を100%信じることはできないはずなのだけど、なにしろ娘は証拠品をおデコに巻き付けて話しているわけだから、少なくとも私がどこかで見たかもしれない雪男よりは信憑性がある。
もしかしたら、娘は韓国語を習いたいばかりに、父親にその授業料を肩代わりしてもらいたいばかりに、やはり一芝居うっているのかもしれない。チョンチョコリンおばさんなど存在せず、その都市伝説も作り話で、カチューシャは自分で買ったものにすぎない。
しかし、それだけのためにこんな都市伝説を作り上げるものだろうか。
いや、ウチの娘ならやりかねない。なにしろたくさん本を読んでるし、授業もロクに聞かずに、ずっとストーリーを練りあげていたのかもしれない。その目的は当然、私の注意をむけるためだ。
娘はわざとカナ子くんと同じタイプのカチューシャを選ぶ。それを見た私はもちろんそれはどうしたのかとたずねる。誘い水をむけられた娘は、よりスムーズに韓国語教室の話題へと移行することができるだろう。そして実際に、事は娘のアイデアどおりにすすんでいるのだ。恐るべし、我が娘....。
「韓流スターと恋に落ちるなんて嘘よ。私が好きなのは韓国のガールズグループなんだ」
娘は少しだけ父親を安心させるような言葉を口にする。そして「コレ見て、お父さん」と言って、CD のジョニー・ミッチェルを止め、ジーンズのポケットから取りだしたiPodを私にみせた。
その画面に、なにやら韓国語で歌い踊る女の子集団のビデオが映しだされた。
どうやら娘の計画は第二段階に入ったようだ。
「みんな可愛くない?」
娘は自慢の友達を紹介しているみたいに次々と私にビデオを見せながら言った。どれもこれも韓国の若い女性歌手グループのものだ。
たしかに彼女たちは可愛いが、 年頃の娘を持つ親にしてみれば、これぐらいの年齢の女の子たちは、皆自分の子供と同じように目に映ってしまうものだし、コールセンターで働いている身にしてみれば、正直、若い女の子たちには食傷気味でもある。
それにしても、韓国の歌といえば演歌のイメージしか思い浮かばないようなオジサンにはちょっとしたカルチャーショックだ。K-POPというらしいのだが、日本国内でも人気があるんだそうだ。皆一様にスカートやパンツの丈が短い。時代は変わっている。いや、さほど変わってないか。だって、リンリンランランだって、もとはと言えば香港出身だったし、スカート丈の短かさに関していえば、我々のピンクレディのほうにまだ分があるように思える。
ただ、リンリンランランの頃と決定的に違うのは、ビデオの中の彼女らが、日本語ではなく、母国語で歌っているところだ。いや、たしかに日本語バージョンもあるにはあるのだが、母国語で歌ったオリジナルバージョンのほうが、言葉の意味がわからないにもかかわらず、より魅力的に聴こえる。娘も同意見だ。溌剌とした彼女たちの歌声に、鞠が跳ねるような韓国語がじつにチャーミングにマッチしているのだ。
しかし、それはそれとして、K-POPが好きだというだけで、わざわざ韓国語を習いにゆくというのはどんなものだろうか。一人娘の父親として私は思う。歌詞の意味がわからないなら辞書片手に調べればいいのだし、なにより三日坊主で終わりそうな公算が大きい。それに、どうせ習うならやっぱり英語か中国語のほうがメリットがあるんじゃないのか。
だが、そんな打算的な父親の考えを、韓国産ガールズグループの美脚が遥か忘却の彼方へと蹴り飛ばしたのだった。
iPodの中、歌番組の華やかなステージで、やや平均年齢の高そうなお姉様タイプの女性たちが万華鏡のように様々に列を織り成し歌っていた。その数10名ばかり。
それまでのグループが皆ハイティーンなアイドル然としていたのに対し、このグループはモデルさんというか、例えがなんだけども、銀座辺りの若いホステスさんを彷彿させるところがある。我々オジサン連中にはこちらのほうがウケがいいだろう。ショートパンツから美しい脚を見せつけていた。
けれど、私が見惚れていたのは、娘の手前ということをのぞいたとしても、美しい脚たちではなかった。
そのホステス、いやガールズグループの中に、私のよく知る女性にそっくりなメンバーがいたのだ。しかもそのメンバーの一人は、粒揃いのグループ内でもとりわけの器量良しで、宝塚的に言えばトップスター的な存在だった。気のせいか、歌の途中でコロコロ変わる列の組み合わせでもグループの真ん中に立つ回数が一番多い。事務所もわかっているのだ。当然、脚だって綺麗だ。ただし、私がよく知る女性は、間違っても銀座のホステスではない。
「タエ子」
娘の名を呼ぶ私の声は、軽快なK-POPとは対照的にヤケに重々しかった。
「この前、お父さんに、写メールでカナ子くんの写真送ってくれってお願いしたこと覚えてるか?」
「うん。まだ送ってもらってないけどさ」
「その必要がなくなった。この中にそのカナ子くんがいるんだ」
そう言って、私はiPodに映る一番の器量良しを指さした。
「カナ子さんってすっごい美人なんじゃん。なんでお父さん、それ最初に言わないの?」
私の興奮が娘にも伝わったのか、我が娘はiPodをちょうど韓国版カナ子くんのアップで一時停止した。
クラブのホステスを美人の基準に考えてしまうのはまったくもってオヤジ丸出しだけども、あえてその例えをふたたび用いるとするなら、さしずめ韓国版カナ子くんは、高級クラブの売れっ子ホステス並だった。
私はなんと言ってよいのかわからなかった。我が社のカナ子くんは大勢の女子社員の中の一人であり、私の部下というか、少なくとも責任管轄下の一人である。所長である私は、当然のように特定の女子社員を特別扱いしてはならない。特にそれが美人であるという理由では。
これは女性社員が多数を占める職場では鉄則中の鉄則だろう。
であるからして、私はこれまでカナ子くんの器量をほかの女性、とりわけコールセンター内の女子社員たちと比較したことはなかったし、またそういった視点で彼女の容姿を眺めたことも考えたこともなかった。だから、カチューシャの件は娘に話しても、カナ子くんの容姿については、そもそも伝える必要性すら感じなかったのだ。
しかし今、カナ子くんが韓国アイドルのベッピンさんと瓜二つであるという事実から垣間見ると、どうもカナ子くんは大変な器量良しであるようだ。娘の感心ぶりからもそれがうかがえる。父親のオヤジギャグのときとは真逆の反応。やはり、いかなる状況でも美人は得というわけか。私のオヤジギャグは我が家の中でさえ行き場を失おうとしているが、美人はいとも容易く国境すら超えてしまう。
その夜、いつものように甘い父親が顔をだし、私はとうとう韓国語教室について前向きに検討することを娘に約束してしまった。ただし今回は条件つきだ。かの韓国女性グループのビデオを、私の携帯電話にダウンロードすることと交換なのだ。
彼女たちは『Karara』というグループであるらしい。なんだか 本当にどこかのクラブかパブにでもありそうな名前だけども、まったくいい歳をしながら、私は通勤途中、彼女たちのビデオを何度も繰り返し見ることになった。いやはや娘のことをとやかく言ってはいられない。
ただ、私がリピートボタンを幾度となくタップしたのは、べつに娘のようにK-POPにハマったからという理由ではなかった。
たしかに『Karara』の歌や容姿は魅力的だったけども、それよりも私はある職業的な観点から、その責務から、そうしていたのだ。
彼女たちは羽衣めいた薄くて柔らかそうな生地の衣装を着ていた。その長い脚は、フワフワした雲の切れ間から射し込む幾本もの春の陽光のようだった。いけない。このままずっと見つづけていると、親子そろってファンになってしまいそうだ。
私は娘がしたように、韓国版カナ子くんのアップシーンでビデオを一時停止した。それから想像力を駆使して、彼女のおデコにカチューシャを巻きつけてみた。
そうすることによって、私は部下であるカナ子くんを、会社にいるときよりもより客観的に、そしてつぶさに見ることができるのだ。国籍も、職業もまったく異なる二人だけども、その顔はまるで鏡に映し合ったようだ。もしかしたら、カナ子くんのカチューシャをめぐる諸々の事情の内で、私が見落としている何かが見つかるもしれない。海の向こうのソックリさんを眺めることによって、ようやく足元のカナ子くんがとびっきりのベッピンさんであることを発見できたように。
ほどなく、私は当然といえば当然といえる帰結へたどり着いた。つまり、こうして私が携帯電話の画面を見つめていること自体が一つの答えなのではあるまいか。
三年という月日を経て私が気がついたことを、ほかの社員たちは当たり前のように最初から気づいていた。だからこそ、彼や彼女たちは、カナ子くんがおデコにカチューシャを巻いて出社してきてもなにも口にださなかったのだ。
社員全員がカナ子くんに気を使っている。掃除のおばちゃんから社長までが。周囲の人間から言葉を奪ってしまうほどの美女。いいやまさか。普通なら、美人であればあるほど噂の種になりそうなものだ。
ではこういった理由ならばどうだろうか。カナ子くん、じつは社長の愛人だとか。社員公認の。知らないのは、直属の上司であるバツイチ男だけ。
なるほど、それなら説得力がある。社員たちがカナ子くんのチョンチョコリンを見て見ぬフリをしているのもうなずける。彼女はとびきりの美人というだけでなく、とびきりの権力者でもあるわけだ....。
いったい私はなにを考えているのだろう。ついに焼きが回ったか。あのカナ子くんに限ってそんなことがあるはずがないではないか。
それに愛人云々では、彼女がチョンチョコリンを付けてくる直接の理由にはならないし、第一同じ会社に身をおく愛人OLなら、わざわざ社内で目立つ行動をとるはずもない。
さてはあのチョンチョコリン、社長に対するなにかのサインなのか。二人の間にしかわからない....。
朝から携帯電話のバッテリーと、あるいはそれ以上に自分の神経を消耗したあげく、私は会社がある秋葉原で電車をおりた。
大勢の勤め人たちにまじってプラットフォームを階段にむかって歩いてゆく。毎朝繰り返されるお約束の光景。
そのとき私は見たのだ。紺色のスーツを身にまとった、いま一人のチョンチョコリンOLの姿を。デザインもまったく同じ。白と茶色の紐がしめ縄みたいになったヤツ。
女性は私の前を横切っていった。それは一瞬の出来事で、相手の年齢も、人相もハッキリとはわからなかったが、しかし、ことカチューシャに関するかぎり人一倍敏感になっている私だ、それだけは見間違うはずがない。
私は女性を振り返りはしなかった。代わりに私が目で追ったのは、ホームをでてゆく中央線車両の後ろ姿だった。
もしや、あれのどこかの車両に、私の娘も出会ったチョンチョコリンおばさんが乗っていたのかもしれない、と。
そういえば方向は逆だが、たしかカナ子くんも中央線で通勤していたはずだ。やはりチョンチョコリンおばさんは実在していたのか。娘の言った話は本当だったのか。
だとすると、娘は学校の教室にいる今も彼女の夢を実現するために、会社のカナ子くんよろしくチョンチョコリンを付けているのではあるまいか。
これはイケない。授業の開始ベルが鳴る前にバカな真似は止めさせなければ。
私は娘のアドレス宛に、しごく短かい緊急メールを発信した。『韓国語教室OK。チョンチョコリンは外せ。父』と。あとは担任が教室に入ってくる前に、メールに目をとおしてくれることを願うのみだ。
やはりカナ子くんは社長の愛人ではなかった。当たり前だ。そんなことがあってたまるか。彼女のチョンチョコリンは経営者にむけた妖しげなモールス信号なんかではなく、我が娘同様、おデコ用のミサンガに違いないのだ。
これでやっと話のとっかかりができた。私は『男はつらいよ』の寅さんを見習い、カナ子くんにそれとなく忠告して、彼女のチョンチョコリンをそのおデコからとり除くことができるだろう。「お嬢さん、夢ってのは、自分の力で掴みとるものなんだ。あのオバちゃんはね、君のドラえもんじゃあないんだよ」とか。
しかし、そこで私は自分の言っていることの矛盾に気がついた。
自分の力どころか、娘のタエ子はまさにあのチョンチョコリンによって、彼女自身の夢の階段を見事にのぼりはじめたばかりではなかったか。しかも、結果的にではあるにせよ、そのサポートをしたドラえもんは、他でもない、私なのだ。
いやはや、まったくドラえもん様々、チョンチョコリンおばさん様々だ。他力本願大いに結構。いっそのこと、私もあのカチューシャが欲しいぐらいだ。たぶん、いや絶対、似合わないだろうけど。
もっとも、もしも私がかの女性たちのようにチョンチョコリンをおデコに巻いたとしても、叶えたい夢が、例えばカナ子くんがチョンチョコリンをはずして出社してくるとか、それによってコールセンターにふたたび平和な日々が舞いもどってくるとか、それぐらいのことしか思い浮かばないのではないか。
すると私は、その凡庸極まりない我が夢によって、チョンチョコリンをめぐるいま一つの凡庸極まりない矛盾点に気がついた。
それは、もしも私のおデコにそれが巻かれたとしたなら、チョンチョコリンによって自分の夢を叶えたいカナ子くんと、彼女のチョンチョコリンをそのおデコから外したい私とで、二人の夢はお互い競合関係に陥ることになってしまい、はたしてこういったケースの場合、勝つのはどちらのチョンチョコリンになるのだろうか、といったものだ。
しかし、これはまるでニワトリと卵はどっちが先か、みたいな無益な論争だ。ニワトリ、卵、どちらが先だろうと、それで私の生活が変化することは何一つない。せいぜい、朝食のスクランブルエッグをフォークですくったときに、この卵はニワトリより先(あるいは後)だったのだな、と思いだしてやるぐらいだ。
いいや、たぶんそんなことだって思いだしはしないだろうし、そもそも私がおデコにチョンチョコリンを巻きつけることなんて現実には起こりえないわけだから、カナ子くんとの夢の勝敗について考えをめぐらしたりすること自体がバカげた行為なのだ。
肝心なのは、カナ子くんがどんな夢を叶えようとしているのか、それを把握すること、この一点に尽きる。
しかしそうなってくると、それはそれであらたな問題がもち上がってくる。つまり、カナ子くんの夢は、あくまでカナ子くん個人の問題であって、彼女には自分の夢について上司に報告しなければならない義務など毛頭ない、ということだ。
もはや『男はつらいよ』ならぬ、『上司はつらいよ』といった状況か。イケない、こんなことを言ってるとまた娘に叱られてしまう。
会社の前に到着すると、娘から携帯に返信メールがとどいた。よかった。間一髪間に合ったようだ。
私はその場でメールを開いて内容を確認した。
娘からの返事は私が送った緊急メール同様に短かいものだった。彼女は書いてよこした。
『チョンチョコリンってなに?』
イケない。もう間に合わない。
オフィスのデスクでOL嬢が見る夢とは、はたしていかなるものなのだろうか。しかも、社内に一騒動起こしてまで叶えたい夢とは?
やはり相対的に一番確率が高いのは、恋愛結婚関係になるだろうか。もしかしたら、カナ子くんも寿退社を考えている一人なのか。
たしかに、彼女の年齢を考えればそれもまた定石の選択だろう。でもそうなると、残される所長の私は大変だ。
私には二人の新人男性社員の部下がいるけども、なにしろこの二人、揃いも揃ってかの悪名高い『ゆとり世代』ときている。名付けて『ゆとりA』と『ゆとりB』。場当たり的な教育理論と無駄に税金を注ぎ込んで造られた二体の無気力鈍感ロボット。そんな連中より、カナ子くん一人のほうがよほど頼りになる。それに、もしカナ子くんが退職するようなことになれば、あとを追うように辞めてゆく女子社員が多勢でてくるのではないか。
いやこれは一大事だ。本当に頭が痛い。ついでに胃も痛い。しかしそうかと言って、カナ子くんが着るかもしれないウエディングドレスの裾を引っ張るような真似はしたくはない。
いずれにせよ、自分の妄想で胃潰瘍を患うことになってしまう前に、事実を確認しておくほうが先決だ。
始業ベル10分前、仕事始めの慌ただしさの最中、私の足はカナ子くんのいるデスクへとむかった。
それはどのオフィスにだって見受けられるごく一般的な光景のはずだった。仕事前に上司が部下のデスクにおもむいてなにが悪いのか。
しかし、私の足どりがカナ子くんのデスクに近づいていくのにしたがい、なにやら鋭い視線が、私の頬っぺたあたりを突き刺してくるのだった。まるで反社会的な人間が、いままさに目の前で反社会的な行為を働こうとしているのを目撃しているかのような。
突き刺しているのは、まわりにいる女子社員たちだ。彼女たちは、女王蜂の危険を感じとったお付きの女中蜂みたいに、デスク作業の手を休めザワザワし、キリキリしていた。それが背広の袖や襟元のうしろをとおしてこちらまで伝わってくる。おかげで、責任者であるはずの私まで緊張しはじめてしまった。なんだかとんでもない事をやらかそうとしているような気分になってきた。まさしくコールセンター内のタブーに触れようとしているかのような。私としては、ただ一女子社員にちょっとした個人的事情をたずねようとしていただけなのだが。
「カ、カ、カナ子くん」
私の声は氷の上を滑っているかのごとくうわずった。やれやれ。でも、つぎの瞬間にはそれも致し方ないことのように思えた。コールセンター所長の肩書きなど吹けば飛ぶ紙切れ同然のように思えた。カナ子くんが振り返り、私を間近に見上げたときには。
頭の中で、ふたたび『Karara』のビデオが再生をはじめた。ただ、今回の『Karara』たちは皆、地味なエンジ色の制服を身に着けたOLバージョンで、舞台はコールセンターのオフィスなのだ。
私は本来の目的をすっかり忘れ、カナ子くんの顔に見入ってしまった。カナ子くんも不思議そうにこちらの顔を見返している。当たり前だ。私がなかなか要件を切りださないからだ。
でも、まあいいではないか。たしかに彼女の額には厄介な一本線がまだ走っていたし、それの存在理由だって私はまだたずねてもいなかったけど、それを知ったところで所詮は、ニワトリが先か卵か先か、それがわかるぐらいの話ではなかったか。それならつまらない詮索はやめにして、私は『Karara』のOLバージョンのつづきを鑑賞していたい気分だった。
だが、そう思った途端、女子社員たちとはべつの横やりが割り込んできた。『ゆとりA』と『ゆとりB』だ。
まったく。普段なら私がちょんまげ頭で出勤したとしても、まったく無関心なはずの二人なのに、このときばかりは人が変わったみたいに私にむかって進言するのだった。これは、コールセンター内のカナ子くんへの気の使いようが、無気力鈍感ロボットにまで浸透しているということなのだろうか。
「所長、緊急会議が召集されました」
「ただちに会議室に直行してください。この要件の重要度レベルはトリプルAになっています」
二人はまるで無気力鈍感ロボットから、地球の安全を守るなにかの隊員に生まれ変わったように言う。いつもこんなふうにテキパキしていてくれれば、地球の安全はともかく、コールセンターの将来ぐらいは安泰なのだが 。
いや、待て。トリプルAとは、たしか社長直々に御達しの御前会議ではなかったか....。
イケない。こうしてはいられない。
私はひとまず『Karara』のビデオを一時停止して、センターをあとにした。残されたカナ子くんにしてみれば、さぞかし間の悪い上司と思ったことだろう。そして、まわりに仕えたお供の女中蜂たちは一時の休戦状態に入ったようだった。
もうかれこれ二昔以上も前のこと。当時まだ社会人になったばかりの私は、就職したての会社にある疑念を抱いていた。大学を卒業して間もない青年の目に、ややもすると先輩や上司にあたる男性社員たちの言動が、なにやらホモのそれのように見えることがよくあったのだ。
ただし、今日にいたるまで、私がその中の誰それからそれらしい誘いを受けたことはなかったので、私が持った疑いは、若さゆえの過剰反応か、それとも、そもそも私に彼らの興味の対象となるような資質が欠けていたのか、事実はそのいずれかだったのだろう。どちらにしても、そのとき私の脳裏に記録された疑惑ファイルは決して消去されることはなく、ずっと頭のどこかの引出しに挟み込まれてあったようだ。
そして、それからじつに二十数年ぶりに、私はその『男社員全員ホモ説』なるファイルを、頭の中からとりだすことになった。
場所は朝一番の御前会議に於いて。会議のテーマはズバリ、コールセンター所長である私自身。ただ、ある意味主役であるはずの私の席はそこには用意されていなかった。
私は一人遅れて到着した。円卓の席にはすでに社長をはじめ、重役連中、それからそれぞれの部署の責任者たちが、いつもと変わらぬ席順で顔をそろえていた。いつもと同じ趣味の悪い剥製コレクションみたいな感じで。
そこに私の席だけがなかったわけだが、代わりに、ちょうど社長の向かい側、会議室の一番下手にあたる場所にぽっかり空いたスペースがあった。かつて私の上司だったこともある営業部長が、私に向かってその場所を無言で、しかし断固たる態度で指し示した。
私はよく状況が呑み込めぬまま、もしかしたら透明な椅子がそこにあるのを期待しつつ、空いたスペースに歩み寄った。
会議の進行役である専務が業を煮やしたかのように口を開いた。
「では、緊急会議をはじめます。まず今回問題になった部署の責任者であるコールセンター所長に、本件の経過について報告してもらいます。所長、どうぞ」
この会社の中で、所長と呼ばれている人間は私しかいない。そして、会議室の喋る剥製たちは皆、首を固定して私一人を見ている。さらに、これが社長直々の御達しによる緊急会議であることを考慮すれば、文字どおり、私は窮地に立たされているわけだった。
会議室の劣等生状態の私は、娘のことを思いだしていた。もしや彼女も今頃、クラスの担任におデコのチョンチョコリンについて責めたてられているのではなかろうかと。そうして私たちは、まったく同じ時刻に、それぞれが属する場所で、親子そろって立たされているという図。
でも、しっかり者の彼女のことだ、きっとなにか校則の盲点なんかを突いて妙案を捻りだし、担任の追求を巧みにかわしていることだろう。コンピュータープログラムの弱点を突くハッカーみたいに。
それにくらべ、私には彼らの弱点がまったく見つからない。だいたいが、弱点を突こうにも、専務が言う「本件の経過」の本件とはなんのことなのか。まあ、だいたい察しはつくが。
たぶん、彼らはカナ子くんのチョンチョコリンのことを言いたいのだろう。それ以外、我がコールセンターにおいて会議の議題にとりあげられるような問題は存在しないのだから。ついにくるべき時がきたというわけだ。
しかしだからといって、こちらからすすんでノコノコと蜂の巣を突っつくような真似は、コールセンターの責任者である私にとっても、問題の真の当事者であるカナ子くんにとっても、恐らく得策ではない。ここはひとまず知らぬ存ぜぬで様子見するのが一番だろう。
「申し訳ないんですが、私たちコールセンターの職員は、滞りなく日々の業務をこなしています。私たちにどんな問題があるとおっしゃるんでしょうか。お伺いいたします」
私はワザと開き直ったように言った。相手がどのくらい怒っているのか見定めるために。はたして、敵はどうでてくるか。
最初に噛みついてきたのは、予想どおり営業部長だった。立たされているのが自分の元部下という手前もあっただろうし、なにしろこの人は昔から私とはウマが合わない瞬間湯沸かし器タイプなのだ。
「あのな、しらばっくれちゃいけないよ。問題あるだろ。アレだよ、アレ」
「アレではわかりません。具体的になにが問題なのか仰ってもらわないと」
「アレと言ったらアレだよ。毎日見てるんだからわかるだろ」
すると、営業部長と肩をならべている開発部長が唐突にワザとらしい咳払いをした。とたん、飼い主に説教された子犬みたいに口をつぐんでしまう私の元上司。どうやら彼は失言を犯したらしい。それは私に、ここ緊急会議の場でも、カナ子くんのチョンチョコリンがタブーになっている可能性があることを示していた。
かつては目の上のタンコブだった元上司のおかげで、私は彼らの弱点を見つけることができたのかもしれなかった。
よほどデキた会社にでも身を置かないかぎり、サラリーマンである以上、この会議はいったいなんのためにあるのかといった、ある意味、宿命とも呼ぶべき疑問を持つことは避けられない。私の場合、それがしょっちゅうなのだが、しかし、この日ほどくだらない会議はかつてなかったような気がする。
なんだかそれは、モノ忘れがひどい人々の各国代表が集まって世界会議を開催しているかのような光景だった。皆、好き勝手に発言するが、当然その中に会議のテーマがなんであったか、覚えている人間は誰もいないのだ。
「だからさっきからアレだと言ってるじゃないか」
「アレはなんとかならないのか」
「いったいアレはなんのつもりなんだ」
「早急にアレをなんとかしたまえ」
各国代表は発言した。私はふたたび娘の言葉を思いだしていた。「アレ」だけですべてが相手に通じると思い込んでいる人々。世の諸悪の根源がここにも。
会議は膠着状態に陥った。『モノ忘れ世界会議』の各国代表の中に、あるべきことか、一人、健常者が混じっていたのだ。それが私なのだが、本来なら法廷の被告人席がふさわしい立場にいながら、私は会議に出席した冷静なオブザーバーよろしく彼らに説明した。
「ですからアレではわかりません。もう少し具体的に仰ってくれないと」
どうやら役員連中にとって私の態度は想定外だったようだ。おそらく上からモノを言えば、なんでもハイハイ言うことをきくものとタカを括っていたのだろう。円卓の喋る剥製だったはずの彼らは、押し黙ったまま、本当に剥製になってしまった。
会議室の立たされ社員から、今や彼らを見下ろす勢いの私にしてみれば、どうせとっくの昔に出世街道からは外れている身なのだし、もはや昇給だって望めやしない。そうなれば、あとはカナ子くんの夢を叶えてやるのが、せめてもの親心といったところだ。いやはや、なんだかいよいよ『男はつらいよ』の寅さんめいてきた。
しかし、街で聖者になるのが大変なように、会社内でフウテンの寅さんになるのもまた至難の技だ。中間管理職者としての私のささやかな抵抗は、社長のツルの一声で、ものの見事に会議室のモクズへと消えるはめになった。
「もういい」
会議がはじまってからまだ一言も発してなかった社長がおもむろに口を開いた。まるで自分の言葉に特別な力があることをよく心得ていて、それを出し惜しみしていたみたいに。
「一週間だ。一週間のうちに答えをだしたまえ、所長。それまで、あなたを副所長に降格する。答えがだせなければ、そのままあなたを副所長に降格する。次期コールセンター所長には坂下カナ子くんに就任してもらうことになる」
「はあ?」
「所長、君は知らないだろうがね、これは、ここにいる役員だけでなく、コールセンター全職員の要望でもあるのだよ。わかったかね。どなたか、私の意見に異議のある方は?」
「異議なし!」
剥製たちがあらかじめ約束していたかのように声をそろえて言う。営業部長にいたっては、わざわざ会議終了後に私のもとにやってきて、「もう俺の力じゃ、お前を助けてやれない」などと耳打ちする念の入れようだ。いったいいつ、私があなたに助けを求めたというのか。
私が彼らを精神的ホモと勝手に決めつけるのは、ちょうどこんなときだ。
私が若かったころにヒットした『青春時代』という歌の中で、歌詞の中の主人公が答えをださねばならないのは、たしか卒業までの半年だった。歳を重ねるごとに人生の執行猶予の時間は短かくなる。私ぐらいの歳になれば、それは一週間だ。
朝のうちはまだ妄想の範囲内だった胃潰瘍が、だんだんと現実のものになりつつある。
まさかカナ子くんの夢とは、私の代わりにコールセンター所長のポストに就くことだったのだろうか。
そのために私は、彼女の寅さんになろうとしていたというのだろうか。
なにがなんだかサッパリわからない。こうなったら、もう直接本人に聞いてみるしかあるまい。もはや『karara』のビデオがどうのこうの言ってる場合ではない。
センターにもどると、すでに通常の業務がはじまっていた。そこかしこに鳴り響く電話のベルをまるで電気的な警笛のシグナルのように耳にしながら、私はカナ子くんのデスクへと向かった。
ふたたび女子社員たちの刺すような視線が私の一挙一動に集まってくる。彼女たちの真意を知ってしまった今となっては、それはさらに鋭角さを増している。しかし、今度ばかりは怯んではいられない。幸い、邪魔なゆとりAとBは席を外している。いいや、そんなことはどうでもいい。おそらく、私はまだ彼女たちとって所長であるはずなのだ。彼女たちはまだなにも知らされていないはずなのだ。
カナ子くんの姿はそこになかった。デスクはもぬけの殻だった。私は自分の過信ぶりに途方に暮れた。私はよもやと思いながらも全コールセンター内が見渡せる所長デスクの席に顔を向けた。
そこにカナ子くんはいた。はやくもエンジ色の制服から紺色のスーツに着替えて。女所長然として。私が目をとおし、ハンを押すはずだった書類に視線を落としている。
知れ渡っていたのだ。すべて既定事実だったのだ。知らなかったのは私だけ。
もう我慢がならない。私は奪われたかつての自分のデスクにツカツカと歩み寄り、そのままの勢いでまくし立てた。
「カナ子くん、お仕事中申し訳ないんだがね、ちょっといいかね。聞かせてほしいんだ。君の夢とやらをね。君の夢とは、つまりこういうことだったのかい」
なにやら背筋が凍りつくような冷気が足もとからのぼってくるのを感じた。ときに娘から浴びせられる冷たい視線よりもさらに数十倍も強力な全コールセンター女子社員たちの視線が。それは私にこう告げていた。
「『カナ子くん』じゃなくて、『カナ子さん』だろ、副所長」
私が彼女たちの侮辱に耐えることができたのは、日頃の娘によるトレーニングの賜物ということもあるけれど、もう一つは、私が見下ろすカナ子くんの表情に、意外にもモナリザのような優しい微笑が浮かんでいたからだった。チョンチョコリンを巻いた優しいモナリザのような。
このとき私はすべてを悟ったのだ。つまり、私が少なくともこうしてまだ副所長の身でいられるのは、彼女のお陰なのではないのか、と。もしもカナ子くんの尽力がなかったら、私などは身ぐるみ剥がされてアッという間に会社の外に放りだされていたのではなかったか、と。
「副所長」
背中で女子社員が誰かを呼んでいた。いや、誰かではない。私だ。私を呼んでいるのだ。
一つ深呼吸してから、どうにか言葉を吐いた。
「なんだね」
「お客様がお見えです。1階のカフェでお待ちになっています」
「そうか。ありがとう」
私は出口を目指した。目の前の上司に一礼して。
カフェに客人らしい人の姿はなかった。代わりに私がテーブル席で肩を並べているのを見つけたのは、ゆとりAとBだった。
勤務時間中だというのに二人は仲良くパフェを頬ばっていた。就職活動帰りの学生たちみたいに。しかも、私の姿を見とめても、二人して顔色一つ変えやしない。ゆとり教育ここに極まり、か。いや、それともこの二人ですら、私がすでに所長でないことを知っているということなのか。
私の声は硬かった。
「君たち、いったいここでなにをしてるんだ」
「所長こそ、どうしたんです」とA。
「私はお客に会いにきたんだ」
「それは奇遇ですね。僕たちもそうなんです」とB。
「だからといって、勤務時間中にパフェはないだろ」
どうやら彼らはまだ不意の人事異動を知らないようだ。私を所長と呼ぶ人間が今も社内に残っていたわけだ。しかし、それを喜んでいいのかどうか。特にこの二人に。
私は手前の席に腰をおろした。それが二人の合図だった。二人は体を乗りだすと、急に小声になって喋りはじめた。
「本当は僕たち、所長にいい提案を持ってきたんです」
「所長の客人って、じつは僕たちなんです」
「すべてを一度に解決できる妙案なんです」
「所長、時間はありませんよ。一週間なんてあっという間です」
どうやら私はまだ過信していたようだ。パフェを問題視している場合ではなかった。ようやく私は自分の立場を理解して言った。
「いや....副所長でいい」
ウエイトレスが注文をとりにきた。私はオーダーした。
「苺パフェ」
この日のAとBはこれまでとは人が変わったみたいだった。実際、彼らは人が変わっていた。もっとも、その話の内容は、彼らが授かった教育そのままに、かなりうさん臭いものだった。
それによると、じつは我が社の社員というのは彼らの仮の姿であって、本当はどこかの企業に雇われたヘッドハンターというのが、二人の正体であるらしい。
「嘘も大概にしたまえ。だって君たちにヘッドハントできるものなんて、せいぜい迷子の子猫ぐらいなもんだろう」と、私も小声になって言ってやったのだが、二人はあらかじめこちらの反応を予期していたのか、はたまたそれが彼ら世代の唯一の長所なのか、持ち前のゆとりある態度をのぞかせていた。
思うに、人がおよそあり得ない荒唐無稽な話を信じてしまうときは、そこになにかしら、その人にとってのメリットが含まれているケースがほとんどだろう。とくに、そこに逆説的なメリットが含まれている場合、人はコロリとその言葉をう呑みにしまう傾向にあるようだ。お守り然り。占い然り。
いいことばかりでも、悪いことばかりでも、人はそう他人の口からでた言葉を信じたりしない。悪いことがあるからこそ、いいこともまたあるわけだ。大切なのは話の真実性ではなくて、そこで語られるメリットとデメリットの割合なのだ。
私の場合どうだったか。
たしかにヘッドハントという選択肢には魅力があった。なにしろそれは、私が抱えている問題を一気に解決してしまう可能性がある。これは大きなメリットだ。
ただ一抹の不安は、そのヘッドハント話を語るヘッドハンターと名乗る二人が、まったくもってヘッドハンターらしく見えないということ。これがデメリット。
しかし、それも考えようによっては、身を隠すためのカムフラージュともとれる。テーブルにのったパフェなどもそうだ。もしやこの二人、本当は相当なキレ者なのだが、表面上は能ある鷹のごとく、その爪を隠していただけなのかもしれない。
ゆとり教育万歳。どうやら私は、彼らのことを彼らが受けた教育も含めて、大変な誤解をしていたようだ。彼らこそ、私の真の能力を理解してくれた数少ない逸材だったのだ。それを私は....。
これまでの数々の非礼を勝手に水に流して私は言った。
「それで、君たちを雇ってるのはどんな会社なんだい」
「それはお答えできません」
「企業秘密です」
「それじゃ困るよ。会社名がわからないんじゃ、転職のしようがないじゃないか」
「それは本人にしか言えない規則なんです」
「本人?....君たちはいったいなんの話をしてるんだ?」
「副所長こそ、なんの話をしてるんですか」
どうも話が噛み合わない。雲行きが怪しくなってきた。イヤな予感がする。なんだか妻から離婚話をもちだされたときと同じ匂いがする。
AとBは二人の雇われ弁護士みたいに言った。
「僕たちはカナ子さんをヘッドハンティングしにきたんです」
「でも、カナ子さん、なかなか首を縦にはふってくれなくて」
「そこで、副所長に協力してもらって、カナ子さんを説得してもらいたいんです」
そういうことか。どおりで話がウマすぎると思った。柄にもなく苺パフェなんて頼むんじゃなかった。
「でもね、カナ子くんは所長に就任したばかりだよ。そこに転職話を持ちだすのは、さすがにタイミングが悪すぎやしないかね」
「僕たちは所長としてではなく、あくまでカナ子さんに電話オペレーターとしてきていただきたいんです」
「電話オペレーターはカナ子さんの天職です」
「サラリーは現在の所長職の10倍は保証します」
私はつい口をはさんだ。
「それはアレかね....やっぱりカナ子くんでないとマズいのかね。たとえば私とか....」
「ダメです」
「あり得ません」
いったいなにがどうなっているのか。電話オペレーターをヘッドハンティングするとはどういうことなのか。
普通ヘッドハンティングといったら、特別な技術やキャリアを持った人間が対象になるはずだ。電話オペレーターのヘッドハンティングなんて聞いたことがない。
すると、AとBはこちらの心のヒダを読みとったかのように話しはじめた。
「副所長は電話オペレーターという職業を下評価しています。コールセンターの電話オペレーターは、最も頻繁に顧客のクレームと接触する職種なんですから。言ってみれば、クレーム対策の要なんです」
「そして、たった一つのクレームが、世界を股にかけるほどの大企業の屋台骨を、つねに揺らしかねない危険性をはらんでいる。それが現代のインターネット社会と直面せざるを得ない企業の実情なんです」
「こういう内部資料があります」
そう言って、Aがテーブルの上に書類の束を置いた。
「これはある調査会社の調査報告です。依頼主はここの会社の社長です。全社員の会社に対する貢献度を調べて、それを数値化したものです。トップ30位までの社員の名前が載っています。因みに、副所長の名前はありませんので」
「わかってるよ」
私は書類を手にとり、下から上へと目を走らせた。悔しいことに営業部長の名が載っている。なにかの間違いではないのか。社長の名前は二番目だ。まあ、これはそもそも調査依頼主なわけだから、リップサービスだろう。しかし、信じられないのは、その上にカナ子くんの名が載っていることだ。つまりこの調査報告は、社長やその他諸々の役職連中をさしおき、電話オペレーターである一OLを全社員の中のMVPに推しているのだ。
「僕たちも独自に同様の調査をおこないましたが、この調査報告には疑問があります。カナ子さん以外の順位に」
「ほかのオペレーターの女の子たちの名はないね」
「もちろんカナ子さんだけです。彼女は特別なんです。そのことを裏付ける極秘資料がこれです」
ゆとりAならぬヘッドハンターAは、あらたな資料の束を持ちだし、私に見せた。
「これは、この会社の詳細な重要顧客リストです。いろんなデータが載ってますけど、重要なポイントはただ一点。この会社の重要顧客の半数がかつてコールセンターにクレームの電話をかけた経験があり、その対応をしたのがいずれも同じ一人の電話オペレーターだったということです。つまり、それがカナ子さんだったわけです。じつに彼女は電話一本の会話で、クレーマーを重要顧客へと変えてしまう能力があるんです」
「ところで、貢献度調査はそもそも社員のやる気を促進させるために実行されたので、そちらの資料のほうは極秘でもなんでもありません。全ての社員に配付されています。ですが、一人だけ配付されなかった社員がいる。それも意図的に。カン口令までしいて。誰だかわかります?」
「私だろ。私には見せる価値もないというわけだ」
「いいえ、それは違います。カナ子さんが副所長だけには見せないように社長に直訴したからです」
ふたたび私は問う。いったいなにがどうなっているのか、と。
どうしてカナ子くんは私にこの資料を見せようとしなかったのか。私はそれをAとBにたずねるべきかもしれない。きっと彼らならその答えも知っているはずだろうし、二人してさっきからずっとこちらの顔色をうかがってもいる。私のほうから口を開くのを待っているのだ。
でも、私はそれをあえて知りたいとは思わない。それは私が一社会人としてだけでなく、一人の人間としてカナ子くんのことを信頼しているからだ。カナ子くんが知らないほうがいいと考えたのなら、それは私にとって知らないほうがいいということなのだ。
ついに痺れを切らしたか、それともダメな上司に愛想が尽きたか、ヘッドハンターたちは自ら口を開いた。
「さっきも言ったとおり、カナ子さんのヘッドハントは暗礁に乗りあげています。ですが、社長に直訴するという、普段のカナ子さんからは想像できない行動。それが僕たちに一つのヒントをくれました」
「僕たちは彼女の身辺調査に大きな穴があったと考え、それを最初からやり直しました。そしてある信じ難い結論に至ったわけです。つまりそれは、カナ子さんがこの会社の中で一番信頼をおいている人物、それが副所長だったということです」
「べつにそんなにビックリするようなことじゃないだろ」私は拍子抜けしたように言った。「だって、私は彼女の直属の上司だったんだから。今は立場が逆転してるけどさ。でも、そういうことならどうかな、君たち。カナ子くんが私のことを信頼していて、尚かつ、君たちがそんなに彼女のことをヘッドハンティングしたいというのなら、いっそ私とカナ子くんとセットでヘッドハンティングしてみたら」
「それはできません」
「必ずカナ子さん一人でというのが、僕たちの雇い主の意向なので」
「あ、そう」
「どうでしょう、副所長。もし、このヘッドハンティングが一週間以内にまとまれば、副所長も所長職に復帰できるわけですし、僕たちとしても、副所長にそれ相応の報酬を約束しますから、一つカナ子さんの説得にあたってくれませんか?」
「その前に一つ聞きたいんだがね」私は落ち着いて言った。なにも『ゆとり』は君たち世代の専売特許じゃないんだよ、というふうに。「カナ子くん、最近おデコにヘンなもの付けてるだろ。君たちアレどうしてか知ってる?」
「たぶん....スーパーフライのファンなんじゃないですか」
私は彼らの力量を試すかのように聞いた。
「周囲の社員たちがさ、彼女のアレを見て見ぬフリしてるだろ。それはどうしてかな?」
「それはやっぱり、カナ子さんが社内で一番優秀な社員だということを、みんなが知ってしまったからでしょう」
「それについては具体的に調べてみなかったのかね?」
「ええ」
私の彼らに対する興味は急速にしぼみはじめた。二人はふたたびもとのゆとり社員にもどったようだ。いざという時に役に立たないのはそのままだ。
私たちの蜜月の時間は短かった。よそよそしく彼らから視線をそらし、暇つぶしでもするかのように手元の資料にふたたび視線をおとした。だがそのとき、私はその文面の端っこに、自分がした質問の答えの手掛かりを発見したのだ。
「早退させてもらうよ。急に急用を思いだしてね。悪いが、私のタイムカード押しといてくてたまえ」
もはやオヤジギャグとも呼べない言葉を残し、私は席を立った。もちろん苺パフェは彼らの奢りということに。
私が調査報告書のページに見つけたのは、カナ子くんのトップ順位と同じぐらいに重要な数字だった。ヘッドハンターたちも取りこぼした数字。それは報告書に記された日付けだ。
それによれば、報告書が書かれたのはカナ子くんがはじめてチョンチョコリンを付けて出社した日より一月以上前になっている。たとえ彼女の個人的な事情に暗くとも、内偵者たる者、その一月の間にカナ子くんの身になにかしらの変化があったということに考えを及ばさなければならない。
私にとってこの一月のブランクは、彼女の夢が、コールセンター所長の地位とはなんら関係がないことを示している。なぜなら、その気になりさえすれば、すでに社内MVPの彼女は、いつだって好きなときにコールセンター所長ぐらいの地位は手に入る立場にいたわけだから。そもそも、チョンチョコリンなんて付ける必要はないのだ。
ヘッドハンターたちの取りこぼしは数字以外にもある。
彼らは、No.1社員のカナ子くんに気をつかって、ほかの社員たちが彼女のチョンチョコリンに触れないような言い回しをしていたけども、恐らくそんなものではない。ヘッドハンターたちは、社員たちの細かな心の動きを理解していないのだ。おそらく、社長たちだって、本心ではカナ子くんを所長の座にはつかせたくなかったはずだ。
社の人間たちは、私が今まで気がつかなかった、そしてヘッドハンターたちが未だに気がついていない、あることに薄々勘づいていたのだ。つまり、カナ子くんの秘めた力が、いつだって両刃の刃になり得るということに。彼女がその気になれば、あるいは、彼女を利用できる人間がいれば、社長のクビを変えることだってできるかもしれない。
私は思いだす。所長になったカナ子くんがデスク越しにみせたあの微笑を。もしかしたらアレは、モナリザの優しい微笑なんかではなかったのかもしれない。アレは悪魔のそれだったのかもしれない。
「....お父さん、お父さん」
どいうわけだか、私は何年ぶりかで娘の呼び声で眠りから目を覚ました。
私は中央線の上り電車に乗っていた。シートに腰掛けた私の前に、制服姿の娘がこちらをのぞき込むようにして立っていた。まるで彼女のほうが不思議な夢をみているような顔をしている。iPodの白いイヤホンが首から垂れていた。
「なにしてんの?」
「ああ....タエ子か。こんなところでお前に会えて、お父さん嬉しいよ」
娘も私も、私がなにを言っているのかよくわからなかった。でも、本心ではあった。
寝ている間に乗客の数がだいぶ増えていた。すでに人々が帰宅しはじめる時刻になっていた。
娘には得意先回りの帰りだと言っておいたけども、もちろんそんなことはなかった。会社を早退した私は、真っ直ぐ駅にむかい、中央線の電車に乗り込んだ。自宅に帰るためでも、胃潰瘍の検査を受けるためでもなく、チョンチョコリンおばさんに会うために。
私は東京を横断する中央線を、東から西、西から東へと、何度となく往復した。顔も知らないおばさんの姿を求めて車両を移動し、スタンドで腹ごしらえをし、何駅ものプラットフォームを歩いてわたった。かつて営業職だったときでさえ、これほど電車を乗り継いだことはなかった。でも、チョンチョコリンおばさんにはついに会えずじまい。おまけに、ついに疲れ果てた私は車中のシートで眠りこみ、学校帰りの実の娘におこされる始末。
もちろん、おばさんたちは至る所にいた。どこにでも必ずいた。でも、その中におデコにカチューシャを巻いたおばさんは一人もいなかった。
チョンチョコリンおばさんは、自分が気に入った若い女の子にしかカチューシャをくれないという。もし奇跡的に出会えたら、私としては、そこをなんとかお願いするつもりでいたのだ。「じつは私の娘も一つこの間頂戴しましてね」とか言ったりして....ああ、そうか....その手があった。
奇跡は起きていたのだ。それは今、私の目の前に立っている。こうして娘と、中央線の車中で偶然出会えたことがなによりの奇跡なのだ。
私は奇跡の子を見上げて聞いた。
「お前、まだアレ持ってるか?」
「アレって?」
「チョンチョコリンだよ」
「チョンチョコリン?....ああ、カチューシャでしょ」
私と話しているときはたいていそうだが、 娘は少し怒っているような感じでカバンからそれをとりだした。
「それ、お父さんにくれないか」
「なんでよ」
「だって、お前はもう夢が叶ったんだからいいじゃないか。お父さんにもそれがちょっと入り用なんだよ」
私を見る娘の視線は、限りなく落ち潰れた詐欺師を見るそれに近かった。
「お父さん、ほんと大丈夫?」
「ああ。お父さんはいつだって大丈夫さ」
私は『Dr.スランプ』にでてくるスッパマンみたいな心境で言った。
はたして私が叶えたい夢とはなんなのか。家族の健康か。たしかにそれもある。娘を無事大学まで進学させてやることか。たしかにそれもある。しかし、さし迫った目下の夢はそれではない。
もしかしたら『カチューシャおばさん』は存在しているのかもしれない。でも、彼女がくれるというカチューシャそのものに、他人の夢を叶える力が宿っているというのは迷信だ。もしも、それによって自分の夢に近づけることがあったとしたなら、それは魔法によってではなく、それをおデコに巻いたことによって、その人の内面や、その人がいる環境に、ある種の変化がおきたせいだろう。
朝の駅の改札で、すれ違う人々が不思議そうに私の顔を見やる。逆に電車の車中では、人々が私の顔から視線をそらせる。中には、怒ったように睨みつける初老のサラリーマンもいる。なにか言いたそうだ。でも、なにも言わずにまぶたを閉じてしまう。私は涼しい顔で窓の外の風景に目をやる。
会社前では、鉢合わせになった営業部長が私の顔を見て足を止める。彼の固まった表情なら下手な絵描きでもそっくりに描けそうだ。いつもなら道を譲るところだけども、かつての上司の足はしばらく動けそうにないから、「失礼します」と言って先をいそぐ。
私が乗り込んだ会社のエレベーターには誰も乗ろうとしない。というか、誰もエレベーターの周囲に近づこうとしない。私は仕方なくボタンを押してエレベーターの扉を閉める。
昨日までは刺すように見ていたコールセンターの女子社員たちの視線は、私の顔を見たとたん、畏怖のそれへと変わる。でも、彼女たちは通勤途中にすれ違った見ず知らずのOLみたいにすぐに視線をそらしたりはしない。彼女たちの視線は太陽をはさんだ惑星のように、私を中心にゆっくり回りはじめる。やっと私は彼女たちの仲間として認められたような気がする。
女性たちとは対象的に、ゆとりAとBはすぐに私から視線をそらすと、デスクの一点を見つめる。すでに彼らはゆとりAでもBでもなく、ヘッドハンターですらない。彼らの存在は太陽に照らされたなごり雪みたいに静かに消えてゆき、デスクには彼らの形をした黒いシミしか残らない。
私は所長席にいるカナ子くんを見る。カナ子くんも私を見ている。その顔にはふたたびモナリザのような謎めいた微笑が浮かび、おデコには当然、チョンチョコリンが巻かれている。
そして、それと同じものが今朝は私の額にもある。私はおデコに神経を集中して念じつづける。どうか私をあなたの共犯者に....。