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父の森㉙完

ようやく私は父との約束を果たそうとしています。それは東京女子コインランドリークラブにとっての三十六番目の『父の森』であり、夢の森にとっての三十六冊目の『父の森』になるでしょう。

いつの日か、三十七人目の美麗にしてレジェンドなお姉さんが、どこかにある不思議の森の芝生に腰を下ろして、表紙を開き、恋人たちの前で朗読する機会がくるかもしれません。そのときには私の父が、緑の光に包まれながら、しんがりとして姿をあらわすのでしょう。一冊の本を手に。永遠とも思える時の淵で、彼はまだ二十歳になったばかりです。どうかお手柔らかに。


約束した物語を書き上げるまでに、だいぶ時間がかかってしまいました。実家の庭先で、トチノキになりかけた男とお月さまのワルツを踊ったのは、もうかなり以前のお話しです。いまとなっては、すべてが一夜の幻だったように感じます。

『父の森』の執筆に関しては、ほとんどの会員たちも、同じようにそれなりの時間がかかっているのが実情のようです。というのも当の会員たちにしてみれば、約束を交わしたのは入会する前の話しですけど、そのあとには誰もみなコインランドリークラブの会員となり、本人たちは新しい仕事を覚えるのに手がいっぱいですし、物書きとしての仕事も少しずつ増えていきます。そうなるとプライベートな約束どころではなくなってしまうというのが現実のようです。当然のように、心の整理だって必要になってきます。必然的に執筆が開始されるのは、会員にもよりますけど、場合によっては入会してから数年後といったケースもザラで、珍しくはありません。


「微妙なのは私たちが書いた『父の森』という物語の立ち位置です。それは書かれざるべき物語なんです。この世には存在してはいけない本なんです。東京女子コインランドリークラブ的には」

倉持さんは言います。

私たちはランドリークラブの残業組は、机の上で二人だけの作業をしながら会話をしていました。作業はいつものようにヘッドセットの組み立てです。アルコールランプで下から熱した銀の半球体に、父の木の小枝をあててカーブさせるのが私の役目です。曲線を描いた小枝を短い紐で結んでいって、リング状にするのが倉持さんの仕事です。最後に二人で一緒に、リングを三つ重ねてふたたび紐で結びヘッドセットのできあがりです。見た目は不恰好ですけど、逆に言ったら味があってそこが魅力です。

ちなみに結ぶ紐も業者に発注して、枝を細かくして伸ばしたものを使っているので、100%父の木純正なところもウリです。


私は自分の書いた『父の森』が、クラブの事情から出版されないのは知っていました。それでもせっかく書いたので、せめて倉持さんに読んでもらって、エンディング部分をどうしたらいいかアドバイスをもらいたいと思っていたのです。

じつのところ私はこの物語をどういうふうに終わらせたらいいのか検討が付ませんでした。終わりの形が見えないのです。それで姉の真似をして、倉持さんに添付メールを送り、書いたところまでを批評してもらったわけです。具体的に彼女に読んでもらったのは、姉のメールのシーンまでです。

「終わりが分からないのは当然です」

倉持さんは言います。

「なぜならそれはまだ終わっていないからです」

私の不思議そうな顔を見て彼女はつづけます。

「睦さんの書いた物語は、お父さんとお姉さんのお話しであるのと同時に、睦さん自身のドキュメンタリーでもあります。だからまだ物語は終わっていないんです。ですが、じつは『父の森』には共通するある決まったエンディングのデータがあります」

「それは?」

「ジャックインです」

そう言って倉持さんは、広い机の上に無造作に重ねられた、でき立てのヘッドセットを手にとって、ポイっとその冠を私の頭にのせます。


「ジャックイン」とは、ヘッドセットを使ってヴァーチャルリアリティに入る際に使われる造語です。普通ヴァーチャルリアリティへの出入りには「イン/アウト」を使いますけど、東京女子コインランドリークラブの会員はみなSFとファンタジーを生業とする物書きなので、サイバーパンク風に伝統的な「ジャックイン」という、今となっては少々大袈裟に聞こえそうな造語で呼ぶのです。私たち会員がいつもお世話になっている印刷会社のオペレーターが、「黒」をあえて「墨」と呼ぶのに似ているかもしれません。


「私たちが書いた『父の森』はいつもたいてい一冊しか製本されません。苦労して書いても、実際に印刷されてできあがるのはたった一冊だけなんです。矛盾の花屋と同じです。それはこの世に一つしかありません」

倉持さんは言います。作業の手を休めた私たちは、クッションの効いたソファに向かい合って腰を下ろし、コーヒーを呑みながら話しをつづけます。開けた二階の窓からは、初夏を迎えたブロードウェイ通りの夜の賑わいが聞こえてきます。

「それもこれも『父の森』が存在してはならない物語だからなんです。会員たちはみんな『父の森』を単に本とか、ブックと読んでいます。表紙には作者名はおろか、タイトルすら印刷されていません。ただの表も裏も真っ白いだけの本です。見た目はほとんど本のサンプルです」

「それでも父と姉にとっては大切なものなんですね」

「そうです。二人にとっては存在していること自体が重要です。それはいつまでも世界の中心にある言葉だからです」


「物語のエンディングと私たちが作っているヘッドセットとはどういう関係があるのですか?」

残業組にとって今日最後の仕事になる三つのリングを紐で結ぶ作業をして、私は手を動かし、口を動かします。

「睦さんはこの世に一冊だけの本を持って夢の森にジャックインします」

「は?」

ビックリして手にしたヘッドセットの紐を結びそこなった私の前で、倉持さんはつづけます。

「夢の森で直接、茶髪さんに本を手渡すんです」

「茶髪さんに会えるんですか?」

「ええ、会えます。僭越ながら前任者である私が旅のお供をします。以前にはできあがった本をただ〈姉の会〉に郵送するだけですませていたそうなんですけど、それではあんまり味気ないというので、技術の進歩もあって、近年にはヴァーチャルによる夢の森ツアーが実現しました」

「嬉しい。茶髪さんの淹れる紅茶が飲めるんですね」

倉持さんはうなずき話します。

「ちなみに茶髪さんは夢男たちの集合体です。どの会員の本にも必ず登場するのだそうです。言ってみれば夢の森のレギュラーです。茶髪さんに本を手渡すのは、お父さんに手渡すのと同じです」

「それでは雨男の方は一体誰なんでしょう。雨男もお父さんの集合体なんでしょうか」

「それは分かりません。もしかしたら欲望の街が創りだした想像上の人物にすぎないのかもしれません」


「夢の森は〈姉の会〉が管理しているので、私たちがそこにいける機会は滅多にありません。私もこれでやっと二回目です」

「私なんてまだ一度も実際にヘッドセットを使った経験すらないんですけど」

「大丈夫です。なにも心配ありません」

倉持さんは茶髪さんの口癖を真似して言います。それから私の頭にふたたびヘッドセットをのせてから、自分にも一つのせます。そして両腕を机の上に真っ直ぐ差しだして言います。

「私の両手を握ってください」

私は言われたようにします。

「それからゆっくり両目を閉じます」

私はうなずいて両目をしっかり閉じます。二人一組で謎のヨガをやっているような気分です。

「結構です。目を開けてください」

私は目を開けて、微笑んでいる倉持さんを見ます。三つ編みのおさげ髪にのった父の木のヘッドセットが、カチューシャをした少女みたいにキュートです。

それから私たちは昔の流行歌みたいに二人で窓をしめて、火の元を確認します。電気を消しドアに鍵をかけ、最後にいつものように一階店舗の確認項目を二人ですべてチェックしてから、東京女子コインランドリークラブをあとにします。


おしまい

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