父の森㉖
姉からのメール⑦
『お姉ちゃんの恋は中央線に乗ってやってきました。
こう書くと、時子は「なんだかおかしい」と思うでしょうか。「いつものお姉ちゃんと違う」と。「だってお姉ちゃん、欲望の街には電車も車も走ってないって言ったじゃない」とか。「アイ・アム・レジェンドじゃなかったの?話しの内容が矛盾してるよ」とか。
たしかにそうね。でもね、お姉ちゃんはこう思うんです。あるいはこう思うようになったんです。真実には必ず何パーセントかの矛盾が含まれているものかもしれないって。矛盾を含んでいるからこそ、それは存在しているのかもしれないって。もしかしたら矛盾は、存在にとっての影にあたる部分になるのかもしれません。
例えば街のショーウィンドウに飾られた一枚の騙し絵みたいに、そこに矛盾が隠されていたとしたらどうなるでしょう。普通の絵画なら素通りしてしまうかもしれない通行人は、そこでふと足を止めて、キャンバス上に埋め込まれたメッセージを発見するかもしれません。
恋とは、そんな日々の生活というキャンバスに隠された、あるメッセージを見つけだす行為なのかもしれません。そのメッセージをうけ止められるかどうかは、通行人である私たち次第なのでしょう。お姉ちゃんはそう思うようになったのです。
分かりやすいように順を追って書きます。矛盾はあっても誤解はないように、なるべくシンプルに分かりやすく。
二日目の朗読会に姿をあらわしたのは、サクランボの木に暮らしている夢男さんでした。彼も約束の時間になると、緑色の光に包まれて朗読会に参加しにきました。一日目の夢男さんと同様に若い男性で、手には娘さんが書いたという『父の森』を持っていました。
そこにも一つの矛盾が存在しています。だって二十歳の男性に本を書いた娘さんがいるなんて。おかしな話しです。
でも私はもうつべこべ質問はしません。二十歳の男性に、本を書いている娘さんがいる矛盾こそが、素晴らしいととらえます。矛盾万歳です。その黒々とした影よ、です。
茶髪さんとクールカットの黒髪さんが、人数分のカップとティポットを持ってどこからかやってきました。天気もよく、日差しはあくまでも明るく穏やかでした。森の恋人たちも集まりはじめて二日目の朗読会がおごそかにはじまりました。昨日と同じように茶髪さんは聞いているのかいないのか、私たちとは離れた木陰で休憩しています。
私は声高々に文章を読みはじめました。恥ずかしがってはいけません。朗読はなるだけはっきりと相手が聞きとりやすいように発声するのが重要のようです。それが朗読会一日目の私の収穫でした。
あとは読み上げるテキストの内容もやはり重要になってきます。テキストが面白ければ、しだいに朗読する側にも熱が入って、自然と体がノってきて発声にもリズムが生まれます。ちょうど音楽のライブ会場みたいに、聴衆たちの表情の一つ一つに生き生きとした笑顔が浮かんできます。
私はなにより朗読会で若いお父さんの嬉しそうな顔を横目でチラリチラリと盗み見するのが好きでした。初日には三十五日間もつづけられるという朗読会を目の当たりにして気が遠くなり、多少なりとも辟易したのは事実でしたけど、実際につづけてみると、そこにはある倒錯した喜びが存在しているのに気がつきました。自分と同い年ぐらいの娘さんが書いたという物語に、嬉しそうに一心に耳を傾ける若い父親を眺めながら、そこに喜びを感じるというのは、倒錯以外のなにものでもないような気がします。
しだいに文章を目で追うごとに、その娘さんの魂が私にのり移ってきて、まるで自分が文章の中に生きているような錯覚がしてくるのでした。それは言葉によるトリックめいた感覚なのです。
朗読会が終わると、私は茶髪さんと二人だけで毎回少しお話しします。話す内容はまちまちですけど、ある日お姉ちゃんは自分の正夢について、彼に尋ねてみました。というのもベッドに入っていざ朗読会に参加しようとするたび、例のノラ猫の鳴き声に悩まされていたのです。それが尾を引いてエスカレートして、今度は鳴き声に合わせて音楽までが夜の実家の庭先から聞こえてくるようになったのです。
聞こえてくる音楽はいつも決まっていて、それはO・ヘップバーンが口ずさむ『ムーン・リバー』でした。『ティファニーで朝食を』の主題歌になっていて、時子とお姉ちゃんのお気に入りの曲でもあります。それがベッドに入って羊を数えはじめると、ヘップバーンの物憂いげな歌声と一緒にノラ猫がデュエットしだすのです。さてはマンハッタン暮らしの猫の魂がのり移ったりしたのでしょうか。猫たちの世界では、ニューヨークと杉並の街とは、姉妹都市になっているのでしょうか。
それはそれでいいのですけど、ノラ猫の方はどこからか欲望の街に迷い込んだと考えれば、それで事は済む問題なのかもしれません。ただ音楽が聞こえてくるというのは如何ともし難いのです。それはどこかの誰かが意図的に流さなければ聞こえてくるはずがないからです。
そうなると欲望の街には、私のほかにも住人が少なくともあと一人はいるという仮説が成り立ちます。
欲望の街では正夢どころか、夢そのものもみないというのが茶髪さんの説です。欲望の街それ自体が夢でできた街だからだそうです。
その説が正しいとすると、夜毎聞こえてくるノラ猫やムーン・リバーの音はなにを意味しているのでしょうか。
以前のお姉ちゃんならば、良くも悪くも、正夢が近い将来に起こりうる悪い出来事を知らせたはずです。でも欲望の街では、その予知めいた能力が機能しないのです。
「その音はおそらく時空の歪みからきたのだと思います」
茶髪さんは夢の森の芝生の上で私の質問に答えて言いました。彼はなんでも知ってるんです。夢の森の管理人にして給仕であり、そこへ夢の森の生き字引という新しい肩書きが加わったようです。生き字引さんはつづけます。
「夢の森と欲望の街とは直接繋がっています。そして欲望の街とゲストさんが普段暮らしている街とはコインの裏と表のように折り重なっています。ただ前にも説明したように夢の森では時間の流れ方が違うのです。ここでは木の寿命に合わせてとてもゆっくり時間が流れています。それで欲望の街とゲストさんたちの街とでは、時間と空間にまれに歪みが生じてしまうんです」
「私、子供の頃から理科と算数の授業がとても苦手だったんです。具体的にそれはどういう仕組みなんでしょう」
「つまりゲストさんが寝る前に耳にした猫の鳴き声と音楽は、ゲストさんが暮らしている実家の庭先で、違う時間帯に誰かが聞いたであろう物音なんです」
「それは誰なんでしょう」
「そこまでは分かりません。もしかしたらゲストさん自身かもしれませんし、家族のどなたかもしれません。可能性としてはそのあたりです。なにか心当たりはありませんか?」
「あります。ありがとう、おかげで謎が解けました」
「それからゲストさんが持っている正夢と呼ばれる特殊能力の件ですけど」
私の横の芝生に腰掛けた、黒いエプロンを腰に巻く夢の森の生き字引さんは、朗読会を終えて森の中をそぞろ歩く恋人たちへと視線を投げながらつづけます。
「おそらくそれは共感覚という知覚症状が異常に発達したものだと思います。ここの森を訪れる女性たちの多くが、過去に同じ症状をみんな持っていたようです。彼女たちは周囲からの視線や関心をあまりに多く集めてしまうがため、その感覚が普通に暮らす人々よりも何倍も発達してしまったようなんです」
茶髪さんは芝生の緑を愛おしげに指先でなでながらつづけます。
「でも悪夢の時間はもう終わりです。不本意にもゲストさんが周囲から集めてしまった悪い欲望をいい欲望に変換するのが夢の森での朗読会の役割ですから。僕たちはいままさにその作業をしている真っ最中です。夢の森は夢をみつづける場所ではありません。ここはいい欲望を現実化すための場所です。どうかゲストさんもいい欲望を現実のものとしてください」
私は茶髪さんの言葉に大きくうなずいてみせてから尋ねます。
「ちなみに欲望の街では、食料や図書館の蔵書や公園の芝生のほかにも、現実に形あるものとして出現させられますか?」
「例えばどんな?」
「生きものとか」
「不可能ではありません。強く念じれば」
お姉ちゃんの恋は、いい欲望という名の電車に乗ってやってきます。』
つづく