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父の森㉕

姉からのメール⑥

『お姉ちゃんをめぐる三十五日間の冒険がはじまりました。ワクワクドキドキです。この感情はいったいなんなのでしょう。どこからくるのでしょう。自分でもよく分かりません。もしかしたらこれが恋というもののはじまりなのでしょうか。お姉ちゃんは思いました。

でもそんなはずはありませんでした。もしかしたら朗読会が一日目にして、なにかしらの心理的な影響を与えていたというぐらいなら考えられます。まるで人気小説の発売日に、深夜0時のカウントダウンに向けて、大型書店の前で行列に並んでいるような待ち遠しさなのです。しかもその人気小説の主人公は私自身なわけです。3Dのヴァーチャルなボードゲームめいた気分でした。


でもそれは恋という感情とは違うと思いました。お姉ちゃんは恋に関してはど素人ですけど、それでも茶髪さんが一つ間違っているのではと勘繰ったのは、おそらく恋という出来事はアクシデントにも似て、常にぶっつけ本番で、夢男さんたちを代役に立てて練習できるものではないというビギナーズラック的な予感からです。

でも翌日になって朗読会の場所にいって尋ねたら、茶髪さんは言うでしょう。「すべて順調です」と。「なにも問題はありません」と。それが彼の口癖のようなのです。それから他人の心の中を勝手に透視してこうつづけます。

「ゲストさんが夢男たちに人間的な好感以上のものを感じないのは、恋をした経験がないからかもしれません。過去のデータがそろっていないので、感情のスキャナーが読みとれないのです。過去の天気データが十分にそろっていないせいで、正確な予報をはじきだせないコンピューターによる天気予報にも似ています」


三十五日間の間にお姉ちゃんに恋ができるかどうかは、まだ神のみぞ知るといった状態でしたけど、少なくともそんな謎の状況下で前向きな気持ちになれたのはいい傾向でした。もしもそれが朗読会第一日目の収穫であったとしたなら、夢の森様々といったところです。

ただお姉ちゃんが前向きになれたのは、朗読会以外にも理由がありそうでした。その主な理由は里中さんと広瀬さんの存在です。

ホテルの一室で出会ったばかりの二人と話せたのは短い時間でしたし、どんな方法を使って私を夢の森の朗読会へ送り込んだかは知る由もありませんけど、少なくともお姉ちゃんは、二人に悪意がないのは分かっていました。理屈ではなく直感です。考えるな感じろ、です。

もしかしたら時子が二人の妹さんと実家で面会したであろう際にも同じような印象を抱いたかもしれません。それは私たち姉妹にしか理解できない感情だと思うのです。私とあの二人とは出会った瞬間に心の中でしっかりと抱き合えたのです。それもホテルの一室ではなく、私たち姉妹が通っていた小学校の校庭の片隅で。


そんなわけでテストと聞かされても、お姉ちゃんはいたって落ち着いた心持ちでした。慌てる必要なんてまったくありませんでした。里中さんが残したメッセージが真実であるなら(そしてそれはまぎれもなく真実でした)、私が抱いた欲望は現実化するものであり、おまけにお代だって無用なのです。なにを心配する必要があるでしょう。

時子は昔テレビで一緒に観たはずの『禁断の惑星』という古いSF映画を憶えていますか?たしか日曜日のポッカリ空いたエアーポケットめいた時間帯に放送されていたような、異星を舞台にした五十年代のハリウッド産SF映画です。お姉ちゃんのいる欲望の街は、その『禁断の惑星』の舞台になる星に近いのです。

例えるならお姉ちゃんがいるのは、禁断の惑星ならぬ禁断の街といったところでしょうか。大きな違いは、映画では惑星に到着した宇宙飛行士たちの潜在意識が勝手に具現化してしまうのにたいして、禁断の街では、お姉ちゃんの意思によって具現化する欲望をコントロールできるという点です。つまり欲望の街は、持って生まれた自分の才能にかぎりなく自覚的な魔法使いが暮らす、その魔法の世界にきわめて近いのです。


こんな未来ってあるでしょうか。魔法使いになりたいという子供の頃の夢が、ひょんなことから現実になってしまったのです。地味この上ない退屈な日々を送る事務員の女性が、偶然にもアクリル製のキラキラした安価なオモチャめいた(でもじつは本物の)、魔法の杖を手に入れてしまうTVドラマの中に入り込んでしまったようです。

そのドラマの中では登場人物はお姉ちゃん一人切りです。時子もお父さんもお母さんもでてきません。文字どおり実家はもぬけの殻です。

家族だけではありません。欲望の街には人が一人も存在しないのです。まるっきりゴーストタウンです。『アイ・アム・レジェンド』です。街中の通りを歩いている人は誰もいません。通学路を通う子供たちの歌声は聞こえてきません。会社に急ぐ大人たちの足音はアスファルトに響きません。散歩中の犬や猫にでくわすことも、鳥が小枝で鳴いていたり、空を横切ることだってありません。生きものたちがいないので、動く影というものは存在しません。人が存在しないので、車や自転車やその他車輪の付いたものは通りを一台も走っていません。ただライフラインだけは生きていて、交通量の途絶えた無人の交差点に、音声付きの信号機のシグナルだけが無常に響きわたっています。

空は広く(欲望の街はいつでも晴れわたっています)、交差点の真ん中に立ち止まって一人耳をすませば、ときおり風の音だけがどこからかかすかに聞こえてきて、通りを無人のまま吹きわたっていくような気がします。あるいはそれはただの耳鳴りなのかもしれません。胸の鼓動までが聞きとれそうです。


欲望の街は同時に張りぼての街です。コンビニやスーパーの店舗は街中に普通にありますけど、やはり店内はもぬけの殻だからです。おにぎり一つ、ペットボトル一本、置いてません。ご丁寧に実家の台所の冷蔵庫までが通りのスーパー同様に空っぽでした。その張りぼて感は気持ちいいぐらいまでに徹底しています。

そこでお姉ちゃんが最初にとった行動は、自らの欲望によって食べ物と飲み物を具現化することでした。それもできるだけ速やかに安全に。考えてみたら、一日前から朗読会の紅茶以外なにも喉をとおしていないのです。これは死活問題です。気絶してしまいます。お姉ちゃんの胃袋の方は張りぼてではありません。里中さんと広瀬さんに一つ文句を言いたいぐらいでした。


私にとっての四次元ポケットは台所の冷蔵庫でした。名付けて四次元冷蔵庫です。それに願掛けをするのです。冷蔵庫に向かって台所の椅子に腰掛け、テーブルに両肘を立てて、しっかり組んだ両手の上に額をのせます。

具体的な呪文は用意していません。ただ心の中でひたすら「食べたい、食べたい」と念じるだけです。しだいに食の欲望が頭の額の部分に集中して、かめはめ波のごとく冷蔵庫の扉に向かって発射されます。

頭の中でレンジのチンが鳴ったみたいにときめくと、冷蔵庫の扉の向こう側におにぎりやサンドイッチ、ペットボトルのお茶などが、文明の明かりのもとに陳列されているというわけです。

四次元冷蔵庫で王侯貴族のような贅沢な食生活というものはできませんけど、コンビニのお弁当レベルの食料は手に入ります。お姉ちゃんにはそれで十分です。


魔法の世界で贅沢は禁物です。魔法の杖を手に入れたドラマの女性が、自らの欲望によってどうなってしまったか、お姉ちゃんは知っています。

具体的に私が使った魔法は、食料を確保する以外には、あと二種類があるのみです。一つ目は街の図書館の蔵書を増やすこと、二つ目は公園の芝生を広くすること、この二点です。

欲望の街にも図書館はありますけど、そこはやはり張りぼて同様で、館内にはただ空っぽの本棚が整然と並んでいるだけでした。これでは図書館ではなくてただの棚館です。公園も似たようなあり様で、まるで私の要望にあらかじめ応えるかのように、わざとその造形に手を抜いてるみたいな惨状でした。

お姉ちゃんの魔法の杖はあくまで即席です。歩道に落ちている木の小枝をそのまま拾って使います。近所の歩道には小枝がそこかしこに見つかります。

魔法は魔法使いのレベルではなく、使用する小枝の数によって決まります。あくまで質より量なのです。図書館の蔵書ならば小枝十本分、公園の芝生ならば小枝八本分といった具合です。


お姉ちゃんの魔法はそれでジ・エンドです。晴れた空と温暖な気候に、本と公園の芝生があればそれで十分です。ほかになにが必要だというのでしょう。

昼間に読書して、夜になったらまた読書会に参加するのかと、知らない人が聞いたら呆れるかもしれません。でも時子だったら分かってくれると思います。親愛なる我が妹よ、こんなお姉ちゃんに恋人があらわれると想像できますか?あるいはこんなふうに質問できるのかもしれません。こんな姉に恋人があらわれるとしたら、それはどんな人なのでしょうか?


日中に掃除と洗濯をすませて、夜になったら四次元冷蔵庫で夕食をだして、あとはお風呂に入ってから里中さんとの約束どおりに九時前にはベッドへもぐり込みます。普段なら寝巻きに着替えるところですが、朗読会があるので私服のままです。

それがお姉ちゃんの毎日のルーティンになる予定でした。それが初日から若干の狂いが生じました。

それはベッドに横になっていよいよ羊をカウントダウンしている最中に起こりました。窓の外からノラ猫の鳴き声が聞こえてきたのです。

最初はビックリして眠気も吹き飛んでしまいそうでした。なにしろ風の音以外の物音を耳にするのが丸一日ぶりだったのです。

ノラ猫の鳴き声はそれから庭先でしばらく聞こえていました。よくよく考えてみると、それはいつも庭先で鳴いている近所のノラ猫のようでした。でもここは欲望の街です。生き物は私一人しかいないはずでした。

考えられるのは、夢の森に招待された恋人たちよろしくノラ猫が迷い込んだか、あるいは私のほかにもこの欲望の街には誰かが暮らしていて、その誰かが魔法によって猫を具現化したか、そのどちらかです。もしも後者であったら最悪です。

猫の鳴き声はしばらくしてから止んで、私はいつの間にかベッドの布団の中でうとうとと夢の森へと逃げ込んでいってしまいました。』


つづく

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