父の森㉗
姉からのメール⑧
『花屋をはじめました。
いきなりなんの脈絡もなくそんなふうに書くと、時子は不思議に思うでしょうか。ただ、脈絡がないのは当然なのです。なぜならそれは逆転の発想から生まれたアイデアだからです。妹を困らせるのが天才的に得意な姉です。
でも、私はなにも時子の頭を混乱させるためにこんな文章を書いてるわけではありません。お姉ちゃんなりに考えがあっての行動です。
あれこれ悩んでいる時間はもうありません。朗読会の期限は三十五日間と決まっています。逆算すると、残りの日数はわずかしかありません。いいとこあと二週間の勝負です。まるで小学生の夏休みの宿題みたいです。
ただ神様は一週間で天地を創造されたそうなので、それに比べればまだ若干の余裕がありそうです。気がかりなのはこのメールがこれ以上伸びると、時子に「お姉ちゃん、長すぎる!」と怒られそうなことです。そうなると神様によって約束された一週間だろうと、欲望の街に用意された二週間だろうと、どちらも同じレベルで急がなければいけないのに変わりはなさそうです。
時子にしてみたら、「そもそも人のいない街で花屋を開いてどうするの?」という疑問がわいてくるでしょう。アイ・アム・レジェンドな姉を持つ妹として、それは当然の帰結です。
矛盾にはじまって矛盾に終わりそうなお姉ちゃんをめぐる三十五日間の冒険です。恋をした経験のない女性に、わずか一月あまりの期間で結果をだせというのが無理な話しなのです。最初からなにもかも不可能だったのです。
魔法の世界と言えば聞こえはいいのですけど、結局のところ欲望の街は張りぼての街です。一週間でなにもかも完璧に創りだした神様の偉業を思い知らされるのが関の山です。
張りぼての魔法によって創りだした図書館の蔵書は、三日ももたずに印刷された文字が虫に食われたみたいに次々に消えてゆきます。同じように張りぼての魔法によって創りだした公園の芝生は、夕方になればもう緑の色があせはじめ、まるで冬将軍がやってきたかのように枯れていきます。
お姉ちゃんはそのたびに歩道に落ちた木の枝を拾い集めては、一つにまとめて手に持って、ご太い杖を一振り、魔法の上書きをしなければなりません。
なんだか文句ばかり並べてるみたいです。でも仕方がありません。所詮はやっつけ仕事の魔法使いの身です。
それでも図書館の蔵書や公園の芝生はまだいい方です。お姉ちゃんの得意分野だからです。出来栄えは悪くても、いくらかの救いはあります。
ただ恋となるとそうはいきません。まったくのお手上げです。イメージできないものをいくら形にしようとしても、小枝を何本拾い集めたところで、結局はうんともすんとも言うことを聞かないのに決まっています。
イメージが湧かなければ、小枝はあくまでもただの小枝にすぎません。エアー魔法の杖めいた小枝の空振り三振が永遠につづきます。
それでもものは考えようです。下手な鉄砲も何とやらです。
公園の芝生で小枝の空振りをつづけていたときの出来事でした。お姉ちゃんはついに閃いたのです。さては腕を激しく振る行為をつづけることによって頭の血行でも良くなったのでしょうか。
きっと三十五回目の空振り三振を喫したときでしょう。ようやく私は三十五人の夢男さんたちの存在を思いだしたのです。お姉ちゃんにはすでに三十五人ものイメージすべきモデルたちがいたのです。
茶髪さんはお姉ちゃんが夢男さんたちの一人一人に恋をすると言っていました。彼らは私の恋の練習相手なのだと。でも現実にはそうはならなかったわけですし、それで良かったのです。
天気予報におけるデータと同じ役割です。過去の気象データがそろっていなければ、いかに利口なお天気AIであろうと、明日の天気は占えません。なによりもデータが重要になってきます。そして見方によっては、お姉ちゃんには恋のデータがそろっているのです。
最初は三十五日間もつづく朗読会なんてと、気が遠くなったものでした。でもそれだけの人数がいるからこそデータとして役立つわけです。ただしそれは反面教師のデータとしてです。逆転の発想としてです。夢男さんたちには謝罪しないといけないかもしれません。私が探しているのは三十六人目の夢男だったのです。
夢男さんたちは一人一人が手に本を持っていました。夢男さんを反面教師として考えると、それはお姉ちゃんの恋する相手は本を手にしていないか、あるいはそもそもなにも持っていないか、そのどちらかを意味しています。たぶんなにも持っていないでしょう。持っているのは私の方だからです。古今東西、手になにかを持っているのは恋をする側の方であるはずです。
さて恋をする者は手になにを持っているのでしょうか。ラブレターでしょうか、バレンタインのチョコレートでしょうか。それもあるでしょう。でもラブレターではちょっと古いですし、バレンタインでは時期が限定されています。もっと普遍的に、恋をする者が手に持っているものはなんでしょうか。
それは花でしょう。あるいは花束でしょう。古今東西、それは恋する者にとっての必須アイテムであるはずです。お姉ちゃんが恋する相手は、きっと私が一輪の花を手渡そうとする人です。
レジェンドである私は、開店営業したばかりの自分の花屋さんに、ある先人に因んで〈矛盾の花屋〉という名前をつけました。人のいない街で営業する店ですから、これ以上にピッタリなネーミングはありません。そんな名前の花屋はたぶん世界で一軒きりです。
矛盾の花屋に置いてある花は白百合のみです。『それから』にでてくる白百合です。お店はいたって簡単な作りです。店とは呼べないぐらいです。
公園にはもとから屋根の付いた休憩所があります。ドアも壁もない、柱と屋根だけの石造りの吹き抜けの建物です。屋根の下には木製のベンチが二つ横に並んでいます。私は小枝を振ってブリキのバケツをベンチの上に三匹の子豚みたいに三つ並べて具現化しました。本当は三つもいらないんですけど、それぐらいの数がないと見た目お店として成立しなさそうなのです。
三匹の子豚に公園の水道水を汲んで、一つ一つ、ヨイショヨイショと芝生を横切ります。それからふたたび小枝を振り、いよいよ肝心の百合の花を図書館から借りてきた植物図鑑を参考に具現化させて、バケツにザックリと生けます。百合は数が多ければ多いほど都合がいいです。店としての体裁もありますけど、『それから』の主人公が愛の告白をする際に、自宅の部屋を白百合の香りで満たしていたのが理由です。
公園にはできるだけ多くの生けたばかりの花の香りを拡散させて、欲望の街に向かって不慣れな恋愛活動を猛アピールしなければいけません。結局のところ、夢を具現化させるのは私自身はなくて欲望の街なのですから。
それは逆転の発想です。好きな人を小枝を振って具現化させるのではなく、あくまでも私の指の間からそっと花をとり去る人を欲望の街に具現化させるのです。私がそれを手渡したいと思う相手こそが、私の恋する人だからです。その点を欲望の街に理解してもらわないといけません。
花はあくまでも白百合でないといけません。カーネーションではダメです。欲望の街が勘違いして私の母を呼びだしてしまう可能性があります。
具現化の際には、拾った小枝ではなくて、街の図書館から借りてきた『それから』の文庫本を使います。ページをめくりながら、「街よ街よ、どうか私に白百合を手渡したいと思わせる人を連れてきておくれ」と切に願いつつ、読みつづけるのです。
街が連れてくる人がどんな相手なのかは、来てみないことには分かりません。鼻が高いのか低いのか、背が高いのか低いのか、目が青いのか黒いのか、皆目見当がつきません。いずれにしても私には具体的なイメージがなに一つ浮かばなかったのですから、実際に来てから後悔したとしてもなに一つ文句も言い訳もできません。
ノラ猫とヘップバーンのデュエットはその後も毎晩のように開かれて、いつからか私の子守唄代わりとなり、毎晩のようにつづけてきた羊を数える悪癖も必要なくなりました。
そのおかしな取り合わせによるデュエットが、ついに今夜で聴き納めになろうとする夜でした。茶髪さんが朗読会のあとで私に言いました。
「明日は雨が降るかもしれません」
「雨?」
私は茶髪さんと一緒にのどかに晴れた夢の森の青空を見上げて聞き返しました。その森ではいつも当たり前のようにいい天気つづきだったので、空模様の様子などすっかり忘れていました。
「夢の森にも雨が降るんですか?」
「ええ。年に三日ほど。明日、公園におでかけの際には折りたたみの傘を持っていくといいかもしれません」
茶髪さんは天気予報士めいた忠告をくれました。
「もしも最後の最後まで私に恋ができなかったら、そのときはお父さんはどうなりますか?」
「大丈夫です。なんの心配もいりません」
「いつもそう言いますね」
「だって本当にそうなんですから」
「分かりました」
「どうぞ傘をお忘れなく、ゲストさん」
二人の間で公園について話しを交わしたことはほとんどありません。それなのに茶髪さんがどうして明日になって、私がその場所にでかけるのを知っているのか、不思議といえば不思議でした。きっとまた人の心の中を盗み見したのでしょう。
私は『それから』の文庫本を公園で何度も読み返しました。それでも私の張りぼて魔法の張りぼてぶりは相変わらずで、『それから』の文庫本は時間の経過によって朽ちていって、拾った小枝でその都度あらたに上書きされるはめになりました。
翌日になっても雨は降らず、茶髪さんの忠告はすっかり忘れて、折りたたみ傘は持たずに午前中に家の玄関をあとにしました。
公園の芝生を濡らす雨音に気が付いたのは、お昼近くになってからでした。その音は大きな湖面に静かな波紋を広げるかのように、雲と一緒にゆっくりと近づいてきました。私はベンチに文庫本を置いて、およそ一ヶ月以上ぶりに空から落ちてくる黒くて、か細い雫を見上げました。
それは慰めの雨になりそうな予感がしました。すべての悪い予感を優しく包み込んでしまうかのような。あと少しで夢の森で消滅したはずの正夢が、ふたたび首をもたげて姿をあらわしてきそうな。いい欲望も悪い欲望の区別もなく、すべての希望が台無しになってしまうかのような。それもこれも、お姉ちゃんに恋ができなかったせいなのです。
そのとき私の耳に聞こえてきたのです。私のもとに届いたのです。雨の壁を突き破って響いてきたのです。それは公園を囲んだ木々の向こう側にある、白いコンクリートの高架橋を走って向かってくる、中央線の電車の騒音と警笛でした。』
つづく