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父の森㉘

姉からのメール⑨

『泣いても笑っても、お姉ちゃんをめぐる三十五日間の冒険の最終日がやってきました。朝になって一月ぶりに銀行員ふうな会社の制服に袖をとおしました。もとの世界にもどるには、来たときと同じ格好の方がなにかと都合がいいのではないかしらんと思ったからです。

朝食の定番になったシャケのおにぎりとたまごのサンドイッチを四次元冷蔵庫の扉からとりだして、家をでるときには声はすれども姿は見えないノラ猫にさよならを言いつつ、いつもどおり広い芝生の公園まで歩いて向かいました。

普段と違っていたのは、私が会社の制服を着ていたのと、もしかしたら最後の最後に奇跡が起きて、恋のお相手が公園で待っていてくれてるのではないかしらんといった、淡い期待を抱きながら歩いていたぐらいでした。

ただ、一ヶ月間も待ちつづけた奇跡が最後の最後にお姉ちゃんを待っているはずはなく、私は無人の公園の前で肩を落とし、毎朝の、そして最後の、お決まりの作業を開始しました。


欲望の街で一月暮らして分かったのは、夢に見た魔法使いの生活も、慣れてしまえばそれもまた毎日の平凡なルーティン作業の中へと落ち着いてしまうといった、当たり前といえば当たり前の事実でした。誰が考えたのかは知りませんけど、魔法の国に魔法使いはいないとは、よく言ったものです。

初日のお姉ちゃんのワクワクドキドキは、すっかりどこかへ消えてしまったようでした。会社で事務仕事をこなすみたいに、うつむきながら歩道に落ちている小枝を探します。小枝はすぐに見つかりました。広い公園の芝生なら十本。百合の花たちになら七本といったふうに。もとの世界にもどってもきっと癖になって、しばらくはうつむき加減に歩きながら、ついつい歩道に小枝を探してしまう日々がつづきそうです。歳をとったら、近所の子供たちから小枝おばちゃんの愛称で呼ばれているかもしれません。レレレのおじさんみたいに。


矛盾の花屋のベンチにブリキのバケツを三つだし、公園の水道から一つずつ水を汲んできて、白百合の花束を生けます。そして通い詰めた公園にさよならするために、『それから』の文庫本を手に取って、ページの一節を声にだして読みあげてみます。夢の森で実技を重ねてきた朗読の特技を披露して。「ぼくの存在にはあなたが必要だ。どうしても必要だ」と。夢男さんたちはいまごろどうしているでしょうか。人のいい、私の三十五人のかりそめの恋人たち。


ベンチに座って読書を時間までつづけるつもりでいたのですけど、お父さんの心配ばかりが頭をよぎります。

私が銀座のホテルの一室から、気がついたときには夢の森に横たわっていたのは、時刻的に言ってたぶんお昼ぐらいだったと思うので、もしも夢の森と欲望の街が時間に厳格であったなら、お姉ちゃんが芝生の公園にいられる時間はもう残りわずかのはずでした。

こうなったら私は私で恋愛云々はあきらめるので、お父さんには見当違いな夢は綺麗さっぱりとあきらめてもらうしかなさそうです。

欲望の街でさえも叶わない欲望が存在するわけです。お父さんお気に入りの、明治の文豪が書き残した恋物語も形無しです。白百合の花々が放つ濃密な香りだけが、来るあてのない恋の相手を夢想させて悲しくなるばかりです。


茶髪さんには上手にさよならが言えませんでした。最終日が近づいてくるのにしたがって、私と茶髪さんの関係はギクシャクしてしまって、ロクな会話もできなかったのです。

もちろん原因は茶髪さんにあります。あんなに「大丈夫です、大丈夫です、なにも心配ありません」と言っておいて、このザマだからです。仕舞いにはお姉ちゃんが怒って口をきかなくなるのも無理はないと思います。あの根拠のない自信はいったいどこからくるのでしょうか。首根っこを掴まえて問いただしたいぐらいです。


雨よ降れ。私が具現化した張りぼての芝生の上に。私が拾った小枝の一振りによって生をうけた芝生の上に。

もしかしたら私の芝生も、冷夏の年に土の中からでてきてしまった蝉たちよりは、いくらか幸せだったかもしれません。だって年に三回しか降らないという雨の恵みをさずかる幸運にめぐり会えたのですから。肝心の恋占いは大ハズレなのに、天気予報の方は正確な茶髪さんです。

時間が経ってくると、青空に怪しげな灰色した雲たちが立ち込めてきて、昼近くには彼が予言していたとおりに、空を覆いつくしてポツポツと雨が降りはじめたのでした。


意外にも、音がしないはずの欲望の街で、お姉ちゃんは雨音とともに別れを告げる運びになりそうでした。すべてを洗い流して、ふたたびもといた場所へと戻るのです。なにもなかったかのように。

あるいは三十五日間では、お姉ちゃんの悪癖を治すには短すぎたのかもしれません。私が周囲から引き寄せ、心の奥底に溜め込んでいた悪い欲望があまりにも大きいがために、いい欲望へと変換しきれずにタイムアウトになってしまったのです。夢の森の全性能をもってしても処理しきれなかったわけです。より大勢の夢男たちと、より巨大な夢の森が必要だったのかもしれません。

もとの世界にもどったら、夢の森では機能しなかったお姉ちゃんの正夢が、悪夢とともにさっそく復活をとげるでしょう。夢破れたお父さんはとぼとぼと家に帰ってくるでしょう。仕方がありません。私たちの希望は失われ、テストには不合格だったのです。

私は文庫本の表紙を閉じてベンチに置き、瞼を閉じました。もとの世界にもどったときには、風景よりも先に、もといた世界の物音が耳に飛び込んでくるはずです。


雨音に混じって最初に聞こえてきたのは電車が走る音でした。私は不思議に思いました。お姉ちゃんの予想では、私はまだ銀座のホテルの一室にいて、そこで里中さんの声によって眠りから起こされると思っていたからです。それなのに雨音はまだ聞こえていて、電車が走る騒音はどんどん近づいてくるのです。仕舞いには警笛がけたたましく鳴り響いて、私は驚いて目を開けました。


私はまだ公園のベンチにいました。欲望の街では聞こえるはずのなかった音だけでなく、目に映るはずのない光景までが見えました。木立の向こうの高架橋を、オレンジ色した中央線の車両が音を立てて走っているのです。鉄と鉄とがゴツンゴツンと擦れあい、警笛がふたたび空気を揺らすのです。それはものすごい騒音です。轟音と言ってもいいぐらいでした。世界が音を立てて動きだす音でした。お姉ちゃんはそんな周囲を驚かす物音を一か月ぶりに耳にしました。ノラ猫の鳴き声とはだいぶ違います。

私はベンチから腰をあげて、音波の磁力に引っ張られるかのごとく雨の中に踊りでました。雨足はさっきより強くなって、濡れたお姉ちゃんの体は電気が通電したかのように欲望の街と一体化して、駅のプラットフォームが望遠鏡から覗いているみたいに、あるいは雨水によって空間を屈折させる蜃気楼みたいに、間近に見えました。


駅のプラットフォームにさっきの電車が滑り込んできて車両のドアが開き、一人の男性が無人のホームに降り立ちました。男性は深緑色した大き目のポンチョを頭からすっぽり被っていて、フードに隠れて顔は見えません。ガッシリした体つきに細身のズボンを履いていて、これでツバの広いハットを被っていたなら、マカロニウエスタンに登場するガンマンさながらです。男性は脇目も振らずに、でもあくまでゆっくりと、駅の階段を下りていきました。


駅の自動改札がビックリしたかのようにバタンと開いて男性を通します。男性はあらかじめ公園への道を知っているらしく、無人のターミナルにいくつかある通りを真っ直ぐに歩いてこちらの方角に向かってやってきます。

芝生の上で雨に濡れながら、欲望の街の力を借りて男性の様子を透視していた私は、我にかえって急いで矛盾の花屋へともどりました。そうしてブリキのバケツの水から一輪の白百合を抜きとってそれを胸にあて、屋根の下で男性を待ちます。絵にしたなら、〈銀行員、花を手に一人ガンマンを待つ〉といった図でしょうか。

私の心臓は激しくビートを打っていますが、心の中では、「茶髪さん、これまでずっと悪く言ってごめんなさい」と、清く強く懺悔していました。


私はふたたびまぶたを閉じます。もちろん、こちらに向かってくる男性と目を合わせないためです。遠くにいる段階で目が合ってしまっては、それで私が男性を待っているのが相手に分かってしまいます。合図になってしまいます。

濡れたアスファルトを叩く足音が、徐々に私の鼓動とシンクロしていきました。肝心なのは、男性が欲望の街によって送りだされた正しい使者かどうか見極めることです。正真正銘の城に雇われた測量師かどうか推しはかることです。もしも正しい使者であれば、彼は私の手から迷わずに白百合を抜きとるでしょう。なぜなら私が欲望の街にそうあるように念じたからです。私の指から花を手に入れた相手こそ私の恋する相手なのだと。


閉じた瞼を上げると、すでに男性が目の前に立っていました。すぐそばにいるのにもかかわらず、相変わらず男性の顔は濡れて垂れたポンチョのフードで隠れて見えません。彼は落ち着いた声で話します。

「私は雨男。あなたに呼ばれてやってきました」

あんなに予習したのに、土壇場で私は痛恨のミスを犯してしまいます。男性の方から抜きとる決まりなのに、自分からすすんで花を手渡してしまったのです。「お花をどうぞ」と言って。

でもそんなことはどうでもいいんです。受けとった男性はフードの影の下で、濡れた唇を震わせ囁きました。

「我が心にも雨ぞ降る」

吹き抜けの矛盾の花屋に突風が吹き抜けました。風速四十メートルの暴風雨が男性のフードをうしろに吹き飛ばし、私は彼の顔を間近にこの目で見ました。


そこにはただ雨が降っていました。お父さんがまだ子供だった時代に歌われていたような、激しい雨でした。

雨男には目や口といった、顔らしい特徴はなにもなく、ただ水によって縁取られた頭らしい輪郭の中に、土砂降りの雨が強風に煽られ、あるときは右に、あるときは左に、揺れているだけなのでした。

私は吸い込まれるように、強まりこそすれ、決して弱まりそうにはない、顔の中の風と雨を見つめました。

雨男の顔に表情は読みとれませんでした。ただ見つめていると、家の縁側に座って、降りつづける六月の雨を飽きもせずに眺めていた子供の頃にもどったような心持ちがしました。

「我が心にも雨ぞ降る」

私は雨男のセリフを真似して、声にだして言ってみました。子供になったみたいに。夢の森の朗読会みたいに。

そしたら突然、雨男の顔の中に稲光りが走り、ゴロゴロと雷が鳴ったかと思うと、今度は横殴りの雨が風とともに広がっていき、視界いっぱいになって、私の体を包み込んでいったのでした。


「起きて。風邪を引いてしまうよ」

茶髪さんの声がして、目を覚ましました。最初に目に飛び込んできたのはどこか既視感のある青空でした。公園の張りぼての芝生の上に横たわっていたのです。

上半身を起こすと相変わらず制服姿でしたけど、私は雨に濡れてビショビショで、まわりの芝生にも水たまりができていました。

寒気はしませんでした。ただ、声が聞こえた茶髪さんの姿は、周囲を見わたしてもどこにもありません。

東の青空に大きくて、それは見事な虹が、かかっていました。お父さんは虹ではなくて木になりたいとこぼしていたはずなのに、私はなぜだかその大きな虹を見上げているうちに、「お父さん」と一言口にだしてつぶやかずにはいられませんでした。


今度こそ私はホテルの一室で目を覚ましました。ベッドの上に横たわった状態で、その天井は昭和風のレトロではなく、ハイカラでモダンでその上シックな造りだったので、銀座のホテルに違いありませんでした。

私が目覚めたのは、じつは私の左手を誰かが握っているのを感じたからでした。電気の点いていない部屋は薄暗く、窓の外の明るさから時刻は夕方ぐらいに思えました。里中さんと広瀬さんの姿は見当たりません。


広いダブルベッドにやはり会社の制服を着て横になっていましたけど、服も髪もどこも濡れてはいませんでした。私の左手を握って、ダブルベッドの片側に横になっていたのは私服姿のお父さんでした。

微笑みながらこちらの様子をうかがっているお父さんを見て、私は不思議に思って尋ねました。

「お父さん、いつからそこにいたの?」

「忍法雲隠れの術」

トボけた顔をしてお父さんは答えました。私はなによりも一番肝心な要件から伝えなきゃと思って、包み隠さず、顔だけを横に向けたまま言いました。

「お父さん、私、恋をしたわ」

「そうかい。相手はどんな人だい?」

「それが変なの。顔中に雨が降ってるの」

「それは変わってるね。でも性格は真面なんだろ?」

「まだそこまでは分からない。ただ私に虹を見せてくれたわ。とても大きな虹。たぶん今までみた中で一番いい夢だった」

「そうかい。それはよかった」

お父さんはそう言って静かにうなずくと、まるでそれ自体が夢だったみたいに、まるで忍法雲隠れの術みたいに、スウっとどこかに姿を消していなくなってしまいました。

「お父さん?」

私が驚いてベッドの上に体を起こすと、部屋のドアが開いて照明が灯り、里中さんと広瀬さんが廊下から入ってきました。

「ハッピーバースデー、栄子さん。たった今から、あなたは私たちの仲間です」

ベッドの前に立って、驚いている私に向かい、里中さんが言いました。

「おめでとう、栄子さん。姉の会にようこそ」

広瀬さんが言いました。


これでお姉ちゃんの話しはおしまいです。それからさらに一つ驚いたのには、三十五日間の冒険のはずが、私がお父さんの病気のメールを受けとってから、その時点でまだ半日の時間しか経っていないという事実でした。まるで浦島太郎のお話しみたいです。

お姉ちゃんはしばらく実家をでなければならないようです。雨男を探しにいくんです。顔中に雨が降っている人はたぶんいないでしょうけど、私に虹を見せてくれる人ならいそうです。きっと見つかります。里中さんと広瀬さんに大勢の仲間が一緒にいるのでなにも心配はいりません。

長いメールに付き合ってくれてありがとう。それでは送信します。

時子へ

お姉ちゃんより』


つづく

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